こいちゃんの趣味全開!!

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無題 Type1 第2章 第3稿

2013.03/14 by こいちゃん

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第2章

1
 ある春の日。今月から自宅でできる仕事に転職して間もないころ。
「ねーねーおかあさん、それ、おれもやりたいー」
「だぁめ。これはおかあさんのおしごとにひつようなきかいなの」
「やだー、おれもカタカタやりたいー」
 まったく、この子はなんでこんなに私《母親》のパソコンに興味を持っているのだろう。触らせたこともなければ、教えたこともないのに。
「このきかいでおかあさんがおしごとしないと、おかねがもらえなくなってたべるものもかえなくなっちゃうよ?」
「それもやだー」
 どうしよう、頼まれている原稿は今夜が期限なのに。この子にかまっていたらいつ終わるか分からなくなる。
「ゆうくんせんようのパソコンをおかあさんがよういしてあげるから、きょうはもうねよう? ゆざめしちゃうから」
「まだねたくない、おきてられるー」
「だめ。ねないとパソコンあげないよ?」
 あぁ、言っちゃった。確かにこの前買い換えたから古い、まだ使えるノートパソコンが1台あるのだけれど。でもパソコンは、親が構っていられないからと言って、まだ幼稚園の年長でしかない子供に与えても構わない道具なのだろうか。
 でもこうでも言わないとこの子は寝てくれないし。しょうがない、口が滑ったのは私なのだから、用意してあげよう。
 まだぐずぐずしていたが、私が立ち上がって寝室まで手を引いてやったら、ようやくおとなしく寝る気になったらしい。
 わが子ながら単純なやつだ。欲しいものが手に入ると分かった途端に言う事を聞くようになるなんて。布団に入った途端、目がとろんとしてきた。
「おやすみなさい、また明日、Good night」
「おやすみなさい、また明日、グーンナイ」
 まだ幼い息子には英語の発音ができない。これが可愛くてつい毎夜言っていたら、寝る時のおまじないのように定着してしまった。
 隣の布団ですでに眠っている3歳の娘を起こさないようにそっと寝室を出る。
 ああ、眠い。
 眠気を振り払うために、息子を起こさない程度に大きな声で勇ましく宣言をする。
「さあ、早く原稿を片付けて、パソコンの初期設定をするぞ」
 これも毎夜の習慣。パソコンの前に座った。

 やはり小学生にもならない子供にパソコンを与えるのは気が引けたので、簡単に使えないように、難しい道具だと理解させるために、|補助記憶装置《ハードディスク》を初期化してシステムを完全に消したまっさらなパソコンを用意した。CUIを使うOSの解説書だけでは難し過ぎるから、紙の国語辞典を明日幼稚園に預けている間に買ってこよう。そうすれば飽きっぽいあの子のことだ、すぐに飽きてくれるだろう。
 そう目論んで、電気を消し布団に潜り込む。2人の子供の体温でおなかのあたりは暖かくなっていたが、足は冷たいままだった。

2
 幼稚園から帰ってくるなり、息子に飛びつかれる。
「ね、ね、はやくおれのパソコンちょうだい」
「まだだぁめ、そとからかえってきたらまずなにをするんだっけ?」
「てあらいうがいー!!」
「よくできましたー」
 活発な兄は物静かな妹の手を引いて洗面所へ飛び込む。
 ほほえましい光景を見る私の頬が緩んだ。
 帰りがけ、スーパーで買ってきた野菜と肉を冷蔵庫にしまう。今日の晩御飯は何にしようか。
 悩んでいるとパタパタ軽い足音。冷蔵庫の扉を閉めて振り向くと息子が満面の笑みを浮かべて立っていた。
 リビングまで歩いていき、昨晩用意したノートパソコンと取扱説明書、ACアダプターなどを机の上に持ってきて見せる。
 目が輝いている息子に向き直り、考えておいた約束事を言う。
「ゆうくん、さいしょにおかあさんとやくそくがあるの。これがまもれないなら、これはあげられないな」
「え、なになに?」
「いい、まず、パソコンはこのへや、|テレビのへや《リビング》から出しちゃダメ。それとこのほんとじしょもあげるから、パソコンのことはひとりでおべんきょうするのよ」
「うん、わかった」
「ちゃんとまもれるわね?」
「うん!」
 嬉々とした表情で2~3年前のパソコンを重そうに抱える様子を見て、とりあえず好きにさせてみよう、と覚悟を決めた。

 一度、上手く動かない(それはそうだ、何もOSがインストールされていないのだから)と文句を言ってきたのだが、その時すげなく突っ放したらそれ以降なにも聞いてこなくなった。本当に一人で、大人向けの分厚い国語辞典とOSの解説書を交互に見て勉強している。そして1ヶ月後、ついに本に書いてある通りにOSをインストールしていた。
 どうやらそれでパソコンがどういうものなのかだいたい分かってしまったようで、そこからの成長ぶりはそれはもう大人顔向けの速度だった。いろいろとやらなければならない事の多い大人と違い、幼稚園から帰ってきたら後のほぼすべての時間、約半日ををパソコン学習に振り向けることができたからだろう。
 私があげた本は、娘が生まれてまもなく亡くなった旦那――コンピュータ系の技術者であった――が書いたLinuxでサーバーを作るための解説書。私が勉強するために購入した、セキュリティやインターネットそのものの解説にもかなりの分量がさかれているタイプで、私でも読み切って理解するのはなかなか大変だった。
 そしてその本も、幼稚園が夏休みに入った数日後、ついに読み切ってしまったらしい。本当に理解しているのか疑問に思った私は、試しに仕事を息子に持ちかけてみた。
「ねえゆうくん、apache の設定がうまくいかないんだけど、どうすればいいかな」
「apache、ってことはウェブサーバーだよね。どこのぶぶん?」
「えーと、SSH でいくつものドメインをつかうあたりかな」
「HTTP なのに SSH なの? SSL じゃないの?」
 かなり専門的な話をしているはずなのに、余裕でついてこれる幼稚園の息子。
 あれこれ続けて質問してみるも、幼稚園生だからか、日本語で上手く表現できないだけでかなりコンピュータの知識がついているようだ。
 すぐ挫折すると思っていたのに、こんなのめりこむとは思わなかった。やっぱり|旦那《無類のコンピュータオタク》の子なのかしら? 少しうれしくなってしまう。
 あなた、息子は元気にやってますよ?

 しばらく解説書なしでインターネットの海から情報を探していた息子だったが、1週間くらい経って、「次の本がほしい」と言い出した。
「インターネットじゃだめなの?」
「やだ。けんさくしてもでてこないんだもん」
 話を聞いてみると、調べる手掛かりになる知識がないと辛い、という事らしい。基礎は本で学び、インターネットで実際に使う知識を補完する。そのための本がほしいとのこと。
「じゃあ、今日はちょっとおかあさんにおじかんがないから、あしたでいい?」
「うん」
「ゆうくんは、どんなごほんがほしいか、かんがえておいてね」
「わかった!」

「もしいらなくなったら、おかあさんがもらうからね」
「そんなことにはならないよ、おれ、パソコンすきだし、とくいだし」
 本当に理解できているのか、正直信じられないのだが。読まなくなったら私が読めばいいか。そう思って少し高かったが、Webプログラミングの本とインターネットセキュリティの本を買い与えた。
 うちに帰るなり重さが身に余っている本を抱えてパソコンにかじりつく息子だったが、予想通り、1ヶ月ほどでもう、リビングの机に放っておかれたままになっていた。

 そしてまた4月。息子はいよいよ小学生になる。
 ちゃんと一人で通えるのかしら。
 お友達はできるのかしら。
 わが子が学校に通うという事は、親をなんてドキドキさせる出来事なのだろう。
 ランドセルを自慢げに背負ってはいるものの背負わされているような、まだ小さい息子を見て、親馬鹿丸出しになって心配してしまう。
「ねぇ、はやくいこうよー」
 急かす息子。娘を連れて、もう一度忘れ物がないかハンドバックの中を覗き込んで確認する。
「わすれものはないわね?」
 心配になって尋ねてしまう。
「きょう5かいめだよ、おれにそういうの」
「あら、そんなにいったかしら」
「うん、いった。ねぇ、はやくいこう? ちこくしちゃうよ」
「え、こんなじかん。ごめんね、おかあさんゆっくりしすぎちゃったみたい」
 靴を履き、慌てて玄関の鍵を閉める。
 両手に二人の子供と手をつなぎ、入学予定の小学校まで子供がついてこられるギリギリの速さで歩いた。
 一番緊張しているのは、母親である私のようだ。

3
 小学2年生、夏休み前の家庭訪問にそなえて1年も前に書いた日記を読み返してみて、私はこんなに「息子の小学校入学」という一区切りに浮ついていたのだと改めて感じた。
 学校での息子の様子を家庭訪問の時に担任の先生に聞いて、私は少しぐらついている。毎日さっさと学校から帰ってくる息子を見て、「友達がいないんじゃないか」と心配していたのだが。
 そしてやはり、息子は学校で一人らしい。まだクラスメイトにいじめられている、とかそういう仲間に入れてもらえない、というタイプの孤独なら、まだマシだった。
 息子は休み時間になると、書き込みだらけのコンピュータの解説書とにらめっこして、クラスメイトに話しかけられてもほぼ無反応、という手の打ちようがない、どうしようもない引きこもり気質だそうだ。
 うちに帰るとまずパソコンの電源を入れて、それから外に遊びに行くこともなくおやつを要求し、それをわきに置いて食べつつ夕食までずっと画面に張り付いている。
 そんな息子を視界の隅に見て、先生が帰った後の洗い物をしながらため息をついた。
 どうしよう、あの子を少し、パソコンから引き離そうかしら。でも昼間、娘を保育園に預けた後に私は仕事に出てしまう。うちにいなければあの子がこっそりパソコンをいじっていても、叱ってやることも注意することもできない。
 ……何もしないよりはいいか、注意する意味がないのなら才能を伸ばすために放っておくほうがいいか。
 思考が堂々巡り。うわの空になっていたら、手が滑ってコップが落ちて、割れてしまった。
「だいじょうぶ?」
「……うん、ごめんね、なんでもないから」
 しまいには息子に心配される母親。自分で自分が嫌になる。

4
 いつもみたいにきょうしつで本をよんでいたら、クラスメイトのふじもりくんがおれのそばにきていった。
「おい、やまもと。なんでおまえはいつもそんなあついものばっかりよんでるんだよ」
「……おもしろいから」
「へっ、おもしろいわけねーじゃん、ならってないかんじがいっぱいかいてあるんだぜ。おれらとおなじとしのやつがそんなのよめるわけあるかよ」
「……おれはよめるし、わかるぜ」
「うそつけ、じゃあよんでみろよ」
 めんどくさい、おれはいま、本をよんでるのに。
「|ひょうじするきじすうをげっとでしていされているばあいはそれをとりこみ、りようします《表示する記事数をGETで指定されている場合はそれを取り込み、利用します》」
「…………よめるからっておまえがほんとにぱそこんつかえるとはかぎらねぇし」
「は? おまえらとちがって、ばっちりわかってるよ、おれは。いっしょにするなよ」
「あんだって?」
 ちっ、このガキだいしょうめ、すぐキレやがって。
「……もう、本にもどってもいいかな」
 こたえをきかないでもじをよみはじめた。すぐにおれのまわりからひとがいなくなった。
 ちょっとのあいだふじもりくんがぎゃあぎゃあ言っていたが、すぐにあきてあしおとをたててきょうしつから出ていった。

 ほうかごになった。きのうはできなかったけど、きょうこそはおかあさんのファイルを見てやるんだ、そしておどろかせてやるんだ。

 いえのかぎをじぶんであけて、くつをぬぎすてる。ランドセルをじぶんのへやになげこんでパソコンのでんげんを入れた。BIOSのがめんがいっぱいにひろがり、それはすぐきえて、いろとりどりのもじが、下から上へとながれていく。
 あ、おれ、わくわくしてる。
 やっとでてきたログインプロンプトにユーザー名とパスワードをうちこむゆびがいつもより、はねていた。

「できたー!!」
 よる8じ。
「どうしたの?」
「あ、ねぇおかあさん」
「なぁに?」
「ホームディレクトリになんかテキストファイルおいといてよ」
「なににするの……?」
「いいから、いいから」
 くびをひねりながらもPCをさわって。
「いいわよ、ほぞんした」
 もらったおれのPCに飛びついて、おかあさんのPCにしんにゅうしてみる。さっきみたいにやればきっと……。
「見れたよ!! ね、おかあさん! ほら見て、これでしょ、さっきつくってくれたテキストファイル!」
 うれしくなってがめんに出したテキストファイルのなかをおかあさんに見せる。
「すごいでしょ!?」
 でも、おかあさんはかおをすこし白くしてなにも言ってくれない。
「……おかあさん?」
「ゆうき。これ、どうやったの」
「おしえてほしいの?」
「いいからいいなさい」
 こわいかおをしてまっすぐおれの目を見る。これは、おこるちょくぜんのかおだ。
「……あのね、おかあさんもさいしんばんのAOSORAつかってるでしょ? カーネルにセキュリティーホールがあるんだ。そのPCのNICドライバとのあいしょうがわるくて」
「それで?」
「そこをたたくプログラムつくってudevから管理者権限とってホームディレクトリをよんだ」
「そのプログラムのソース見せなさい」
「うん」
 なんでおこられるのかわからないけど、たたかれるのはいやだったからソースコードをひらいた。
 なにもいわないでソースコードを見るおかあさん。目が“しごとモード”だった。
 これがこーであれがあーで、とつぶやきながら上に下にいそがしくがめんをスクロールさせる。
「……なにこれ、すごい……。この子、将来が怖いわね……」
「どうしたの?」
「……ん、うぅん、なんでもない。ねぇゆうくん、これつくるの、むずかしかった?」
「ちょっとむずかしかったけど。つくるの、すっごくたのしかったよ」
 そういうと、おかあさんはためいきをついて、それからおれにPCをかえした。
「いい、ほかの人のPCにはぜったい、しんにゅうしちゃだめよ。これはおかあさんとのやくそく、まもれる?」
「うん、わかった。もうしない」
 なんでしんにゅうしちゃいけないの。
 ききたかったけど、せっかくおこられずにすみそうなときに、そんなこと言ったらおこられちゃうから言わない。
「ぜったいだめだからね。まもれなかったらパソコン、ぼっしゅうしますからね」
「うん」
「じゃあもうきょうは、おふろ入ってねなさい」
「わかった」
 でも。
 おかあさんのPCにしんにゅうするのはパズルみたいでおもしろかったな。
 おかあさんにはこのたのしみがわからないのかな。

5
 やっぱり、ほかのコンピュータにしんにゅうするって楽しい。
 おかあさんはダメ、って言ったけど、けっきょくおれは、冬休みまでがまんできず、ネット上のサーバーにいろいろしんにゅうしてはデータをもらってきていた。固いコピーガードがかかったビデオ、高いソフトの|ライセンス《利用権》、|端末で読む本《電子書籍》、ほかにもいろいろ。
 てきのサーバー管理者との化かし合い、パズルみたいな抜け穴探し。
 クラスメイトがやってるケータイゲーム、やったことはないけどたぶん、こっちのほうが楽しい。
 なかなか難しいサーバーもあったけど、でもおれがちょっとくふうすればどんなところでも入っていけた。
 最近は前ためした時にはぜんぜん歯が立たなかったサーバーのなかみも見たくなって、おれのパートナーになるような話し相手にもなってくれるツールを作ってみた。ほかにもいざというときおとりになって、おれがにげるのを助けてくれるウイルスとか。そんなものも作ってみた。
 今日はどこを見に行こう、せっかく作ったツールのおひろめなんだから、ちょっとむずかしめの、たっせいかんのあるサーバーがいいな。
 どうせおとせるなら、ぶゆーでんになるような、すごいサーバーにちょうせんしたい。
 ……そういえばこの前ネットで、むずかしいサーバーのリストがあったな。あれの一番上にあったやつにしてみようか。
 でも先に、ツールのコンパイルもきのうからぶっ続けでやっててやっと終わったところだから、ねんのためシステムを再起動してからはじめよう。

[yuuki@yu-pc]# reboot
Broadcast message from root (pts/2):

The system is going down for reboot NOW!

 コンパイルのログが下から少しずつせりあがってきたデーモンの終了通知におきかえられていく。
 よし、今のうちにトイレ行って、おやつとなんかのむもの、もってこよう。

 さいごに起動ログがながれていた画面はいちど初期化され、まっくろな画面のいちばんうえにいつものログインプロンプトがおれの入力をまっている。ドキドキするきもちをがんばっておちつかせながら、カタカタ、ユーザー名とパスワードをうちこんでいく。
 ログインがおわって、おれはデスクトップとクラックツールを立ち上げた。
 相手のアドレスを入力。まずは攻撃するために必要なIPアドレスをDNSサーバーもらってきて、もういちどIPアドレスに関連付けられているホスト名を逆引き検索。前後の数字のIPアドレスも検索して、一番やりやすそうなサーバーを選ぶ。
 役割にあわせて名前を付けられたサーバーに向けて、使っているサーバーソフトウェアとそのバージョンを取得。インターネットの情報提供サイトで、もうに分かっている弱いところを探すけど。とくに弱いところが見つかっていない、“ほどよく枯れた”バージョンだった。
 さすがに、かんたんに終わりそうな相手じゃなさそうだ。
 さいわい、つかっているソフトはソースコードが公開されているものだったから、ソースコードをちょくせつ読んでじゃくてんを見つけられそうだった。
 1時間くらいかけていくつかのサーバーソフトのソースコードをななめ読みして、4つ目でやっと弱いところを見つけた。ふつうの人間じゃ、絶対にこのじゃくてんは見つけられないだろうな。
 へへっ、と笑い声が出ちゃって、あわててゆるんでいた口をひきしめる。今回はウェブサーバーから行こう。
 保存されているファイルにアクセスするためのユーザーの権限をよこどりして、今度は走ってるシステムのカーネルとバージョンを取得。またソースコードをさがして読む。
 あった。ってことはここをこうすれば、きっとエラーが出るはず……うん? なんで出ないんだろう。つまり……これがこうだから……ああして……。あそっか、こうすればいいじゃん……おし、できた。つぎはそっちからいじってやって、うまくタイミングを合わせれば……3、2、1、Enter。――やった! これで一般ユーザーの権限が使える。
 書いてあったほど、むずかしくない。ただ、セキュリティホールが報告されてないバージョンを使ってるだけで。いがいと世の中、おもしろくない。

 2時間後。
 さっきのウェブサーバーや、相手のLAN越しにつなっぎっぱなしの|VPN《中継サーバー》を経由して、いくつかのネットワークの接続点を踏み台にしながら、内部用のメールサーバーに侵入することができた。
 メールサーバーに登録されている一人が受信したメールの、ちょっと大きめの添付ファイルを開いて。おれは画面に出てきた、赤く「極秘」とすかしが入った見てはいけないらしいデータにびっくりしていた。
来年の春に開戦 軍事機密 総理大臣の許可 米国との交渉成立 一時的にアメリカの属国化
 むずかしくてよく分からない言葉が書かれたファイルだった。あのページのトップに書いてあったからと、てきとーに選んだこのサーバー、これはどこのサーバーだったんだろう。
 普通の検索エンジンにもどってドメインを検索する。
検索結果: 10,000件 (0.02sec) 第1候補: 日本産業情報庁ホームページ
 日本産業情報庁? なにそれ。
 もっとさがしてみて、日本を動かすために必要な情報を集める人たちの秘密なんだと分かった。
 おれがどうしようもなくおどろいて動けないでいたら、侵入中のクラックツールがビープ音を出して、てきとのたたかいがはじまったことを知らせてきた。
「やばっ!」
 つい口に出してしまう。よかった、自分で考えて自動的に応戦してくれるようなプログラムにしておいて。
 あわててツールとスイッチして、てきとのだましあいをはじめる。でもなかなか相手もうまくて、しっぽをつかまれそうになる。
 ひさしぶりにやばいかも。このままだと、サーバーからは出れても、逆探知されてばれる……って、もう逆探知始まってるし!
 コンピューターにつけられた世界に一つだけのMACアドレスや、おれのパソコンのアドレスとかの重要な情報が漏れないように、フェイクパケットをすこしずつまきながら。
 最後の手、非常用ウイルスの出来にちょっとわくわくしながらインターネットにばらまいて。DNSサーバーを集中攻撃、IPアドレスからの逆探知ができないようにする。IPアドレスが知られてもこれでたぶん大丈夫、だけどいちおう世界中の|ISP《インターネット提供会社》のデータも全部壊して。
 ウイルスのはたらきぶりはあとでログをじっくりみることにして、おれはむこうとのばかしあいをつづけながらサーバーからの脱出準備。
 インターネットが使えなくなる前にクラックツールを向こうのサーバーから抜け出させようとして。いつものあとかたづけ、ふみだいにしたコンピュータのデータを偽装する前に……ウイルスが強すぎたようで、

Error: Connect failed.

 インターネット接続が切れてしまった。
 ……だいじょうぶかな、ふみだいにした端末、データけし切れたかな。ざんがいからばれないかな。
 あとかたづけをやりのこすなんて、そんなポカをしたのははじめてで、ちょっとしんぱいになった。

「ただいまー」
 あ、おかあさんだ。
「おかえり、早かったね」
 まだ午後5時、いつもは7時くらい、たまに8時をすぎることだってあるのに。
「うん、ゆうくんは知らないの? インターネットが動かなくなっちゃったの」
 どうしよう、おれがやったってばれてるのかな。
「……しってるよ?」
「だから会社のたんまつがみんな使えなくなっちゃって」
「なんでインターネットが動かないとたんまつが止まるの?」
「ゆうくんはパソコン使ってるから分からないのか。あのね、たんまつは全部、インターネット上にプログラムとデータを保存してるの。だからネットが落ちると何もできなくなっちゃうのよ」
「……そうなんだ」
 どうしよう、おれのせいで大変なことになっちゃったみたいだ。
「テレビとか地震速報とか、病院もちゃんと動かなくなっちゃうの。患者さんが何人か危ない状態になったところもあるって、唯一まともに動いてるラジオが言ってたわ」
「……」
「あらどうしたの、気分でも悪いの。顔が真っ青よ?」
「……うぅん、何でもない。ちょっとトイレ行ってくる」
「そう……」
 トイレにかけこんで便座にすわりこみ、頭をかかえた。
 どうしようどうしようどうしよう。おれのせいで、おれのせいで。
――何人か危ない状態に
 おかあさんの言葉がぐるぐるしている。ただのあそびだったのに。たしかウイルスは世界中にばらまいたような気がする。これからどうしよう、おれ、つかまっちゃうのかな。
 じっと便座にすわっていたら、そとからおかあさんが、
「どうしたの、おなかいたいの?」
「え、うぅん、そんな長かった?」
「ちょっとね、もう15分も入りっぱなしなんだもの」
「ふいたら出るよ」
 そう言ってうわの空でトイレットペーパーを引き出して。
「……ねぇおかあさん」
「なぁに、どうしたの」
「産業情報庁、って何?」
「突然ね。新聞にでも載ってたの? ……あんまりいいウワサ聞かないんだけど、なんか、スパイみたいな人たちらしいわよ」
「そうなんだ」
「……ゆうくん? やっぱり、顔色良くないわね。だいじょうぶ?」
「なんとなく気持ち悪いから、今日ごはんいらない、もう寝る」
「……お熱はかっとく?」
「べつにいいや」
「あらそう、じゃ、寝る前に何か飲んでおきなさい」
「……分かった」
 とびらの外で足音が遠ざかっていく。
 10を数えてからトイレを出て、れいぞうこのむぎちゃをのんでへやにもどった。
 おかあさんがいもうとに、きょうはおれとおなじ部屋においてあるベッドでなく、おかあさんとねるように、って言ってるのが聞こえた。
 おれはふとんを頭までかぶって、体を丸くした。
 どうしようどうしよう、となかなか寝れずにいたのに、ふと目が覚めたらまわりが明るくなっていた。一応ねられたようだった。

6
 学校はりんじきゅーこーになったらしい。
 おかあさんにはおれがインターネットをつかえなくしたことはばれていないようだったけど、でもクラックツールの脱出が間に合ってなさそうだったのがこわかった。
 1日ひまになったから、おかあさんからかくすために、今まで使っていたHDDをとりかえることにした。うちにはおとうさんのものだったというパーツがたくさん押し入れにしまってある。
 同じ規格の使えそうなHDDを探し出し、PCにつなげてからOSをインストール。初期設定をしていつも使ってるソフトをどんどん入れていく。
 どうせHDDをかえるなら、もっといっぱい保存できるやつにすればよかったな。
 そう思ったけどもう一度ねじをはずしてOSをインストールするのもめんどうだったからそのまま設定をつづける。
 と。
ぴんぽーん
「は~い」
 インターホンが鳴り、おかあさんがげんかんへ行く足音が聞こえる。
 戸を開ける音がする。
「どちらさまでしょう」
「……は……。ですから……」
「……あの、その時間、私はうちに居りませんでしたが……」
「ですが、……」
 おかあさんの声は聞こえるのだが、その相手の声はぼそぼそしていて分からない。
「あ、ちょっ、待ってください」
「……」
「私には子供がいるんです、育児を放棄しろというんですか?」
「…………から」
「子供の世話をしてくれる人が来て下さるまで、私はここを動けません。既に息子は帰ってきていますし、娘を保育園へ迎えに行く時間も迫っていますから、先にベビーシッターを用意していただけませんか? ……そんな、逃げるようなことはしません。私が犯人だと疑ってほしいと思われるだけではないですか」
 おかあさん、どこかに行っちゃうのかな。
 そうおもっていると、おれのへやの戸からおかあさんがかおだけ出して。
「あ、ゆうくん、おかあさんね、ちょっとようじできちゃって、しばらくかえってこれそうにないの。代わりの人も来てくれるみたいだから、2人でおとなしくおるすばん、できるわよね」
「……だいじょうぶ。ねぇ、おかあさんどこ行くの?」
「うんとね、インターネットがこわれちゃったげんいんを調べるところよ」
「わかった、きをつけてね」
「そうする。じゃ、いいこにしてるのよ」
「…………いってらっしゃい」
 そういうと、おかあさんはいちど引っ込み、また顔を出す。
「そういえば、この前、日本産業情報庁がなんとか、って言ってなかったっけ」
「言った気がする。それがどうかしたの?」
「いや、ね。今来た人たちがそう名乗ってたから。ぐうぜんだなぁ、と思ってね」
「……」
 そこに侵入したんだ、なんて、いえないよ。

 しばらくして妹といっしょにだれか知らない人が来たみたいだ。とりあえずひきこもる。
 いれちがいにおかあさんが知らない、たぶんさっききていたおじさんとどこかへ行った。

 18時。ノックといっしょに、しらない声が聞こえた。
「ゆうきくん、ごはんできたわよ」
 そうか、おかあさんの代わりにだれか来たんだっけ。
 戸をひらいてへやの外に出る。しらない声のひと、やっぱりしらないおばさんがまえに立っていた。いっしゅん、戸が開いた細いすきまからじっとおれのへやを見ていたように見えたけど、たぶん気のせいで。テレビのへやにあるいていくおれにすぐついてきた。
「おばさん、ハンバーグ作ったの。ほかのもののほうがよかった?」
「うぅん、おれ、ハンバーグすきだよ」
「あら、それはよかったわ。さ、さめないうちに食べちゃいましょうか」
 そういっておれとおばさんといもうとは、3人でテーブルについた。
 おかあさんのとはちょっとあじがちがったけど、おいしかった。

7
 インターネットはなかなか使えるようにならなかったけど、おかあさんはなかなかかえってこなかったけど、それでも学校ははじまった。
 ハウスキーパーというしごとらしい、おかあさんの代わりのおばさんにきづかれないように、こっそり今まで使っていたハードディスクをランドセルの中に入れた。
「いってきまーす」
「はい、きをつけてね」
「うん」
 学校へ行く。

 下足室でうわばきにはきかえて、じょうほうきょうしつへ行く。このはをかくすならもりのなか、だったか、そんなことわざをこの前教えてもらった。ハードディスクをかくしておくなら、やっぱりコンピュータの中が一番見つからないと思う。
 おれたちが使えるコンピュータは端末しかないけど、いちおう内蔵ハードディスクを入れるところはちゃんとある。ハードディスクとコンビニでかってきたドライバーセットをランドセルからとりだして、つくえにさわって静電気を手からなくしてから端末のうらのふたのねじをゆるめて中のマザーボードが見えるようにする。
「えーっと、ハードディスクは……」
 あった、ここの端子にいれればいいんだ。
 同じきかくの端末でよかった、とあんしんした。
「先生がくるまえにおわらせないと……」
 見つかったらめんどくさいだろうな。いそいでもとのとおりにふたをねじどめして、ドライバーセットをランドセルにしまうと、ちょうど1じげんめ5ふんまえのチャイムがなった。
 じゅぎょうにおくれないですんでよかった。

 きょうしつに入ったおれを見て、どうきゅうせいもたんにんの先生も、さっと口をとじた。
「……」
「……」
 なんだろうこのしずかなきょうしつ。いつもがやがやうるさくて、たまに本すらよめないほどなのに。
 おれ、なにかわるいこと――もしかしてばれちゃったのかな……?
 せなかがひえた、ぞっとした。
「……さて、じゅぎょうはじめようか」
 せんせいのごうれいで、日直がぎこちなく「きりーつ!」とさけんだ。

 その日はことわざの“はれものあつかい”というのをじっさいにたいけんした日になった。
 じゅぎょうちゅう、プリントをまわしてもらうときも。ひるやすみ、きゅうしょくをもらうときも。ほうかご、かえるときも。
 ぶきみな、こわいもの見たさな目で1日中見られていた。
 こんな日がなんにちかつづいて、なれてしまえば本をよむのにちょうどよかったけど。でもまわりが“おかしいもの”を見るのにあきたらしい。
「なあ、おまえんち、母ちゃんがレンコーされたんだって?」
「レンコー、って何?」
「ケーサツにつれてかれることだよ」
「ケーサツじゃなかったと思うけど」
「なんでわかるんだよ」
「ケーサツはみんなおんなじふくきてるだろ」
「そんなことないぜ、おまえ、そんなことも知らねーのかよ」
「そーだそーだ、おれ、テレビで、ケージドラマでやってるの見たぜ」
 クラスで一番うるさいやつらが何人かで口々にはやし立てはじめた。
「お前の母ちゃんハンザイシャー」
「その子供もあぶないヤツー」
「なぁなぁ何やってつかまったんだよ」
「ころし、ユーカイ、ゴートー?」
「ちげーよ、インターネットつかえなくしたんだぜ?」
「うわ、すげーめいわく。おれのとうちゃん、おまえのかあちゃんのせいでしごとなくなっちゃったのか?」
「やーいやーい、ハンザイシャの息子ー」
 ほかのヤツも知らないふりをして、ひとこともききのがさないようにしているのがまるわかりだった。
「おかあさんは何もやってないもん!」
 ほんとうだ。だって、インターネットを使えなくしたヤツ、とはおれのことなのだから。
 その日から、先生がいなくなるといつも、こんな感じではやされつづけていた。

 そして夏休みになった。やっとあいつらとばかばかしいオシモンドウをしないですむようになる。
 先生の話がおわると同時にきょうしつから飛び出して、まだこんでいない下足室でうわばきをはきかえてくつぶくろにつっこむ。
 あとは早くおかあさんが帰ってくればいいのにな。

8
 かんぜんにはもとにもどってないけど、なんとかHTTPやSMTP、IMAPとかのむかしからあった機能はぜんぶ1から作り直してつかえるようになったインターネット。
 紙の資料で残っていたものほど昔からある基本的なインターネットの機能である。インターネットが完全に使えなくなったことは一般に公開されてから今までなかったため、開発当時の古い仕様のままの使いづらい機能はこれを機に再設計してリニューアルすることになったらしい。
 再設計がはじまっていなかったのでほとんど一人で作り直したといっていい、リモートデスクトップサーバーのかんせいどにうれしくなった。
 早くこれをおかあさんに見せたいな。
 そんなことを思いながらいつものようにニュースサイトをのぞいたら、トップに「旧インターネット破壊のウイルス、オリジナル発見」というページができていた。
 どうせかんちがいでさわいでいるんだろう、とリンクをクリックした。
 だけど。
 にせものでも、ウソでも、かんちがいでもなかった。
 おれがかくしたハードディスクが見つかってしまったのだった。

—————————————
「旧インターネット破壊のウイルス、オリジナル発見」ニュース掲示板(仮)
 昨日未明、東京都内の区立小学校の情報教室に設置された生徒用簡易端末から、ハードディスクが発見された。
 リース契約が満了したため業者が小学校から回収した古い端末を分解中に、契約書に記載のないハードディスクを1台の端末から見つかった。担当者が不審に思い小学校に問い合わせたが、小学校側も関知していなかったため、遺失物として警察に届け出た。
 警察が中身を確認しようとしたところ、ハードディスクに書き込まれたデータのなかにウイルスと思われる複数のプログラムのソースコードと思われるものが見られたという。
 警察関係者によると、ウイルスのソースコードのほかに、そのウイルスが出力したと思われるログや、旧インターネット崩壊前に不法侵入を受けた企業のサーバーから取得されたらしき大量のファイル群、崩壊直前に侵入された米軍サーバーに保存されていたファイルのコピーが見つかった。
 旧インターネット大規模破壊事件の終幕に大きく近づいた。

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1 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:03 ID:qsernk1PeYjjazzwIyu6
おっしゃーこれで俺たちの憩いの場を破壊した奴を袋叩きにできるぜ

2 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:05 ID:evoyeddme23foefTHxd&
このウイルスのソース、見てみたいな。
どんなことをやればあんな短時間であれだけでかいネットワークを破壊しつくせるのか

3 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:05 ID:vzxryzq&N7qduu9wgmbV
げ、やべ、どっかににげねぇと、おれが犯人DAZE☆
—————————————

 ここまでよんで、これ以上、文字を追いかけることにたえられなくなった。
 どうしよう、たぶん、これはおれのハードディスクだ。
 おれが出した学校の宿題とか、すぐにかいしゅうするつもりだったから消していない。
 あのとき、ウイルスがもったいないから、とか言って消さずにそのままかくすんじゃなかった。物理的に壊して、二度と誰にも見れないようにしておけばよかったんだ。
 いつのまにか、体中にとりはだが立っていた。
こんこん
「……!?」
 なにもおかしいところのない、ききなれたノックの音。こんなにびくついているのは、きっとそとにたっているハウスキーパーのおばさんがこわいからだ。
「ゆうきくん、おきゃくさまがいらっしゃってるわよ、ちょっときてあいさつしなさい」
「……おばさん、ちょっとねつがあるみたいなんだ。かぜかもしれないから、うつさないようにねてるよ」
 ねているように見せるため、あしおとを立てないように歩いてそっとふとんにもぐりこんだ。
「いいからいらっしゃい。仮病だってことはとっくにわかってるのよ」
「……おばさん?」
「入るわよ」
「……!? だめ……!!」
 戸があかないようにおさえに行こうとおもったけど、それよりはやくおばさんが入ってきた。
「貴方はあの子を抑えていてちょうだい」
「はっ、中尉」
 そういうと、おばさんは続いて入ってきた、黒くてごつい服を着ている人に通り道をあけ、自分はおれのパソコンへまっさきにむかう。
「ダメ……それは」
 ふとんをはねのけておばさんに飛びつこうとしたが、それより早く黒服に押さえつけられてしまう。
「ん……っ、|ああえおおおあおう《はなせよこのやろう》……っ」
「じたばたするなよ、真犯人」
「…………!!」
「中尉、やっぱりこいつが犯人らしいですぜ。一瞬動作が止まりました。これであの方はさらに名を上げます」
「そうね。でも、こいつに自分が犯人だと認めさせることが先よ」
「はっ」
「逃げられないようにしっかり拘束しておきなさい」
「了解致しました」
 おばさんは不気味にニヤニヤしながらおれのパソコンをいじる。
「いいわ、連れて行きなさい、私はあとから行くわ。このコンピュータから抜ける情報は抜いておかなければ」
「容疑者を基地に護送・監禁。了解致しました」
「あ、そうそう。その子にはまだ手を付けちゃダメよ、それは私のとあの方の楽しみなんだから」
「よく分かっております、では後ほど、失礼いたします」
「むー、んんー」
 からだをひねって逃げようとしたが、黒服はびくともしなかった。無理やり後ろ手にテジョーをかけられ、頭から黒い袋をかぶせられてしまう。
 しゅっとスプレーの音がして、なぜかすぐにねむくなる。
 こんらんしながら、でもねむさに勝てはしなかった。

 ふと気が付くと知らない、せまくてあかるいまっしろなへやだった。
 いすにすわらされたうえでがんじょうにしばられていて、手足の先がしびれていた。
 だれかにほどいてもらおうにも、いなければどうしようもない。
「誰かいますかー!!」
 さけんでみた。何のはんのうもかえってこなかった。
 こわくなって、なきそうになって。
 ぼやけているきおく、直前に何があったのか分かればきっとこわくなくなる。思い出そうとあたまをしぼって、思い出した。

 ネットで犯人が見つかったってページを見つけて。
 おかあさんの代わりにきたハウスキーパーのおばさんが黒服の知らない人を連れてきて。
 テジョーをかけられてふくろをかぶせられて。
 スプレーの音がしてなぜか眠たくなって。

 なぜか、ぞっとした。ここは……もしかしておかあさんが連れてこられたところ……?
 つまり、……おれはつかまってしまったのか……?
 これから、とりしらべをうけるのか……?
 こわかった。ちょくぜんのきおくなんて、おもいだすんじゃなかった。そう思っている、と。
ガチャ
 びくっ、からだとめせんがむいしきにはね、へやに入ってきた人を見つめた。
「おばさん……」
「ふっ、ここでは“中尉”とお呼び」
「おれになにをするんだ?」
「立場をわきまえなさいな?」
 足音を立てて近づいてくるおばさん。気を取られている、と
バチッ
 背後で|はじけた《・・・・》音がして。そこで、ふっと記憶が途切れる。

9
 上を向いたまま、病院の白い、清潔な天井を眺めていた。埋め込まれたLED電球の光が窓から差し込む太陽光に負けている。
 何で私はここにいるんだろう……?
 ここ数日の記憶が混乱している。
 最後に子供たちを見たのは、家を出たのは何時のことだっただろう。最後に空を見たのはどこだっただろう。最後にあった人は誰だっただろう。最後に食べたまともな食事は何だっただろう。最後に…………。
 5W1Hの質問を考えて確認する前に、病室の扉が開いた。
「やあ、こんにちは。気分はいかがかな?」
 どうしてか、私は入ってきた彼を目にした途端、憎しみと怒りを覚えた。自分自身の感情の動きが理解できない。
「――」
 こんなに感情が動いているのに、彼の名前が分からない。分かるのは、呼ばれ方だけ。
「少佐……」
 ニヤリ、と彼は笑う。
「君への“事情聴取”は終わった。君は容疑者じゃなくなった」
「……事情聴取?」
「ほう、今回の新薬はきちんと効いているようだな。君は記憶を持っていない」
「私に何かしたの?」
「ふふ、今さら鳥肌を立ててもしようがないではないか」
 この男に、私は何を聞けばいいのだろうか。
 この男は、私の知らない何を知っているのだろうか。
「君はしばらく入院することになる。少々栄養状態がよくないそうだからな。治療費については気にすることはない」
 まぁ当然の話だがな、と可笑しそうに顔をゆがめる。
「何時退院できるの。早く帰らないと、子供が」
「そうだな、明日か明後日には退院できるだろう」
「そう……ですか」
 私は質問を続けるために、ため息を一つ吐いて冷静になれるよう努めた。上手くいかなかったが。
「先ほど、あなたは事情聴取、とおっしゃいましたが、私はどのような事件の容疑者だったのですか」
 薬が効きすぎているようだな、開発部に伝えておかなければ。そう呟いて、私の疑問に答えはじめる。
「君は、旧インターネット大規模破壊事件を知っているかね? それの容疑者だったのだ」
「……」
「だが、証拠が見つかった。その証拠が君の犯行ではないことを証明したのだよ。ウイルスと思われるプログラムの本体と侵入ログが保存されたハードディスクが見つかってね。それに指紋がべっとりと付着していたのさ」
「そうなんですか。子供たちはどうしていますか?」
「娘さんは元気にしている、との報告を受けている」
「……息子は……?」
 ふふっ、と不気味に笑う。ニヤニヤ笑いの感じが悪くなる。
「……息子はどうしているんですか!?」
「息子さんかい? 知らないほうが身のためだと思うが?」
「……どういうことですか。息子に何をしたんですか!?」
「まだ何もしていないさ。まだ、ね」
「……まだ、って」
「これから、取り調べなのだ。本当はあまり長居出来ないのだがな」
「……何故、何で? そもそもあなたたちは警察ではないでしょう!?」
「いかにも。私はれっきとした、産業情報庁の構成員だ」
「もう一つの質問にも答えて。息子に何をするつもりなの」
「事件の容疑者として、取り調べるのさ。君と違って確実な証拠が存在する。早く自白しないと、大変な目に合うだろうな」
「容疑者……なんて事件の……? 警察でもないあなたたちが取り調べる事件なんて、そうそう……」
 ないでしょう?
 そう続けようとして、大規模な事件、日本にできた諜報機関が自ら取り調べる可能性のある事件を思いついた。
「そんな、まさか。あはは、そうよ小学生が、まだ小学3年生の子供が起こせるような事件じゃないわよありえないわよ私ですら出来もしない――」
 ついにベッドの横に立っていた少佐が腹を抱えて笑い出した。
 血の気が去っていく自覚を得る。
「そう、ご想像の通りだよ。君の息子が、旧インターネット大規模破壊事件を起こした張本人さ」
「……」
「早く会えることを神に祈るがいい」
 くはははははっ
 こらえきれないように声を上げて笑い出した。腹を両腕で抱えて笑いながら、目は“取り調べ”を楽しみにしている事を物語っている。
 取り調べ。きっと、言葉通りのものではないだろう。おそらく、拷問に近い代物のはずだ。それを受けた私から記憶を奪う必要があったのだから。
 私は目の前に立つこの男が、心底怖くなった。30cm手を伸ばせば届く、そんな距離に狂人がいる。
「出て行って、今すぐ、早く!!」
 声が無意識に掠れ、ひきつっていた。
 彼の笑い声がぴたりとやみ、表情がなくなる。
「おやおや嫌われたものだな。私の機嫌を害すと、君の息子が痛い目にあうのにね?」
「ひっ!?」
「ふっ、まあいい。では、ご希望通り、私は出て行こう。……もう私と会うことはないだろう。お互いのために、二度と会うことがないといいな」
「な、ちょ、そんな、待っ」
 私を一瞥して、大股で出て行く。その背中を、動かない体を恨めしく思いながら私は睨んでいた。

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第1章

1
 ざわついている教室の中、窓際の席にて。
 高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》はのんびりと伸びをしていた時。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
 席の隣の葉村ななみに話しかけられた。
 入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手だった。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子、いや同級生だ。これまでにも何回か、一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「さすがに試験終了日には勉強もしないでしょ?」
 先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減、適当な言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
 脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認した。
 まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
 そう返すと、割と大きい声が、まだそれなりに生徒が残っている教室に響いた。
「いよっし。やっと落とせたー!」
 どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞。教室中の注目を集めるほど大きな声を出してしまうほど、はしゃぐことなのだろうか。僕には分からない。
 一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
 デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!? はやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。

2
  その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だっ た。最近の音楽は全然分からなかったためほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
  そして今は19時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間店舗営業縮小令が発令され、18時から翌朝6時まではあら ゆる店が閉店することになっていた。既に21時までの深夜営業を許可されたコンビニや、終日稼働の自販機以外、通りに並ぶ店店から漏れる光はない。今日は これ以上街にいても、もう面白くない。
 百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商 業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る 光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
 夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
 夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
 一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
 買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
 彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
 相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。

3
 面倒なチンピラにからまれた。
「おいそこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
 自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
 もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
 私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
 しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
  周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目 をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財 布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこと もできない。
 もう、逃げられない。
 体力が続かない。
 諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
 走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
 走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁った。
  一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だけどかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向 くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した 携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
 もう嫌、誰でもいい。
 誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
 近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
 私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて……!!
 勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
 こけた。
 捕まる……!
 覚悟した、のだが。
 追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。やっと手が届いた獲物をゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
 感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
 うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
 胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
 彼は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜いた。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
 ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
 私はパニックになりかけて、道のド真ん中に両手をついて息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえてなんかいなかった。
 あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
 丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
 喧嘩勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
 馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちた。
「カノジョのほうはテメェが恋人、だって言ってんだよ」
 地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとしたが、すぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄がふっ飛び、コンビニのガラスにぶち当たって地面に落ちる。
 夜に吸い込まれる、鈍い衝突音で私は我に返り携帯端末を取り出す。……取り出せない。
  映画やドラマでしか見たことのなかった街中でのケンカ騒ぎを前にしているせいか、それも知り合いが巻き込まれているせいか、手が震えてどうしようもなく止 まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。ついに携帯端末を落としてしまった。
 地面に携帯端末を置いたままやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
 私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たず、焦りだけが積もっていく。
 無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心して見ていた。
 関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
 もしかしたら、彼がさっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
 私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
 という事は。私は私の囮になってくれた彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの……?
 何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの……?
 こんなことを考えていたら、いたら、いたら……。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。

   ――――

 やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
 気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
 せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ……」
 振り払おうとするが、山本は。
 私たちの想像を超える行動を起こした。
 抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
 反撃。
 上がる野太い悲鳴。
 あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
 道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
 強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
 噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ……っ」
 一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
 彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
 一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
 私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
 垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
 ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
  そして。3人目のチンピラに、いつの間にか背後に回られていた。コンビニのごみ箱に立てかけられた不法投棄の蛍光灯で背を殴られる。直撃は避けたものの、 破片は避け損ねた彼の背中に刺さる。滑らないように強く握りしめていたチンピラは握力で蛍光灯を握りつぶし、切り口は手を切り裂いて血だらけにした。
 もう、私には限界だった。だが、今、目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
 気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
 私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
 我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。

4
 背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で地面に両手をついた葉村が、下を向かず懸命に俺らの喧嘩を見続けようと努力しているのが見えた。
 責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
 かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだけだったら既に錯乱していたかもしれない。
 敵の足に噛みつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
 最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
 前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に叩きつけ、刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
 一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
 今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっている、形状からしておそらく蛍光灯の欠片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
  まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと 180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股 間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
 3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
 最後の1人はとどめを刺すタイミングをうかがっていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
 逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺には追い掛ける力が残されていなかった。
 肩で大きく息をつき、コンビニに向けて投げた鞄を取りに行こうとして、バランスを崩して倒れこむ。
 うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
 立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずって鞄を取りに行こうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
 緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
 よかった、これで。
「……なあ」
「!? え、な、なに、どうしたの?」
 もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
 切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの入口に……投げ込んだ……俺のかば……げほっ……鞄、持ってきてくれないか」
 出来心が働いて少し演技を入れてみる。
 泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すと破片がばらまかれた地面を踏みつけてコンビニの入口へ近づいていった。
 心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
 おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。

5
 ここはどこだろう。
 私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
 きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
 そうだ、私は――。
 自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
 そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
 多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
 長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。

 彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。

「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「……どういうことですか」
「ご存知ないようですね。……まあいいでしょう。説明します」
 先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
 まるで、何らかの虐待を受けたような……。

 寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
 教室で、一人で本を読んでいる。
 体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
 にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
 人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
 情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
 いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
 何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
 無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
 引き受けないのに、……なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
 彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
 ……それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。

6
 感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
 二度寝せずにさっさと起きやがれ。
 人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。僕自身の足もしびれていたし、なにより重さが傷口に響く。
 ここは病院のようだ。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
 上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
 いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
 始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ……」
 案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
 ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
 しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、ここって携帯端末使える場所?」
「うん、マナーモードでいいって、先生言ってたよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
 ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
 あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「……うん」
 壁のコンセントにプラグをさし、PC側の端子を渡してもらう。
 案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
 てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て葉村はやることを思い出したように、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
 そう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事のくせにさ……」
 ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きと親密なコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
 いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを半秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
 PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
 携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。画面いっぱいに16進数の数列が流れては消えていく。
 想定より単純な暗号化。
「割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
 総当たりで計算をしても、あと5分と暗号キーが持たないと表示された棒グラフが無情に告げる。
 と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。医師は僕とPCを一瞥してから言葉を発した。
「……おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。私が、担当医の高橋というものです」
「初めまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「よろしくお願いします。……あ、お座りになってください。君もな?」
 そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
 2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
 退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。命令者の予想より早く仕事を終わらせたと、そう自慢するようにカーソルが同じ場所で点滅している。

「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、……言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
 口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
 どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
 あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目に遭いますので」
 まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
 この数分で、医師は一気に疲れたようだった。
「そうですか。何かありましたら、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
 それだけ言い残すと一礼して病室を出ていく。
 包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返した。
 葉村はといえば、呆けたように座っていた。医師が出て行き、扉が完全にしまってから。
「……ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「さっきの、が何を指しているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
 一拍。
 何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
 椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
 耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。……いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「……何を言ってるの? 意味が分からない。日常、ってどういうこと?」
「言葉通りだ。君の――」
 途中で遮り、葉村は言葉を継いだ。
「いいよ、私はなんとしてでも聞き出す、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
 落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
 話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「……はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
 彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
 どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、 おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとする の? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思い やりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、あんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。……好 きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかし い。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
 一気に畳みかけられた。
 歪んでいる? まあそうかもしれないな。
 感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
 異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
 黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。……ちょっと頭冷やしてくる」
 そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
 はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
 それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
 溜息を一つ。
 PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「……お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」

 しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
 目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
 そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
 足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
 彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
 そして最終確認。
「でも、」
 一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
 おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
 それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
 少しづつ、葉村の表情が変化する。
 何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
 ああ、これは泣くな。
 そう思った直後。涙を流す直前。
「……そんなに私に信用がないの……?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない……」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら……」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は……どこやったっけ」
 制服のズボンに入れたままだったか。
 一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
 帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
 ……お前はサザエさんか。

6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに……」
 私が居たかったんだもん。
「最後、なんて言った?」
 最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「……いいの、気にしないで。何も言ってないから」
 引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「……そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
 不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
 さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
 残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。

第1章

1
 ざわついている教室の中、窓際の席にて。
 高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》はのんびりと伸びをしていた時。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
 席の隣の葉村ななみに話しかけられた。
 入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手だった。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子、いや同級生だ。これまでにも何回か、一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「さすがに試験終了日には勉強もしないでしょ?」
 先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減、適当な言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
 脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認した。
 まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
 そう返すと、割と大きい声が、まだそれなりに生徒が残っている教室に響いた。
「いよっし。やっと落とせたー!」
 どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞。教室中の注目を集めるほど大きな声を出してしまうほど、はしゃぐことなのだろうか。僕には分からない。
 一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
 デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!? はやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。

2
 その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だった。最近の音楽は全然分からなかったためほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
 そして今は19時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間店舗営業縮小令が発令され、18時から翌朝6時まではあらゆる店が閉店することになっていた。既に21時までの深夜営業を許可されたコンビニや、終日稼働の自販機以外、通りに並ぶ店店から漏れる光はない。今日はこれ以上街にいても、もう面白くない。
 百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
 夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
 夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
 一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
 買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
 彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
 相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。

3
 面倒なチンピラにからまれた。
「おいそこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
 自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
 もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
 私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
 しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
 周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこともできない。
 もう、逃げられない。
 体力が続かない。
 諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
 走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
 走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁った。
 一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だけどかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
 もう嫌、誰でもいい。
 誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
 近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
 私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて……!!
 勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
 こけた。
 捕まる……!
 覚悟した、のだが。
 追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。やっと手が届いた獲物をゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
 感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
 うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
 胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
 彼は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜いた。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
 ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
 私はパニックになりかけて、道のド真ん中に両手をついて息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえてなんかいなかった。
 あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
 丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
 喧嘩勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
 馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちた。
「カノジョのほうはテメェが恋人、だって言ってんだよ」
 地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとしたが、すぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄がふっ飛び、コンビニのガラスにぶち当たって地面に落ちる。
 夜に吸い込まれる、鈍い衝突音で私は我に返り携帯端末を取り出す。……取り出せない。
 映画やドラマでしか見たことのなかった街中でのケンカ騒ぎを前にしているせいか、それも知り合いが巻き込まれているせいか、手が震えてどうしようもなく止まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。ついに携帯端末を落としてしまった。
 地面に携帯端末を置いたままやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
 私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たず、焦りだけが積もっていく。
 無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心して見ていた。
 関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
 もしかしたら、彼がさっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
 私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
 という事は。私は私の囮になってくれた彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの……?
 何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの……?
 こんなことを考えていたら、いたら、いたら……。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。

   ――――

 やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
 気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
 せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ……」
 振り払おうとするが、山本は。
 私たちの想像を超える行動を起こした。
 抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
 反撃。
 上がる野太い悲鳴。
 あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
 道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
 強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
 噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ……っ」
 一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
 彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
 一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
 私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
 垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
 ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
 そして。3人目のチンピラに、いつの間にか背後に回られていた。コンビニのごみ箱に立てかけられた不法投棄の蛍光灯で背を殴られる。直撃は避けたものの、破片は避け損ねた彼の背中に刺さる。滑らないように強く握りしめていたチンピラは握力で蛍光灯を握りつぶし、切り口は手を切り裂いて血だらけにした。
 もう、私には限界だった。だが、今、目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
 気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
 私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
 我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。

4
 背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で地面に両手をついた葉村が、下を向かず懸命に俺らの喧嘩を見続けようと努力しているのが見えた。
 責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
 かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだけだったら既に錯乱していたかもしれない。
 敵の足に噛みつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
 最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
 前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に叩きつけ、刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
 一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
 今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっている、形状からしておそらく蛍光灯の欠片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
 まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
 3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
 最後の1人はとどめを刺すタイミングをうかがっていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
 逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺には追い掛ける力が残されていなかった。
 肩で大きく息をつき、コンビニに向けて投げた鞄を取りに行こうとして、バランスを崩して倒れこむ。
 うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
 立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずって鞄を取りに行こうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
 緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
 よかった、これで。
「……なあ」
「!? え、な、なに、どうしたの?」
 もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
 切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの入口に……投げ込んだ……俺のかば……げほっ……鞄、持ってきてくれないか」
 出来心が働いて少し演技を入れてみる。
 泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すと破片がばらまかれた地面を踏みつけてコンビニの入口へ近づいていった。
 心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
 おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。

5
 ここはどこだろう。
 私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
 きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
 そうだ、私は――。
 自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
 そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
 多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
 長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。

 彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。

「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「……どういうことですか」
「ご存知ないようですね。……まあいいでしょう。説明します」
 先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
 まるで、何らかの虐待を受けたような……。

 寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
 教室で、一人で本を読んでいる。
 体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
 にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
 人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
 情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
 いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
 何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
 無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
 引き受けないのに、……なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
 彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
 ……それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。

6
 感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
 二度寝せずにさっさと起きやがれ。
 人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。僕自身の足もしびれていたし、なにより重さが傷口に響く。
 ここは病院のようだ。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
 上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
 いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
 始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ……」
 案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
 ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
 しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、ここって携帯端末使える場所?」
「うん、マナーモードでいいって、先生言ってたよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
 ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
 あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「……うん」
 壁のコンセントにプラグをさし、PC側の端子を渡してもらう。
 案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
 てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て葉村はやることを思い出したように、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
 そう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事のくせにさ……」
 ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きと親密なコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
 いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを半秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
 PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
 携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。画面いっぱいに16進数の数列が流れては消えていく。
 想定より単純な暗号化。
「割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
 総当たりで計算をしても、あと5分と暗号キーが持たないと表示された棒グラフが無情に告げる。
 と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。医師は僕とPCを一瞥してから言葉を発した。
「……おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。私が、担当医の高橋というものです」
「初めまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「よろしくお願いします。……あ、お座りになってください。君もな?」
 そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
 2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
 退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。命令者の予想より早く仕事を終わらせたと、そう自慢するようにカーソルが同じ場所で点滅している。

「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、……言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
 口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
 どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
 あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目に遭いますので」
 まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
 この数分で、医師は一気に疲れたようだった。
「そうですか。何かありましたら、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
 それだけ言い残すと一礼して病室を出ていく。
 包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返した。
 葉村はといえば、呆けたように座っていた。医師が出て行き、扉が完全にしまってから。
「……ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「さっきの、が何を指しているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
 一拍。
 何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
 椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
 耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。……いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「……何を言ってるの? 意味が分からない。日常、ってどういうこと?」
「言葉通りだ。君の――」
 途中で遮り、葉村は言葉を継いだ。
「いいよ、私はなんとしてでも聞き出す、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
 落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
 話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「……はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
 彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
 どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとするの? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思いやりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、あんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。……好きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかしい。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
 一気に畳みかけられた。
 歪んでいる? まあそうかもしれないな。
 感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
 異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
 黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。……ちょっと頭冷やしてくる」
 そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
 はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
 それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
 溜息を一つ。
 PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「……お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」

 しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
 目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
 そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
 足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
 彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
 そして最終確認。
「でも、」
 一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
 おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
 それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
 少しづつ、葉村の表情が変化する。
 何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
 ああ、これは泣くな。
 そう思った直後。涙を流す直前。
「……そんなに私に信用がないの……?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない……」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら……」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は……どこやったっけ」
 制服のズボンに入れたままだったか。
 一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
 帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
 ……お前はサザエさんか。

6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに……」
 私が居たかったんだもん。
「最後、なんて言った?」
 最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「……いいの、気にしないで。何も言ってないから」
 引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「……そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
 不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
 さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
 残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。

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