ケータイに仕込んだ目覚ましのアラームが鳴った。
手を伸ばして止めようと思ったのだが、なんとなく全身がだるい。特に身体に異常は無さそうだったが、大怪我をした後のような倦怠感が残っている。
それほど夜更かししたわけではないし、疲れが残っているとは思えないのだが、気味の悪さを感じた。そういえば、変な夢を見た気がする。
気合いを入れて起き上がる。いつもよりテキパキと朝の準備を心がけて家を出る。
1時限目が始まる頃には違和感を忘れていた。
今日の授業中に補充したシャープペンの芯が最後の1本だったが、町へ出て会に行こうか考えたときに、ふと昨晩の夢のことを思いだした。
電車を待っているときに、誰かに線路へ突き飛ばされて自分が死ぬ夢だった気がする。
朝起きたときに謎の体調不良を感じたこともセットで頭をよぎり、帰る準備をして自分の机から腰を上げるまでにしばし逡巡した。
……やっぱり、出かけるのは止めておこうかな。
「帰ろうぜ」
同じく帰宅部の高橋に声を掛けられる。
「一緒に帰ろうと思っても、お前は自転車だろ」
「駐輪場までで良いからさ」
「学校の敷地内じゃないか」
とはいえ、その短い遠回りを断る理由も無かったので、徒歩通学の俺には関係ない駐輪場までは付き合うことにした。
家に着く頃には忘れてしまうような何でも無い雑談を交わしながら階段を降りる。
下足室で上履きを仕舞おうとして、見慣れない白い封筒が運動靴の上に置かれているのを見つけた。下駄箱の扉を見返してみるが、間違いなく自分の場所だった。封筒の下にある運動靴だって、今朝の登校時に履いていた俺の物だった。
「おっ、モテモテ樋口くんは下駄箱にラブレターっすか!」
俺の下駄箱の中をのぞき込んで高橋が茶化す。
駐輪場までつきあうなんて、一緒に帰ろうという誘いを断れば良かった。
「みたいだなー」
「興味なさそうだな。お前、彼女いたっけ」
「いないけど」
「なんで嬉しそうにしないんだよ。短い高校生活を彩る恋の始まりかもしれねえじゃん」
彼女なんていないけど、欲しいと思ったこともないんだよなあ。
「あげる」
「俺がもらってどうするの。……開けてみていい?」
「好きにすれば」
宛名も差出人の名前もない白い封筒は、小さいピンク色のシールで封がされているだけだった。
ぺりっと高橋が開けて中の便箋を取り出すのを横目に見ながら運動靴を床に落として上履きを仕舞う。
「どれどれ」
便せんを広げた高橋が、ピューと口笛を吹いた。
「放課後、体育館裏にお呼び出しだってよ!」
今日の下校時間ぎりぎりに、体育館の裏手にある木の下で待っています。必ず来てください。
「テンプレかよ」
「……あ」
「何?」
変な興奮をしながら便せんを呼んでいた彼は、急に顔色を暗くした。
「これ、見なかったことにした方が良いかも」
さっきまで楽しそうにしてくせに、神妙に言った。
「お前としては、高校生活の彩りなんじゃねえの?」
「こいつのじゃ無かったらな」
便箋の末尾に書かれた差出人らしい署名を俺に示し見せる。
「三雲さやか?」
「クラスメイトだよ、お前の二つ後ろの左側に座ってる奴だけど、わからねえ?」
お下げにした暗い雰囲気の女子か。
「名前と顔が一致してなかった」
「もうクラス替えしてから1ヶ月以上経つんだけど。……同じ中学だったんだけどさ、こいつはちょっと……お勧めしない」
「なんで?」
「色々あってさ……俺とって事じゃないけど。いつも長袖の制服着てるだろ」
まだ5月だしな。
「季節の問題じゃねえよ。体操着とかも」
「寒がりなんだろ」
「そうじゃなくて。……体育の着替えって女子は更衣室へ行って着替えるだろ。その時に俺と仲の良い女子に聞いたんだけどさ、どうやら常に手首に包帯を巻いてるのを、隠してるらしいんだと」
「……」
「雰囲気だけじゃ無くて、実際にちょっと危ないみたいで」
高橋が手首を切るジェスチャーをする。
「会って断るくらいなら何にも無いだろ」
下校時間ぎりぎり、という指定時刻からすると、図書室で1時間半ほど時間を潰すのが良さそうだった。
「そうだろうけどさ……」
高橋はまだ何か躊躇していたが、一度出した運動靴を下駄箱に入れて、内履きを出し直した。
「図書室で本でも読んで待つよ」
「……どうなったか明日教えてくれよ」
「いいよ」
「……本当に恋愛への興味が無いんだな」
「そうかな」
帰るという高橋を下足室で見送ると、図書室へ向かった。
久しぶりに本を読んでいたら思いのほか面白かった。適当に選んだ物を読んでいるとあっという間に下校時間を知らせるチャイムが鳴る。
読みかけの上巻と続きの下巻を貸出手続きに通してカバンにしまい、体育館へ向かう。
面倒くさくてかかとを踏んだままの上履きが、生徒の居なくなった廊下にペタペタと音を響かせる。
日が落ちかけて暗くなった体育館の裏手に、ひっそりと1人の女子が立っている。
「ごめん、待った?」
足音で気付いているだろうに、声を掛けるまで顔を上げず、前に抱えたバッグの中身を見つめている。
「……そうでもない」
見た目通りの細い声だった。
「三雲さん、手紙、読んだよ」
全く話をしたことのないクラスメイトに、こういう状況でどんな雑談を振れば良いのか分からなくて、用件を直球で投げた。
「……ありがとう」
前置きなしの発言にたじろいだ様子で目をしばたかせる。
「私、同じクラスになったときからあなたが好きでした。つ、……付き合ってください」
会話もしたことないのに。俺が彼女のことを知らないように、彼女だって俺のことをどれくらい知っているのだろう。
「ええとさ。俺は今まで誰か女子と付き合ったこともないし、君のこともよく知らないから、まずはお友達からでいいですか」
「そうなの? 樋口くんはかっこいいし、私と違って誰とも話せる明るい人だから、経験豊富なんだと思ってた」
経験て、どこで身につけられるどんな物を指しているのだろう。
「そんなことねえよ。買いかぶりだ」
今だって、初めての状況に少しドキドキしている。
「なら、お友達じゃ無くて、最初から……特別でも良くない? 樋口くんなら……いつでも良いよ」
ちょっとスカートの裾をつまんで言われても。むしろ身持ちは堅い女子の方が良いんだけどなあ。……と言うことすら俺のことを知らない状態で彼女と言われても。
「いやいいです、遠慮しておきます」
見ているこっちがはしたないことをしているようで恥ずかしい。
「何で? 同じくらいの歳の男の子ってやりたくないの?」
むしろ同じくらいの歳の女の子から、それほど仲良くない間柄でやるとか言わないでくれ。
「……人に因るんじゃないかなあ、俺は別に、それほどでも……」
「私に魅力が無いから?」
「三雲さんの問題じゃ無いよ」
「私が可愛くないから?」
「俺の気持ちの問題なんだって」
「そんなに私はダメな女だってこと?」
「違うって」
人の話を聞いて欲しい。
「みんなみんな私のことを好きになってくれない、私はいつもみんなのことを見ているのに、みんなは私のことをちゃんと見てくれない」
何かスイッチが入っちゃったようだ。
「そんなことないよ、きっといつか君を好きになってくれる人が見つかるって」
「適当なこと言わないで!」
だって適切なことが言えるほど、俺は三雲のことを知らないんだ。
「もういい、私のことをちゃんと教えてあげる」
「教えてくれなくても良いけど」
「……やっぱり私のことが嫌いなんだ」
「好きとか嫌いとかじゃ無くてさ」
「嫌いだって事を否定しないんだ」
何でそうなるんだ。
「好きでも嫌いでもないってば。俺は三雲からじゃ無くても振るつもりだったことを知らなかっただろ」
「じゃあ私に教えて。……ううん、やっぱりいい。勝手に知る」
彼女はバッグの中に手を入れると、中で何かを握りしめてバッグを地面に落とした。
「……おい、それ」
暗くなってきた木々の下でも分かるほど金属が輝いている。
「これ? 大丈夫、使い慣れているから。今時の普通の女子高校生にしては私、包丁をちゃんと砥石で研げるんだよ」
つまり研ぎたての包丁だと言うことか。
「普通の女子高校生は、バッグにむき出しで包丁を入れておくことはないだろ」
……むき出しじゃ無くても刃物を持ち歩かないと思う。
「えー、そうかなー。他の女のことなんて知らない。……樋口くんは、私のことは知らないのに、他の女のことは知っているんだね」
「一般論だ」
「私のことも知っておいてね」
うふふと笑ったのがもの凄く不気味だった。
「どうするつもりだ」
「こうするの」
一歩前に出て真っ直ぐ包丁を持った右手を前に突き出す。
慌てて後ろに避けようとしたが、木の根に引っかかって尻餅をついた。
「逃げるんだ。やっぱり私のことが嫌いなんだ」
「……この状況で逃げないやつなんていない」
背中を打ってしまいすぐに立ち上がれない。
「逃げられないようにしてあげる」
三雲が俺の太股の上に座り込んで、スカートのしわを伸ばす。
「やめろ」
「君のことを教えて……!」
切っ先が制服を突き破って腹に刺さる。焼けるような痛みが走った。
「ああ、筋肉が……男子の腹筋ってやっぱり固いんだね……」
恍惚とした表情で刺した包丁を出し入れする。……男が女にやるように。
「でも中は柔らかい……それは女子と同じみたい」
包丁を抜かれるたびに赤い血が飛び散る。唇についた俺の血を三雲は舌を出して舐め取った。
「鉄の味がする……私のことも知りたいよね」
針山にまち針を刺すように、また俺の腹に一刺しした包丁から彼女は手を離すと、血だらけの手で自分の左袖のボタンを外して肘までまくった。丁寧に隙間無く巻かれた包帯を外して露わになった手首には、高橋の言ったとおりいくつもの赤い線が描かれていた。
「私の血の色も、樋口くんと同じ赤い色をしているんだよ」
俺の腹から抜いた包丁の血糊を、ほどいた包帯でゆっくり拭う。白い包帯がみるみる赤くなっていく。金属の銀色に赤い液体が無くなったことを、三雲は両面をじっくり見て確かめた。
「……ほら」
そして無造作にその包丁で自分の手首を切った。慣れた物なのか、玉になった血液を包丁に乗せて見せてくれる。
「混ぜてみるね……見てみてこんなにおんなじ色をしてる。私たちの相性はぴったりだよ。……ねえ、私のことを好きになってくれた? お友達じゃ無くて、彼女にしてくれる気になった?」
手首から流れ落ちてくる三雲の血が、俺の制服を染めていく。
「樋口いるか。体育館の裏だったよな」
校舎の方から俺を呼ぶ高橋の声がする。
「……邪魔者が来たみたい」
三雲は憎々しげに表情をゆがめると、素早く立ち上がるとバッグを持って体育館のより奥の方へと去っていく。
唐突に眠気が襲ってきた。
「料理部の女子が包丁がないって騒いでたから戻ってきたんだ」
大声が段々近づいてくる。
「まだいるなら早く逃げたほうがいいぞ」
もう今更だよ。
ざくざくと冬を越した枯れ葉を踏む音とともにやってきた高橋が、狭くなってきた俺の視界の外で足を止めたようだった。
「おい、大丈夫か!?」
大丈夫なわけないだろう。
「救急車! 110だっけ……あれ」
声がだいぶ慌ててうわずっている。
119番だよ。
声に出したはずなのに、音になっていなかった。
睡魔に抗しきれずに目をつぶると、すぐに意識が落ちた。
また、作業服が脱ぎ散らかした自室で目を覚ましてしまった。
今回の死因は最悪だった。いっちゃった同級生に刺されるなんて。
高橋が呼ぼうとしてくれていた救急車は間に合わなかったらしい。あれだけ何度も刺されれば必要な血液が流れ出るのはあっという間だっただろう。
深いため息をついてからのろのろと着替えた。
愚痴を聞いてもらおうと、高校に向かう。
これが4回目だから、最短で8日間の滞在になる。
登校すると、妙に慌ただしい雰囲気が漂っていた。
「細川さん。……おはようございます。何かあったんですか」
「おはよう、今それどころじゃ……樋口くん!? どうしているの?」
どうしてって。
「……また死んだからですけど」
「そりゃそうでしょうけど。樋口くんなら分かるかしら、昨日から書き置きだけ残して水上くんがいないのよ」
はい?
「何て書いてあるんですか」
「探さないでください、そのうち戻りますって。それだけなの」
心ここにあらずという雰囲気で、水上が居ないことよりも、そのせいで出来ない何かを恐れている様子だった。
「なら、書いてあるとおりいつか帰ってくるんじゃ無いですか?」
「でも心配で……心当たりはない?」
すがりつくようにお願いされたら、手伝わなければいけないような気になってくるじゃないか。
「ないですけど……探してきます」
ないとは言ったが、実は俺だけは知っている場所が、1箇所だけあった。
こちらの世界の約1週間前に、俺が連れて行かれてボコボコにされた、三人組の住処だった。だが、水上はそれがどこかを知らないはずだった。
少し遠かったが、歩けない距離でもだった。
あの日に水上と乗って出た、窓ガラスの割れた軽トラの隣に、こちらの高校の職員駐車場で見た覚えのあるトラックがもう一台停められていた。
水上は軽トラを頼りにこの場所を見つけたのだろう。
中に居るだろうと確信して、そのわりには世界が静かだから、少しの物音だって外で漏れ聞こえてもおかしくなさそうなのに、しんとしていた。
警戒しながらそのマンションに侵入する。
玄関ホールでエレベータの階数表示が最上階を示していることを確認し、横にあった階段からいくことにした。足音を殺しながら登っていくが、自分の吐息以外に聞こえる音はない。
このマンションで最も高価だろう最上階は、1フロアの部屋数が最も少ない。だが、3つ並んだ玄関の扉のどこに連れ込まれたかまでは思い出せなかった。
逡巡していると、ある扉の前に捨てられた吸い殻が目についた。……セブンスターの吸い殻は、まだそれほど古びていない。
違っていたらすぐに他を試せば良いか。
もう一度だけ耳を澄ませて何も聞こえないことを確かめてから、そのドアを勢いよく開けて身を滑り込ませた。
合ってた。
廊下の向こうのリビングで、数日前の俺と同じように顔を腫らして椅子に縛り付けられている三人組と、その前にどっかりあぐらをかいてこちらを振り向いている水上が見えた。
「……4人目が居たのかと思ったぜ」
「間違いなく三人組だと思うけど。なんでお前はこんな所にいるんだ」
「またいつかおいたをされる前に、出来ないように懲らしめてやろうと思ってな」
長い廊下を進んでいくと、青色の髪のやつが1人だけ腹から血を流していた。今回の死因を思い出して眉をひそめる。
「1人だけ怪我してるのか」
「単なる見せしめだよ、一番元気の良い奴に一発、ズドンてな」
椅子の下に血だまりが出来て、息はあるようだが顔が真っ白になっている。
「これくらいなら、1日位はほっといても死なないよ。2日になったら知らんけど」
「殺すわけじゃ無いんだな」
「ただ殺すだけじゃ、つまらないだろ。それよりなんでお前は戻ってきたんだ」
「クラスメイトに腹を刺された」
「なんだそれ。痴情のもつれか」
面白い冗談を聞いたように水上が笑った。
「全くその通りで笑えねえ」
「モテモテでいいじゃねえか」
「ちっともよくない」
憮然として答えると、大笑いになった。
「そんなことより、これからどうするつもりなの」
顎で三人組を示しながらそう聞くと、ピタリと笑いが止まって表情が無くなる。
「日付が変わる前くらいまでこのままだな。……小さい頃、一緒にテレビで見たよな」
水上が、取り出した煙草で部屋の隅に置かれた赤いポリタンクと消火器を指し示した。……灯油か。
ライターをならして咥えた煙草に火を点ける。
灯油、火、縛られた人間。連想して気分が悪くなる。
「俺がされたよりずいぶん酷いことを思いつくんだな」
「絶対助からないようにしてやる」
「……ごめんなさい、もうしないから」
水上が憎しみのこもった暗い声で宣言すると、真ん中で縛られている赤い頭の奴が泣きべそをかきながら言葉を発した。
「樋口は良いところに来た。お前の時は、誰の発案だったんだ?」
謝罪が全く聞こえなかったように、夕飯の献立を話すように水上が尋ねる。
「ごめんなさい」
「そんなこと知ってどうするんだ」
「助けてください」
「そいつを最後まで残して、見せつけてやるのさ」
「許してください」
「復讐なんて要らないって言っといたよな」
「殺さないでください」
「お前に要るかどうかじゃない、俺がしたいんだ」
「お願いします」
「……俺も助かったんだからさ、止めようよ」
「お願いします……」
涙と鼻水で腫れた顔をなおぐしゃぐしゃにして、赤いのが懇願する。
「うるせえ!」
立ち上がった水上がそいつを椅子ごと蹴倒す。
ガターンと転んだ音がして、彼は倒れた衝撃で息をつまらせて咳き込んだ。
ぐったりしている青色の髪がかすかに目を開け、もう1人の黄色い髪が大きな音に怯えたように震える。
「おねっ……がい」
「泣いたって聞くかボケ」
その胸を踏んづけて水上が声を荒げる。
「戯言は何をしたかきっちり理解してから言え。身をもって体験しねえとお前らには分からねえだろうから手伝ってやろうって言ってんだ」
ぎゅうぎゅうと体重を掛けて叫んだ。
「やめろよ」
水上の肩に掛けた手を引っ張ると、怒って俺のことも突き飛ばした。
「邪魔するんじゃねえ」
靴下にフローリングだったから、そのまま足を滑らせてポリタンクに肩をぶつけた。近づくと間違いなく灯油のにおいがする。俺と一緒に倒れたタンクの中身が、満タンに入っている液体が、チャプチャプと揺れる。
「なあ、このまま帰ろうよ」
タンクを支えにして起き上がり、座り込む。
「つべこべ言うなら樋口も一緒に燃やすぞ」
転ばされてカチンときた。昔からこいつは余計なところばかり頑固なんだ。
何回も生き返っては同じ日のうちに死んで、しかも今回は同級生に殺されて、俺も機嫌が悪かったのだ。
「いいよ、そうしようぜ」
横にあったタンクの蓋をひねって開けると、そのまま頭から被った。部屋中に灯油のにおいが充満する。
「な、てめえ……」
蓋と空になったポリタンクを驚いて固まっている水上に投げつける。
「ほら早く、その短くなった吸い殻をこっちへ投げろよ」
水上が咥えている煙草を慌ててこすりつけて火を消した。
「何やって……!」
三人組は揃って怯えた目でこちらを見ている。
「お前を手伝ってやってるんだろ。お前がやらないなら自分で火を点けるぞ」
灯油で濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。四人の視線を浴びながら、重たくなったズボンのポケットからオイルライターを取り出した。
何かを叫びながら俺の手から水上がライターをもぎ取って向こうへ投げる。
「ふざけんな」
「そりゃこっちの台詞だ」
「お前はあっちに帰って生きるんじゃねえのかよ。なんで自分からこっちで死のうとしてるんだ」
匂いで頭がぐらぐらしてきた。
「これで4回目だぜ。何時になったら明日が来る? もう疲れたよ」
実際のところ、嫌になってきていたのも事実だった。
「くそ野郎。おい、風呂場はどこだ」
「……廊下を出て左側の一番手前っす」
水上が唐突に発した質問に、倒れ込んだままの赤髪が答えた。
俺の後ろ襟をひっつかむと、もの凄い力でずるずると風呂場へ引き摺っていく。
「痛い……痛い」
「知るか、自業自得だろ」
広い風呂場へ俺を連れ込むと、服を着たままシャワーを浴びせかけてきた。
「ぶえ、ごぼっ、冷てえ」
「灯油が落ちるまで我慢してろ」
頭から顔から胸から背中から、力尽くでひっくり返されたりバスタブに押しつけられたりしながら洗い流されていく。
「これでよし」
一仕事を終えた水上が呟く頃には、すっかり濡れ鼠になって凍えていた。くしゃみが止まらない。
「……寒い……っくしょい」
ガタガタと震えが止まらない。水上だって下半身がびしょ濡れになっているのに、顔は汗をかきながら荒い息をついていた。
「わがままだな……行くぞ」
また襟をつかんで連れて行かれそうになるのを振り払って、自分で立ち上がる。
「い、行くってどこへ」
「いいところ」
3人組も床にこぼれた灯油もそのままに、水上はさっさとマンションから出るとトラックのエンジンを掛けた。
「濡れ鼠は荷台だ、シートが汚れるだろ」
言われて荷台によじ登る。腰を落ち着けた俺を確認して、乱暴にトラックを発進させた。とっさにトラックの鳥居をつかんだが、かじかんだ手では体を支えきれずに荷台を派手に転がった。
猛スピードで飛ばすせいで、強い風を直に受ける濡れた全身からは急速に体温が奪われていく。
右へ左へと荷台を転がっているうちに、時間の感覚もなくなってきた。山道に入ってカーブが多くなり、なお空気が冷たくなっていく。体のあちこちをぶつけているはずなのに、痛みをあまり感じない。
自分から灯油を被ったとき以上に死を近く感じるようになって、やっとトラックが止まった。
「降りろ」
そう言われても、意識が朦朧として体が動かない。のそのそとうごめくだけの俺を見て、水上は舌打ちをすると俺を背負った。
どれくらいの距離を歩いたのか分からないが、おんぶされて連れてこられた先で、池の中に放り捨てられた。気管に水が入って、溺れかけて体を支えようとするが底に手が当たっても上手く体勢を整えられない。
服を脱いだ水上が池に入ってきて支えてくれると、やっとまともに息が出来るようになって咳き込んだ。
発作が落ち着いてくると、水が温かいことに気がついた。
これは池じゃない。
見慣れた地元の、小さい頃からよく来ていた公衆野天温泉だった。
体が温まってきてから、まだ着ていた服を脱ぐ。完全に濡れて重くなっているから脱ぐのにも一苦労で、そのうえ荷台でぶつけた全身が鈍い痛みを主張するせいで抜いている間にまた寒くなってくる。
「寒気がする。風邪でも引いたかな」
「濡れた服を着て風に当たってりゃ体調を壊したっておかしくねえ」
「お前の運転のせいだ」
「樋口が灯油を被るなんて無茶なことするからだ」
「その灯油は誰が何のために用意した物だったっけ」
「そもそも探すなって書き置きをしたはずだったんだけどな」
口々に言い合ってにらみ合う。
険悪な雰囲気になったが、2人同時に吹き出して大笑いしてしまった。
「細川さんが青い顔をしてたぜ」
「うわ、帰るの嫌だなあ」
「何で?」
「ぜってえ怒られるじゃん」
「なら、後先考えずに行動するのを止めろよ」
トラックに積んであった予備の服に着替えながら、さりげなく聞いた。
「あの3人組はどうするの」
「あー……何か拍子抜けしちまったなあ。肝心の本人がピンピンして帰ってきたし」
怒ってはいるようだが、思ったより落ち着いているようだった。
「どうしよ。樋口ならどうする?」
「俺に聞くのかよ。……連れて帰るかなあ」
「3人も生活する人が増えるってなると、細川さんに相談しないとなあ。その前に怒られる……」
「俺も一緒に怒られてやるからさ。それに、何も言わずに連れて行けば怒られなくて済むんじゃね?」
水上は俺の顔をまじまじと見た。
「本当にそれでいいのか?」
「いいのか、って?」
「あんなコトされて、お前は許せるのか、って言ってるんだ」
「……聞かれたって、分からないけど。でもそれでいいよ」
「お前がいいなら、いいけどさ。俺なら絶対に許せない」
相変わらず優しい奴だなあ。
水上は何かを諦めたように笑って、呟いた。
トラックできた道を引き返し、マンションに戻ると、3人組は灯油のにおいがする部屋で変わらずに居た。
拘束されているのだからどうしようも無かったのだろう。怯えた目で俺らを見る。
「逆らうんじゃねえぞ、今度こそ殺す」
縄をほどきながら水上が機嫌悪そうに脅すと、慌てたようにこくこくと2人は頷いた。腹を打たれているもう1人は、もうその気力も無いようだった。
「思ったよりやべえかも」
ぐったりとした様子を見た水上が小声で俺にささやいた。
顔が腫れているだけで自分で立ち歩ける2人に肩を支えさせてトラックに戻り、3人組は荷台へ、俺たちは運転席と助手席に乗った。
気のせいかもしれないが、水上が少しだけ丁寧な運転で暮れた人気の無い道を高校に向かう。
「鈴木さん! ただいま、急患だ!」
水上が、門番をしていた今日もつなぎの男の人に叫んだ。
「今までどこに……、急患って何のことだ」
「いろいろあって。それより早く開けて!」
トラックのエンジン音を聞きつけて、細川さんが鬼の形相で走ってくる。
「あんたたち! 心配したじゃないの!」
「ごめん、それに関しては後で聞くから。こいつらのことを診て!」
「あたしは医者じゃ無いのよ」
そう言いながらも、荷台で横たわる青い髪のやつを一瞥すると、保健室へ運ぶように指示を出した。
出血は殆ど止まっているようで、乾いて張り付いた服を剥がすと、銃創と呼吸を確かめて悲しそうに首を振った。
「ダメか」
「ここじゃちゃんと直すのは無理よ。ここは病院じゃないし、私は医者じゃないし」
黄色と赤の髪をした仲間達が肩を落とす。
「じゃあ、しょうがねえか」
邪魔にならないよう、外から様子を窺いながら煙草を吸っていた水上が平坦な声で言った。
「どうする気だよ」
「こうする」
やけに即答する水上から不穏な雰囲気を感じて振り向くと、彼はくわえ煙草で歩み寄ってくると、拳銃を向けた。
「お前、殺すのは止めるって……!」
「それ、やめた」
「ちゃんと言うこと聞いて、おとなしくしてたじゃないか!」
赤い髪が叫んでつかみかかろうとしたが、それより早く彼が発砲した。
銃声とともに、辛うじて息をしていた青い髪が頭を打ち抜かれて死んだ。
「な……」
絶句して黄色い髪が崩れ落ちる。赤い髪が泣きながら水上を殴ろうとして、あっけなく返り討ちにされる。
「どういうつもりだよ」
俺は沸騰しかけた頭を必死に落ち着けようとしながら、歯の隙間から問うた。
「治らない怪我をしたまま日付を跨いだら、こいつはずっとこのままなんだぜ」
顔色を変えずに拳銃を後ろ腰のベルトに挟みながら水上は当たり前のことを語るように答えた。
そうかもしれない。すっかり忘れていたが、死後の世界であるこの世界では、水上の言うとおりだった。
だとしても、もうちょっと他に方法があるってもんじゃないか。
「今晩のうちにまた、迎えに行ってくるよ」
そう言って彼は保健室を出て行った。
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