こいちゃんの趣味全開!!

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俺に明日は来ない Type1 第12章

2022.04/14 by こいちゃん

 自分のうなされる声でふと気がつくと、俺のアパートの窓から朝日が差し込んでいた。
 思い出すまでもない。
 両手にかいた脂汗以上に、残る感触が気持ち悪い。
 本人の意思とは関係なく、塞がれた気道と動脈がびくびくと酸素を求めて跳ねる。力ずくで上から押さえ続けていると、やがて彼の体全体が震え出した。徐々に大きくなっていったと思ったら、張り詰めたゴムが弾性限界を迎えたように力を失って動かなくなった。
 手を離した途端に動き出すのではないかと無駄な心配をしながらゆっくり水上の首から両手をずらしていく。知らず知らず俺も息を詰めていたようで、肩で大きく息をしながら浮いていた腰を下ろす。水上の腹の上はついさっきよりも深く沈み込んだような気がした。
 少しずつ俺の息が整えながら目を開けると、僅かも上下していない水上の胸の上に、代わり映えしない自分の両手が見えた。恐る恐る視線を上げていくと、伸びたTシャツの襟では隠しきれない赤黒い指の跡が、月明かりでもそれとはっきり分かるほど痣になっていた。大きく開いた口から下が突き出て、両目はそっぽを向いて見開かれている。
 見なきゃ良かったのに水上の死相を正視して今夜だけで3回目の吐き気を覚える。死んでいたとて、幼なじみの体の上には吐瀉物を出したくなくて横に跳ね飛んで校庭の土へ僅かに残った胃液を吐き出した。
 記憶に連想されて、生きている俺は再び吐きそうになり掛け布団を跳ね飛ばすと便器を求めて狭いアパートを駆けた。4回目の嘔吐は胃液だけでなく消化途中の食べたものも含まれていたので、前回よりは幾分楽だった。
 ……今吐き出したこれは、いつ食べたものだ?
 臭いも流すのも忘れて汚れた便器の水たまりを見つめて記憶を掘り返そうとしていると、外から踏切の音が聞こえた。
 死後の世界に、鉄道は走っていない。走らせる技術を持つ人も居なければ、需要もない。踏切の音だけなら報知された機械の誤動作を疑えたが、やがて電車が線路の段差を踏み越える規則的な音に気がついた。
 昨晩は、高校を出てアパートへ帰ってきた記憶は無い。
 つまり、持ち帰れないはずの死後の世界の記憶を俺は保持したままだが、生きている世界に俺は居るのだ。

 どれくらいそうしていたか分からないが、飛び出してきた寝室から、仕掛けられた目覚ましのアラームが鳴り出した。
 水を流して手を洗い、ついでに春先の冷たい水で顔も洗って寝室に戻ると、死後の世界の俺の部屋にならあるはずの作業着はどこにもなかった。
 いつまでも喧しいアラームを切ると、まさか寝間着のままで外の様子を見に行くわけにもいかないから、のろのろと高校の制服を身につける。条件付けによるものだろうが、無意識に通学カバンを持って家を出た。重い足を引き摺るように通学路を消化していく。
「よっす、今日も朝は苦手みてえだな」
 振り向くと高橋が俺を自転車で轢こうとしていた。
「危ねえ」
「寝起きの樋口にどついて気合いを入れてやろうとした俺の優しさを分かってくれてもいいんだぜ? それにしても、2年になったばっかりなのに、制服を着崩しすぎじゃねえ? 先輩達にシメられるぞ」
 見下ろしてみれば、シャツも学生服も普段通りの俺ならもう少しましな着方はないのかとまゆをひそめるほど、だらしなかった。
 今日はそれを直す気力がどうしても沸かない。
「絞めたのは俺の方さ」
「……あん? 何て言った?」
「なんでもない」
「顔色も酷いし、体調でもおかしいのか」
 少し真面目な表情になった高橋は俺の顔をしたからのぞき込んだ。
「起きたときから頭痛と吐き気がして」
 嘘はついていない。
「変なものでも食ったんだろ。覚えはないのか」
「ないなあ」
 今度は純度10割の嘘だった。内心はどうであれ顔色一つ変えずに人を殺せる水上と違って、俺に人殺しは出来ないようだった。
 それでも。何が適材適所だよ。くそ食らえ。
「今日はこのまま帰れよ。先生には上手く言っておくから」
 サボりか。たまにはそれも良いかもしれない。
「……そうする。よろしく」
「おう、気をつけて帰れよ。今にも車に轢かれそうだ」
「自転車だって車なんだぜ、確かにさっき轢かれかけたな」
「……俺のことかよ。やっと減らず口くらいはたたけるようになったか」
 高橋との他愛ない、次の瞬間には忘れてしまいそうな遣り取りで少しだけ気分が上を向いたような気がする。

 アパートに帰ったところで再び気持ちが沈み込みそうだったので、当てもなく散歩することにした。行き先を決めていなかったのだが、辿りついたのはあっちの世界で水上と忍び込んだディスカウントストアだった。
 日が暮れたら柄の悪そうな同年代が店頭に屯する24時間営業の店だが、連中にとって今からならまだ1時限目にぎりぎり遅刻するこの時間帯は早朝なのだろう。既に朝日とは言えなくなった太陽に照らされた看板の下は平和そうだった。
 狭いショーケースや天井まで棚に積み上げられた商品の間をすり抜けるような店内通路は空いていて、買い物をするために来たわけじゃない俺にとって丁度良い時間つぶしになる。
 体感時間では1ヶ月以上もこっちの世界で生活していないから、ティッシュや洗剤といった日常消耗品を眺めていても家に買い置きがどれくらいあったのか思い出せない。
 玩具売場で水上が使っていて見覚えのある自動拳銃のエアガンを見つけた。18禁指定されていて俺には買えないが、同い年の幼なじみが火薬式の本物を当たり前のように撃っていたのを考えると少しおかしかった。
 レジ近くのブランドものコーナーで、ふと視界の端に何かが引っかかった。何かと思えば、整然と並んでいる中のある一つは、陳列されているところから取り出されたところは直接見ていないのに、あっちの世界で俺が使っていたオイルライターだと何故か分かった。無意識にライターの定位置となっていたズボンの左ポケットを左手が、煙草を入れていたシャツの胸ポケットを右手が、そこにあるはずのないものを探っていた。
 記憶があるということは、経験も習慣も同様に持ち越したと言うことなのだと実感する。
 つい一瞬前までは全く頭から抜け落ちていたのに、今は無性に煙草が吸いたくなっていた。
「あ、ちょっと、すみません。コレください」
 レジの店員に声を掛ける。
「あと、えっと。……51番を一つ」
「はい?」
 俺の顔を見て、そして服装を見て、大学生のアルバイトらしいレジ打ちのあんちゃんが怪訝な顔をしていた。
 高校の制服を着たままだったことに今更気がついたが、高橋が3年に因縁を付けられそうだと言ったほど着崩してもいる。開き直ってしばしにらみ合いを続けると、先に折れてくれたのは店員だった。
 さっと周りを見て、レジに並ぶ他の客も他の従業員も自分たちに注目している人は居ないことを確認して、彼は俺が指さしたライターとオイルを鍵付きのショーケースから手早く取り出した。続いて流れるような手つきでハイライトを2箱取り出すと、まとめて大人のおもちゃ用に用意されていると噂されている、中身が見えないレジ袋に入れた。
「5180円」
 衝動的な買い物だったが、手持ちの現金はなんとか足りた。
「もう制服で堂々と買いに来るなよ」
 おつりを手渡されるとき小さくささやかれて、少し申し訳なくなって首をすくめた。

 店頭にも灰皿は立っているが、釘も刺されてしまったし、制服を着たまま外で吸うわけにはいかない。そもそもオイルライターは売られているときに燃料であるオイルが入っていない。オイルを入れなければ火を点けられないのだから、使う前にこぼさず落ち着いて給油するためには帰宅するのが一番都合が良かった。
 早足でアパートへ帰る途中に、自販機で広口の缶に入ったコーンスープを買う。
 鍵を開けるのももどかしく、靴を脱ぎ散らかして包装を開け、新品のインサイドユニットの底から溢れるぎりぎりまで透明なオイルを中綿へ染みこませた。
 新しいおもちゃを手に入れたときのワクワク感を、ここまで強く感じたのはいつぶりだろうか。
 ケースに入れて何度か石を擦ると、静かな音を立てて火が点いた。
 こっちの世界には敷金がある。築年数の大分経ったぼろアパートだが、室内で煙草を吸うのを迷った上でやめてベランダに出る。
 記憶の上では約1ヶ月をともにした吸い慣れた銘柄だが、タール値17mgの煙を体は初めてだったせいか盛大に噎せた。涙まで出てきた。
 決めた。サボったなら1日も2日も一緒だ。
 これから実家へ帰ろう。
 明日は水上の墓参りをしよう。
 昨日までの俺は、あいつが死んだことすら知らなかった。
 でも、今日の俺はその事実を知っていて、多分明日も覚えているだろう。
 だから一度も行ったことがないし、そもそもどこに水上家の墓があるのかを知らない。
 田舎だからそれぞれの家がそれぞれの場所に代々の墓地を持っている。余所の家がどこに先祖を奉っているのかなど気にしたこともなかった。
 俺に明日は来るのだろうか? 気がかりなのはそれだけだった。

 杞憂だったようだ。
 次の朝を迎えても、昨日のうちに電車とバスを乗り継いでやってきた実家の自室で寝ていた。もし知らない間に死んでいたのなら、目を覚ますのは借りているアパートの部屋のはずだ。
 脱ぎ捨てられた作業着は部屋にないし、外から行き来する自動車の音が聞こえる。
 記憶もちゃんとある。
「体調はどう?」
 ドアを開けっぱなしにしているから、朝飯の支度をしている母親の声がよく聞こえる。
「結構マシになった」
「なら会社を休まなくても良いわよね」
 平日にも関わらず急に帰ってきた息子を問い詰めて、体調不良で学校を休んだと聞くやすぐに寝床へ押し込んだ母親は、まだすっぴんの顔を覗かせた。
「大丈夫、いってらっしゃい」
「じゃあまだ間に合うから、急いで出勤しないと」
 当分、洗面台は化粧をするために占領される。その間はぬくい布団の中でゴロゴロしていることにした。
「おにぎりを握っておいたから、朝ご飯にでも、寝坊して昼ご飯にでもしてね」
「分かった」
「いってきます」
 既に父親は出勤している時間だ。地べだだけは余っている田舎あるあるで、俺の実家も3人で暮らすには無駄に広いのだが、兄弟の居ない俺はひとりぼっちで置いていかれる。
 小さい頃からずっとそうだったから、今更なんて事無いが。だから自宅から半径30kmで唯一の同い年である水上と、毎日放課後の時間を共有していた。
 遊び相手が居なかったら、俺はどうして過ごしていたのだろう。
 想像も出来ない”もしも”を考えるのは止めて起き上がる。縁側に出て、実家では流石に隠していた煙草を深く吸い込んだ。

 手土産を持って同級生の家を訪ねるのは初めてのことだった。
 1人で遊びに行ったときには、中学の時までは勝手に玄関を開けて、戸口から大声で呼ぶのが当たり前だったが、流石に今回はしなかった。
 呼ぶ相手が既に居ないことを知っているのはもちろんだが、高2ににもなっていつまでも子供みたいなことをするのが恥ずかしかったからだ。
 呼び鈴を鳴らし、出てきたのは水上のおばあちゃんだった。
「ご無沙汰しています、樋口です」
「……あら、まーくん? 見ないうちに、また背が伸びたんじゃない?」
 懐かしい呼ばれ方だった。ひぐち・まさとし、縮めて、まーくん。
「そんなことはないと思いますけど」
「ごめんねえ、裕吾はいないのよ」
「知ってます。知っていますというか、だから来たというか」
「はい?」
「その……お線香を上げに来たんです」
 この瞬間のおばあちゃんの表情の変わり方は、きっと死ぬまで忘れないと思う。
 驚き、強ばって、何か言おうとして口を開いたり閉じたりして、やがて大きく開いた両目から静かに涙を流しはじめた。
「どうぞ、入って」

「裕吾。まーくんが来てくれたわよ」
 いつもぴんと伸びていた背筋を丸めたおばあちゃんは、年季の入った仏壇の前にぺたんと座ると、置かれている中で一つだけ真新しい位牌に、愛おしそうな声を掛ける。
 真っ白い蝋燭を新しく抽斗から出して火を灯すと、後ろへずり下がって座布団を裏返した。
「ゆっくりしていってね」
 ポンポンと座布団を叩いて、どっこいしょと立ち上がって俺に場所を空けてくれる。
「これ。皆さんで召し上がってください」
 持ってきたどら焼きを渡す。
「あらあらあら、そんな、気にしなくて良いのに。まずは裕吾に上げましょうね」
「お邪魔します」
 渡された、滅多に食べる機会が無いといつも言っていた水上の好物を、おばあちゃんは仏壇の横の畳へ丁寧に置いて、仏間から出て行った。
 飾られた肖像写真は中学の卒業式の物だろう。記念に撮った物だというのに、にこりともせずいつも通りの表情で写された彼は、自らのその後数ヶ月をどう予想して、予想と現実の違いに何を感じたのだろう。
 ただ座布団に正座して、手も合わせず、線香も立てず、俺はその写真をずっと眺めていた。
 墓も仏壇も、生きている者が死んだ者に語りかけるための舞台装置に過ぎないと、言っていたのは本人の生きていた証の前で、ただ呆然としているしかなかった。死んだ後のあいつに会って話した後で、本人は単なる飾りだと言っていた物の前で、俺は改まって何を祈れば良いのか、全く考えが浮かばなかったのだ。
 線香なんかよりセブンスターを立ててくれれば良いのに、とか言いそうだなあ。
 土産はどら焼きよりそっちの方が良かったかい?
「そうだ、お線香」
 俺の家より山に近い場所にあるここはとても静かで、床をきしませながらまた歩いてくるおばあちゃんの足音に慌てて線香を立てる。
 なめらかに障子を滑らせて、急須と2つの湯飲みを盆に載せておばあちゃんが仏間に戻ってきた。
「もう、あの子の部屋は片付けちゃってね。ここでいいかしら」
「お構いなく」
 まだおばあちゃんの目の縁が赤かった。
「本当にごめんなさい。亡くなったことを知られるのを、息子達が嫌がって。とんだ不義理をしてしまったわね」
 急須からお茶を注ぎ、勧めてくれた。
「いただきます」
「どうぞ。……少なくともあなただけには、真っ先に知らせるべきだった。誰かから聞いたの?」
「……」
 本人から教わったとは言っても信じてもらえないだろう。何て言いつくろうか迷っていると、言いたくないのだと解釈してくれたらしい。
「ああ、いいのよ別に、言わなくても。家族以外で、裕吾のお参りに来てくれたのがあなただったから驚いちゃって。突然泣き出して、そちらこそビックリされたでしょう」
「それは、まあ」
「あの子は進学した高校をすぐに辞めて働き出したのは知っている?」
「はい」
「それに息子夫婦がとても怒って。今時、勘当なんて言葉をまさか自分の家で聞くことになるとは夢にも思っていなかったわ。端だと思ったんでしょうね。学校や、あなたの親には伝えたんだけど、子どもたちや何かには絶対に言うなって、死んだときももの凄い剣幕だったの」
 うちの両親も、知っていて黙っていたのか。
「止めさせた方が良いとは思っても、私も親の1人だから、気持ちは分かるからね。言い訳でしかないんだけど、どうしてもそうできなかった。……親には遠ざけられて、仲の良かったお友達にも会えなくて。死んでからも寂しい思いをさせてしまった」
 おばあちゃんは涙声で断りを入れると、ちり紙で鼻をかみ、目元を押さえて涙を拭った。
「多分あいつも、みんなが集まって泣かれるのは……迷惑がると思います。しばらく経ってから伝えていくのでも良いと思いますよ」
 迷惑がる、とか言っちゃ拙かったか。
 にわかに俺は焦ったが、おばあちゃんは俺の言葉を聞いて泣きながら柔らかく微笑んだ。
「あなたがそういうと、本当にそうみたいな気がするの。不思議ね、家族よりも裕吾のことを知っているのはまーくんかもしれないわ」
「いや、そこまででも……あんまり自分のことをしゃべる奴じゃありませんでしたし」
「そうだったわね。……でもこれで、裕吾が亡くなったことを、隠しておく必要は無くなった。一度内緒にしてしまった事実を、他の誰よりも、あなたに知られることが私は怖かった」
 どこからか自分でそれを知って、訪ねてきてくださったのだもの。
「本当にありがとう。そして改めて、申し訳なかった」
 居住まいを正し、おばあちゃんは畳に正座して手をついて俺に向かって頭を下げた。
「そ、……顔を上げてください!」
 土下座というよりも、古式ゆかしい座礼と表現した方が適切だと直感できるほど、微塵も隙を見せない所作だった。一瞬だけ見とれてしまい、慌てて声を掛けるしかしようがなかった。
 自分よりも遙かに年下の、正に孫と同い年の子供に向かってするような代物ではない。
「今日はね、丁度月命日なの」
「月命日?」
「もうこれも古風な習慣かしら。毎月訪れる、亡くなったのと同じ日の事よ」
「不勉強ですみません」
「いいのよ。……それでね、もしよかったら、私も今朝行ってきたばかりなんだけど、あの子のお墓にもお参りに行ってみて欲しいの」
「元からそのつもりでした。場所を教えてもらえますか」
「地図を書くわね、紙を持ってくるからちょっと待ってて」

 地図を受け取って水上の家をお暇する。
 自転車で一度集落の中心まで降りて、悪い先輩達が店主のおじいちゃんがぼけてて簡単に買えると話していた煙草屋へ行く。
「セブンスターください」
「……うん?」
 耳が遠いらしい。
「セブンスター、ひとつ、ください!」
 未成年だしあんまり大きな声を出したくなかったのだが、仕方が無い。
「ああ、はいはい」
 ごそごそと店内に並べられた棚から目当ての物を取り出して釣り銭皿の隣に置いた。代金を支払う。
「誰かと思えば、樋口さんとこの、まーくんじゃねえか」
「えっ」
「全く、真面目だと思ってたんだけどなあ。お前までそんな歳でこんなもん覚えやがって」
「……すみません」
 田舎特有のみんな知り合いが発動してしまった。
「お上には内緒だぞ。俺は死ぬまで捕まりたくねえからな」
「はい」
 没収とかじゃないのか。少し拍子抜けした。
「あっ、でもこれは俺のじゃなくて」
「はあ? ……ソフトのセッタの14mgだろ、水上さんちの小僧は……あ」
 煙草屋のじいちゃんまで知っているらしい。というか、あいつはここで買っていたのか。
「ああいや、もう知ってます。これは墓参りしようと思って、供えようと」
「何だそうだったのか。すまんなあ、固く口止めされてて。お詫びに代金は要らねえよ」
「えっ」
「俺からの、2人への餞別と思って受け取ってくんな。それともお前は自分のを買っていくか」
「ありがとうございます。……じゃあハイライトを」
「結局、てめえも吸うんじゃねえかよ。せいぜい高額納税者になって買い支えてくれな」
「はい」
 もう一箱も受け取り、こちらは正規の代金を差し引いたお釣りが帰ってきた。
「足が悪くて俺はもうあの山ん中まで行けねえんだ。あいつにもよろしくな」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うな。言われるようなことどころか、こっちらのほうがもっと酷いことをしていたんだ、居心地が悪くていけねえや」
 歳は取っても、悪いことはしちゃいけねえなあ。
 そう呟いて、じいちゃんは店の奥に引っ込んだ。

 来た道を引き返し、気温の高くなってきた昼時に坂を自転車で登っていけば、墓地に着く頃には汗ぐっしょりになってしまった。
 山間だから、じっとしていれば吹き抜けていく風が心地よい。
 今度は線香の代わりに、買ったばかりのセブンスターを一口吸って火を点け、線香皿に立てかける。俺も自分のハイライトをつけて一服した。
「なあ、お前は俺の知らないところで、何をして、されていたんだ?」
 一瞬だけ、もう一度あっちの世界に行って、本人に直接聞いてみたくなった。
 短くなった一本を、吸い殻入れにした空き缶に入れ、二人分のそれぞれ2本目に火を点けてやる。
「また来るよ」
 聞こえるはずのない親友に声を掛け、車道までの獣道を下ろうとしたときだった。
 さっきまで俺がいた墓地以外にはこの道は続いていないはずなのに、作業着にニッカボッカを履いた男が登ってくるのに気がついた。
「みなか……っ」
 うっかり見間違えて、居るはずの無い人の名前を呼んでしまう。あちらも誰かいるとは思っていなかったのだろう。足元を確かめながら登ってきたから、俺には気付いていなかったらしい。さっと顔を上げたその人は水上であるわけもなく、強面で40手前くらいのおっさんだった。
「すみません、知り合いとそっくりな格好をしていたので、見間違えました」
「……もしかして君が樋口くん?」
 何で俺の知らない、しかも生まれてから15年間ずっと過ごした集落で見覚えのない人が、俺の名前を知っているんだ。
「そうですけど」
「やっと会えた。先にお参りをしてきてもいいかな」
 その人は手に持った仏花を揺らす。
 うなずきながらも警戒を解かないまま、すれ違えるほど太くない道を墓へ戻った。
 その人は、静かに花を生けると、しゃがんで長いこと手を合わせていた。
「ここは相変わらず気持ちの良いところだな。そうは思わないか」
「俺は今日、初めて来たので」
「そうだったのか。……煙草を吸ってもいいかい」
「はい」
「悪いな」
「俺も吸うので……」
 初対面だし、相手は俺を知っているようだが未成年者の喫煙を咎めるようには見えなかった。むしろ、堅気には見えない。
「そうか、まあやつも吸っていたしな」
 火を点ける間は、俺もその人も黙っていた。
「それであなたは」
「君は裕吾の」
「……」
「……」
 そしてほぼ同時に煙草へ火が点いて、言葉がぶつかった。
 目線でどちらが先に話しをするか譲り合う。
「あの、あなたは誰ですか。水上の知り合いなんですよね」
 あいつを下の名前で呼ぶということは、そういうことなんだろう。
「そう、裕吾が君にどこまで話をしていたのかは知らないけど、あいつの勤め先の……何というか。社長だよ」
 高校を辞めてからは、どの町にも一つはあるような土建屋で働いていたと言っていた。
 服装と風防には合点がいった。
「俺ん所の会社は俺を入れても4人で、今は3人しか居なくなっちゃったような小さな所帯なんだ。社長でも何でもいいんだが、裕吾は親方と呼んでくれてたな」
 何度か話に出てきた、親切にしてくれたけど最後の最期で決別したというのが、この人なのか。
「幼なじみだったって言う、樋口くんだろ。君の話は何度も聞いたよ。むしろ、やつの小さい頃の話には毎回出てきたといった方が良いかもしれない」
「そうだったんですか」
「まあ、今更だけどな。俺があのとき、ちゃんとロープを固定していれば」
「なんですって?」
「裕吾が死んだのは、というか死なせちまったのは俺のせいなんだ。申し訳ない」
 水上の話とはちょっとニュアンスが違う。
 彼は、大喧嘩して何もかもが嫌になったから、自分で事故ったと言っていた。
「どういうことですか」
「俺たちの仕事は、聞いているかもしれないが、高所作業……要するに高い所に足場を作って、そこで作業をするんだ」
 当然高い所から落ちたら人は死ぬから、一定以上の高さで仕事をするときには必ず命綱を結ぶことになっている。しかし、親方が綱の固定をしたのが甘く、バランスを崩した水上が足場から落ちたときに、命綱が外れてしまったのだという。
「落ちたときの打ち所が悪かったみたいでな、直後にはまだ息はあったから俺も必死で救命措置をとったんだ。でも、ようやく来た救急車で病院に運ばれている途中で容態が急変した。そのまま脈が戻らなかった」
 どこを見ているのか分からない暗い目で、恐らく1年前後が経ったはずなのに、この人はまだ後悔に苛まれて、彼のことを引き摺り続けている。
 俺は話が違うと言いたかったが、俺の知るはずのない余計なことを口走りそうで、何もしゃべること出来なかった。
「小学校・中学校と、唯一の同い年だったんだろ。最も大切な友達を死なせてしまって、本当に申し訳ない。君だけには黙っていろというのがあいつのご両親の考え方だったから、君には謝りに行くことも出来なかった。どう詫びたら良いか」
 今日はやたら、大人に謝られる日だな。
「別に、もう過ぎてしまったことですし。冷たいやつだと思われるかも知れませんけど。水上が親方さんのことを凄く慕っていたのは知っていますから」
「取り返しの付かないことをしたのは俺なんだから、怒ったって構わないんだぞ。死んでからいつも、殴られても、それこそ俺がころされても仕方が無いと」
 黙りこくっていた俺が、もの凄く怒っているのだと勘違いしているらしい。
「そんなことするわけないじゃないですか。もうそんなに怒ってもいません」
 むしろ、毎月この人はわざわざ山奥のここまで来てくれていたのだろうか。
「例え嘘だったとしても、有り難すぎて申し訳ない」
「嘘じゃないですって。もしかして毎月、こんなところまで来て?」
「そうだ。もちろん彼への謝罪の思いもあるが、もうひとつ目的があった」
「目的?」
「君に会うことだよ。偶然ならまだ、許されるかと思ったんだ。いつか裕吾が話していた、幼なじみという君と話が出来るんじゃないかと」
 今日、やっと叶ったというわけだ。
「話が出来て良かった」
「……俺もです」
 今までも嘘をついてはいないが、これは間違いなく偽りのない本音だった。
「ならいいんだが。……送って行くよ」
 迷ったが、お言葉に甘えることにした。
 しらないひとのくるまにのってはいけません。
 ふと小学校で習った教訓を思いだした。

 今度こそ獣道を降りていくと、どこで見たのかは思い出せないが、白い軽トラックが路駐されていた。
「汚くて済まんな。乗り心地も良くないが、しばらく我慢してくれ」
「この辺で育った子供なら、親の暴走軽トラで畑の手伝いや買い物に連れて行かれるのは日常茶飯事ですから、気にしないでください」
「そうか」
 シートベルトを締めてハンドルを回し窓を薄く開けると、親方は煙草に火を点けた。
「そういえば、なんと仰るんですか」
「ん、そうか名乗っていなかったか。失礼した、田口浩治という。田口工務店のたぐちこうじ、鳶なんだが土方とよく間違えられる。笑えるだろ」
 持ちネタらしい。
「狙って付けたんじゃないんですか」
「実はそうなんだ」
 ニヤリと笑った顔は極悪人そのもので、気さくそうな人柄は話してみないと分からないなと思った。
「どこまで行けば良い?」
「あー家の近く……」
 今日も実家に帰るつもりでいたが、両親も水上の死を隠していたことを思いだした。きっと俺がショックを受けないよう思いやってくれてのことだろうが、それでも少し裏切られたような気持ちも拭えない。
「あの、田口さんはどちらまでお帰りですか」
「親方で良いぞ。……俺は下の市街に住んでいる」
「申し訳ないんですけど、一度俺の実家によってもらってから、荷物を取ってきますので途中の下宿の最寄り駅まで連れて行ってもらえませんか」
 駅の名前を伝える。
「通り道だし、お安いご用だけど……高校生? やっぱり麓の街に一人暮らしなのか」
「流石にこんな山奥から毎朝通うのは大変で」
「だろうなあ。親御さんには連絡しておけよ」
「置き手紙を残していきます」
「それがいい」

 風貌に似合わず安全運転で山道の国道を下っていく。だからかもしれないが、後ろから観光に来た帰りのような他県ナンバーのスポーツカーに追い付かれ、煽られ始めた。
「鬱陶しいな。あちらさんもそう思ってるんだろうが」
「迷惑ですよね」
「ああ。少し行った道が太くなった所で抜いてもらおう」
「はい」
 地元の車同士なら、この先の道の線形も分かっているだろうが、よく知らないくせに速度を出す連中が本当に困るのだ。
 土砂採掘場を過ぎた所の橋の手前にある緩いカーブの待避所に向かって左のウィンカーを出し、軽トラックの速度を落としていく。後ろのマフラーをいじっているのかやたら下品な爆音をまき散らすスポーツカーはぎりぎりを狙って格好を付けたいのか十分な間隔を取らずに追い抜こうとしていた。その時、土砂採掘場から頭を出して止まった大型トレーラーに気付いて、反射的に左へ逃げようと、ハンドルを切った。
 当然だが、僅かしかない隙間をあっという間に割り込んで、俺たちの乗った軽トラックへ衝突する。今度は右に切って、切りすぎたようだった。斜め右前でスピンし始めるスポーツカーを、辛うじて舌打ちをした田口さんが避けた。と、思ったのだ。
 抜きかえした所で、橋のすぐ手前で、後ろから突っ込んできた。既に左に寄りすぎていた軽トラックは強い衝撃とともに欄干へぶつかって、しばし両側から車体を押しつぶされながら減速して、耐えきれずに折れた欄干とともに谷底の川に向かって落ちていく。
 舌を噛まないように耐えていた俺は、昨日一日こちらの世界で生き延びられたことに油断してしまったことを強く悔いていた。
 昨日が大丈夫だったからといって、まるで呪われているかのような俺が、今日になって死なないとは限らないじゃないか。
 多分、いや絶対、これで俺はまた死ぬ。
 今度は俺だけじゃない。明確に他人を巻き込んでしまった。
 しかも赤の他人ではなく、水上が慕っていた勤め先の親方だ。

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