織田信長という人物への評価は、なかなかに難しい。
 歴史上の人物というのは、だいたいそういうもの、と言えるが。
 いや、歴史上でないにしても、人間というものはだいたい評価が難しい。
 私の評価はどうだろう? あなたの評価はどうだろう?
 仕事の評価。人間性の評価。相手によって、見方によって、私の評価も、あなたの評価も、ずいぶんと違うのではないだろうか。

 織田信長もまた、革命家だとか、いやそんなことはないとか。尊皇だとか、朝廷とは敵対していたとか。仏教に厳しいとか、そうでもないとか。とかく、あれこれ評価が分かれている。それだけ、多くの研究家が、さまざまな切り口で信長像を見てきたせいであろう。

 ひとりの人間を、多面的に見れば、「人間だからいろいろある」となってしまうのはこれはいたしかたない。

 本書『信長の政略』は、江戸時代から現代に至る多くの信長への研究を参考にしつつ、筆者の谷口克広氏なりの信長像というものを描いている。たいへん誠実で、分かりやすい良書である。ツイッターでこの本を紹介していただいた、お菓子っ子さん( @sweets_street )に感謝したい。

 この本を読みながら、私の中では現実的な合理主義者、という信長像が浮かんできた。
 信長としては、なんといっても、現実的にならざるを得ない事情がある。
 19才で父から家督を継いだとはいっても、信長は四面楚歌の状況であった。
 まず、家督そのものを自分が継ぐか弟が継ぐかで一族や家臣が争っている。
 さらに、その家督といっても、織田弾正忠家というのは、織田家の中でも傍流である。
 父親の信秀がぶいぶい言わせていたといっても、その根拠になる家柄はたいしたことがないのだ。

 かように。尾張半国にしたところで、誰が支配するのが正しいかとか、その理由はとか考えると、曖昧模糊としていて、よくわからない。戦国時代が実力主義だとか言われても、その実力ってナニよ? 誰かが、別の誰かと実力が違うって、それ、どんな客観的な根拠があるのよ? ってなもんである。
 世の中というのは虚と実が混じり合っていて、ややこしい。

 そんな中、信長は現実に対して合理的に対処する術を身につけていった。
 合理的というのは、言い方を変えると。

・自分には、出来ることと、出来ないことがある
・出来ることの中にも、かけたコストへのリターンが見合うものと、見合わないものがある。

 こういうことではないかと思う。
 家督相続から十年。一族やらご近所やらと狭い尾張の中で戦い抜くうちに、信長の合理主義者としてのセンスは鋭く磨かれていった。
 そのひとつが、速度重視である。
 野戦を重視した機動的な戦い方は、若い頃から信長に共通している。

 その総仕上げが、桶狭間の戦いである。
 ぎりぎりまで、決戦戦力を動かさず、動かさないことによって、敵に情報を与えない。
 そして、いざ動くと決めた時には、ひたすら駆け抜ける。一日二日なら兵站にも負担がかからないから、強行軍などの無理もきく。そして、メールも携帯電話もない時代には、移動を続ける軍勢に関する十分な情報を、敵が手にすることはできない。どんな情報も、それを伝えるまでのタイムラグのせいで古くなるからだ。

 桶狭間で今川義元を討ち、尾張を、そして美濃を手に入れて十分な実力を身につけた信長は、その後は天下人への道を進む。
 天下人としての信長の行動原理は、やはり現実に対して合理的であった。
 もちろん、うまくいかなかったこともある。信長が前提とした「現実」が、情報の不足や信長の願望、予断によって曲げられていた場合は特に。
 信長なりに「現実はこうだ」と思っていても、実際には違っていれば「合理的な判断」とやらも、間違うことになる。

 しかし、おおむね信長の現実への見方は正しかった。
 信長が、中世的な因習やら制度やらをどのくらい好いていたか、嫌っていたかは分からない。しかし彼は、そういうものがある、ということについては現実的に判断した。
 自分が利益を得るために、それらを排除しようとすれば、当然、大きな抵抗がある。
 ここで信長は考える。
「そのコストは、かけるに足りるか? 否か?」
 結論は、だいたいにおいて、否、だった。
 だから信長は、自分に敵対するのでない限り、中世的な制度に手をつけることをしなかった。自分に必要でなければ、無視をして距離を取った。
 経済発展のために、座や荘園をどこでもかしこでも撤廃するのは、コストばかりかかってリターンのないことだった。だから、信長は悪影響がない限り、放置した。そのかわり、交通の便を良くする道路の普請には熱心だった。これはかけたコストに見合う投資だった。
 寺社にしても、敵対すれば戦うが、その必要がなければ放置した。
 世論に対して気を配り、悪評を気にしたのも、評判が悪くなることで生じる不利益を放置することが、合理主義者の彼には我慢ならなかったからだ。
 籠城を嫌い、すぐに決着がつく野戦を好んだのも、そのために敵よりも多くの兵力を集めることに腐心したのも、合理主義ゆえである。一か八かの賭けは、その必要があればためらわないが、必要がなければ避ける。合理主義者だから。

 そうして考えると、信長が短気で気むずかしい人間であったのもよくわかる。
 現実を直視する人間は、そこに自分の価値観とは相容れないもの、気に入らないものを山のように見てしまう。善意や悪意で現実をほしいままにねじ曲げる方が、気に入らないものは見ないですむのだ。
 しかし、若い頃に一族や家臣ですら敵に回す経験をしてきた信長には、そのように現実をねじ曲げることは望んでもできなかったに違いない。結果、彼はできるだけ現実を、不愉快であっても、自分に可能な限り直視し続けた。だんだんと気むずかしくなるのも分かろうというものである。自分の権力が増すに従って、周囲に当たり散らすことや無駄にプレッシャーをかけることも増えたに違いない。
 粛正もしたし、その反動で謀反も増えたが、信長の力は日ノ本に比類なきものになる。

「いろいろ反感も買ったが、このままいけば、天下はオレのもの」

 天正10年6月。本能寺にて。
 現実主義者で、合理主義者の信長はそんな風に現状を分析していたのではないかと思う。
 それが突然の、光秀謀反である。やはり、信長も人間である。自分で「これが現実だ」と思っていたものに、バイアスがかかっていたのだろう。

「こいつは、しょうがねえ(是非もなし)」

 自分が勘違いしていた「現実」を即座に修正した信長は、合理主義者らしく、そう言って炎の中に消えたのである。