10)
『ルー、ティオ、ゴルちゃん、モノちゃん。元気かしら』
 どこかの帰りらしく、帽子を脱ぎながら母さんは言った。
 一ヶ月ぶりに見る母さんの姿は、いつものように愛らしく、魅力的で、家庭の持つ温かさと親しみを感じさせながら蠱惑的でもあり……とにかく、最高だった。
「あの鳥の羽がついた帽子、なかなか良いセンスですわね。少し子供っぽいですが……まあ、おばさまなら……」
「羽根の形状からして、水鳥と思われる。色は魔術による染色」
「ボクもあんな帽子が欲しいなぁ」
 後ろに並ぶ三人の言葉を右から左へと聞き流す。何しろ一ヶ月分の母親成分を使い魔のカラスが結ぶ画像と音声で補充しなくてはいけないのだ。
『……ちゃんと記録してる?』
 母さんが手を伸ばしてぺしぺしと使い魔のカラスの頭をたたいた。画像が大きく揺れる。
『どうも心配だなぁ。母さん、こういうの苦手なのよね。一緒に手紙を結わえてあるから、大丈夫だとは思うんだけど……』
 大丈夫だよ、と言いたいところだが、それを二日前の母さんに伝える術はない。
 ガレー船の上甲板に描かれた魔法陣の上に母さんの姿が浮かぶ。空に月はなく、星空だけが広がっている。使い魔が見た映像の再生は陽炎のようなもので、暗いところでなくてははっきりと見えない。
『それでね。良いニュースと、良くないニュースとがあるの』
 母さんが、料理に失敗して食材を駄目にした時しか見せない憂い顔になる。俺は母さんを慰めようと映像に手をさしのべてしまい、ぺしり、とゴル姉に手を叩かれる。
「幻影魔術に衝撃を与えては駄目ですわよ、ルー」
「お触り禁止」
「ボクなら触っていいよ、お兄ちゃん」
 ガレー船での騒動を知る由もない母さんは、こつん、と自分の頭を軽く小突いた。
『ごめん、母さんがこんな顔してる場合じゃないわね。良いニュース……と言えるかどうか分からないけど、モノちゃん家に、“巨人殺し(イッスンボウシ)” を持ち込んだ連中の正体が分かったわ。乱破(らっぱ)よ。それも、かなり裏で悪いことをしていた奴ら。暗殺や火付けなんかね』
 乱破(らっぱ)というのは雇われ忍者だ。忍者だからと言って非合法活動ばかりではないが、金で雇われる連中の中には、謀略を得意とする者がいる。“巨人 殺し(イッスンボウシ)”を餌に、巡回裁判所という公的な機関まで利用してサイクロプス族を追い込もうとしていた手際から、ただ者ではないと思っていた が、案の定だった。
『警備隊長さんが、誰がやったか知らないけど、その首領格を殺した犯人には礼を言いたいくらいだ、って』
 後ろでモノが大きく溜息をつく。
 もちろん、警備隊長も犯人が誰かは分かっているだろう。さらに、俺が気付いたくらいだからモノの一族がはめられそうになった裏の仕掛けも、あらかたは見抜いているはずだ。
 その上で、母さんや周囲にそのような言い方をしているということは、この問題をあまり大きく扱うつもりはない、という意思表示だ。
『でも、雇い主の方はやっぱり、諦めてなかったみたい。これが悪いニュースよ。あのね、落ち着いて聞いてね――第二種の動員令が出たの』
「動員令ですって?!」
「どーいんれーって何だっけ?」
「兵隊を集める命令のこと。バラスでは町内会や職業組合(ギルド)ごとに、人数割り当てが決まっている。第二種なら、かなり多い」
 良く分かっていないティオに、モノが解説している。三人とも、かなり動揺しているようだ。
 俺はというと、あまり動揺していなかった。サイクロプス族に選帝侯を巡回裁判所に提訴させるのは、手間と金がかかっていても、あくまで口実作りでしかな い。本音は、帝国南部に騒乱を引き起こすことであろうと考えていたし、ならば、モノがサイクロプス族への陰謀を防いだところで、背後にいる連中は他の手を 考えるだけだ。
『お父さんも、遊撃隊の隊長で召集されたわ。それで……え? ちょ、ちょっと待って! すぐに支度するから!』
 母さんが、横を向いて、隣の部屋にいる人間――親父――に言った。
『時間がないから、着替えながら話すわね』
 は?
 母さんの言葉が脳に染み渡る前に、母さんが上着のボタンを外しはじめた。
「ちょっ、あっ、母さんっ! 何やってるんだっ!」
「ルー、動揺しすぎですわ。上を脱いだだけでしょう」
「大事な話だからふざけない」
「着替えるって、どこか行くのかな?」
 ここは視線をそらすべきなのだろうが、俺の目は広がっていく肌面積に吸い寄せられて離れない。
『騒乱のきっかけは、巡回裁判所が襲われたことだったわ。場所はバラスの町の境界線ぎりぎりだったから、彼らの保護はバラスの責任なの。それで、リオン侯 爵がバラス領主を辞めて責任を取り、変わってラマンド選帝侯が新しい領主になったわ。あらかじめ筋書きを用意していたかのように、あっさりとね』
「やはり、裏があったようですわね」
「巡回裁判所を襲わせるのは、予定通りと見た」
「モノ姉、予定通りってどういうこと?」
「もしキュクロス家がラマンド選帝侯を告訴しても、その訴えは政治的影響を考えて却下された可能性が高い。そしてその結果に納得できないキュクロス家が、巡回裁判所を襲えば、悪いのはキュクロス家という大義名分ができる」
「そういうことですわ。キュクロス家を巻き込むことができなかったので、次善の策として巡回裁判所を襲わせて難癖つけたのでしょう」
「ということは、これで終わりじゃないんだね」
「そう。これからが本番」
 俺は黙ったまま考えていた。
 ゴル姉が言うように、母さんは裸になったわけではない。脱いだのは上着だけで、下着はつけたままだ。なのに、裸よりもいかがわしく見えるのはなぜだろ う、と。服を脱ぐ、という行為そのものがエロスを感じさせるのもあるだろうし、身体をひねったり腕を動かすことによって肌の見える場所が違ってくることも 関係あるのかもしれない。猫が転がるボールに興味を示すように、狩猟・採集型の動物は獲物の動きに敏感なのだ。
 獲物? いや待て。落ち着けルードヴィヒ。お前は今、何を考えていた。たとえ妄想とはいえ、愛する女性を獲物と考えるなど、どうかしている。
『バラスは帝国の領主を持つけど、自治都市よ。領主の交代には、手続きとして、民会の承認がいる。それまではたとえ選帝侯であっても勝手はできない決ま り。でも、ラマンド選帝侯はすぐに警備隊長の更迭や民会の解散を命令してきたわ。従わない場合には、兵を持って鎮圧する、ってね。もうみんな、プンプン よ』
 母さんは長櫃を引っ張り出した。使い魔のカラスの目には、床にしゃがみこんだ母さんの背中からお尻のラインが映っている。もうちょい、左に寄れば、後ろからの構図が――
「ルー。この映像は使い魔の目で見たもの。後ろに回り込んでも、下からのぞきこんでも別のものが見えたりはしない。何より、すごくみっともないからやめて」
「まったく、おばさま相手だと理性も思慮も吹っ飛ぶのは昔から変わりませんわね」
「お母さんが一番の強敵だよね」
『んしょっと。都市運営委員長のカゴメお婆ちゃんが、交渉引き延ばしの時間稼ぎと帝都への根回しを始めたんだけど、硬軟どっちも必要だろうって、第二種の動員令も出しているってわけ』
 母さんが長櫃の中から取りだしたのは、修道闘士(モンク)の道着だ。親父と結婚して正式には引退しているが、母さんは今でも素手でケルベロスを殴り倒せる強さを持つ。
『ん……しょっと。う、ちょっと太ったかな……いや、そんなことないよね。元々、身体を締め付ける道着だし』
 身体の要所を聖別された拘束具で締め、その間をベルトで繋ぐ。傍目には緊縛しているように見えるが、修道闘士(モンク)はこの道着の補助を受けて気脈と力の流れを作る。半歩の踏み込みだけで暴走する牛をも止める当て身が可能になるのだ。
 ……が、それにしてもちょーっと食い込みすぎな気が。
「おばさまの道着、いったいいつ頃のかしら」
「結婚前、ということはルーが産まれる前なので、十八年くらい?」
「ボク、前に聞いたことあるよ。お母さんが十五才で聖堂付き修道闘士(テンプルモンク)の資格を得た時に、教区管区の司教様がプレゼントしてくれたもので、すっごい高いんだって」
「十五才! それで太ももがあんなことに……」
『よし! お父さんと一緒に母さんも遊撃隊として出ることになったの。でも安心して。本格的な戦争にはならないはずよ。ラマンド侯は近在の領主にもバラス 懲罰の声をかけてるけど、どこも様子見しているわ。ラマンド侯単独ではお金も兵力もないから、山賊紛いの傭兵を送り込んで来るのが精一杯だろう、っていう のがお父さんと警備隊長さんの判断よ。だから、あなた達はこの戦いの決着がつくまでもうしばらく、海で待機してて。大丈夫、母さんは強いんだから!』
 えっへんと、腰に手を当てて母さんが胸を張る。
「「「「あ」」」」
 映像を見ていた四人の声が和声する(ハモる)。
 成長した身体を限界まで締め付けていたことで、何もしないでも気脈が帯の間をぐるぐる回っていたのだろう。母さんの腰に手を当てる最後の仕草が溜まりに溜まった力にひとつの方向性を与えた。
 ばちんっ。拘束具を結ぶベルトが一斉に弾けて飛んだ。上に羽織った布も、下に着た肌着も、その衝撃の犠牲となる。
『え? きゃっ……きゃーっ!』
 真っ赤になった母さんは肌を隠そうとするが、はっと気付いてこちらに――カラスの使い魔を掴む。次の瞬間、カラスの視点は町の上空。神殿の尖塔よりも上の場所にあった。
 そして映像が途切れた。夜の暗闇がガレー船の甲板を覆う。
 俺は黙って目を閉じた。今の一瞬の映像を、短期記憶から長期記憶へと保管しなくてはいけない。すべてはその後のことだ。

(つづく)