読書感想

『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』越智敏之 ヨーロッパの歴史における魚の役割についてまとめられた良書

2014年8月21日 歴史, 読書感想 No comments

ヨーロッパの歴史と魚の関わりを、
 人々が「どんな魚を食べていたのか?」
 その魚は「誰が、どこで取っていたのか?」
 そして、獲った魚は「どのように加工されて流通していたのか?」
 以上の3つの視点でまとめたものが主な内容になります。

 現代日本で、世界中を繋げた物流ネットワークと、冷蔵庫のある暮らしをしているとついつい忘れがちでありますが、人類200万年の歴史のほとんどで、我らがご先祖様は「歩いて1日」の距離にあるものを、ある時だけ食べておりました。
 それ以上の距離を大量に、そして日常的に運ぶのはあまり現実的でなく、また食べ物を長期間保存するのも、技術的に困難であったからです。

 じゃあ、その「歩いて1日」に食い物なかったらどーすんだ、飢えて死ぬのか、というと、その通りであります。それゆえ、飢えて死なないために人類は親戚筋である他のお猿さんと同様に、一カ所に留まらずに昨日はあっち、今日はここ、明日はそっちと、食べ物のある場所へ、ある場所へとフラフラしておったわけです。どのくらいフラフラしておったかというと、200万年前にはアフリカに住んでいたのが1万年くらい前には気が付いたら南アメリカの南端の方まで移動している者がいたりするくらい。私たちの故郷である日本にも、大勢がやって来て、狩猟採集をもっぱらの生活をしておりました。
 その頃から日本に住む人々はせっせと貝を掘って食っており、そのせいか今なお私らの味覚はやけに旨味成分に敏感というか、貪欲であります。

 やがて農耕の技術が発達して、ある程度の保存が利く穀物を生産できるようになると、うろうろするのをやめて定住する人間も増えてまいりました。肉も、狩猟以外に豚や鶏などを家畜として飼うことで食べることができるようになります。
 しかし、家畜は餌が不足する冬場には多くを屠殺して解体する必要がありました。その肉をせめて次の収穫が見込める春頃まで食いつなぐには保存方法も考えねばならず、塩漬けにしたり、干したり、燻製にしたりしたわけです。

 魚も、肉と同じく動物性タンパク質の供給源です。ですが肉と違い、家畜のように人が育てるのはごく一部の品種、そしてつい最近のこと。今なお、魚は海や川で獲ってくるものなのです。

 どんな魚が、どこにいるか?
 魚を食料源として考えた場合、これがまず大事になります。
 巨大な群れを作り、たくさん獲れる魚というのは、常に同じ場所に同じだけいるわけではありません。たいていは季節に応じて産卵して数を増やし、海を回遊してあちらへこちらへと移動しております。そして、しばしば、ふ、とその移動ルートが変更になります。

 北ヨーロッパでよく食べられた魚のひとつ、ニシン。
 ニシンの回遊ルートが移動したことがスカンジナビア半島での食料不足を招いてヴァイキングの移動を招いた原因のひとつかもしれない、などという意見があるほど、ニシンは当時のヨーロッパで重要な食料でした。
 北海やバルト海で大量に獲れたニシンですが、獲れただけではダメで、それを多くの人が食料源としてアテにするには保存がきかなくてはいけません。
 ニシンは不飽和脂肪酸が多く、すぐに酸素と結合して傷みやすいので、これを塩漬けにして保存する、というのは昔からあった手です。これを、より大規模に、より高品質にしたのが、ハンザ同盟諸都市でした。船を改良して樽を多く運べるようにし、岩塩を大量に輸入して品質の高い塩漬けニシンを作れるようにしたり、したわけです。
 後にこの手法を受け継いだのがオランダです。同じ時期のイングランドよりも高品質なのが売りであり、オランダの塩漬けニシンはイングランドの倍以上の値段で売れたという記録があります。
 イングランドは燻製ニシンの品質ではオランダに勝っていたようですが、大量に塩を輸入して安くあげる塩漬けニシンに比べると、燃料である木材を地元で消費する燻製ニシンは、やはり高価な上、大量に作ることができません。
 イングランドが海洋覇権を作り上げる前のオランダの強さのひとつは、塩漬けニシンの市場を独占していたことにあるようです。

 もう一つ、北ヨーロッパで食を支えた魚、タラ。
 タラは回遊魚のニシンほどには群れが増えたりしませんが、脂が少ないので、じっくり天日干しして棒ダラ(ストックフィッシュ)にすれば、塩漬けニシンよりもさらに長期間、最大で五年近く保存がききます。
 ここまでカチコチにしてしまうと、いざ食べようという時に、ぼこぼこに叩いてから水で一日以上戻して、ようやく調理、という手間もかかりますが、この保存性の良さは大航海時代の食料として、大いに役立ったようです。
 また、新大陸に渡った初期アメリカ移民の食を支えたのも、北米沿岸で獲れるタラでした。
 後には、カリブ海の島々で各国の砂糖のプランテーションが作られ、奴隷労働で砂糖ばかりを作る農園ができます。これらの島々は奴隷に食べさせる食料の自給ができませんから、北米植民地で作った干タラの格好の市場となります。
 今でこそ世界の超大国として君臨するアメリカですが、独立前は干タラが主要輸出品で、これと引き替えに砂糖や茶、その他諸々を輸入していたわけです。
 この時に英国本国が保護貿易として外国産の砂糖などに高い関税をかけたことへの不満も、アメリカ独立につながっているようで、干ダラといってもあだやおろそかにはできませぬ。独立後もマサチューセッツ州の州議会には、そのことを象徴するように『聖なるタラ』の像が飾られていたそうです。

 越智敏之先生の『魚で始まる世界史』はこうした面白エピソードが満載してあります。
 帯にある『ハンザとオランダの繁栄はニシンが築き、大航海時代の幕は塩ダラが開けた』にワクワク来る人には、オススメの一冊です。

宮澤伊織『ウは宇宙ヤバイのウ! セカイが滅ぶ5秒前』ライトノベル版『銀河ヒッチハイクガイド』的な、良質のユーモアSF

2014年1月10日 ライトノベル, 読書感想 No comments

 宮澤伊織さんの『ウは宇宙ヤバイのウ! セカイが滅ぶ5秒前』がたいへん面白いSFで、私のツボにはまりまくりましたので、ここにご紹介を。

 舞台は現代日本(少なくとも最初はそんな感じだった)。主人公はごく平凡な高校生(少なくとも最初はそんな感じだったし、読み終わってもそんな感じ)。
 そこに、隕石は落ちてくるわ、暗殺者は襲ってくるわ、列強種族(列強種族!列強種族ですよ!この言葉の響きのかぐわしさ!)が地球に迫るわで、次から次へとトラブルが押し寄せるのを、元敏腕エージェントで世界線混淆機なる超絶ガジェットで世界がぐっちゃんぐっちゃんに入り混じってしまった結果、記憶を失って普通の男子高校生になってしまったという、寺沢武一さんの『コブラ』っぽい主人公君がなんとかしちゃうというお話であります。

 『銀河ヒッチハイクガイド』的とタイトルに書きましたが、ところどころに出てくるライブラリのうさんくさい記述が、まったくもって、ヒッチハイクガイドっぽいです。要約して説明しろと機械に命じると、機械が悲しそうにするところとか!

 ライトノベルのユーモアSFですと、山本弘さんの『ギャラクシー・トリッパー美葉』に近いと言えるかもしれません。

 漫画のユーモアSFですと、長谷川裕一さんの『わかりすぎた結末 あるいは失笑した宇宙 もしくはキャプテン・オーマイガーの華麗なる挑戦』的な感じでもあります。あと、不遇なタイムパトロールが出てくるあたりは、横山えいじさんの『マンスリープラネット』っぽいです。

 本作品のポイントはやはり、状況が悪くなると、世界をぐっちゃぐちゃにして何とかしてしまう世界線混淆機の大活躍と、それによって、どんどん世界が変革されていくスットコドッコイな展開、さらにそれが、「学校の授業の内容」という形で半ページでさらりと要約される手際の良さでありましょう。

 主人公も、周囲のキャラクターも、みな、愉快で気のいい連中で、安心して読むことが出来ます。

 売れ行きがよければ、2巻以後もあるみたいですので、ここは興味を持たれた方はぜひ! ぜひ! 私が続きを読みたいので! 脳の因果地平が広がるとか、生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答えが手に入るとか、そういうことはありませんが、にやにや笑いながらページをめくる楽しさに満ちた、たいへん良質のユーモアSFであることは、保証いたします。

谷口克広『信長の政略』 現実的な合理主義者としての信長像

2013年10月1日 歴史, 読書感想 No comments

 織田信長という人物への評価は、なかなかに難しい。
 歴史上の人物というのは、だいたいそういうもの、と言えるが。
 いや、歴史上でないにしても、人間というものはだいたい評価が難しい。
 私の評価はどうだろう? あなたの評価はどうだろう?
 仕事の評価。人間性の評価。相手によって、見方によって、私の評価も、あなたの評価も、ずいぶんと違うのではないだろうか。

 織田信長もまた、革命家だとか、いやそんなことはないとか。尊皇だとか、朝廷とは敵対していたとか。仏教に厳しいとか、そうでもないとか。とかく、あれこれ評価が分かれている。それだけ、多くの研究家が、さまざまな切り口で信長像を見てきたせいであろう。

 ひとりの人間を、多面的に見れば、「人間だからいろいろある」となってしまうのはこれはいたしかたない。

 本書『信長の政略』は、江戸時代から現代に至る多くの信長への研究を参考にしつつ、筆者の谷口克広氏なりの信長像というものを描いている。たいへん誠実で、分かりやすい良書である。ツイッターでこの本を紹介していただいた、お菓子っ子さん( @sweets_street )に感謝したい。

 この本を読みながら、私の中では現実的な合理主義者、という信長像が浮かんできた。
 信長としては、なんといっても、現実的にならざるを得ない事情がある。
 19才で父から家督を継いだとはいっても、信長は四面楚歌の状況であった。
 まず、家督そのものを自分が継ぐか弟が継ぐかで一族や家臣が争っている。
 さらに、その家督といっても、織田弾正忠家というのは、織田家の中でも傍流である。
 父親の信秀がぶいぶい言わせていたといっても、その根拠になる家柄はたいしたことがないのだ。

 かように。尾張半国にしたところで、誰が支配するのが正しいかとか、その理由はとか考えると、曖昧模糊としていて、よくわからない。戦国時代が実力主義だとか言われても、その実力ってナニよ? 誰かが、別の誰かと実力が違うって、それ、どんな客観的な根拠があるのよ? ってなもんである。
 世の中というのは虚と実が混じり合っていて、ややこしい。

 そんな中、信長は現実に対して合理的に対処する術を身につけていった。
 合理的というのは、言い方を変えると。

・自分には、出来ることと、出来ないことがある
・出来ることの中にも、かけたコストへのリターンが見合うものと、見合わないものがある。

 こういうことではないかと思う。
 家督相続から十年。一族やらご近所やらと狭い尾張の中で戦い抜くうちに、信長の合理主義者としてのセンスは鋭く磨かれていった。
 そのひとつが、速度重視である。
 野戦を重視した機動的な戦い方は、若い頃から信長に共通している。

 その総仕上げが、桶狭間の戦いである。
 ぎりぎりまで、決戦戦力を動かさず、動かさないことによって、敵に情報を与えない。
 そして、いざ動くと決めた時には、ひたすら駆け抜ける。一日二日なら兵站にも負担がかからないから、強行軍などの無理もきく。そして、メールも携帯電話もない時代には、移動を続ける軍勢に関する十分な情報を、敵が手にすることはできない。どんな情報も、それを伝えるまでのタイムラグのせいで古くなるからだ。

 桶狭間で今川義元を討ち、尾張を、そして美濃を手に入れて十分な実力を身につけた信長は、その後は天下人への道を進む。
 天下人としての信長の行動原理は、やはり現実に対して合理的であった。
 もちろん、うまくいかなかったこともある。信長が前提とした「現実」が、情報の不足や信長の願望、予断によって曲げられていた場合は特に。
 信長なりに「現実はこうだ」と思っていても、実際には違っていれば「合理的な判断」とやらも、間違うことになる。

 しかし、おおむね信長の現実への見方は正しかった。
 信長が、中世的な因習やら制度やらをどのくらい好いていたか、嫌っていたかは分からない。しかし彼は、そういうものがある、ということについては現実的に判断した。
 自分が利益を得るために、それらを排除しようとすれば、当然、大きな抵抗がある。
 ここで信長は考える。
「そのコストは、かけるに足りるか? 否か?」
 結論は、だいたいにおいて、否、だった。
 だから信長は、自分に敵対するのでない限り、中世的な制度に手をつけることをしなかった。自分に必要でなければ、無視をして距離を取った。
 経済発展のために、座や荘園をどこでもかしこでも撤廃するのは、コストばかりかかってリターンのないことだった。だから、信長は悪影響がない限り、放置した。そのかわり、交通の便を良くする道路の普請には熱心だった。これはかけたコストに見合う投資だった。
 寺社にしても、敵対すれば戦うが、その必要がなければ放置した。
 世論に対して気を配り、悪評を気にしたのも、評判が悪くなることで生じる不利益を放置することが、合理主義者の彼には我慢ならなかったからだ。
 籠城を嫌い、すぐに決着がつく野戦を好んだのも、そのために敵よりも多くの兵力を集めることに腐心したのも、合理主義ゆえである。一か八かの賭けは、その必要があればためらわないが、必要がなければ避ける。合理主義者だから。

 そうして考えると、信長が短気で気むずかしい人間であったのもよくわかる。
 現実を直視する人間は、そこに自分の価値観とは相容れないもの、気に入らないものを山のように見てしまう。善意や悪意で現実をほしいままにねじ曲げる方が、気に入らないものは見ないですむのだ。
 しかし、若い頃に一族や家臣ですら敵に回す経験をしてきた信長には、そのように現実をねじ曲げることは望んでもできなかったに違いない。結果、彼はできるだけ現実を、不愉快であっても、自分に可能な限り直視し続けた。だんだんと気むずかしくなるのも分かろうというものである。自分の権力が増すに従って、周囲に当たり散らすことや無駄にプレッシャーをかけることも増えたに違いない。
 粛正もしたし、その反動で謀反も増えたが、信長の力は日ノ本に比類なきものになる。

「いろいろ反感も買ったが、このままいけば、天下はオレのもの」

 天正10年6月。本能寺にて。
 現実主義者で、合理主義者の信長はそんな風に現状を分析していたのではないかと思う。
 それが突然の、光秀謀反である。やはり、信長も人間である。自分で「これが現実だ」と思っていたものに、バイアスがかかっていたのだろう。

「こいつは、しょうがねえ(是非もなし)」

 自分が勘違いしていた「現実」を即座に修正した信長は、合理主義者らしく、そう言って炎の中に消えたのである。