関ヶ原の前後から、大阪城が落城するまでの流れを、家康と大阪方がどのように行動したかを中心にまとめられた本である。
関ヶ原の戦い(1600年)から方広寺鐘銘事件(1614年)まで、家康が関ヶ原の戦いの後も、豊臣家にかなり配慮しつつも、権威と権力は徳川家に集中させ、それが豊臣家を追い込んでいく様子が書かれている。
その間、14年である。
7才だった秀頼は、21才に。
57才だった家康は、71才に。
それぞれ、その14年間をどのような気持ちで過ごしたのだろうか。
後世においては、老練な狸親父として描かれることも多い家康だが、その人生はむしろ、ままならぬ時勢に押し流されているように思う。
桶狭間で今川義元が敗死する前と、その後で独立した時。
本能寺で織田信長が殺されて秀吉が権力を簒奪する前と、その後で臣従した時。
その秀吉が北条をも征伐して日本を統一して死ぬ前と、死後に関ヶ原で勝利した時。
家康の中にあった思いはなんだろうか。
後の時代に生きる我々は、家康の作った江戸の幕府と、徳川の平和(パックストクガワ)が270年の長きにわたったことを知っている。
しかし、家康の立場になってみればどうだろう?
とても安心できたものではない――
家康としてみれば、そんな気持ちではなかったろうか。
義元が死ぬまで、自分は今川家が滅びるなどと。自分も手を汚して滅ぼしてしまうなどと考えていただろうか?
信長が死ぬまで、自分は織田政権があんなに脆いと。秀吉があんなにあっさりと主家を支配するようになると考えていただろうか?
秀吉が死ぬまで、自分が彼の死後に征夷大将軍となって幕府を作り出すなどと。武家の頂点に立つことになると考えていただろうか?
そして同じことは。
自分が死んだ後にも、言えるのではないかと。
今、日本中の大名は、徳川家に、否、家康に従っている。戦国の世を信長、秀吉の下で生き抜き、勝ち抜いてきた自分に逆らおうなどと考えているものはおるまい。
だが、人というのは、状況が変われば、中身も変わるのだ。自分が死ねば。そして自分の死をきっかけに争乱が起きてしまえば。二代目、三代目に何か不幸な事件が連発したり、暗愚な政治がちょろっと続いたりすれば。徳川の覇権など、一発で吹っ飛ぶ。
権力や武力の強さは、安定を意味しない。
家康は、そのことが自らの体験で分かっていたのだと思う。
秀頼の持つ豊臣家の看板と大阪という土地は、自分の死後の争乱の、火種になりえた。
秀頼にその気があるかどうかは関係ない――わけではないが、重要ではない。
誰も野心を抱かなくとも、たとえば飢饉のようなものが日本を襲ったらどうなるだろう。
この時代、大阪は全国の米や物資が集まる物流の拠点だ。そこを、徳川家ではなく、豊臣家が抑えているというのは、平時であればともかく、飢饉などの緊急 事態では混乱と軋轢を呼びかねない。バランスが崩れ、やむにやまれぬ理由であっても兵が動くようなことになれば。流動性が生まれてしまえば。
何がどんな風に転んだとしても、おかしくないのだ。
しかし、家康の持つ危機感を。同時代のどれだけの人間が共有できたろう?
少なくとも、7才から21才という物心ついてからの人生を、徳川の覇権の下で過ごしてきた豊臣の貴公子には、理解できなかったはずだ。
家康は1615年に豊臣家を滅ぼし、翌年の1616年に死ぬ。
彼の後を継いだ人々の不断の努力と――最近では、生類憐れみの令などで不人気な綱吉も、徳川の平和を維持し続けた功労者だという見方が広がっている―― 多くの幸運に支えられて江戸時代の平和は続く。同時に社会の停滞もひどくなるが、なんだかんだで明治維新を迎えるまで、日本の社会を安定させて次につなげ た功績は大きい。
だが、それはあくまで後の時代を生きる人間の判断である。
家康にしてみれば、大阪城を落としたのは「色々あって、他の手もあったんだろうけど、結局はそうするしかなくなった」ということではないかと、本書を読んで思ったのである。