焼玉エンジンというものがある。
 今も、いくつか実物が残っていて、ポンポンポンポンポンポンとどこかユーモラスなリズムを立ててピストンを動かす光景がyou tubeなどで見られる。
 ディーゼルエンジンなどの“普通”のエンジンに比べて、パワーは弱く効率も悪いが、単純な構造で作りやすく、素人でも簡単な訓練で確実に扱える内燃機関である。

 戦前の日本では、これが広く使われていた。
 焼玉エンジンは、当時の日本産業の身の丈にあっていたからだ。工作機械の精度が悪く、部品などの標準化ができない戦前の日本の工業界では、精緻な部品を使用する機械は、熟練工が手作業で仕上げて初めて完成する。整備もまた同様だ。工業技術が足りないところを、人の技能で補っていたのが、戦前の日本である。

 だから、焼玉エンジンのように無理をしていない“先端技術”が普及した。
 その場所のひとつが、瀬戸内海航路である。

 江戸時代、瀬戸内海は日本の物流の大動脈だった。大阪には、江戸から蝦夷から九州から四国から物が集まり、また運び出された。水運が、それを担った。
 幕末になり、日本が開国すると、外国からの大型船も瀬戸内海にやってきた。
 しかし、大阪湾は遠浅で、しかも川から大量の土砂が流れ出す。大型船が積み卸しを行う港を作るには、不向きだった。
 そこで外国航路の大型船は、神戸に向かった。ここならば、土砂の流入がなく、大型船用の港を作ることができたからだ。その後も神戸港は順調に発達を続け、アジアを代表する国際貿易港のひとつとなっている。

 一方で小型船が中心の国内航路は、浅い港でもそれなりに運航が可能だった。
 明治になってから、国内航路で運ぶ重量物のひとつに石炭が入ってくる。大阪にこの石炭を運んでいたのは、最初は帆船だった。帆船ならば遠浅の港に入ることができ、そこから艀に積み替えて堀川を利用して直接、石炭を届けることもできた。
 その後、曳船がしだいに数を増す。これは小型汽船(150トンクラス)が170トン~200トンの石炭を搭載した運搬船を数隻曳航するものである。途中の港で切り離す形で、一度に複数の目標に荷物を届けることができる。海の列車のような輸送方法である。

 そんな中に入ってきたのが、焼玉エンジンを使うポンポン船、機帆船である。
 焼玉エンジンは単純な構造のため小型のエンジンを作って、小型の船に載せることができた。
 焼玉エンジンは漁業では小さな漁船での遠洋漁業を可能にし、海運においては、島や沿岸に住む父ちゃん叔父ちゃんが家財として購入して自分で運航する「一杯船主」を生み出した。現代で言うところの個人事業主のトラック運送業のようなものである。そしてもちろん、昭和も高度成長時代にならねばトラックのような“高度技術”は高値の花だったのだ。

 技術面だけでなく、インフラ面でも焼玉エンジンを使う小型の機帆船は日本の身の丈にあっていた。
 戦後の昭和28年(1953年)時点ですら、瀬戸内海航路に汽船が横付けして岸壁荷役できる港は28港しかなかった。残りの1191の港に入って荷役が可能だったのは、機帆船なのである。立派な大型船を造ってもそれが入ることが可能な港がないのでは、宝の持ち腐れだ。

 少し高台にある私の家からは、広島湾の西側が望める。厳島との間の水道を、日々ひっきりなしに船が往来する。瀬戸内海は今も昔も交通の大動脈だ。今はほとんどがディーゼル船である。
 かつてはここを機帆船が行き交っていた。今の目では、レトロなエンジンで動く、ポンポン船。だが、それは戦前から戦後の日本にとって、誇りになり、頼りになる“先端技術”だったのである。