火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作ります。
戦国時代の日本では、木から作る木炭も、火山で採れる硫黄もありましたが、硝石はありませんでした。
硝酸カリウムを主成分とする硝石は、中国やインドから戦国時代の日本に輸入されました。しかし、日本中が戦乱の時代のこと。最大火力である鉄砲の運用を輸入硝石だけに頼るのはいかにも心もとないものです。
そこで、量には限りがありますが、人馬の糞尿の混ざった土から硝石が作られたのです。
『戦国火薬考』(桐野作人/歴史群像67号)によると、本願寺の文書に人造硝石についての記述があり、もっとも古いものでは、毛利元就(1571年没) 書状で触れられていることから、火縄銃伝来(1543年?)とそれほど時を置かずして、人造硝石の技術も伝来していたようです。
糞尿の混じった土から硝石=硝酸カリウムが作られる過程で重要なのが、バクテリアです。硝化バクテリアは窒素を含む有機物(アンモニアなど)を分 解し、そのときに発生する酸化エネルギーを利用します。そうやって分解された有機物が硝酸塩で、これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムとなりま す。この硝酸カルシウムを灰汁(炭酸カリウム)を使って煮て、両者のカルシウムとカリウムを交換して、硝酸カリウムを含む水溶液を作ります。こいつを海水 から塩をつくるように煮詰めて濃縮し、結晶化させて硝石を作り出すわけです。
『ドリフターズ』(平野耕太)の2巻でノブこと織田信長がやっているのも、これと同じやり方です。
戦国時代が終わり、日本が平和になってからも、硝石の需要はゼロにはなりません。『鉄砲を手放さなかった百姓たち』(武井弘一)にもあるように、獣害を防ぐため農民は農具として鉄砲を保有し続けましたし、各地を治める大名も、演習その他で黒色火薬を消費したのです。
富山県五箇山は、江戸時代における日本国内の硝石生産拠点のひとつです。山奥に孤立した集落で、谷川沿いに世界遺産ともなった合掌造りの集落が並んでいます。
雨の中、鷹見一幸さんと五箇山を訪れた私が最初に思い出したのが「ひぐらしのなく頃に」のオヤシロコロニー、雛見沢でありました。そういえばあのモデルになった白川郷も、合掌造りの建物の床土から、焔硝(硝石)反応がある、硝石生産拠点でありました。
五箇山や白川郷でどのように硝石が作られていたかというと、基本は馬屋や厠の古い土から硝石を作る方法と同じで、硝化バクテリアの働きによりアン モニアから亜硝酸が作られるわけです。この硝酸態窒素は、植物の葉っぱにも蓄えられることがあり、五箇山では、囲炉裏近くの床下に1.8~2.1mほどの 深い穴を掘り、そこに硝酸イオンが葉に多いシソやツユクサらの葉っぱを、蚕(生糸生産も、重要な産業でした)の糞と一緒に混ぜ、上には通気性の良いほろほ ろと崩れる土(硝化バクテリアは、好気性細菌)をかぶせます。
後は年に何回か土を掘り出してかき回し、五年くらい経過してからは上の方の土に硝酸カルシウムの結晶が多く含まれるようになります。
屋内で作る理由は、硝酸が水に溶けて流れないように。囲炉裏のそばに穴を掘るのは、寒い冬場でも硝化バクテリアが活動できるように。
……なのですが。
さて、ここから先は、私の妄想です。
──なぜ、五箇山で硝石を作ったのでしょう?
五箇山の案内では、幕府の目が届かない秘境だから、と説明されています。
しかし、本当にそれだけにしては、五箇山は秘境に過ぎます。まるで幕府どころか、同じ加賀藩内部にすら、ここで作っている硝石についての情報が漏れないよう、気をつけているかのよう。
しかも、それだけの秘だというのに。
作られた硝石は、意外なほどまっとうに「塩」として、金沢の町にまで出荷されています。箱を牛の背にのせて、五箇山の住人が山奥から届けに来ています。まるで、塩硝(硝石)であること自体は、バレてしまってもかまわない、という風に。
五箇山の硝石造りで、本当に秘すべきことは、もしかしたら硝石を作っているということではなく、その造り方だったのかも知れません。そしてそれは、後に書物としてまとめられた、観光案内に記されている造り方ではなく。
「なんまんだぶ、なんまんだぶー」
「来年も、ようけ塩硝が採れそうだわ」
「骨の太いお侍さんだったからの」
「お、これは去年の……親子連れだったか」
「子供の方は、きれいにおらんなっとる」
「ありがたや、ありがたや。なんまんだぶ、なんまんだぶ」
みたいな意味で、秘すべきことであったとしたら。
それはまさに、村の外に知られてはならぬ禁忌ではなかったかと。
雨にけぶる合掌造りの家々をながめつつ、あれこれと妄想を楽しんだのであります。