歴史

『帝国の「辺境」にて 西アフリカの第1次世界大戦 1914~16』こんぱすろーず かえりみられることの少ないWW1の西アフリカ戦線をまとめた労作

2012年9月6日 雑記 No comments , , , , , , , ,

 今年(2012年)の夏コミで頒布された同人誌。
 ツイッター経由で内容を聞き、通信販売でお願いして取り寄せ。
 内容は、日本語の資料がきわめて乏しいWW1の西アフリカ戦線を、英仏の公刊戦史をはじめとする、豊富な参考資料を背景に、西アフリカ植民地の成り立ちからその経済、そして本国との関係まで踏まえてまとめられた、貴重な一冊である。

 第一次世界大戦が始まる前、西アフリカには列強の植民地がパッチワークに存在しており、その中にはドイツのトーゴランドと、カメルーンとがあった。
 あるにはあったが、いざ世界大戦ともなると、この地域はいささか以上に、ドイツにとっては手に余る土地であった。
 何しろ、敵にしたのがアフリカの他の土地を広く領しているイギリスとフランスである。また、イギリス海軍が相手では、ドイツ本国とこれら植民地との間は切り離されたも同然、孤立した籠城状態。
 第一次世界大戦以前の列強同士の戦争の習いで行けば、戦後の外交交渉の取引材料として、英仏に占領される危険があったし、それを防ぐのは困難であろうと思われた。

 一方の英仏にしても、ドイツの西アフリカ植民地は手を出すには難しい土地であった。この地は、農業生産力はそこそこあり、それゆえにアブラヤシや カカオという商業作物の農園が広がっていた。意外ではあるが、ドイツが主に列強グループの面子として西アフリカに地歩を築いたことで、この地域には国家の 統制が及ばぬ自由市場的な発展があり、このままゆっくりと時代が流れ、資本の蓄積と都市化に伴いアフリカ人中産階級が発達すれば、いずれは西アフリカ経済 が工業化へ離陸し、ひとりだちができる可能性もあった。
 しかしそれはあくまで未来の話。WW1開戦時の西アフリカは、社会のインフラがお粗末な上、ツェツェバエのような寄生虫のせいで馬や驢馬を用いた当時の 軍事行動を支える兵站の維持がはなはだしく困難だったのである。列強がヨーロッパ戦線でみせた大軍を運用するなどもっての他であり、そしてそれゆえに、要 所に配置された少数の機関銃陣地に支援された防衛線は、弾薬の続く限り難攻不落であった。

 また、ドイツも英仏も共に、第一次世界大戦がまさか国家の総力を投入した4年にもおよぶ長期の戦いになるとは、思ってもいなかった。そのことによ る、戦略的な錯誤は主戦線である欧州戦線でもさまざまなドタバタを生んだが、これが辺境の植民地では、さらなる悲喜劇となって現れた。

 ドイツが国家の威信と技術力を結集して築いた巨大なカミナ無線ステーションをめぐるトーゴランドの戦いは、カミナ無線ステーションを中継した大西洋通商破壊戦を危惧した英国海軍と、現地の野心あふれる前線指揮官の暴走に引きずられる形で比較的短期決戦となった。

 英領ナイジェリアと、フランス領赤道アフリカ、ベルギー領コンゴなどに挟まれた形のドイツ領カメルーンは、熱帯雨林のジャングルと貧弱なインフラ こそが最大の敵となって長期戦になり、最後には後詰めのない籠城戦につきものの防衛側ドイツ軍のちょっとしたミスが戦線の崩壊を生み、決着がつく。

 本書は、このふたつの植民地での戦いを軸に、小さな戦いでの部隊の戦術的機動や、ポーターを用いた兵站線の苦労などのエピソード、本国と植民地の意見の相違などを、豊富な参考資料を元にまとめられている。
 まことに読み応えがあり、知的興奮を覚える一冊であった。
 この本の著者であるこんぱすろーずさんに、感謝し、ここに紹介したい。

関ヶ原古戦場 見学メモ

2012年8月1日 見学メモ No comments , , , , , , , ,

 今から35年以上前。生まれて初めて関ヶ原を新幹線で通過してから、数百回、関ヶ原の上を通り抜けているが、思えばすべて新幹線か飛行機で、高速道路すら1回もなかった。

 つまりどういうことかというと、「関ヶ原を結んで東西の高低差って、こんなにあったんだ」ということを、今回初めて、国道とJR普通線で認識したのである。新幹線で通ったのでは、高低差はよくわからない。
 鉄道ファン(一緒に見て回った鷹見一幸さんと椎出啓さんはどちらも鉄道ファン)的には常識であったらしいのだが関ヶ原の戦いでは必ず出てくる大垣は、鉄 道が敷設されてからというもの、長らく関ヶ原越えのための機関車を増設するための重要な駅があり、西の傾斜を登るために、わざわざ迂回の鉄道線まであった そうである。
 大垣から関ヶ原にかけては登り斜面がずーっと続いているのである。
 実際に地面に近いところを移動しないと、知識ではあっても、気付かないことはたくさんある。

 今から400年前の1600年の秋。
 この場所で、後に「天下分け目の戦い」と呼ばれる日本史に名高い決戦が行われた。
 中学生の教科書にすら、その名を記される関ヶ原の戦いである。
 だが、教科書では今ひとつ分からないことがある。

「東軍、西軍の大名たちは、なんでドンパチやったんだろう?」

 秀吉死後の政治の主導権争いとか、朝鮮の役での恨みとか、いろいろ言われてはいるが、おそらくもうちょっとシンプルで、いい加減な理由だったのではないかと思う。

 いい加減な理由だったから、たまたま「日本の西側にいて、三成らが挙兵した時に大阪で足止めされちゃったから西軍」とか「日本の東側にいて、徳川と一緒に、上杉討伐に向かっていたから東軍」となり。

 シンプルな理由だったから、東軍も西軍も「いや、ここは武力ではなく話し合いでなんとかしようよ」とはならなかったのではないかと。

 そうして考えると、やはり最大のポイントは朝鮮の役の失敗だと思われる。
 秀吉が企画して朝鮮半島に遠征を行い、明国とも華々しく戦って日本の武威を見せつけはしたが、結局は壮大な金と人命の浪費となった朝鮮の役。
 この戦いで多大な損失を被った日本全国の大名たちは、秀吉の死と共に、戦国時代が延長戦に入ったと考えたのだ。

 上杉景勝は特にその意識が強く、かつてと同じやり方で、各大名がそれぞれの地域ごとに戦争を繰り広げて領地を奪うべく、地元へと戻った。

 しかし、豊臣政権の中枢にいた家康や三成(そして毛利輝元も)は、戦国時代の延長戦になったとしても、それは戦国大名が群雄割拠する初期からのや り直しを意味するのではなく、本能寺の後の、秀吉が日本を統一したやり方でこの延長戦を終わらせるべきだし、そうするつもりだった。

 秀吉の日本統一とは、つまるところ、政権与党である大名が徒党を組んで、反抗する地方大名をボコボコにタコ殴りにして領土を分割する収奪方式である。

 家康はまず、前田家を相手にこのやり方を試してみたが、前田が完全な恭順をみせたのでうまくいかなかった。
 そこで狙いをつけたのが、かつての後北条よろしく地方で独立を試みる上杉である。
 今度は上杉の側もやる気満々であるから、うまくいった。家康は、豊臣政権の名の下に、全国の大名を動員して上杉討伐へと向かう。

 家康が、しゃかりきになったのには理由がある。関東に250万石という大領を持つ家康は、自分が政権与党にならなければ、石田三成らによって、領 土を分割される危険があった。今は大丈夫でも、自分の死後が危ない。そしてこの当時の家康はすでに57才で当時としては老人である。彼がこのあと16年も 生きるというのは、後の歴史を知っていればこそである。彼も、彼の周囲も「そんなに先はない」くらいの心づもりであったはずだ。

 自分が死ぬまでに、豊臣政権を安定させて、自分の死後の徳川家を安泰にするため、家康はなりふりかまわず、上杉への討伐を押し進めた。
 この時点では、東軍であろうが西軍であろうが、上杉討伐でちょっとでも論功行賞に預かるべく、戦意を高めていただけであるはずだ。

 だが、ここで隠居させられていた石田三成や、毛利家の周辺に、欲がでる。

「東へ東へと軍や大名が移動して、大阪、京都から徳川の与党が消えた今なら、クーデター起こして自分らが政権与党になれるんじゃないの?」

 そう。あくまで、武力クーデター。ボードゲーム『フンタ』のノリである。
 朝廷や、秀頼らの政治的な『玉』を掌中におさめて、豊臣政権の与党の地位を手に入れる。
 味方になる大名への褒美は、与党側につけるというエサだ。うまくいけば、家康を隠居させて、徳川の領土を大幅に縮小し、その空いた土地を与党勢力に分配して、政権を強固なものにする。

 もちろん、家康がクーデター側に唯々諾々と従うとは考えにくい。ドンパチも想定に入れた上で、計画を進めなくてはいけない。
 首都圏である京都や大阪を戦場にはできないから、できるだけ東に防衛線を広げる。
 そのため、京都の伏見城に残った鳥居元忠率いる首都防衛師団を排除し、徳川与党勢力の留守部隊や家族を確保。しかる後に、北陸~岐阜~伊勢という防衛ラインを構築する。

 後は時間の問題である。
 時間が経過すればするほど、『玉』を実効支配しているクーデター側が有利になる。
 家康を戦場で負かすなどという、リスクの高い作戦を行なう必要はない。東西内戦ではなく、これはクーデターなのである。

 しかし、このクーデターは、東軍側の諸将、特に豊臣恩顧とされる中堅大名たちに激烈な反応を引き起こす。
 福島正則ら、秀吉子飼いの大名たちは、元が外様である家康などより、よほど豊臣政権与党としての自覚が強い。
 その自分たちが、こともあろうにクーデターで政権から排除されて野党勢力に追いやられようとしているのだ。それは自分たちの人生すべてを否定されるに等しい。

 それゆえ、小山評定をはじめとする、東軍側の豊臣恩顧大名の戦意の高さは、家康よりも上であった。彼らはクーデター軍との全面戦争を望み、腰の定まらない家康を引きずるようにして東海道をばく進する。
 彼らの脳裏にあったのは、本能寺の後の、中国大返しだろう。明智光秀のクーデター軍を打ち破り、秀吉に栄光をもたらしたあの戦いを、今度は、自分たちの手で行なうのだ。

 そしてまさに。
「ゆっくり時間をかけて勝利すればいいや」
 と考えていたクーデター軍は。
「んな時間与えるかよ、おらおら」
 と迫り来るカウンター・クーデター軍に押し切られるようにして、岐阜を落とされる。

 クーデター軍は、自分が先手を取って有利な状況を作ったがゆえに、そこに安住しようとしてしまい。
 カウンター・クーデター軍は、このままの状況では、負けるのでそれこそゲーム盤をひっくり返すつもりで進撃したのである。

 このあたりで、実はもう、クーデター側はかなり不利になっている。石田三成や毛利・宇喜多らの一部をのぞけば、クーデター側に参加した諸将は、そ れほど理由があってクーデター軍についているわけではない。巻き込まれた上に、政権与党の座につけるから、従っているだけである。東軍の連中と国をまっぷ たつに割った大戦争をしてまで、何がなんでも勝利する気概や覚悟を持っているわけではないのだ。

 ましてや、ここで西軍が負ければ一蓮托生になってしまう。小早川秀秋などは元より家康与党勢力の側であったし、こうなっては何としても東軍側に合流したいところである。

 石田三成は大谷吉継と作戦を練り直し、大垣城を第1防衛ライン、関ヶ原を第2防衛ラインとする守勢の策を立てる。大谷吉継は、第2防衛ラインであ る関ヶ原周辺の要塞化を監督し、松尾山に防衛拠点としての城を建設する。ここに毛利本隊を進出させ、とにかく京~大阪に東軍を進出させない構えだ。
 石田三成自身は、大垣城に進出し、ここと南宮山の部隊とを組み合わせて、第1防衛ラインを維する。

 そして、9月14日。
 家康が大垣城前面の赤坂に進出したその同じ時、小早川秀秋が関ヶ原の松尾山城の留守部隊を追い払って、ここに陣取ってしまう。
 
 小早川秀秋が、最初から「東軍側に逃げ込む」つもりであったとするなら、このタイミングは完璧である。
 そして、西軍側にとっては最悪の展開であった。
 この時点で、第2防衛ラインは消滅し、第1防衛ラインは前後の敵に挟まれて退路を断たれたのである。

 しかし、数日を経ずして壊滅間違いなしであったこの死地を、西軍は見事な夜間行軍によって回避する。
 大垣城を夜に抜けでるや、伊勢街道を通って関ヶ原に転進。

 一方の家康も、西軍が動いたことと、小早川秀秋が東軍側として松尾山を制圧したと知り、大あわてで関ヶ原へ向かう。

 ふたつの軍の夜間行軍は、タッチの差で西軍側が先に関ヶ原へ布陣を果たす。

 なお、大垣側に向いて展開していた南宮山の部隊は事態の急変についていけてなかった。転進しようにも山を下りた先の垂井を東軍部隊に押さえられ、 戦うことも逃げることもできぬまま、遊軍となったのである。もしかしたら、素早く抜け出て後退することも可能だったかもしれないが、すでに徳川に内応した 吉川広家がわざと事態を静観した可能性もある。吉川の裏切りは、当日ではなく、前夜に行われたのだ。

 翌、9月15日。
 いきなり最終防衛線で戦うことになった西軍は、数で勝る東軍を相手に、地の利を活かしてよく戦った。関ヶ原は西に進めば進むほど狭くなっていて数の優位を活かせない。
 東軍側は数で勝りながら、一進一退を続ける。

 松尾山の小早川秀秋は、見通しの良い山頂からじっと自分が出撃するタイミングを計っていた。松尾山からの出撃口では、大谷吉継が通せんぼしており、これまた、地形から数の優位が活かせない。
 ここを迅速に突破するには、数で劣る西軍の予備戦力が時間経過と共に減少し、小早川軍の動きに対応できなくなる、その時を狙うしかない。朝鮮の役で活躍した小早川秀秋には、そのタイミングを見計らう能力があった。

 南宮山の毛利や長宗我部の部隊は、関ヶ原が山の反対側ということもあって、状況がよくわからないまま、何もできずにいた。垂井にいる東軍後衛部隊 と正面からぶつかればこれを撃破することは数の差から可能であったが、そこで東軍本隊が関ヶ原から戻ってきては袋だたきである。家康と内応していた吉川広 家は、毛利諸将を「ここは俺に任せて。何もしないのが一番」と説得し、実際、できることもあまりないので毛利隊はそれを受け入れてこの日を過ごす。

 そして、西軍の予備戦力が枯渇した午後。
 ついに小早川秀秋が動き出す。大谷吉継は必死に防戦につとめるが、ここで赤座、脇坂らが東軍側に内応。
 小早川秀秋と戦っていた大谷吉継隊は無防備な側面から痛撃を受けて敗走。
 片翼が潰れてしまえば、後は早い。立て直すだけの戦力もない。西軍は右翼からずるずると崩れて全面潰走。天下分け目の戦いは、ここに一日で決着がついたのである。

『国友鉄砲の里資料館』 見学メモ

2012年7月31日 歴史, 見学メモ No comments , , , , ,

戦国時代の記録を読めば必ずといっていいほどに出てくる『国友の鉄砲鍛冶』。
 ゲーム『信長の野望』などでも、武器生産でお馴染みである。
 この資料館では、江戸時代によく製造された細筒だけではなく、中筒、そして大筒まで展示されており、それらが使用された時の、鎧の破壊された具合も見ることができる。
 野戦においては細筒や中筒のように取り回しが便利なものが重宝されるが、城攻めになると、大筒の破壊力が頼もしい。
 大筒であれば、木や竹で作った盾などの仕寄道具も破壊できるからだ。戦国時代の末期になると、小牧長久手のように、野戦であっても塀や堀といった陣地構 築が盛んになっていく。おそらく、江戸幕府による徳川の平和(パックス・トクガワーナ)がなければ、より大型の銃砲が主流になったことだろう。
 火縄銃は銃床を頬に当てる頬打ちであり、銃の反動は、銃身を上に跳ね上げて、くるりと回転させることで逃がす。現代のライフルのように、肩に銃床を当てて吸収する撃ち方とはちょっと違う。
 この打ち方は、江戸時代にも猟師の間で受け継がれてゆく。明治になって長い銃床を持つ近代的な銃が使われるようになっても、猟師(マタギ)の中には、銃床のこしらえを火縄銃と同じものに変えて頬打ちを続けた例があるとのこと。

『近江商人屋敷』 見学メモ

2012年7月31日 見学メモ No comments , , , , ,

 北前船についていろいろと調べていると、近江商人の名前をよく見かける。
 近江商人は、江戸時代の一時期に松前藩の経済を牛耳るほどの働きをみせた。この地で出荷される昆布や、干鰯(金肥)は、当初は船で北陸に、そして琵琶湖水運ルートをたどって大坂に、そして全国へと運ばれる。
 水運の発達と共に、後に、瀬戸内海を通るルートが主流となる。
 近江商人の面白いところは、たとえば松前藩で3代過ごしたとしても、コンスタンティノープルのヴェネチア商人よろしく、松前では旅人扱いで、本籍はあくまで近江に置いてあるという点である。あくまで、根っこは近江に置いてあるのだ。私のイメージとしては、華僑に近い。
 そしてそうした近江商人らしさは今も残っている。
 屋敷でガイドの方と、秩父の方に住む近江商人の一族の話(現代でも、造り酒屋などを行っている)が出た際。

「ああ、そこの本家でしたら、この近所にありまして、このあいだ、ご葬儀があって、秩父の方からも来られていました」

 なんと、現代の日本においても、近江商人の一族は、冠婚葬祭を通して地元とつながりを維持しているのだ。

『歴史に気候を読む』吉野正敏 気象の変化と文明の栄枯盛衰の、微妙ながら深い関係

2012年6月13日 雑記 No comments , , , , , , , , , ,

 私が愛読する漫画『ヴィンランド・サガ』(幸村誠)は、11世紀の初頭の北欧を舞台としている。この漫画で活躍するノルマン(北方の民)は、スカ ンジナビア半島やデンマークの住人であるが、8世紀末まで人口が200万人を超えることはなかった。ところが、この少し前くらいから北半球は温暖化し、ス カンジナビアでも冬の厳しい寒さがやわらぎ、氷河が後退して新たな牧草地が広がって生活が上向いてくる。
 子供の死亡率が下がり、若者の数が増え始めると、海の民であるヴァイキングたちは、略奪や植民のために西へ東へと大移動を開始する。
 その結果が、各地の略奪であり、イングランドの征服であり、東ローマ帝国のヴァリャーギ親衛隊であり、アイスランド、グリーンランドへの植民である。一部ははるかヴィンランド、北アメリカまで到達した。

 北半球全体を温暖にした9世紀の気候は、気候小最良期(Little Climatic Optimum)と呼ばれる。地域によって差はあるが、おおむね、7~10世紀の間は冬は暖かく、夏は暑かったようで、日本でも朝廷の観桜園の日付などで確認できる。

 大ざっぱに言えば、気候が温暖化すれば食料が増える。食料が増えれば、人口も増える。人口が増えれば、人の動きが活発になる。
 ヴァイキングたちは略奪と植民のために、大海原に乗り出した。
 日本では、各地に新たな農地や荘園が開かれ、開拓と流通、治安のため、各地に武士団が誕生するようになる。
 中国では、7世紀に誕生した唐王朝が興隆を極めた。
 そして、日本と中国の間、沿海州や中国東北部、朝鮮半島北部へまたがる渤海という国が誕生し、繁栄をきわめた後、200年ほどで消えてしまう。
 この、渤海王国のような例は他にもあり、インドネシアのジャワ島にあるボロブドゥール遺跡を作った国家は、8世紀から9世紀頃に誕生して、そして消えた。
 温暖化によって食料が増産し、暮らしやすくなったがゆえに人が増え、そして国が興り。
 その後大きな戦があったわけでもなく、治世が荒れたわけでもないのに、再び寒冷化することによって食料の減産が人口減少と流出を引き起こし、自然と衰退していったのだ。

 日本がもっとも温暖で過ごしやすかったのは、約6000年前の縄文時代の頃。縄文の海進と呼ばれる時期で、海抜は今よりも数メートルは高く、今よ り1~2度暖かかったという。ただ、暖かければいいかというと、そうでもない。その頃の日本にはマラリアが蔓延してそうである。ナウシカの住んでいた風の 谷みたいな風の通る場所に村を作って蚊を避けていたのではないだろうか。
 それから8~10世紀の暖かい時期が終わると、再び日本は寒冷化する。15~16世紀には、今より3度ほど寒かったようで、生活も大変だったろう。世の中が乱れるわけである。

 中国では、冷涼な時代が西暦0~100年。300~600年。1050年~1550年。1580年~1720年で、寒冷&乾燥のため、干ばつや砂 嵐の多発による日照不足などが特に中国北部で厳しかったようだ。国の興亡にはさまざまな要因が重なるため、単純には言えないが、農業生産に自然環境が与え る影響の大きさを思えば、この時期の為政者には、それ以外の時期よりも大きなハンデがあったと思われる。

 本書と合わせて、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』を読み直し、国の興亡についてあれこれ心理歴史学的必然を妄想してみるのも面白そうだ。

『白い死神』ペトリ・サルヤネン 理解はすれども共感はせず。狙撃の名手は、標的をあるがままに受け入れる

2012年4月5日 雑記 No comments , , , , , , , , , , , , , , ,

 シモ・ヘイヘは、銃や戦記物に興味がある人ならば、知らぬものがいない有名人である。狙撃の名手であり、1939~1940年の『冬戦争』では、ソ連兵542人の狙撃という戦果を挙げている。
 『白い死神』は、そのシモ・ヘイヘに実際にインタビューを行い、彼と関わった人や戦争についての調査を行ったヘルシンキ大学の歴史教師ペトリ・サルヤネンによる著書である。
 本書では、スキー板の上に載せた防盾(ぼうじゅん)をソ連軍が使っていたとか、その防盾を撃ち抜くための特殊な弾薬(鉄芯弾?)を部隊長が申請していた とか、擲弾発射器(グレネードランチャー)による積雪の中への擲弾投射は、着発信管が作動しにくく、不発が多いらしいとか、戦場における細々とした描写 を、フィンランド第34歩兵連隊第2大隊戦闘日誌から拾っており、冬戦争について知りたい方にもオススメの作品となっている。(梅本弘さんの『雪中の奇 跡』も合わせてオススメしたい)

 さて狙撃兵と言えば、戦場では敵から嫌われ、憎まれる存在である。捕虜として捕らえられずに殺されたり、あるいは拷問を受けたりという逸話も聞かれる。
 では、人を銃口の先に捕らえ、引き金を引いて殺す狙撃兵とは、常人とは異なる、異質な人間なのだろうか?
 本書に描かれたシモ・ヘイヘの事績から伺える狙撃兵としての資質は次のようなものだ。

・標的への高い理解力
 戦後の狐狩りでもそうだがシモ・ヘイヘは「標的が何をするか」を、しっかりと理解している。どう動くか、いつ動くか。それが分かっているからこそ、待ち伏せも可能であるし、逃げる標的を追うことができる。

・皆無に等しい共感力
 第11章「大隊戦闘日誌」にひとりのソ連兵が登場する。失敗に終わった攻勢で仲間が大勢死に、本人は死体の山の中に隠れて死んだふりをしていた。そして、夜が近づいてきて、あともう少しで周囲が闇に包まれるというのに、片足を引きずりながら走り始めるのである。

>>>
 「神経がいかれたな」ヘイヘは思った。
 これはよくあることだった。あと一歩で助かるところまで来ると、最後まで慎重な行動をとり続けられなくなってしまう者が多いのだ。
>>>(P147)

 ヘイヘは、このソ連兵を狙撃して殺す。この場面が、ヘイヘのインタビューで語られた実際の出来事なのか、それとも、作者の想像を元にした戦場の一場面なのかは分からないが、それほど的はずれな場面とは思えない。いかにもありそうな話である。
 私は想像してみる。私に――このソ連兵が撃てるだろうか?
 哀れなびっこのソ連兵! 彼の抱く恐怖と、生への狂おしい執念を我がことのように感じるようでは、引き金を引くことはできないだろう。
 だが、ヘイヘは淡々と銃の照準をのぞき込み、風や弾道を考え、ソ連兵の動きから未来位置を測定し、そこに銃弾を放つ。『憎悪のためでも、復讐するためでもなく、ただ父から受け継いだ土地をこれからも耕し続けるために』(P149)ヘイヘは、ソ連兵を殺すのである。
 ここにあるのは、共感の断絶だ。相手の願うこと、望むこと、それらを、『それはそれ、これはこれ』ですっぱりと割り切ってしまうことで、相手を殺すことへの疑問や葛藤を抱かずにいられるのだ。
 ここに関しては、確かに狙撃兵の心理には、通常の人では難しい割り切りが、すっきりとできているように思える。相手の心に共感したまま殺す異常な心理状態なのではない。割り切りがきちんと出来るのが、特殊な才能というだけのことだ。

 では狙撃兵の持つ、この割り切りは、どこから生まれるのだろう?
 それは、現実を「かくあって欲しい」「かくあるべきだ」と見るのではなく、「あるものを、あるがままに」見る感覚だと思う。
 戦後のシモ・ヘイヘは、静かな、自分が戦った戦争についてあまり語ることのない人物であったという。政治的、思想的な問題に巻き込まれることを嫌い、できるだけ人のいない森の中で暮らしてきた。
 政治や経済は「かくあって欲しい」「かくあるべきだ」という考え、物の見方が主流になる。そうやって人の思いや力を集めることで、政治や経済は動いている。
 「あるものを、あるがままに」見る人間は、現実を許容する。風が吹けば弾道はそれる。距離が遠ければ弾道は下に落ちる。自然における可能と不可能は、人 の希望や祈りとは無関係である。願いや思いが力になるのは、人と人の間だけである。自然や戦場では、願いや思いで不可能なことが可能になったりは、しな い。

 シモ・ヘイヘは、なすべきことを、ただなした。
 それを、どのように考えるのか。
 それは彼の事績を追う個々人の問題である。

『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』西股総生 封建制の軍隊は、いかにして兵種別編成方式を成し遂げたのか?

2012年3月27日 雑記 No comments , , , , , , , , , ,

 西股総生さんは、これまでも雑誌『歴史群像』で『後北条氏の本土決戦』(No.77)や『河越夜戦』(No.103)など、主に東国の戦いに関する記事や、各地の城に関する優れた記事をいくつも書かれておられ、勉強させていただいている。
 その西股さんのこれまでの戦国時代に関する知見のまとめ的な本が、この『戦国の軍隊』である。もちろん、こういうものは研究が進むにつれて上書きされ、 修正もされるものなので、書かれたことのすべてが「真実の戦国時代!」というわけではないだろうが、戦国時代について興味がある方ならば、読んで損はない 素晴らしい内容となっている。

 内容について興味のある方には、実際に読んでもらうとして。
 この後は、本書を元に、私なりに日本の「武士」という軍隊の成り立ちから戦国時代、そして江戸時代までをざっくりと追いかけてみよう。

 大和による日本各地の勢力の制圧という時期を過ぎてまがりなりにも統一政権が出来ると、日本での軍隊は仕事がなくなってしまう。朝鮮半島の内紛に 乗じて外国に出たこともあるが、それも失敗に終わると律令の軍隊は維持コストばかり高い無駄な組織となり――朝廷が恐れていた大陸からの侵攻が来るのはま だ先の話である――国が運営するにはつらくなってくる。

 平安時代になると、軍事力(と警察力)はアウトソーシングが進んで各地の自警団に任せることになる。自警団といっても、守るだけではなく、水源や 良い牧をめぐっては武力で他人の土地や権利を奪う武装商会=ヤクザ屋である。源氏や平家は、その中でも特に有力な一団で、各地のヤクザ屋と盃を交わす大親 分であった。
 実質的な武力を持たない朝廷や貴族は、出入りのヤクザ屋に武力の必要な仕事を任せ、そのかわりに彼らに名誉や権威を提供した。武士=ヤクザの世界は実力 主義だが、テレビもネットも新聞もラジオもない時代に日本全国に散っているので、実際に実力を互いに確認できることなどそうはない。朝廷や貴族に使われる ことは、武士にとって名前を売る絶好のチャンスでもあったのだ。
 だから鎌倉時代までの武士の戦争は、今で言うところのヤクザとその出入りの喧嘩に近いところがある。基本は少人数の戦いで、それゆえに個人の武芸が戦況 に大きく影響した。この頃の武芸とは弓馬の道で、馬に乗り弓を射る。西洋だとこの頃の騎士は馬上槍で突撃をかけていたが、日本はあまり騎馬突撃に向いた地 形ではないし、日本の馬も山の上り下りは得意だが、チャージ向きではない。鎌倉武士は、むしろルネサンス以後の時代のピストル騎兵に近い存在と言えるかも しれない。流鏑馬は、カラコール戦法である。

 平安~鎌倉~室町にかけて日本の弓は合成弓として進化し、射程が長くなっていく。そのため、武士が馬に乗って敵に肉薄して矢をぶち込むという武芸の必要性は薄れてゆき、弓は歩行の兵が制圧射撃として用いるようになった。
 かわりに、武士は打ち物=刀、太刀を使って敵に切り込む重装騎兵の役割を担うようになっていく。加えて南北朝~応仁の乱にかけて軍事技術の発達から陣地 や城塞を用いることも増え、市街戦もしばしば発生したので、武士が下馬して戦うことも多くなる。乗馬戦闘でも下馬戦闘でも、鎧を着、武芸の鍛錬を積んだ武 士は現代の戦車のように、ここぞという要所を押さえる、あるいは崩すために投入されたのではないだろうか。西股さんは専業の武士を『戦場の缶切り役』 (P167)と書かれているが、うまい表現だと思う。
 WW2におけるドイツの電撃戦では、「缶切り役」戦車の集中運用がドイツ軍の勝利に大きく貢献している。集団戦では、役割分担が重要だ。弓は弓、槍は槍、という風に兵種別に編成してまとめて将校(奉行)に指揮させれば、未分離でごちゃ混ぜの部隊を圧倒することができる。
 日本の武士とはもともとが封建領主の集まりである。大親分(大名)から軍役を命じられて手勢を率いて戦場にやってくるが、その指揮官はあくまでそれぞれ の小領主=土豪、国衆だ。大親分(大名)の方が偉いかもしれないが、武士の筋目としては、手下や弟分に何かさせるには、それぞれの親分(小領主)に話を通 してもらわないと困る。勝手はできないので、どうしても手間がかかる。
 戦国時代が続き、各地で大規模戦闘が繰り返されるようになると、兵種別の編成への必要性は高くなってくる。
 最初に兵種別編成が行なわれるようになったのは、間に小領主を挟まない、大名直轄の部隊からである。織田信長だと小領主の次男、三男を集めて編成した子 飼いの部隊がいて家督相続後の尾張統一戦で活躍したし、武田信虎も甲斐の国人衆との戦いに、傭兵と思われる足軽隊を使っている。信虎の息子、武田信玄の部 下にも傭兵隊長(足軽大将)がいて、山本勘助がその代表格のひとりと考えられる。譜代で信玄としても気を使う必要があった重臣たちと違い、傭兵は大名が自 由に投入できる使い勝手の良い軍勢であった。西股さんは本書で北条早雲として知られる伊勢宗瑞が、京都から傭兵隊長(的な仕事をする人物)を引き連れてき たと分析している。

 そして実際に戦ってみれば、やはり兵種別編成で、命令系統がシンプルでそれゆえに素早い軍隊は、寄せ集めの軍隊よりも強かった。家臣の次男、三男 を集めたのか、傭兵として雇ったのかは別として、自分の直轄の手勢で武威を高めた戦国大名は、それ以外の国人衆を圧倒してゆく。
 戦国時代という最適化が進みやすい状況において、封建領主の軍勢は、小領主の子飼いの軍勢の集団から大名が思うがままに動かす軍勢へと変化していった。
 小領主は武士らしい武士として、鎧に身を固め、最新の兵器(火縄銃や軍馬など)を購入し、名誉ある斬り込み隊長的な役割を担当する。と同時に、社会の流 動性によって生まれた傭兵としての足軽や、食い詰めものとしての雑兵を、自分の所領に応じて雇い、大名へと提出する仕事も彼らの軍役の一部となった。
 従来であれば、小領主としての武士は、自分の身内や、所領の若者からそうした雑兵や人夫を提供してきた。血縁・地縁が深い彼らは小領主の子飼いであり、あくまで命令は小領主を通して行なうものであった。
 しかし、戦国時代が進むと、足軽や雑兵は小領主が必要に応じて金で雇い入れる非正規雇用者となる。傭兵的にそれなりに訓練を受け、戦場で働く意欲もある 者もいれば、戦乱や災害で食い詰めて、仕方なく戦場働きをする雑兵もその中にはいる。どちらにしても、小領主はそれまでのように足軽、雑兵への責任や思い 入れがない。軍役として課せられた人数を金で集めただけのパート従業員であるから、集めた足軽が兵種別に再編されて大名の奉行配下に組み込まれても問題は ない。それは戦場に来る前までの武士としての仕事で、戦場に来てからの武士としての仕事は「缶切り役」、つまり、戦意も高く技量もある専業の重装歩兵/騎 兵として、戦場のここぞというところで活躍すれば良いのだ。

 西股さんは、傭兵隊長的な足軽大将を三十年戦争で活躍したヴァレンシュタインの例をあげて説明されたが、私は佐藤賢一さんの描く『傭兵ピエール』的なシェフ(百年戦争の傭兵隊長)が山本勘助や骨皮道賢ら足軽大将にだぶって見える。
 戦国時代を通して傭兵的な足軽が増えてきた原因は、三十年年戦争における「宿営社会」も参考になるだろう。戦争においては略奪がつきものであるが、それ によって破壊された社会の難民やあぶれ者を、傭兵たちの「宿営社会」が吸収して拡大し、さらなる戦乱と略奪の連鎖を生んだというものだ。
 その中で生き残り、勝ち上がってきた織豊系の戦国武将が、合理的で強烈な上昇志向に支えられている一面、どこか刹那的で殺伐とした虚無感を漂わせている のも、彼らの戦いが略奪と、それによる従来の社会――彼ら自身のルーツ――の破壊を伴う、一種の根無し草であったからだと私は考えている。

 戦国の勝者として勝ち抜いた織田信長がその頂点で上昇志向の強い部下の裏切りにより破滅したように、秀吉もまた「自分の死後に何が起きるか」をす べて見抜いていたのではないかと思う。晩年の秀吉は自分の死後に己の身内や部下に何が起きるかを見抜いていたからこそ、平静を失って狂的で冷酷な手を次々 と打ち、それが逆に自らを追いつめるという負の連鎖を生んだ。そして両者の後を継いだ――継がされた――徳川家康と一門は、天下万民のために太平の世を求 めたというよりは、「徳川だけは織田や豊臣のようにはなりたくない」という強いエゴと危機感ゆえに、太平の世を求め、ガチガチの封建制度と地方分権という 停滞しているが安定した社会へと舵を切っていく。

 上昇志向と合理性は、戦国という淘汰圧の強い社会を勝ち抜くために必須であった。
 だが、それがもたらすのは不断の闘争社会であり、戦国の世が終わった後もなお、戦乱がなくては機能しない困った仕組みであった。
 その揺り返しのような江戸時代は、制度として停滞、閉鎖することで安定し、270年の「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を生むが、日本以外では、上昇志向と合理性で勝利を続けたヨーロッパ的な闘争社会が世界を席巻していた。

 幕末の動乱で再び上昇志向と合理性を手にした明治日本は、それまで抑圧していた分の反動もあってか「ひゃっはー、弱いのはそれだけで罪だぜー!」とノリノリで帝国主義的な闘争社会に踏み込んでいくのである。

五箇山、塩硝の館 見学レポ

2011年11月7日 見学メモ No comments , , , , , , , , , , , , ,

 火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作ります。
 戦国時代の日本では、木から作る木炭も、火山で採れる硫黄もありましたが、硝石はありませんでした。
 硝酸カリウムを主成分とする硝石は、中国やインドから戦国時代の日本に輸入されました。しかし、日本中が戦乱の時代のこと。最大火力である鉄砲の運用を輸入硝石だけに頼るのはいかにも心もとないものです。
 そこで、量には限りがありますが、人馬の糞尿の混ざった土から硝石が作られたのです。
 『戦国火薬考』(桐野作人/歴史群像67号)によると、本願寺の文書に人造硝石についての記述があり、もっとも古いものでは、毛利元就(1571年没) 書状で触れられていることから、火縄銃伝来(1543年?)とそれほど時を置かずして、人造硝石の技術も伝来していたようです。

 糞尿の混じった土から硝石=硝酸カリウムが作られる過程で重要なのが、バクテリアです。硝化バクテリアは窒素を含む有機物(アンモニアなど)を分 解し、そのときに発生する酸化エネルギーを利用します。そうやって分解された有機物が硝酸塩で、これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムとなりま す。この硝酸カルシウムを灰汁(炭酸カリウム)を使って煮て、両者のカルシウムとカリウムを交換して、硝酸カリウムを含む水溶液を作ります。こいつを海水 から塩をつくるように煮詰めて濃縮し、結晶化させて硝石を作り出すわけです。
 『ドリフターズ』(平野耕太)の2巻でノブこと織田信長がやっているのも、これと同じやり方です。

 戦国時代が終わり、日本が平和になってからも、硝石の需要はゼロにはなりません。『鉄砲を手放さなかった百姓たち』(武井弘一)にもあるように、獣害を防ぐため農民は農具として鉄砲を保有し続けましたし、各地を治める大名も、演習その他で黒色火薬を消費したのです。
 富山県五箇山は、江戸時代における日本国内の硝石生産拠点のひとつです。山奥に孤立した集落で、谷川沿いに世界遺産ともなった合掌造りの集落が並んでいます。

 雨の中、鷹見一幸さんと五箇山を訪れた私が最初に思い出したのが「ひぐらしのなく頃に」のオヤシロコロニー、雛見沢でありました。そういえばあのモデルになった白川郷も、合掌造りの建物の床土から、焔硝(硝石)反応がある、硝石生産拠点でありました。

 五箇山や白川郷でどのように硝石が作られていたかというと、基本は馬屋や厠の古い土から硝石を作る方法と同じで、硝化バクテリアの働きによりアン モニアから亜硝酸が作られるわけです。この硝酸態窒素は、植物の葉っぱにも蓄えられることがあり、五箇山では、囲炉裏近くの床下に1.8~2.1mほどの 深い穴を掘り、そこに硝酸イオンが葉に多いシソやツユクサらの葉っぱを、蚕(生糸生産も、重要な産業でした)の糞と一緒に混ぜ、上には通気性の良いほろほ ろと崩れる土(硝化バクテリアは、好気性細菌)をかぶせます。
 後は年に何回か土を掘り出してかき回し、五年くらい経過してからは上の方の土に硝酸カルシウムの結晶が多く含まれるようになります。

 屋内で作る理由は、硝酸が水に溶けて流れないように。囲炉裏のそばに穴を掘るのは、寒い冬場でも硝化バクテリアが活動できるように。
 ……なのですが。

 さて、ここから先は、私の妄想です。

 ──なぜ、五箇山で硝石を作ったのでしょう?

 五箇山の案内では、幕府の目が届かない秘境だから、と説明されています。
 しかし、本当にそれだけにしては、五箇山は秘境に過ぎます。まるで幕府どころか、同じ加賀藩内部にすら、ここで作っている硝石についての情報が漏れないよう、気をつけているかのよう。

 しかも、それだけの秘だというのに。
 作られた硝石は、意外なほどまっとうに「塩」として、金沢の町にまで出荷されています。箱を牛の背にのせて、五箇山の住人が山奥から届けに来ています。まるで、塩硝(硝石)であること自体は、バレてしまってもかまわない、という風に。

 五箇山の硝石造りで、本当に秘すべきことは、もしかしたら硝石を作っているということではなく、その造り方だったのかも知れません。そしてそれは、後に書物としてまとめられた、観光案内に記されている造り方ではなく。

「なんまんだぶ、なんまんだぶー」
「来年も、ようけ塩硝が採れそうだわ」
「骨の太いお侍さんだったからの」
「お、これは去年の……親子連れだったか」
「子供の方は、きれいにおらんなっとる」
「ありがたや、ありがたや。なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 みたいな意味で、秘すべきことであったとしたら。
 それはまさに、村の外に知られてはならぬ禁忌ではなかったかと。
 雨にけぶる合掌造りの家々をながめつつ、あれこれと妄想を楽しんだのであります。