シモ・ヘイヘは、銃や戦記物に興味がある人ならば、知らぬものがいない有名人である。狙撃の名手であり、1939~1940年の『冬戦争』では、ソ連兵542人の狙撃という戦果を挙げている。
 『白い死神』は、そのシモ・ヘイヘに実際にインタビューを行い、彼と関わった人や戦争についての調査を行ったヘルシンキ大学の歴史教師ペトリ・サルヤネンによる著書である。
 本書では、スキー板の上に載せた防盾(ぼうじゅん)をソ連軍が使っていたとか、その防盾を撃ち抜くための特殊な弾薬(鉄芯弾?)を部隊長が申請していた とか、擲弾発射器(グレネードランチャー)による積雪の中への擲弾投射は、着発信管が作動しにくく、不発が多いらしいとか、戦場における細々とした描写 を、フィンランド第34歩兵連隊第2大隊戦闘日誌から拾っており、冬戦争について知りたい方にもオススメの作品となっている。(梅本弘さんの『雪中の奇 跡』も合わせてオススメしたい)

 さて狙撃兵と言えば、戦場では敵から嫌われ、憎まれる存在である。捕虜として捕らえられずに殺されたり、あるいは拷問を受けたりという逸話も聞かれる。
 では、人を銃口の先に捕らえ、引き金を引いて殺す狙撃兵とは、常人とは異なる、異質な人間なのだろうか?
 本書に描かれたシモ・ヘイヘの事績から伺える狙撃兵としての資質は次のようなものだ。

・標的への高い理解力
 戦後の狐狩りでもそうだがシモ・ヘイヘは「標的が何をするか」を、しっかりと理解している。どう動くか、いつ動くか。それが分かっているからこそ、待ち伏せも可能であるし、逃げる標的を追うことができる。

・皆無に等しい共感力
 第11章「大隊戦闘日誌」にひとりのソ連兵が登場する。失敗に終わった攻勢で仲間が大勢死に、本人は死体の山の中に隠れて死んだふりをしていた。そして、夜が近づいてきて、あともう少しで周囲が闇に包まれるというのに、片足を引きずりながら走り始めるのである。

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 「神経がいかれたな」ヘイヘは思った。
 これはよくあることだった。あと一歩で助かるところまで来ると、最後まで慎重な行動をとり続けられなくなってしまう者が多いのだ。
>>>(P147)

 ヘイヘは、このソ連兵を狙撃して殺す。この場面が、ヘイヘのインタビューで語られた実際の出来事なのか、それとも、作者の想像を元にした戦場の一場面なのかは分からないが、それほど的はずれな場面とは思えない。いかにもありそうな話である。
 私は想像してみる。私に――このソ連兵が撃てるだろうか?
 哀れなびっこのソ連兵! 彼の抱く恐怖と、生への狂おしい執念を我がことのように感じるようでは、引き金を引くことはできないだろう。
 だが、ヘイヘは淡々と銃の照準をのぞき込み、風や弾道を考え、ソ連兵の動きから未来位置を測定し、そこに銃弾を放つ。『憎悪のためでも、復讐するためでもなく、ただ父から受け継いだ土地をこれからも耕し続けるために』(P149)ヘイヘは、ソ連兵を殺すのである。
 ここにあるのは、共感の断絶だ。相手の願うこと、望むこと、それらを、『それはそれ、これはこれ』ですっぱりと割り切ってしまうことで、相手を殺すことへの疑問や葛藤を抱かずにいられるのだ。
 ここに関しては、確かに狙撃兵の心理には、通常の人では難しい割り切りが、すっきりとできているように思える。相手の心に共感したまま殺す異常な心理状態なのではない。割り切りがきちんと出来るのが、特殊な才能というだけのことだ。

 では狙撃兵の持つ、この割り切りは、どこから生まれるのだろう?
 それは、現実を「かくあって欲しい」「かくあるべきだ」と見るのではなく、「あるものを、あるがままに」見る感覚だと思う。
 戦後のシモ・ヘイヘは、静かな、自分が戦った戦争についてあまり語ることのない人物であったという。政治的、思想的な問題に巻き込まれることを嫌い、できるだけ人のいない森の中で暮らしてきた。
 政治や経済は「かくあって欲しい」「かくあるべきだ」という考え、物の見方が主流になる。そうやって人の思いや力を集めることで、政治や経済は動いている。
 「あるものを、あるがままに」見る人間は、現実を許容する。風が吹けば弾道はそれる。距離が遠ければ弾道は下に落ちる。自然における可能と不可能は、人 の希望や祈りとは無関係である。願いや思いが力になるのは、人と人の間だけである。自然や戦場では、願いや思いで不可能なことが可能になったりは、しな い。

 シモ・ヘイヘは、なすべきことを、ただなした。
 それを、どのように考えるのか。
 それは彼の事績を追う個々人の問題である。