戦国

『大阪落城 戦国終焉の舞台』渡邊大門 狸親父家康は、いかにして豊臣家を滅ぼさざるをえなかったか

2013年4月10日 未分類 No comments , , , , , ,

 関ヶ原の前後から、大阪城が落城するまでの流れを、家康と大阪方がどのように行動したかを中心にまとめられた本である。
 関ヶ原の戦い(1600年)から方広寺鐘銘事件(1614年)まで、家康が関ヶ原の戦いの後も、豊臣家にかなり配慮しつつも、権威と権力は徳川家に集中させ、それが豊臣家を追い込んでいく様子が書かれている。
 その間、14年である。
 7才だった秀頼は、21才に。
 57才だった家康は、71才に。
 それぞれ、その14年間をどのような気持ちで過ごしたのだろうか。
 後世においては、老練な狸親父として描かれることも多い家康だが、その人生はむしろ、ままならぬ時勢に押し流されているように思う。
 桶狭間で今川義元が敗死する前と、その後で独立した時。
 本能寺で織田信長が殺されて秀吉が権力を簒奪する前と、その後で臣従した時。
 その秀吉が北条をも征伐して日本を統一して死ぬ前と、死後に関ヶ原で勝利した時。
 家康の中にあった思いはなんだろうか。
 後の時代に生きる我々は、家康の作った江戸の幕府と、徳川の平和(パックストクガワ)が270年の長きにわたったことを知っている。
 しかし、家康の立場になってみればどうだろう?

 とても安心できたものではない――

 家康としてみれば、そんな気持ちではなかったろうか。
 義元が死ぬまで、自分は今川家が滅びるなどと。自分も手を汚して滅ぼしてしまうなどと考えていただろうか?
 信長が死ぬまで、自分は織田政権があんなに脆いと。秀吉があんなにあっさりと主家を支配するようになると考えていただろうか?
 秀吉が死ぬまで、自分が彼の死後に征夷大将軍となって幕府を作り出すなどと。武家の頂点に立つことになると考えていただろうか?

 そして同じことは。
 自分が死んだ後にも、言えるのではないかと。
 今、日本中の大名は、徳川家に、否、家康に従っている。戦国の世を信長、秀吉の下で生き抜き、勝ち抜いてきた自分に逆らおうなどと考えているものはおるまい。
 だが、人というのは、状況が変われば、中身も変わるのだ。自分が死ねば。そして自分の死をきっかけに争乱が起きてしまえば。二代目、三代目に何か不幸な事件が連発したり、暗愚な政治がちょろっと続いたりすれば。徳川の覇権など、一発で吹っ飛ぶ。
 権力や武力の強さは、安定を意味しない。
 家康は、そのことが自らの体験で分かっていたのだと思う。

 秀頼の持つ豊臣家の看板と大阪という土地は、自分の死後の争乱の、火種になりえた。
 秀頼にその気があるかどうかは関係ない――わけではないが、重要ではない。
 誰も野心を抱かなくとも、たとえば飢饉のようなものが日本を襲ったらどうなるだろう。
 この時代、大阪は全国の米や物資が集まる物流の拠点だ。そこを、徳川家ではなく、豊臣家が抑えているというのは、平時であればともかく、飢饉などの緊急 事態では混乱と軋轢を呼びかねない。バランスが崩れ、やむにやまれぬ理由であっても兵が動くようなことになれば。流動性が生まれてしまえば。
 何がどんな風に転んだとしても、おかしくないのだ。

 しかし、家康の持つ危機感を。同時代のどれだけの人間が共有できたろう?
 少なくとも、7才から21才という物心ついてからの人生を、徳川の覇権の下で過ごしてきた豊臣の貴公子には、理解できなかったはずだ。
 家康は1615年に豊臣家を滅ぼし、翌年の1616年に死ぬ。
 彼の後を継いだ人々の不断の努力と――最近では、生類憐れみの令などで不人気な綱吉も、徳川の平和を維持し続けた功労者だという見方が広がっている―― 多くの幸運に支えられて江戸時代の平和は続く。同時に社会の停滞もひどくなるが、なんだかんだで明治維新を迎えるまで、日本の社会を安定させて次につなげ た功績は大きい。

 だが、それはあくまで後の時代を生きる人間の判断である。
 家康にしてみれば、大阪城を落としたのは「色々あって、他の手もあったんだろうけど、結局はそうするしかなくなった」ということではないかと、本書を読んで思ったのである。

『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』西股総生 封建制の軍隊は、いかにして兵種別編成方式を成し遂げたのか?

2012年3月27日 雑記 No comments , , , , , , , , , ,

 西股総生さんは、これまでも雑誌『歴史群像』で『後北条氏の本土決戦』(No.77)や『河越夜戦』(No.103)など、主に東国の戦いに関する記事や、各地の城に関する優れた記事をいくつも書かれておられ、勉強させていただいている。
 その西股さんのこれまでの戦国時代に関する知見のまとめ的な本が、この『戦国の軍隊』である。もちろん、こういうものは研究が進むにつれて上書きされ、 修正もされるものなので、書かれたことのすべてが「真実の戦国時代!」というわけではないだろうが、戦国時代について興味がある方ならば、読んで損はない 素晴らしい内容となっている。

 内容について興味のある方には、実際に読んでもらうとして。
 この後は、本書を元に、私なりに日本の「武士」という軍隊の成り立ちから戦国時代、そして江戸時代までをざっくりと追いかけてみよう。

 大和による日本各地の勢力の制圧という時期を過ぎてまがりなりにも統一政権が出来ると、日本での軍隊は仕事がなくなってしまう。朝鮮半島の内紛に 乗じて外国に出たこともあるが、それも失敗に終わると律令の軍隊は維持コストばかり高い無駄な組織となり――朝廷が恐れていた大陸からの侵攻が来るのはま だ先の話である――国が運営するにはつらくなってくる。

 平安時代になると、軍事力(と警察力)はアウトソーシングが進んで各地の自警団に任せることになる。自警団といっても、守るだけではなく、水源や 良い牧をめぐっては武力で他人の土地や権利を奪う武装商会=ヤクザ屋である。源氏や平家は、その中でも特に有力な一団で、各地のヤクザ屋と盃を交わす大親 分であった。
 実質的な武力を持たない朝廷や貴族は、出入りのヤクザ屋に武力の必要な仕事を任せ、そのかわりに彼らに名誉や権威を提供した。武士=ヤクザの世界は実力 主義だが、テレビもネットも新聞もラジオもない時代に日本全国に散っているので、実際に実力を互いに確認できることなどそうはない。朝廷や貴族に使われる ことは、武士にとって名前を売る絶好のチャンスでもあったのだ。
 だから鎌倉時代までの武士の戦争は、今で言うところのヤクザとその出入りの喧嘩に近いところがある。基本は少人数の戦いで、それゆえに個人の武芸が戦況 に大きく影響した。この頃の武芸とは弓馬の道で、馬に乗り弓を射る。西洋だとこの頃の騎士は馬上槍で突撃をかけていたが、日本はあまり騎馬突撃に向いた地 形ではないし、日本の馬も山の上り下りは得意だが、チャージ向きではない。鎌倉武士は、むしろルネサンス以後の時代のピストル騎兵に近い存在と言えるかも しれない。流鏑馬は、カラコール戦法である。

 平安~鎌倉~室町にかけて日本の弓は合成弓として進化し、射程が長くなっていく。そのため、武士が馬に乗って敵に肉薄して矢をぶち込むという武芸の必要性は薄れてゆき、弓は歩行の兵が制圧射撃として用いるようになった。
 かわりに、武士は打ち物=刀、太刀を使って敵に切り込む重装騎兵の役割を担うようになっていく。加えて南北朝~応仁の乱にかけて軍事技術の発達から陣地 や城塞を用いることも増え、市街戦もしばしば発生したので、武士が下馬して戦うことも多くなる。乗馬戦闘でも下馬戦闘でも、鎧を着、武芸の鍛錬を積んだ武 士は現代の戦車のように、ここぞという要所を押さえる、あるいは崩すために投入されたのではないだろうか。西股さんは専業の武士を『戦場の缶切り役』 (P167)と書かれているが、うまい表現だと思う。
 WW2におけるドイツの電撃戦では、「缶切り役」戦車の集中運用がドイツ軍の勝利に大きく貢献している。集団戦では、役割分担が重要だ。弓は弓、槍は槍、という風に兵種別に編成してまとめて将校(奉行)に指揮させれば、未分離でごちゃ混ぜの部隊を圧倒することができる。
 日本の武士とはもともとが封建領主の集まりである。大親分(大名)から軍役を命じられて手勢を率いて戦場にやってくるが、その指揮官はあくまでそれぞれ の小領主=土豪、国衆だ。大親分(大名)の方が偉いかもしれないが、武士の筋目としては、手下や弟分に何かさせるには、それぞれの親分(小領主)に話を通 してもらわないと困る。勝手はできないので、どうしても手間がかかる。
 戦国時代が続き、各地で大規模戦闘が繰り返されるようになると、兵種別の編成への必要性は高くなってくる。
 最初に兵種別編成が行なわれるようになったのは、間に小領主を挟まない、大名直轄の部隊からである。織田信長だと小領主の次男、三男を集めて編成した子 飼いの部隊がいて家督相続後の尾張統一戦で活躍したし、武田信虎も甲斐の国人衆との戦いに、傭兵と思われる足軽隊を使っている。信虎の息子、武田信玄の部 下にも傭兵隊長(足軽大将)がいて、山本勘助がその代表格のひとりと考えられる。譜代で信玄としても気を使う必要があった重臣たちと違い、傭兵は大名が自 由に投入できる使い勝手の良い軍勢であった。西股さんは本書で北条早雲として知られる伊勢宗瑞が、京都から傭兵隊長(的な仕事をする人物)を引き連れてき たと分析している。

 そして実際に戦ってみれば、やはり兵種別編成で、命令系統がシンプルでそれゆえに素早い軍隊は、寄せ集めの軍隊よりも強かった。家臣の次男、三男 を集めたのか、傭兵として雇ったのかは別として、自分の直轄の手勢で武威を高めた戦国大名は、それ以外の国人衆を圧倒してゆく。
 戦国時代という最適化が進みやすい状況において、封建領主の軍勢は、小領主の子飼いの軍勢の集団から大名が思うがままに動かす軍勢へと変化していった。
 小領主は武士らしい武士として、鎧に身を固め、最新の兵器(火縄銃や軍馬など)を購入し、名誉ある斬り込み隊長的な役割を担当する。と同時に、社会の流 動性によって生まれた傭兵としての足軽や、食い詰めものとしての雑兵を、自分の所領に応じて雇い、大名へと提出する仕事も彼らの軍役の一部となった。
 従来であれば、小領主としての武士は、自分の身内や、所領の若者からそうした雑兵や人夫を提供してきた。血縁・地縁が深い彼らは小領主の子飼いであり、あくまで命令は小領主を通して行なうものであった。
 しかし、戦国時代が進むと、足軽や雑兵は小領主が必要に応じて金で雇い入れる非正規雇用者となる。傭兵的にそれなりに訓練を受け、戦場で働く意欲もある 者もいれば、戦乱や災害で食い詰めて、仕方なく戦場働きをする雑兵もその中にはいる。どちらにしても、小領主はそれまでのように足軽、雑兵への責任や思い 入れがない。軍役として課せられた人数を金で集めただけのパート従業員であるから、集めた足軽が兵種別に再編されて大名の奉行配下に組み込まれても問題は ない。それは戦場に来る前までの武士としての仕事で、戦場に来てからの武士としての仕事は「缶切り役」、つまり、戦意も高く技量もある専業の重装歩兵/騎 兵として、戦場のここぞというところで活躍すれば良いのだ。

 西股さんは、傭兵隊長的な足軽大将を三十年戦争で活躍したヴァレンシュタインの例をあげて説明されたが、私は佐藤賢一さんの描く『傭兵ピエール』的なシェフ(百年戦争の傭兵隊長)が山本勘助や骨皮道賢ら足軽大将にだぶって見える。
 戦国時代を通して傭兵的な足軽が増えてきた原因は、三十年年戦争における「宿営社会」も参考になるだろう。戦争においては略奪がつきものであるが、それ によって破壊された社会の難民やあぶれ者を、傭兵たちの「宿営社会」が吸収して拡大し、さらなる戦乱と略奪の連鎖を生んだというものだ。
 その中で生き残り、勝ち上がってきた織豊系の戦国武将が、合理的で強烈な上昇志向に支えられている一面、どこか刹那的で殺伐とした虚無感を漂わせている のも、彼らの戦いが略奪と、それによる従来の社会――彼ら自身のルーツ――の破壊を伴う、一種の根無し草であったからだと私は考えている。

 戦国の勝者として勝ち抜いた織田信長がその頂点で上昇志向の強い部下の裏切りにより破滅したように、秀吉もまた「自分の死後に何が起きるか」をす べて見抜いていたのではないかと思う。晩年の秀吉は自分の死後に己の身内や部下に何が起きるかを見抜いていたからこそ、平静を失って狂的で冷酷な手を次々 と打ち、それが逆に自らを追いつめるという負の連鎖を生んだ。そして両者の後を継いだ――継がされた――徳川家康と一門は、天下万民のために太平の世を求 めたというよりは、「徳川だけは織田や豊臣のようにはなりたくない」という強いエゴと危機感ゆえに、太平の世を求め、ガチガチの封建制度と地方分権という 停滞しているが安定した社会へと舵を切っていく。

 上昇志向と合理性は、戦国という淘汰圧の強い社会を勝ち抜くために必須であった。
 だが、それがもたらすのは不断の闘争社会であり、戦国の世が終わった後もなお、戦乱がなくては機能しない困った仕組みであった。
 その揺り返しのような江戸時代は、制度として停滞、閉鎖することで安定し、270年の「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を生むが、日本以外では、上昇志向と合理性で勝利を続けたヨーロッパ的な闘争社会が世界を席巻していた。

 幕末の動乱で再び上昇志向と合理性を手にした明治日本は、それまで抑圧していた分の反動もあってか「ひゃっはー、弱いのはそれだけで罪だぜー!」とノリノリで帝国主義的な闘争社会に踏み込んでいくのである。