歴史

『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』越智敏之 ヨーロッパの歴史における魚の役割についてまとめられた良書

2014年8月21日 歴史, 読書感想 No comments

ヨーロッパの歴史と魚の関わりを、
 人々が「どんな魚を食べていたのか?」
 その魚は「誰が、どこで取っていたのか?」
 そして、獲った魚は「どのように加工されて流通していたのか?」
 以上の3つの視点でまとめたものが主な内容になります。

 現代日本で、世界中を繋げた物流ネットワークと、冷蔵庫のある暮らしをしているとついつい忘れがちでありますが、人類200万年の歴史のほとんどで、我らがご先祖様は「歩いて1日」の距離にあるものを、ある時だけ食べておりました。
 それ以上の距離を大量に、そして日常的に運ぶのはあまり現実的でなく、また食べ物を長期間保存するのも、技術的に困難であったからです。

 じゃあ、その「歩いて1日」に食い物なかったらどーすんだ、飢えて死ぬのか、というと、その通りであります。それゆえ、飢えて死なないために人類は親戚筋である他のお猿さんと同様に、一カ所に留まらずに昨日はあっち、今日はここ、明日はそっちと、食べ物のある場所へ、ある場所へとフラフラしておったわけです。どのくらいフラフラしておったかというと、200万年前にはアフリカに住んでいたのが1万年くらい前には気が付いたら南アメリカの南端の方まで移動している者がいたりするくらい。私たちの故郷である日本にも、大勢がやって来て、狩猟採集をもっぱらの生活をしておりました。
 その頃から日本に住む人々はせっせと貝を掘って食っており、そのせいか今なお私らの味覚はやけに旨味成分に敏感というか、貪欲であります。

 やがて農耕の技術が発達して、ある程度の保存が利く穀物を生産できるようになると、うろうろするのをやめて定住する人間も増えてまいりました。肉も、狩猟以外に豚や鶏などを家畜として飼うことで食べることができるようになります。
 しかし、家畜は餌が不足する冬場には多くを屠殺して解体する必要がありました。その肉をせめて次の収穫が見込める春頃まで食いつなぐには保存方法も考えねばならず、塩漬けにしたり、干したり、燻製にしたりしたわけです。

 魚も、肉と同じく動物性タンパク質の供給源です。ですが肉と違い、家畜のように人が育てるのはごく一部の品種、そしてつい最近のこと。今なお、魚は海や川で獲ってくるものなのです。

 どんな魚が、どこにいるか?
 魚を食料源として考えた場合、これがまず大事になります。
 巨大な群れを作り、たくさん獲れる魚というのは、常に同じ場所に同じだけいるわけではありません。たいていは季節に応じて産卵して数を増やし、海を回遊してあちらへこちらへと移動しております。そして、しばしば、ふ、とその移動ルートが変更になります。

 北ヨーロッパでよく食べられた魚のひとつ、ニシン。
 ニシンの回遊ルートが移動したことがスカンジナビア半島での食料不足を招いてヴァイキングの移動を招いた原因のひとつかもしれない、などという意見があるほど、ニシンは当時のヨーロッパで重要な食料でした。
 北海やバルト海で大量に獲れたニシンですが、獲れただけではダメで、それを多くの人が食料源としてアテにするには保存がきかなくてはいけません。
 ニシンは不飽和脂肪酸が多く、すぐに酸素と結合して傷みやすいので、これを塩漬けにして保存する、というのは昔からあった手です。これを、より大規模に、より高品質にしたのが、ハンザ同盟諸都市でした。船を改良して樽を多く運べるようにし、岩塩を大量に輸入して品質の高い塩漬けニシンを作れるようにしたり、したわけです。
 後にこの手法を受け継いだのがオランダです。同じ時期のイングランドよりも高品質なのが売りであり、オランダの塩漬けニシンはイングランドの倍以上の値段で売れたという記録があります。
 イングランドは燻製ニシンの品質ではオランダに勝っていたようですが、大量に塩を輸入して安くあげる塩漬けニシンに比べると、燃料である木材を地元で消費する燻製ニシンは、やはり高価な上、大量に作ることができません。
 イングランドが海洋覇権を作り上げる前のオランダの強さのひとつは、塩漬けニシンの市場を独占していたことにあるようです。

 もう一つ、北ヨーロッパで食を支えた魚、タラ。
 タラは回遊魚のニシンほどには群れが増えたりしませんが、脂が少ないので、じっくり天日干しして棒ダラ(ストックフィッシュ)にすれば、塩漬けニシンよりもさらに長期間、最大で五年近く保存がききます。
 ここまでカチコチにしてしまうと、いざ食べようという時に、ぼこぼこに叩いてから水で一日以上戻して、ようやく調理、という手間もかかりますが、この保存性の良さは大航海時代の食料として、大いに役立ったようです。
 また、新大陸に渡った初期アメリカ移民の食を支えたのも、北米沿岸で獲れるタラでした。
 後には、カリブ海の島々で各国の砂糖のプランテーションが作られ、奴隷労働で砂糖ばかりを作る農園ができます。これらの島々は奴隷に食べさせる食料の自給ができませんから、北米植民地で作った干タラの格好の市場となります。
 今でこそ世界の超大国として君臨するアメリカですが、独立前は干タラが主要輸出品で、これと引き替えに砂糖や茶、その他諸々を輸入していたわけです。
 この時に英国本国が保護貿易として外国産の砂糖などに高い関税をかけたことへの不満も、アメリカ独立につながっているようで、干ダラといってもあだやおろそかにはできませぬ。独立後もマサチューセッツ州の州議会には、そのことを象徴するように『聖なるタラ』の像が飾られていたそうです。

 越智敏之先生の『魚で始まる世界史』はこうした面白エピソードが満載してあります。
 帯にある『ハンザとオランダの繁栄はニシンが築き、大航海時代の幕は塩ダラが開けた』にワクワク来る人には、オススメの一冊です。

林譲治『太平洋戦争のロジスティクス』日本軍の兵站補給の成功と失敗について知ることができる、優れた著作

2013年12月20日 ミリタリ, 兵站補給, 歴史 No comments

 兵站補給とは何だろう?
 本書で紹介してある、第一次世界大戦でのアメリカ海兵隊ソープ少佐の言葉がなかなか、洒落た言い回しとなっている。

『戦争を演劇にたとえれば、戦略は脚本で、戦術は役者の演技、ロジスティクスは舞台管理、舞台装置、舞台の維持である』(P18)

 太平洋戦争において、日本軍は最終的に、『舞台管理、舞台装置、舞台の維持』に失敗して敗北している。
 本書では、この日本軍の失敗が、何に帰因しているのか、について、平時における日本軍の兵站補給の体制作りから、実際の運用に至るまでを丁寧に追っている。

 本書を読んだ上での私なりの理解としては、次のようになる。

 まず、日本軍の兵站補給は、平時における法制度や組織の準備がきちんと行われており、『軽視』は当てはまらない。
 だが、平時においては日本の持つ国力の限界から、どこを優先してどこを後に回すか、という判断が成されており、兵站補給は出来るだけ、平時には小さい組織と人材で回し、戦時には必要とされる動員を行いつつを、不足分を民間人の徴用や、民間組織の利用で補うという仕組みとなっていた。

 この仕組みは、日清と日露というふたつの戦争を教訓として、それなりに当時の日本の国力としては、まともなものだった。

 それが歪み始めたのは、戦前の日本の他のこととも関係するが、中国との戦争の始まりと、その長期化である。
 日華事変の前、日本陸軍は17個師団を有していた。陸軍の兵站補給の諸制度や人員・予算も、この17個師団を戦わせることを前提として作られている。
 中国との戦争がなし崩しに拡大し、止めどころを失ってから4年。太平洋戦争の直前には、これが51個師団に3倍増している。
 そして太平洋戦争の間に、戦争末期の本土防衛の動員も含めると、120個師団が増設されている。もちろん、陸軍の臨時予算も増額されてはいるが、どう見ても兵員の増加分には達していない。
 太平洋戦争における日本の兵站補給は、まず、軍の規模の拡大に追いついていない。末期の動員になればなるほど、武器も弾も装備も何もなく、すでに30代40代になっているおっさんまでが徴兵されているわけだから「この戦争はもうだめじゃろ」と感じた国民が多くいたのは当然である。

 では、兵站補給において、まったく打つ手がなかったのか、と言われるとそうではない。
 合理的に考えれば、動員しても使えない軍隊を増やすよりは、戦線を縮小して兵站補給の負担を軽減し、その余力でもって、より機動的でアメリカにとって「いやらしい」戦い方は可能であったろう。

 実際、太平洋戦争序盤のマレー半島におけるマレー電撃戦が本書では日本の兵站補給が成功した事例として紹介されている。ここでは、日本軍は自動車化された補給部隊を重点配備した第25軍でもって、電撃戦を成功させ、その兵站補給も無事にこなしている。

 しかし、戦争の半ば以後、日本軍が主導権を失ってからは、広げすぎた戦線の整理も追いつかず、それどころか、戦局の打開がアメリカ相手には不可能となったので中国戦線での攻勢を行うようになったりと、人が負けが込んでいる時にやらかす迷走ぶりだけが目立つようになる。

 打開策のない状況に追いつめられると人間というのは、「どうせ」とか「いっそ」とかの自暴自棄な精神になりやすく、この精神状態では、ロジスティクスはうまく機能しない。

 ロジスティクスの語源は「計算術」である。兵站補給を考えるには、定量化して、数字にする必要がある。さらに言えば、数字に「従う」必要がある。ダメなものは、ダメなのである。無理なものは、どうやっても無理なのだ。出来ることにするため、数字の方をいじりはじめてはいかんのである。

 だがダメだ、無理だ、という声を人や組織が聞き入れるには、未来への展望や、希望が必要となる。
 展望や希望がないのに、ダメだ、無理だと数字を持ち出されては、「なら対案を出せ」「んなものあるかボケ」的な感じで売り言葉に買い言葉となってゆき、「お前の言うことが正しかろうが聞いてやらん」という状態になってしまう。
 数字や正論で相手をへこますだけでは意味がない。
 その上で、より良い未来を提示することが出来て、人も組織も動かせるのである。

 そういう意味ではやはり――
 アメリカもイギリスも中国も敵に回して戦争している状態で、より良い未来を提示しろ、というのは、かなり難易度が高かったようにも思う。

 著者の林譲治さんは、あとがきで、このテーマではまだまだ扱うべき題材が多くあると述べられておられる。しかし、本書は日本軍の兵站補給の組織がどのようなもので、どう動いていたかを含め、たいへん分かりやすく、網羅的に知ることができる。また、導入部で兵站補給を「地区の野球大会を開催することになった」という日常的で身近な例で例えられており、こうして点でも初心者にも分かりやすい良書である。

 兵站補給についてちょっと勉強してみようかしら、くらいの軽い気持ちでも十分に楽しめると思うので、是非、多くの人に読んでいただきたい。

谷口克広『信長の政略』 現実的な合理主義者としての信長像

2013年10月1日 歴史, 読書感想 No comments

 織田信長という人物への評価は、なかなかに難しい。
 歴史上の人物というのは、だいたいそういうもの、と言えるが。
 いや、歴史上でないにしても、人間というものはだいたい評価が難しい。
 私の評価はどうだろう? あなたの評価はどうだろう?
 仕事の評価。人間性の評価。相手によって、見方によって、私の評価も、あなたの評価も、ずいぶんと違うのではないだろうか。

 織田信長もまた、革命家だとか、いやそんなことはないとか。尊皇だとか、朝廷とは敵対していたとか。仏教に厳しいとか、そうでもないとか。とかく、あれこれ評価が分かれている。それだけ、多くの研究家が、さまざまな切り口で信長像を見てきたせいであろう。

 ひとりの人間を、多面的に見れば、「人間だからいろいろある」となってしまうのはこれはいたしかたない。

 本書『信長の政略』は、江戸時代から現代に至る多くの信長への研究を参考にしつつ、筆者の谷口克広氏なりの信長像というものを描いている。たいへん誠実で、分かりやすい良書である。ツイッターでこの本を紹介していただいた、お菓子っ子さん( @sweets_street )に感謝したい。

 この本を読みながら、私の中では現実的な合理主義者、という信長像が浮かんできた。
 信長としては、なんといっても、現実的にならざるを得ない事情がある。
 19才で父から家督を継いだとはいっても、信長は四面楚歌の状況であった。
 まず、家督そのものを自分が継ぐか弟が継ぐかで一族や家臣が争っている。
 さらに、その家督といっても、織田弾正忠家というのは、織田家の中でも傍流である。
 父親の信秀がぶいぶい言わせていたといっても、その根拠になる家柄はたいしたことがないのだ。

 かように。尾張半国にしたところで、誰が支配するのが正しいかとか、その理由はとか考えると、曖昧模糊としていて、よくわからない。戦国時代が実力主義だとか言われても、その実力ってナニよ? 誰かが、別の誰かと実力が違うって、それ、どんな客観的な根拠があるのよ? ってなもんである。
 世の中というのは虚と実が混じり合っていて、ややこしい。

 そんな中、信長は現実に対して合理的に対処する術を身につけていった。
 合理的というのは、言い方を変えると。

・自分には、出来ることと、出来ないことがある
・出来ることの中にも、かけたコストへのリターンが見合うものと、見合わないものがある。

 こういうことではないかと思う。
 家督相続から十年。一族やらご近所やらと狭い尾張の中で戦い抜くうちに、信長の合理主義者としてのセンスは鋭く磨かれていった。
 そのひとつが、速度重視である。
 野戦を重視した機動的な戦い方は、若い頃から信長に共通している。

 その総仕上げが、桶狭間の戦いである。
 ぎりぎりまで、決戦戦力を動かさず、動かさないことによって、敵に情報を与えない。
 そして、いざ動くと決めた時には、ひたすら駆け抜ける。一日二日なら兵站にも負担がかからないから、強行軍などの無理もきく。そして、メールも携帯電話もない時代には、移動を続ける軍勢に関する十分な情報を、敵が手にすることはできない。どんな情報も、それを伝えるまでのタイムラグのせいで古くなるからだ。

 桶狭間で今川義元を討ち、尾張を、そして美濃を手に入れて十分な実力を身につけた信長は、その後は天下人への道を進む。
 天下人としての信長の行動原理は、やはり現実に対して合理的であった。
 もちろん、うまくいかなかったこともある。信長が前提とした「現実」が、情報の不足や信長の願望、予断によって曲げられていた場合は特に。
 信長なりに「現実はこうだ」と思っていても、実際には違っていれば「合理的な判断」とやらも、間違うことになる。

 しかし、おおむね信長の現実への見方は正しかった。
 信長が、中世的な因習やら制度やらをどのくらい好いていたか、嫌っていたかは分からない。しかし彼は、そういうものがある、ということについては現実的に判断した。
 自分が利益を得るために、それらを排除しようとすれば、当然、大きな抵抗がある。
 ここで信長は考える。
「そのコストは、かけるに足りるか? 否か?」
 結論は、だいたいにおいて、否、だった。
 だから信長は、自分に敵対するのでない限り、中世的な制度に手をつけることをしなかった。自分に必要でなければ、無視をして距離を取った。
 経済発展のために、座や荘園をどこでもかしこでも撤廃するのは、コストばかりかかってリターンのないことだった。だから、信長は悪影響がない限り、放置した。そのかわり、交通の便を良くする道路の普請には熱心だった。これはかけたコストに見合う投資だった。
 寺社にしても、敵対すれば戦うが、その必要がなければ放置した。
 世論に対して気を配り、悪評を気にしたのも、評判が悪くなることで生じる不利益を放置することが、合理主義者の彼には我慢ならなかったからだ。
 籠城を嫌い、すぐに決着がつく野戦を好んだのも、そのために敵よりも多くの兵力を集めることに腐心したのも、合理主義ゆえである。一か八かの賭けは、その必要があればためらわないが、必要がなければ避ける。合理主義者だから。

 そうして考えると、信長が短気で気むずかしい人間であったのもよくわかる。
 現実を直視する人間は、そこに自分の価値観とは相容れないもの、気に入らないものを山のように見てしまう。善意や悪意で現実をほしいままにねじ曲げる方が、気に入らないものは見ないですむのだ。
 しかし、若い頃に一族や家臣ですら敵に回す経験をしてきた信長には、そのように現実をねじ曲げることは望んでもできなかったに違いない。結果、彼はできるだけ現実を、不愉快であっても、自分に可能な限り直視し続けた。だんだんと気むずかしくなるのも分かろうというものである。自分の権力が増すに従って、周囲に当たり散らすことや無駄にプレッシャーをかけることも増えたに違いない。
 粛正もしたし、その反動で謀反も増えたが、信長の力は日ノ本に比類なきものになる。

「いろいろ反感も買ったが、このままいけば、天下はオレのもの」

 天正10年6月。本能寺にて。
 現実主義者で、合理主義者の信長はそんな風に現状を分析していたのではないかと思う。
 それが突然の、光秀謀反である。やはり、信長も人間である。自分で「これが現実だ」と思っていたものに、バイアスがかかっていたのだろう。

「こいつは、しょうがねえ(是非もなし)」

 自分が勘違いしていた「現実」を即座に修正した信長は、合理主義者らしく、そう言って炎の中に消えたのである。

感想その2『近代技術の日本的展開』中岡哲郎:瀬戸内海航路に出現した“先端技術”その名は焼玉エンジン

2013年8月24日 歴史 No comments

 焼玉エンジンというものがある。
 今も、いくつか実物が残っていて、ポンポンポンポンポンポンとどこかユーモラスなリズムを立ててピストンを動かす光景がyou tubeなどで見られる。
 ディーゼルエンジンなどの“普通”のエンジンに比べて、パワーは弱く効率も悪いが、単純な構造で作りやすく、素人でも簡単な訓練で確実に扱える内燃機関である。

 戦前の日本では、これが広く使われていた。
 焼玉エンジンは、当時の日本産業の身の丈にあっていたからだ。工作機械の精度が悪く、部品などの標準化ができない戦前の日本の工業界では、精緻な部品を使用する機械は、熟練工が手作業で仕上げて初めて完成する。整備もまた同様だ。工業技術が足りないところを、人の技能で補っていたのが、戦前の日本である。

 だから、焼玉エンジンのように無理をしていない“先端技術”が普及した。
 その場所のひとつが、瀬戸内海航路である。

 江戸時代、瀬戸内海は日本の物流の大動脈だった。大阪には、江戸から蝦夷から九州から四国から物が集まり、また運び出された。水運が、それを担った。
 幕末になり、日本が開国すると、外国からの大型船も瀬戸内海にやってきた。
 しかし、大阪湾は遠浅で、しかも川から大量の土砂が流れ出す。大型船が積み卸しを行う港を作るには、不向きだった。
 そこで外国航路の大型船は、神戸に向かった。ここならば、土砂の流入がなく、大型船用の港を作ることができたからだ。その後も神戸港は順調に発達を続け、アジアを代表する国際貿易港のひとつとなっている。

 一方で小型船が中心の国内航路は、浅い港でもそれなりに運航が可能だった。
 明治になってから、国内航路で運ぶ重量物のひとつに石炭が入ってくる。大阪にこの石炭を運んでいたのは、最初は帆船だった。帆船ならば遠浅の港に入ることができ、そこから艀に積み替えて堀川を利用して直接、石炭を届けることもできた。
 その後、曳船がしだいに数を増す。これは小型汽船(150トンクラス)が170トン~200トンの石炭を搭載した運搬船を数隻曳航するものである。途中の港で切り離す形で、一度に複数の目標に荷物を届けることができる。海の列車のような輸送方法である。

 そんな中に入ってきたのが、焼玉エンジンを使うポンポン船、機帆船である。
 焼玉エンジンは単純な構造のため小型のエンジンを作って、小型の船に載せることができた。
 焼玉エンジンは漁業では小さな漁船での遠洋漁業を可能にし、海運においては、島や沿岸に住む父ちゃん叔父ちゃんが家財として購入して自分で運航する「一杯船主」を生み出した。現代で言うところの個人事業主のトラック運送業のようなものである。そしてもちろん、昭和も高度成長時代にならねばトラックのような“高度技術”は高値の花だったのだ。

 技術面だけでなく、インフラ面でも焼玉エンジンを使う小型の機帆船は日本の身の丈にあっていた。
 戦後の昭和28年(1953年)時点ですら、瀬戸内海航路に汽船が横付けして岸壁荷役できる港は28港しかなかった。残りの1191の港に入って荷役が可能だったのは、機帆船なのである。立派な大型船を造ってもそれが入ることが可能な港がないのでは、宝の持ち腐れだ。

 少し高台にある私の家からは、広島湾の西側が望める。厳島との間の水道を、日々ひっきりなしに船が往来する。瀬戸内海は今も昔も交通の大動脈だ。今はほとんどがディーゼル船である。
 かつてはここを機帆船が行き交っていた。今の目では、レトロなエンジンで動く、ポンポン船。だが、それは戦前から戦後の日本にとって、誇りになり、頼りになる“先端技術”だったのである。

『近代技術の日本的展開 蘭癖大名から豊田喜一郎まで』中岡哲郎:明治からの日本の後発工業化について考えさせられる良書

2013年8月21日 歴史 No comments

 明治維新後、日本の工業化が成功したのはよく知られている。
 緻密なデータで知られるパラドックス社のゲーム『Victoria』では、文化や技術というその国が固有に持つパラメタを「書き換える(チート)」かのごとき大成功イベントとして、明治維新を扱っている。

 もちろん、結果として日本は世界史に残るほどの成果を出した。そしてそれは、欧米列強がお手本としての工業化をすでに成し遂げており、その手法を真似たからでもある。
 しかし、何もないところから成果が出たわけではない。
 すべてが、真似たいと思っていた通りにできたわけではない。

 SFでは昔から、タイムスリップ物で現代人が過去へ行き、現代(未来)の知識や情報を元に社会を変革するというお話がある。マーク・トゥエインの『アーサー王宮廷のヤンキー』や、L・スプレイグ・ディ・キャンプの『闇よ落ちるなかれ』などだ。
 21世紀の現代でも、ライトノベルでは異世界転移・転生などの形で、先進情報による社会変革が描かれた作品が書かれている。
 しかし、世の中は「先輩がうまくいってたやり方で、俺も成功したっす!」とはいかないものである。憧れの金持ち父さんになるには、成功者がやった手法を無批判に取り入れてもうまくいかないものだ。

 というわけで、日本が近代技術を取り込むに至る流れを、本書を通して自分なりにまとめてみる。誤読・勘違いがあればご寛恕いただきたい。

 古来、日本は大陸から海を渡ってやってくる文物に憧憬を抱いてきた。それは仏像や貨幣などの物だけではなく、言語も、宗教も、思想にいたるまで、日本は中国の強い影響を受け、学び続けてきた。
 欧州列強が大航海時代を迎えて、ユーラシア大陸の果てから商船が到着するほどに海上交通が発達した室町時代の後半より、そこに新しいものが加わってきた。

 木綿である。『朝鮮王朝実録』にある朝鮮側の交易記録によると15~16世紀の日本との交易においては、朝鮮からは主に木綿が輸出され、日本はその代金として銀を支払っていたとある。(村井章介『中世倭人伝』より)
 交易が統制された江戸時代になると木綿は国内での生産が中心になる。
 江戸時代半ばまでの、日本が海外から多く輸入した品が生糸である。西陣などは、ほぼ完全に中国産生糸に頼っていて、これが海外への金銀の流出につながっていた。
 その後、元禄の頃より日本国内でも生糸の生産が始まる。諸藩は財政的にきつくなっていたこともあって、風土が養蚕に向いているようであれば、藩が主導して生糸の生産を始めるようになった。余談であるが、朝日新聞で連載中の宮部みゆきさんの小説『荒神』でも生糸の殖産が物語に関わっている。

 生糸はこの後、昭和の時代まで長く日本の主力輸出品となる。その始まりは、江戸時代にあり、ここで明治を迎えるまでの一世紀、あれこれ試行錯誤を繰り返してノウハウや人材が日本全国に浸透していたことが、明治以後の大ブレイクにつながっている。
 このあたりは木綿の生産もそうで、明治のチート的な日本の工業化は何もないところから生まれたわけではなく、貿易統制をされていた江戸時代にちゃんと国内産業として発達をしたものが下地になっていることが分かる。

 だが、幕末になって国を開いたとたん、日本は容赦なく海外との品質競争にさらされることになる。ここで、日本が幕末に結んだ通商条約が不平等であったことも大きい。関税などを自由に決めることができないため、もろに品質と価格で海外製品に圧倒されてしまうのだ。このまま滅びるわけにはいかないという強い危機意識も、積極的な技術導入につながったことだろう。

 本書では、海外と日本の綿糸の品質の差について、当時の人の記録が紹介(P86~87)されていて、これが面白い。
 同じ織機で、国産の糸と輸入糸とを使って織らせてみると、音が違うのだそうだ。
 国産の糸の織機は、3秒ごとに、「パタン・・・パタン・・・パタン」。
 輸入糸の織機は、それが「パタンパタンパタン! パタンパタンパタン! パタンパタンパタン!」と3倍の速度になる。
 この違いは、海外綿糸が製糸に工夫をかけて細く長く強い糸を作り上げたことで生じたものだ。そして、そうした工夫も、自然になったのではなく、インドの優れた綿布に圧倒されたイギリスの織物業界が、国際競争に打ち勝つために知恵と金を注ぎ込んだ結果である。海外との交易が競争を生み、競争が品質の向上を促したわけである。

 開国の後、日本は一時は先行していた海外の高品質の商品に圧倒される。日本製の生糸にせよ、綿糸にせよ、海外では『安かろう悪かろう』で今ひとつ評判がよろしくない。
 そこで、国が主導して海外から成功事例を導入しようとしたわけであるが、これは直接的にはうまくいかないことが多かったようだ。
 富岡製糸工場など官営の工場は、海外から技術者や機械を導入して『成功した』『実績のある』ものを取り入れようとしたが、それは当時の日本においては高コストになりすぎ、利益よりも維持費が高い、というものになっていた。このあたりは、八幡製鉄所の建設においても言えることで、自分にノウハウの蓄積がないものを取り入れると、うまくいっている時にはいいのだが、何かトラブルがあった時に解決できずに詰まる、ということになる。タイムスリップした時や、異世界に転移した時のために覚えておきたい。

 鉄道もまた製糸業と深い関係がある。明治13年に政府主導から民間資本導入へと切り替わってから、上野~前橋など、北関東に向けて鉄道が延びていく。北関東は江戸時代から生糸の産地であり、これが前述した海外からの技術導入によって発展しているところへ、輸送インフラである鉄道がやってきたのだ。建設着工から1年。上野から60kmの熊谷まででもう、沿線が活況を呈し、前橋まで到達するや北関東全体の経済を押し上げた日本鉄道株式会社とは、ずいぶんと違う。以後、まるでPCゲーム『A列車』のごとく、両者ががっちりと噛み合って、日本の産業は驚くべき持続的発展を遂げ始める。
 ちなみに、この逆が本書ではメキシコ鉄道の例としてあげられている。首都で大産業地帯であるメキシコシティと、海外との交易を行うベラクルス港の間、400kmは人も産業もほとんど存在しないこの鉄道は、まったく国内経済を活性化しなかったというのだ。

 経済発展なくして技術発展は定着しない。自分の金になるから、人は頑張るのである。

 ここまでがだいたい本書の前半を読んでのまとめである。本書の後半、二度の世界大戦と戦後の発展については、また機会があればまとめてみたい。

『国友鉄砲の里資料館』 見学メモ

2012年7月31日 歴史, 見学メモ No comments , , , , ,

戦国時代の記録を読めば必ずといっていいほどに出てくる『国友の鉄砲鍛冶』。
 ゲーム『信長の野望』などでも、武器生産でお馴染みである。
 この資料館では、江戸時代によく製造された細筒だけではなく、中筒、そして大筒まで展示されており、それらが使用された時の、鎧の破壊された具合も見ることができる。
 野戦においては細筒や中筒のように取り回しが便利なものが重宝されるが、城攻めになると、大筒の破壊力が頼もしい。
 大筒であれば、木や竹で作った盾などの仕寄道具も破壊できるからだ。戦国時代の末期になると、小牧長久手のように、野戦であっても塀や堀といった陣地構 築が盛んになっていく。おそらく、江戸幕府による徳川の平和(パックス・トクガワーナ)がなければ、より大型の銃砲が主流になったことだろう。
 火縄銃は銃床を頬に当てる頬打ちであり、銃の反動は、銃身を上に跳ね上げて、くるりと回転させることで逃がす。現代のライフルのように、肩に銃床を当てて吸収する撃ち方とはちょっと違う。
 この打ち方は、江戸時代にも猟師の間で受け継がれてゆく。明治になって長い銃床を持つ近代的な銃が使われるようになっても、猟師(マタギ)の中には、銃床のこしらえを火縄銃と同じものに変えて頬打ちを続けた例があるとのこと。