見学メモ

関ヶ原古戦場 見学メモ

2012年8月1日 見学メモ No comments , , , , , , , ,

 今から35年以上前。生まれて初めて関ヶ原を新幹線で通過してから、数百回、関ヶ原の上を通り抜けているが、思えばすべて新幹線か飛行機で、高速道路すら1回もなかった。

 つまりどういうことかというと、「関ヶ原を結んで東西の高低差って、こんなにあったんだ」ということを、今回初めて、国道とJR普通線で認識したのである。新幹線で通ったのでは、高低差はよくわからない。
 鉄道ファン(一緒に見て回った鷹見一幸さんと椎出啓さんはどちらも鉄道ファン)的には常識であったらしいのだが関ヶ原の戦いでは必ず出てくる大垣は、鉄 道が敷設されてからというもの、長らく関ヶ原越えのための機関車を増設するための重要な駅があり、西の傾斜を登るために、わざわざ迂回の鉄道線まであった そうである。
 大垣から関ヶ原にかけては登り斜面がずーっと続いているのである。
 実際に地面に近いところを移動しないと、知識ではあっても、気付かないことはたくさんある。

 今から400年前の1600年の秋。
 この場所で、後に「天下分け目の戦い」と呼ばれる日本史に名高い決戦が行われた。
 中学生の教科書にすら、その名を記される関ヶ原の戦いである。
 だが、教科書では今ひとつ分からないことがある。

「東軍、西軍の大名たちは、なんでドンパチやったんだろう?」

 秀吉死後の政治の主導権争いとか、朝鮮の役での恨みとか、いろいろ言われてはいるが、おそらくもうちょっとシンプルで、いい加減な理由だったのではないかと思う。

 いい加減な理由だったから、たまたま「日本の西側にいて、三成らが挙兵した時に大阪で足止めされちゃったから西軍」とか「日本の東側にいて、徳川と一緒に、上杉討伐に向かっていたから東軍」となり。

 シンプルな理由だったから、東軍も西軍も「いや、ここは武力ではなく話し合いでなんとかしようよ」とはならなかったのではないかと。

 そうして考えると、やはり最大のポイントは朝鮮の役の失敗だと思われる。
 秀吉が企画して朝鮮半島に遠征を行い、明国とも華々しく戦って日本の武威を見せつけはしたが、結局は壮大な金と人命の浪費となった朝鮮の役。
 この戦いで多大な損失を被った日本全国の大名たちは、秀吉の死と共に、戦国時代が延長戦に入ったと考えたのだ。

 上杉景勝は特にその意識が強く、かつてと同じやり方で、各大名がそれぞれの地域ごとに戦争を繰り広げて領地を奪うべく、地元へと戻った。

 しかし、豊臣政権の中枢にいた家康や三成(そして毛利輝元も)は、戦国時代の延長戦になったとしても、それは戦国大名が群雄割拠する初期からのや り直しを意味するのではなく、本能寺の後の、秀吉が日本を統一したやり方でこの延長戦を終わらせるべきだし、そうするつもりだった。

 秀吉の日本統一とは、つまるところ、政権与党である大名が徒党を組んで、反抗する地方大名をボコボコにタコ殴りにして領土を分割する収奪方式である。

 家康はまず、前田家を相手にこのやり方を試してみたが、前田が完全な恭順をみせたのでうまくいかなかった。
 そこで狙いをつけたのが、かつての後北条よろしく地方で独立を試みる上杉である。
 今度は上杉の側もやる気満々であるから、うまくいった。家康は、豊臣政権の名の下に、全国の大名を動員して上杉討伐へと向かう。

 家康が、しゃかりきになったのには理由がある。関東に250万石という大領を持つ家康は、自分が政権与党にならなければ、石田三成らによって、領 土を分割される危険があった。今は大丈夫でも、自分の死後が危ない。そしてこの当時の家康はすでに57才で当時としては老人である。彼がこのあと16年も 生きるというのは、後の歴史を知っていればこそである。彼も、彼の周囲も「そんなに先はない」くらいの心づもりであったはずだ。

 自分が死ぬまでに、豊臣政権を安定させて、自分の死後の徳川家を安泰にするため、家康はなりふりかまわず、上杉への討伐を押し進めた。
 この時点では、東軍であろうが西軍であろうが、上杉討伐でちょっとでも論功行賞に預かるべく、戦意を高めていただけであるはずだ。

 だが、ここで隠居させられていた石田三成や、毛利家の周辺に、欲がでる。

「東へ東へと軍や大名が移動して、大阪、京都から徳川の与党が消えた今なら、クーデター起こして自分らが政権与党になれるんじゃないの?」

 そう。あくまで、武力クーデター。ボードゲーム『フンタ』のノリである。
 朝廷や、秀頼らの政治的な『玉』を掌中におさめて、豊臣政権の与党の地位を手に入れる。
 味方になる大名への褒美は、与党側につけるというエサだ。うまくいけば、家康を隠居させて、徳川の領土を大幅に縮小し、その空いた土地を与党勢力に分配して、政権を強固なものにする。

 もちろん、家康がクーデター側に唯々諾々と従うとは考えにくい。ドンパチも想定に入れた上で、計画を進めなくてはいけない。
 首都圏である京都や大阪を戦場にはできないから、できるだけ東に防衛線を広げる。
 そのため、京都の伏見城に残った鳥居元忠率いる首都防衛師団を排除し、徳川与党勢力の留守部隊や家族を確保。しかる後に、北陸~岐阜~伊勢という防衛ラインを構築する。

 後は時間の問題である。
 時間が経過すればするほど、『玉』を実効支配しているクーデター側が有利になる。
 家康を戦場で負かすなどという、リスクの高い作戦を行なう必要はない。東西内戦ではなく、これはクーデターなのである。

 しかし、このクーデターは、東軍側の諸将、特に豊臣恩顧とされる中堅大名たちに激烈な反応を引き起こす。
 福島正則ら、秀吉子飼いの大名たちは、元が外様である家康などより、よほど豊臣政権与党としての自覚が強い。
 その自分たちが、こともあろうにクーデターで政権から排除されて野党勢力に追いやられようとしているのだ。それは自分たちの人生すべてを否定されるに等しい。

 それゆえ、小山評定をはじめとする、東軍側の豊臣恩顧大名の戦意の高さは、家康よりも上であった。彼らはクーデター軍との全面戦争を望み、腰の定まらない家康を引きずるようにして東海道をばく進する。
 彼らの脳裏にあったのは、本能寺の後の、中国大返しだろう。明智光秀のクーデター軍を打ち破り、秀吉に栄光をもたらしたあの戦いを、今度は、自分たちの手で行なうのだ。

 そしてまさに。
「ゆっくり時間をかけて勝利すればいいや」
 と考えていたクーデター軍は。
「んな時間与えるかよ、おらおら」
 と迫り来るカウンター・クーデター軍に押し切られるようにして、岐阜を落とされる。

 クーデター軍は、自分が先手を取って有利な状況を作ったがゆえに、そこに安住しようとしてしまい。
 カウンター・クーデター軍は、このままの状況では、負けるのでそれこそゲーム盤をひっくり返すつもりで進撃したのである。

 このあたりで、実はもう、クーデター側はかなり不利になっている。石田三成や毛利・宇喜多らの一部をのぞけば、クーデター側に参加した諸将は、そ れほど理由があってクーデター軍についているわけではない。巻き込まれた上に、政権与党の座につけるから、従っているだけである。東軍の連中と国をまっぷ たつに割った大戦争をしてまで、何がなんでも勝利する気概や覚悟を持っているわけではないのだ。

 ましてや、ここで西軍が負ければ一蓮托生になってしまう。小早川秀秋などは元より家康与党勢力の側であったし、こうなっては何としても東軍側に合流したいところである。

 石田三成は大谷吉継と作戦を練り直し、大垣城を第1防衛ライン、関ヶ原を第2防衛ラインとする守勢の策を立てる。大谷吉継は、第2防衛ラインであ る関ヶ原周辺の要塞化を監督し、松尾山に防衛拠点としての城を建設する。ここに毛利本隊を進出させ、とにかく京~大阪に東軍を進出させない構えだ。
 石田三成自身は、大垣城に進出し、ここと南宮山の部隊とを組み合わせて、第1防衛ラインを維する。

 そして、9月14日。
 家康が大垣城前面の赤坂に進出したその同じ時、小早川秀秋が関ヶ原の松尾山城の留守部隊を追い払って、ここに陣取ってしまう。
 
 小早川秀秋が、最初から「東軍側に逃げ込む」つもりであったとするなら、このタイミングは完璧である。
 そして、西軍側にとっては最悪の展開であった。
 この時点で、第2防衛ラインは消滅し、第1防衛ラインは前後の敵に挟まれて退路を断たれたのである。

 しかし、数日を経ずして壊滅間違いなしであったこの死地を、西軍は見事な夜間行軍によって回避する。
 大垣城を夜に抜けでるや、伊勢街道を通って関ヶ原に転進。

 一方の家康も、西軍が動いたことと、小早川秀秋が東軍側として松尾山を制圧したと知り、大あわてで関ヶ原へ向かう。

 ふたつの軍の夜間行軍は、タッチの差で西軍側が先に関ヶ原へ布陣を果たす。

 なお、大垣側に向いて展開していた南宮山の部隊は事態の急変についていけてなかった。転進しようにも山を下りた先の垂井を東軍部隊に押さえられ、 戦うことも逃げることもできぬまま、遊軍となったのである。もしかしたら、素早く抜け出て後退することも可能だったかもしれないが、すでに徳川に内応した 吉川広家がわざと事態を静観した可能性もある。吉川の裏切りは、当日ではなく、前夜に行われたのだ。

 翌、9月15日。
 いきなり最終防衛線で戦うことになった西軍は、数で勝る東軍を相手に、地の利を活かしてよく戦った。関ヶ原は西に進めば進むほど狭くなっていて数の優位を活かせない。
 東軍側は数で勝りながら、一進一退を続ける。

 松尾山の小早川秀秋は、見通しの良い山頂からじっと自分が出撃するタイミングを計っていた。松尾山からの出撃口では、大谷吉継が通せんぼしており、これまた、地形から数の優位が活かせない。
 ここを迅速に突破するには、数で劣る西軍の予備戦力が時間経過と共に減少し、小早川軍の動きに対応できなくなる、その時を狙うしかない。朝鮮の役で活躍した小早川秀秋には、そのタイミングを見計らう能力があった。

 南宮山の毛利や長宗我部の部隊は、関ヶ原が山の反対側ということもあって、状況がよくわからないまま、何もできずにいた。垂井にいる東軍後衛部隊 と正面からぶつかればこれを撃破することは数の差から可能であったが、そこで東軍本隊が関ヶ原から戻ってきては袋だたきである。家康と内応していた吉川広 家は、毛利諸将を「ここは俺に任せて。何もしないのが一番」と説得し、実際、できることもあまりないので毛利隊はそれを受け入れてこの日を過ごす。

 そして、西軍の予備戦力が枯渇した午後。
 ついに小早川秀秋が動き出す。大谷吉継は必死に防戦につとめるが、ここで赤座、脇坂らが東軍側に内応。
 小早川秀秋と戦っていた大谷吉継隊は無防備な側面から痛撃を受けて敗走。
 片翼が潰れてしまえば、後は早い。立て直すだけの戦力もない。西軍は右翼からずるずると崩れて全面潰走。天下分け目の戦いは、ここに一日で決着がついたのである。

『国友鉄砲の里資料館』 見学メモ

2012年7月31日 歴史, 見学メモ No comments , , , , ,

戦国時代の記録を読めば必ずといっていいほどに出てくる『国友の鉄砲鍛冶』。
 ゲーム『信長の野望』などでも、武器生産でお馴染みである。
 この資料館では、江戸時代によく製造された細筒だけではなく、中筒、そして大筒まで展示されており、それらが使用された時の、鎧の破壊された具合も見ることができる。
 野戦においては細筒や中筒のように取り回しが便利なものが重宝されるが、城攻めになると、大筒の破壊力が頼もしい。
 大筒であれば、木や竹で作った盾などの仕寄道具も破壊できるからだ。戦国時代の末期になると、小牧長久手のように、野戦であっても塀や堀といった陣地構 築が盛んになっていく。おそらく、江戸幕府による徳川の平和(パックス・トクガワーナ)がなければ、より大型の銃砲が主流になったことだろう。
 火縄銃は銃床を頬に当てる頬打ちであり、銃の反動は、銃身を上に跳ね上げて、くるりと回転させることで逃がす。現代のライフルのように、肩に銃床を当てて吸収する撃ち方とはちょっと違う。
 この打ち方は、江戸時代にも猟師の間で受け継がれてゆく。明治になって長い銃床を持つ近代的な銃が使われるようになっても、猟師(マタギ)の中には、銃床のこしらえを火縄銃と同じものに変えて頬打ちを続けた例があるとのこと。

『近江商人屋敷』 見学メモ

2012年7月31日 見学メモ No comments , , , , ,

 北前船についていろいろと調べていると、近江商人の名前をよく見かける。
 近江商人は、江戸時代の一時期に松前藩の経済を牛耳るほどの働きをみせた。この地で出荷される昆布や、干鰯(金肥)は、当初は船で北陸に、そして琵琶湖水運ルートをたどって大坂に、そして全国へと運ばれる。
 水運の発達と共に、後に、瀬戸内海を通るルートが主流となる。
 近江商人の面白いところは、たとえば松前藩で3代過ごしたとしても、コンスタンティノープルのヴェネチア商人よろしく、松前では旅人扱いで、本籍はあくまで近江に置いてあるという点である。あくまで、根っこは近江に置いてあるのだ。私のイメージとしては、華僑に近い。
 そしてそうした近江商人らしさは今も残っている。
 屋敷でガイドの方と、秩父の方に住む近江商人の一族の話(現代でも、造り酒屋などを行っている)が出た際。

「ああ、そこの本家でしたら、この近所にありまして、このあいだ、ご葬儀があって、秩父の方からも来られていました」

 なんと、現代の日本においても、近江商人の一族は、冠婚葬祭を通して地元とつながりを維持しているのだ。

五箇山、塩硝の館 見学レポ

2011年11月7日 見学メモ No comments , , , , , , , , , , , , ,

 火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%を混ぜて作ります。
 戦国時代の日本では、木から作る木炭も、火山で採れる硫黄もありましたが、硝石はありませんでした。
 硝酸カリウムを主成分とする硝石は、中国やインドから戦国時代の日本に輸入されました。しかし、日本中が戦乱の時代のこと。最大火力である鉄砲の運用を輸入硝石だけに頼るのはいかにも心もとないものです。
 そこで、量には限りがありますが、人馬の糞尿の混ざった土から硝石が作られたのです。
 『戦国火薬考』(桐野作人/歴史群像67号)によると、本願寺の文書に人造硝石についての記述があり、もっとも古いものでは、毛利元就(1571年没) 書状で触れられていることから、火縄銃伝来(1543年?)とそれほど時を置かずして、人造硝石の技術も伝来していたようです。

 糞尿の混じった土から硝石=硝酸カリウムが作られる過程で重要なのが、バクテリアです。硝化バクテリアは窒素を含む有機物(アンモニアなど)を分 解し、そのときに発生する酸化エネルギーを利用します。そうやって分解された有機物が硝酸塩で、これが土中のカルシウムと結合して硝酸カルシウムとなりま す。この硝酸カルシウムを灰汁(炭酸カリウム)を使って煮て、両者のカルシウムとカリウムを交換して、硝酸カリウムを含む水溶液を作ります。こいつを海水 から塩をつくるように煮詰めて濃縮し、結晶化させて硝石を作り出すわけです。
 『ドリフターズ』(平野耕太)の2巻でノブこと織田信長がやっているのも、これと同じやり方です。

 戦国時代が終わり、日本が平和になってからも、硝石の需要はゼロにはなりません。『鉄砲を手放さなかった百姓たち』(武井弘一)にもあるように、獣害を防ぐため農民は農具として鉄砲を保有し続けましたし、各地を治める大名も、演習その他で黒色火薬を消費したのです。
 富山県五箇山は、江戸時代における日本国内の硝石生産拠点のひとつです。山奥に孤立した集落で、谷川沿いに世界遺産ともなった合掌造りの集落が並んでいます。

 雨の中、鷹見一幸さんと五箇山を訪れた私が最初に思い出したのが「ひぐらしのなく頃に」のオヤシロコロニー、雛見沢でありました。そういえばあのモデルになった白川郷も、合掌造りの建物の床土から、焔硝(硝石)反応がある、硝石生産拠点でありました。

 五箇山や白川郷でどのように硝石が作られていたかというと、基本は馬屋や厠の古い土から硝石を作る方法と同じで、硝化バクテリアの働きによりアン モニアから亜硝酸が作られるわけです。この硝酸態窒素は、植物の葉っぱにも蓄えられることがあり、五箇山では、囲炉裏近くの床下に1.8~2.1mほどの 深い穴を掘り、そこに硝酸イオンが葉に多いシソやツユクサらの葉っぱを、蚕(生糸生産も、重要な産業でした)の糞と一緒に混ぜ、上には通気性の良いほろほ ろと崩れる土(硝化バクテリアは、好気性細菌)をかぶせます。
 後は年に何回か土を掘り出してかき回し、五年くらい経過してからは上の方の土に硝酸カルシウムの結晶が多く含まれるようになります。

 屋内で作る理由は、硝酸が水に溶けて流れないように。囲炉裏のそばに穴を掘るのは、寒い冬場でも硝化バクテリアが活動できるように。
 ……なのですが。

 さて、ここから先は、私の妄想です。

 ──なぜ、五箇山で硝石を作ったのでしょう?

 五箇山の案内では、幕府の目が届かない秘境だから、と説明されています。
 しかし、本当にそれだけにしては、五箇山は秘境に過ぎます。まるで幕府どころか、同じ加賀藩内部にすら、ここで作っている硝石についての情報が漏れないよう、気をつけているかのよう。

 しかも、それだけの秘だというのに。
 作られた硝石は、意外なほどまっとうに「塩」として、金沢の町にまで出荷されています。箱を牛の背にのせて、五箇山の住人が山奥から届けに来ています。まるで、塩硝(硝石)であること自体は、バレてしまってもかまわない、という風に。

 五箇山の硝石造りで、本当に秘すべきことは、もしかしたら硝石を作っているということではなく、その造り方だったのかも知れません。そしてそれは、後に書物としてまとめられた、観光案内に記されている造り方ではなく。

「なんまんだぶ、なんまんだぶー」
「来年も、ようけ塩硝が採れそうだわ」
「骨の太いお侍さんだったからの」
「お、これは去年の……親子連れだったか」
「子供の方は、きれいにおらんなっとる」
「ありがたや、ありがたや。なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 みたいな意味で、秘すべきことであったとしたら。
 それはまさに、村の外に知られてはならぬ禁忌ではなかったかと。
 雨にけぶる合掌造りの家々をながめつつ、あれこれと妄想を楽しんだのであります。