俺に明日は来ない Type1 第12章
自分のうなされる声でふと気がつくと、俺のアパートの窓から朝日が差し込んでいた。 思い出すまでもない。 両手にかいた脂汗以上に、残る感触が気持ち悪い。 本人の意思とは関係なく、塞がれた気道と動脈がびくびくと酸素を求めて跳ねる。力ずくで上から押さえ続けていると、やがて彼の体全体が震え出した。徐々に大きくなっていったと思ったら、張り詰めたゴムが弾性限界を迎えたように力を失って動かなくなった。 手を離した途端に動き出すのではないかと無駄な心配をしながらゆっくり水上の首から両手をずらしていく。知らず知らず俺も息を詰めていたようで、肩で大きく息をしながら浮いていた腰を下ろす。水上の腹の上はついさっきよりも深く沈み込んだような気がした。 少しずつ俺の息が整えながら目を開けると、僅かも上下していない水上の胸の上に、代わり映えしない自分の両手が見えた。恐る恐る視線を上げていくと、伸びたTシャツの襟では隠しきれない赤黒い指の跡が、月明かりでもそれとはっきり分かるほど痣になっていた。大きく開いた口から下が突き出て、両目はそっぽを向いて見開かれている。 見なきゃ良かったのに水上の死相を正視して今夜だけで3回目の吐き気を覚える。死んでいたとて、幼なじみの体の上には吐瀉物を出したくなくて横に跳ね飛んで校庭の土へ僅かに残った胃液を吐き出した。 記憶に連想されて、生きている俺は再び吐きそうになり掛け布団を跳ね飛ばすと便器を求めて狭いアパートを駆けた。4回目の嘔吐は胃液だけでなく消化途中の食べたものも含まれていたので、前回よりは幾分楽だった。 ……今吐き出したこれは、いつ食べたものだ? 臭いも流すのも忘れて汚れた便器の水たまりを見つめて記憶を掘り返そうとしていると、外から踏切の音が聞こえた。 死後の世界に、鉄道は走っていない。走らせる技術を持つ人も居なければ、需要もない。踏切の音だけなら報知された機械の誤動作を疑えたが、やがて電車が線路の段差を踏み越える規則的な音に気がついた。 昨晩は、高校を出てアパートへ帰ってきた記憶は無い。 つまり、持ち帰れないはずの死後の世界の記憶を俺は保持したままだが、生きている世界に俺は居るのだ。 どれくらいそうしていたか分からないが、飛び出してきた寝室から、仕掛けられた目覚ましのアラームが鳴り出した。 水を流して手を洗い、ついでに春先の冷たい水で顔も洗って寝室に戻ると、死後の世界の俺の部屋にならあるはずの作業着はどこにもなかった。 いつまでも喧しいアラームを切ると、まさか寝間着のままで外の様子を見に行くわけにもいかないから、のろのろと高校の制服を身につける。条件付けによるものだろうが、無意識に通学カバンを持って家を出た。重い足を引き摺るように通学路を消化していく。 「よっす、今日も朝は苦手みてえだな」 振り向くと高橋が俺を自転車で轢こうとしていた。 「危ねえ」 「寝起きの樋口にどついて気合いを入れてやろうとした俺の優しさを分かってくれてもいいんだぜ? それにしても、2年になったばっかりなのに、制服を着崩しすぎじゃねえ? 先輩達にシメられるぞ」 見下ろしてみれば、シャツも学生服も普段通りの俺ならもう少しましな着方はないのかとまゆをひそめるほど、だらしなかった。 今日はそれを直す気力がどうしても沸かない。 「絞めたのは俺の方さ」 「……あん? 何て言った?」 「なんでもない」 「顔色も酷いし、体調でもおかしいのか」 少し真面目な表情になった高橋は俺の顔をしたからのぞき込んだ。 「起きたときから頭痛と吐き気がして」 嘘はついていない。 「変なものでも食ったんだろ。覚えはないのか」 「ないなあ」 今度は純度10割の嘘だった。内心はどうであれ顔色一つ変えずに人を殺せる水上と違って、俺に人殺しは出来ないようだった。 それでも。何が適材適所だよ。くそ食らえ。 「今日はこのまま帰れよ。先生には上手く言っておくから」 サボりか。たまにはそれも良いかもしれない。 「……そうする。よろしく」 「おう、気をつけて帰れよ。今にも車に轢かれそうだ」 「自転車だって車なんだぜ、確かにさっき轢かれかけたな」 「……俺のことかよ。やっと減らず口くらいはたたけるようになったか」 高橋との他愛ない、次の瞬間には忘れてしまいそうな遣り取りで少しだけ気分が上を向いたような気がする。 アパートに帰ったところで再び気持ちが沈み込みそうだったので、当てもなく散歩することにした。行き先を決めていなかったのだが、辿りついたのはあっちの世界で水上と忍び込んだディスカウントストアだった。 日が暮れたら柄の悪そうな同年代が店頭に屯する24時間営業の店だが、連中にとって今からならまだ1時限目にぎりぎり遅刻するこの時間帯は早朝なのだろう。既に朝日とは言えなくなった太陽に照らされた看板の下は平和そうだった。 狭いショーケースや天井まで棚に積み上げられた商品の間をすり抜けるような店内通路は空いていて、買い物をするために来たわけじゃない俺にとって丁度良い時間つぶしになる。 体感時間では1ヶ月以上もこっちの世界で生活していないから、ティッシュや洗剤といった日常消耗品を眺めていても家に買い置きがどれくらいあったのか思い出せない。 玩具売場で水上が使っていて見覚えのある自動拳銃のエアガンを見つけた。18禁指定されていて俺には買えないが、同い年の幼なじみが火薬式の本物を当たり前のように撃っていたのを考えると少しおかしかった。 レジ近くのブランドものコーナーで、ふと視界の端に何かが引っかかった。何かと思えば、整然と並んでいる中のある一つは、陳列されているところから取り出されたところは直接見ていないのに、あっちの世界で俺が使っていたオイルライターだと何故か分かった。無意識にライターの定位置となっていたズボンの左ポケットを左手が、煙草を入れていたシャツの胸ポケットを右手が、そこにあるはずのないものを探っていた。 記憶があるということは、経験も習慣も同様に持ち越したと言うことなのだと実感する。 つい一瞬前までは全く頭から抜け落ちていたのに、今は無性に煙草が吸いたくなっていた。 「あ、ちょっと、すみません。コレください」 レジの店員に声を掛ける。 「あと、えっと。……51番を一つ」 「はい?」 俺の顔を見て、そして服装を見て、大学生のアルバイトらしいレジ打ちのあんちゃんが怪訝な顔をしていた。 高校の制服を着たままだったことに今更気がついたが、高橋が3年に因縁を付けられそうだと言ったほど着崩してもいる。開き直ってしばしにらみ合いを続けると、先に折れてくれたのは店員だった。 さっと周りを見て、レジに並ぶ他の客も他の従業員も自分たちに注目している人は居ないことを確認して、彼は俺が指さしたライターとオイルを鍵付きのショーケースから手早く取り出した。続いて流れるような手つきでハイライトを2箱取り出すと、まとめて大人のおもちゃ用に用意されていると噂されている、中身が見えないレジ袋に入れた。 [...]