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Like a bird

■Imaginary 1

“たとえば一羽の鳥のように、大空を自由に飛びたい”
そんなささやかな少女の願いを叶えたい、と。
夢を失った少年は、ただそれだけを――それだけを望んだ。

“Like a bird”
――An attempt of the aerodynamical static field 航空力学的静止場の試み――

■Count 0 “魔法使いって航空力学には無頓着なんだよね、伝統的に”と魔法使いは言った

「ねえ、しーちゃん。空って飛べる?」
ある日の昼下がり、喫茶『玲瓏華穏(れいろうかをん)』のランチタイムを過ぎて休憩時間になると、文恵はいつものように香坂家の居候を呼び出した。
「……えー、あー?」
寝癖のついたままの頭を掻き掻き、自称魔法使いの青年は気のない返事をする。
「昔やってみせてくれたじゃない」
二人が初めて出会った時、文恵は彼の腕につかまって空を飛んだことがある。あの高揚感は、忘れられそうにない。
「できるにはできるけど……んー」
「できるけど、なに?」
「……めんどくさい……」
だるそうにつぶやきながら、魔法使いは4人掛けのテーブルに突っ伏する。
「ンもう。“働かざる者食うべからず”よ? しーちゃん」

――東京湾に面したとある港町の片隅に、その店はある。
古くから西欧との交流盛んなこの街には、洋風のたたずまいを見せる古い家屋も多い。昭和の前から開業しているという『玲瓏華穏』は、百年の歳月を積み重ねた煉瓦造りの建物の中にあった。

「もちろん飛行術そのものの研究はずーっと昔からあった訳だけど。魔法使いって航空力学には無頓着なんだよね、伝統的に。……個人用飛行術式系(Personal Flight Systems)の原型ができあがったのはやっぱり昭和に入ってからだったね」
もそもそと遅い昼ご飯を食べながら、柴羽(さいは)は飛行術の解説をしはじめた。
「でも、魔女のホウキとかはあったんでしょ?」
「まあ、アレは空飛ぶ自転車みたいなものでサ。魔法で物体を飛ばすこと自体はそんなに難しくないんだ。基本的には、空飛ぶホウキなり絨毯なりに人間が乗っかってるだけだから。今は流行ンなくなったけど」
「どうして?」
「事故が多くてね。電線に引っかかったりとか、風で煽られて壁にぶつかったりとか」
柴羽のために食後のお茶を入れながら、文恵は「世知辛いのねェ」とため息をこぼした。
「で、なんでまた空を飛ぼうなんて考えたの? 文ちゃん」
それがね、と文恵は前置きし。
「この間、新しい子が編入して来たんだけど……」
そうして、彼女は編入生の話をしはじめた。
「背中に羽が生えてるのよ」

■1st 拝島翼

文恵が通う定時制高校には、様々な事情を抱えた生徒がやってくる。拝島翼(はいじま つばさ)もそのひとりだった。
「拝島翼です。よろしくお願いします」
初めて文恵のいるクラスに来た日、彼女は短く自己紹介をした後、誰とも目を合わせないままうつむいた。
品良く切りそろえられた髪と、健康的な小麦色の肌。活発そうな印象とは裏腹に、彼女の左手首には真新しい包帯が巻かれ、それが彼女の“事情”を物語っていた。
ただ、文恵のクラスでは、そう言う事情は珍しくはなかった。文恵が入学してからも、同じような傷痕を持つ生徒が何人か入って来て、その内の二人は二度と登校することなく学校を去っていた。
しかし何より文恵の目を引いたのは、彼女の背中に広がる青白い、大きな羽だった。

水鳥を思わせる、均整の取れた羽が、肩胛骨のあたりから生えていた。
「……大きな羽」
思わず呟いてから、文恵は周りを見渡した。隣の席の洋子が「羽?」と聞き返す。
どうやら、彼女には羽が見えていないらしい。
「ううん、なんでもない。ひとりごと」
そうごまかして、転校生が席に着くのを目で追った。

文恵の目は、魔法を直接見ることができる「妖精の目(Second Sight)」だ。
現代の魔法使いたちが魔法を操る時、魔法光(Mageflash)と呼ばれる独特の発光現象が起きる。普通の人間には見えない光だが、稀に魔法の素質がなくてもそれを感じ取る力を持つ者がいる。文恵もその一人だ。
今、文恵の目は拝島翼の背中に羽を見ている。同級生の洋子には、それが見えていない……とすれば、これは魔法の羽らしい。
妖精の目の良いところは、魔法が見える他に、どんな魔法がかかっているのか、ある程度イメージとして翻訳してくれるところだ。おかげで、それが危険な魔法なのか、直感的に判断できる。少女の羽からは、危険なイメージは受け取れなかった。羽は、椅子に座った彼女を守るように、行儀良く折りたたまれている。

きっと、これは空を飛ぶための羽なのだろう。

危険なものではなさそうだ、と胸をなで下ろした時、文恵と翼の目が合った。文恵にも憶えがある、暗く、この世のありとあらゆるものに絶望した少女の瞳だった。
羽よりもこちらの方がよっぽど危険だ、と文恵は思った。

■2nd 喫茶『玲瓏華穏』

話しに一区切りついて、お茶のおかわりを注いだところで柴羽が口を挟んだ。
「その羽って、ずっと見えてた? 揺らめいたり、途中で消えたりするんじゃなくて」
「うん。勝手に閉じたり開いたりすることはあったけど」
「魔法光にしてはずいぶん長いよね」
眠そうだった彼の目がらんらんと輝いている。彼は他の話題には全く興味を示さないが、魔法の話となると別なのだった。
“他人の術を盗める機会はあまり多くないから”というのが彼の言い草だ。文恵としてはもう少し日常的な会話も楽しみたいのだが、改まる気配はない。
「前にも説明したけど、魔法光というのは、魔法使いが術の状態を確かめるために使うんだ。正常に働いているなら青、何か異常があったら赤とかね。たいていは、ぱっと光って、すぐ消える」
「つけっぱなしにはしない?」
「魔法は、効果を発揮したらすぐに消えるものなんだ。自分の身を守るために防御魔法をかけっぱなしにすることはあるけど、普通の魔法使いは魔法光を身にまとったまま学校に行ったりしない」
魔法光は、目に見えないようにそれ自体が魔法で加工されているとはいえ、物理的な発光現象でもある。写真を撮れば、ぼんやりとした光が写ってしまうこともある。
魔法使いは可能な限り、魔法使いであることを隠す。“魔法というのは知られていないから魔法なんであって、知られてしまったら魔法でなくなる。どこかの国みたいに魔術禁止法なんか作られたら嫌(ヤ)だからね”とはいつぞやの柴羽の台詞。
「それじゃ、つーちゃんは魔法使いじゃないのね」
つーちゃん、とは件の拝島翼のことらしい。適当なあだ名をつけるのは文恵の癖だ。
「断定はできないけど、可能性は低いね」

■3rd 少女たちは死と遊ぶ

“羽よりもこちらの方がよっぽど危険だ”という文恵の危惧は初日から当たった。
3時間目、日本史の授業の前に教室を出た翼は、授業が始まっても席に戻らなかったのだ。10分待って戻らないことを確認した文恵は、手を挙げて辻村教諭の授業を止めた。
「辻村先生、今日編入した拝島さんが戻りません。迷子になってるのかも。探しに行っていいですか?」
「香坂くんに心当たりがあるのかね」
「はい、たぶん」
「では任せよう」
事なかれ主義で知られる辻村教諭は心得たように言い、文恵は授業を抜け出した。こういうやりとりも初めてのことではない。何ごともなかったかのように授業を再開する声を背に受けながら、早歩きで屋上へと向かう。
普段、屋上に通じる扉は施錠されているが、文恵のクラスがある第3校舎の屋上の扉は鍵が壊れていた。開け方に少々コツはいるが、開けようと思えば開けられるのだ。編入してきたばかりの翼が、偶然開けてしまう可能性は充分にあった。
なお、壊れていることは学校側も把握しているはずだが、この学校は慢性的な予算不足で授業に関係ない設備の修理は遅れがちだった。
文恵が階段を昇りきると、果たして屋上の扉は開いたままだった。文恵は上履きを片方脱いで扉に挟み、扉が勝手に閉まらないようにした。そうしないと戻る時に面倒なのだ。

晩秋の夜風の寒さに身を震わせながら外に出ると、翼は転落防止フェンスの上に座っていた。その背中の羽は横一杯に広がっていて、まさに今、夜空へ飛び立とうとしているようだった。
文恵はごく自然に、その青白く光る背中に向けて言葉を投げかけた。
「どう? 飛べそう?」
翼は振り向いた。羽の光に照らされたその横顔は、最初に見た時と同じ、暗く、淀んだ表情をしていた。
「飛んだら死にますよね」
特に興味のなさそうな口調で、翼は答えた。
「死にたいんじゃなかった?」
「むっちゃ死にたいです」
「でも、そんな立派な羽があったら無理そうじゃない?」
「えっ」
その時、翼は初めて、意表を突かれた表情をした。
「私もそっちに行っていい?」
「……止めに来たんじゃないんですか」
あきれたような、でも少しだけ興味を引かれたような翼の声。
それを同意と受け取って、文恵はフェンスに近づく。翼の背中の羽はごく自然に折り畳まれ、文恵の動作の邪魔にはならなかった。
「……お好きにどうぞ」
フェンスをよじ登り始めた文恵を見て、翼は諦めたように言った。
「うわ、怖ァい」
翼の隣に腰掛け、下を覗き込んだ文恵は緊張感のない声を出した。屋上の明かりは非常灯だけだが、校舎の周りは電灯で照らされていて、何も植わっていない花壇がよく見えた。
「……変な人」
「頭おかしいってよく言われるよ」
「……私も同じ事を言われました」
フェンスの上で、ゆらゆらと足を揺らしながら、少女たちは死と遊ぶ。
「ねェ、そのきれいな羽、どうしたの?」
文恵の問いに、翼はしばし逡巡してから口を開いた。
「……羽、ついてます? 見えるんですか、本当に?」
「うん。すっごく大きな、青くてきれいな羽。今すぐ飛びたそうな格好してる」
「……そう、ですか」
翼はうつむくと、自分の体を抱きしめるようにして、愛おしそうに背中をなで始めた。
「そっか……羽、あるんだ……無駄なんかじゃ、なかったんだ……」
ひとりごとを呟く翼の声に涙が混じる。
「その魔法、自分でかけたの?」
「いいえ……これは、私の大事な人が付けてくれたんです。命と引き換えに」
「……そう、ごめんね。辛いこと聞いちゃったね」
「いえ、ちゃんとあるって分かって良かったです。私じゃ……見えないから……」
翼の両目から涙があふれ出し、少女は顔を伏せた。文恵はとっさに翼の身体を支えようとして、背中に手を回して抱き寄せる。その時、文恵は初めて魔法の羽に手を触れた。触れたという感触はなく、手はすり抜けて翼の背中を撫でるだけだったが、文恵の“妖精の目”には違う光景が映っていた。

一面にすすきの生えた斜面で遊ぶ、幼い男の子と女の子。
男の子は大きな本を大事そうに抱え、女の子は彼の周りを元気に駆け回っていた。
斜面の中ほどに一本だけ桑の木が生えていて、何が楽しいのか、女の子がその周りをくるくると回る。男の子が手をかざすと、彼の身体から青い光が出て、女の子の身体を包み込む。女の子はそれに気づいた様子はなく、両手を翼のように広げながら斜面を駆け下りていく。青い光りに包まれながら、その身体が、ふわり、と地面を離れ――。

文恵がその光景を幻視していたのは、数秒にも満たない間だった。女の子の、つまりは幼い頃の翼の無邪気な笑顔が文恵の心に強い影を焼き付けていた。

■4th 喫茶『玲瓏華穏』

「よく風邪引かなかったね」
「しーちゃんの魔法がなかったら危なかったかも」
文恵にはだいたいいつも柴羽の作った防御魔法がかかっている。一定以上の暑さや寒さからも守ってくれる他、転落から命を守る「受動的落下速度制御術式(Reactive Counter-gravity Programs)」が仕込まれていた。フェンスをよじ登っても平気でいられたのはそのおかげだ。
「いつもありがとね」と文恵がいい、「どういたしまして」と柴羽が返す。
二人の間に穏やかな空気が流れて、文恵は照れくささを隠すように三杯目のお茶を淹れに席を立った。
「でもつーちゃんは風邪引いちゃったらしくて、次の日学校休んじゃったの。一応電話して見たんだけど、本当に風邪みたい」
文恵は既に翼と電話番号を交換していたらしい。そういうところの行動力は真似できない、と柴羽は思う。しかし口に出してはこう言った。
「まあ、風邪引いて寝込んでる間は自殺もできそうにないね」
「それはそうなんだけど」
文恵の手の急須が、こぽこぽとのどかな音を立てる。
「つーちゃんが涙ながらに話してくれたのは、その羽の魔法をかけたのがつーちゃんの……うーん、恋人っていうかボーイフレンドっていうか、か、彼氏?」
「なぜそこで言いよどむの文ちゃん」
文恵はどこか恨めしげな目線を柴羽に送ると、言葉を続けた。
「ともかく、そういう感じの人で、つい最近亡くなったんだって」
「なるほど」
「若いのに長いこと患ってたらしくて、つーちゃんも臨終に立ち会ったって」
「そりゃァ辛そうだ」
「ねェ」
柴羽の前にお茶を置きつつ、文恵も反対側の席に座る。
「それで、つーちゃんに『鳥のように空を飛ぶ魔法』をかけるのが、その人との最後の約束だったんだって」
「ふむ」
「しーちゃんに聞きたいのは、空を飛ぶ魔法がどのくらい難しいのかってのと、つーちゃんの背中の羽で本当に飛べるのかどうかってことね」
「ふーむー」
柴羽は湯飲みを置き、腕を組んで考え始めた。
「まず最初の質問だけど、『宙に浮いて移動する』だけならそんなに難しくない。ただ、『鳥のように』てのがちょっと引っかかるかな」
「そなの?」
「うん。僕ら魔法使いにとって、その二つは全然別のことなんだ。もし『鳥のように』ってのが僕の考えてることと同じだとすると、それはかなり難しい」
魔法使いは滅多に「できない」とは口にしない。その代わりに、「難しい」という言い方をよくする。試しては見るけど成功するとは限らない、というニュアンスだとか。
「ふぅン……じゃあそこは、つーちゃんに確認しないと駄目ね」
「次の質問だけど、その“羽”を試すのはちょっと考えものだね。魔法使いは死ぬ時に自分の魔法を後に残さないのが常識なんだ。術者が死んでもなお続いてる魔法は、制御に失敗した魔法だと考えるのが安全かな」
柴羽たち魔法使いが一番恐れるのは、自分の魔法が暴走して意図と異なる効果をもたらすことだ。だから、魔法使いは何重にも安全装置を張り巡らせて、魔法が暴走しないようにするし、死ぬ前には自分のすべての魔法を解除させるという。もし魔法の儀式の途中で意識を失うようなことがあっても、安全に魔法を打ち切れるような訓練を積む。
それゆえに、死んだ後も魔法が続いているとなると、それは訓練や覚悟の足りない魔法使いが制御に失敗した果てに遺ってしまったものだ、と考えるのが自然だ。
「例えば僕は魔法学会の安全基準でクラスIVの資格を持ってるけど、これは心停止に準じる過酷環境下において、100回連続で術式を正常終了させないと取れない。もちろん本当に心臓を止める訳じゃなくて、あくまでも魔法で似たような状況にしてって話だけど」
「……あんまり無茶しないでよね」
柴羽は得意げに語るが、文恵はなんだか不満そうだ。柴羽は慌てて話題を変えた。
「ともかく、文ちゃんの見た羽が飛行術式だったとしても、失敗している可能性の高い術式にその子の命を賭けるのはお勧めしないな」
「しーちゃんの魔法だったらなんとかなる?」
文恵は、「空を飛ぶ」という翼の願いを叶えることで、翼の気持ちを整理することができると考えているようだった。
「簡単な方だったら、文ちゃんが学校から帰るまでに用意しとく。難しい方はちょっと考えさせて」
「うん。じゃあ“お願い”、柴羽」
文恵が魔法使いの真の名を口にするのは、願いを口にする時だけだ。
「Yes lady, my master.」
すっと立ち上がった魔法使いは、自分の主に恭しく礼をする。
それが、二人が出会った時から続く、二人だけの儀式だった。

■5th その手を二度と離さないと誓った

文恵はいつも、夕方の開店準備をする父を手伝ってから登校する。文恵の通う学校では授業の前に給食が出るのだが、この時間はいてもいなくても良いというルールになっていた。 翼にメッセージで出欠を確認すると、「給食の後で行く。授業には出る」という内容の返事だったので、授業の後で少し話そうとメッセージを送ると、「私も話したいことがあるので」と了解の旨が返ってきた。
問題はどこで話すかだが、あまり他人に聞き耳を立てられたくない話ではある。かといって学校の後で『玲瓏華穏』に来てもらうのは、無用に翼を警戒させるかもしれない(魔法使いの間では、自分の縄張りにいきなり他人を呼ぶのは失礼になるらしい)。結局、屋上に出る扉の前で話すことになり、厚着で来るようにとメッセージで念押しした。
放課後、翼と連れ立って階段を昇り、登り切ったところに小さなビニールシートを敷いてささやかなお茶会を開いた。父が持たせてくれたマカロンと、魔法瓶に入った紅茶。手際よく並べて、プラスチックのコップに紅茶を注ぐ。香りはだいぶ落ちていて、温度も温くなっているが、それでも紅茶は紅茶だ。
「……用意が良いですね」
差し出された紅茶を受け取りながら、翼があきれたように言う。
「家が喫茶店やってるから」
「そういう問題でしょうか」
「いつでも『もてなしの心(hospitality)』を忘れちゃ駄目ってお父さんがうるさいの」
「……良いお父さんですね」
そうかしら、そうですよ、としばしとりとめのない会話が続いた後で、翼が先に本題を切り出した。
「香坂さんは魔法使いなんですか? それか、魔法使いに知り合いがいるんですか?」
「私じゃなくて、知り合い……うーん、なんていうんだろ。まー、知り合いが魔法使い、かな」
柴羽のことを念頭におきながら答える。本人からは、特に隠し事はしなくて良いと伝えられていた。それはそれで、大事なことは何一つ文恵に語っていないということなのか、とも思うが、最近単に彼は無頓着なだけではないかとも思うようになってきた。
「瑞沢柴羽って言うんだけど」
「みずさわ……うーん、彼から聞いたことがあるような、ないような……すみません、はっきりとは」
「そりゃそうよね」
普通の女子高校生が魔法使いの名前など、いちいち覚えていられるわけがない。文恵が把握している限り、日本の魔法クラスタでは柴羽の名はそこそこ有名になりつつあるようだが、一部では“魔王”とか“虚無を見つめる者(Voidgazer)”などのあまり名誉とは思えない二つ名で呼ばれているらしい。
「瑞沢さんの専門は分かりますか? あと、どのくらい……その、腕が良いのか、とか」
「専門は物理……かなあ? ただ、腕は良いらしいし、あんまり不得意なことはないって本人は言ってたけど」
翼はしばらく口ごもった後で、絞り出すようにその言葉を口にした。
「あの、その……死んだ、人を……」
その“願い”を、文恵は予想していた。
「お願いしてみても、良いよ?」
「本当ですか!? 本当に、生き返られるんですか!?」
勢い込んで、文恵に取りすがる翼を落ち着かせるように、文恵はじっと、彼女の瞳を見つめた。暗闇を覗き込むように。
翼の目が、何かに気づいたように、見開かれる。
「ただ……成功するかどうかは、保証できないの。五分五分とさえ言えない……かなり厳しいと思う。ごめんね」
かつて、文恵は柴羽に死んだ友達の復活を願おうとしたことがある。彼はできないとは言わなかった。“極めて難しい”とだけ言い、彼がそんな風に表現したのはその一度だけだ。おそらくは十にひとつも成功しない、万に一つあるかどうかの世界なのだと、文恵は受け取った。そして、その願いを口にすることはなかった。
「そ……それでも……少しでも……」
たぶん、翼は必死で探したのだと思う。死者復活の願いを叶えてくれる魔法使いを。その思いを否定することはできなかった。
「だって……あんなに、あんなに苦しんだのに、そんなの、ひどいよ……」
“臨終に立ち会った”と彼女は言った。どれだけ壮絶な最期だったのかが、翼の様子から偲ばれた。締め付けられるような胸の痛みと罪悪感を感じながら、それでも、文恵は残酷な宣告をしなければならない。
「どうなっても、それはあなたが責任を持たなければならないの。それでも良いなら、私がお願いしてあげる。何があっても、あなたを恨んだりはしないから」
もしも、柴羽に死者復活を願ったらどうなるか。どれほど危険な術式になるかは想像もつかない。けれども、代償のない魔法はない。失敗しても成功しても、自分も柴羽もただでは済まないことが容易に想像できた。それでも文恵は願いを請け負うと言った。

助けを求める手を二度と離さないと誓った、あの日のことを嘘にしないために。

「せっかく、楽になったのに……あんなこと、もう一度、なんて、そんなこと、私……うあ、うぁぁぁぁぁ……」
言葉を失っていく翼の身体を、文恵はそっと抱きしめた。文恵にも分かる死者復活術の問題は、復活した人間は「いつかもう一度死ぬ」ということだ。そして、現実の魔法は必ずしも成功と失敗がくっきり分かれる訳ではない。中途半端な結果になった場合、何度も生と死の境を彷徨うことになるかもしれない。その苦しみは想像を絶する。
しかしそれは、翼が罪として背負わなければならない。恋人をもう一度死なせることの責任は、他の誰にも肩代わりできない。
泣き続ける翼の背中を、文恵は優しく撫でた。
翼が泣き止むまで、ずっと。

■6th 喫茶『玲瓏華穏』

その後、翼を家まで送り届けた文恵が帰宅したのは深夜になってからだった。明日はお店の方は定休日で、手伝わなくても良いのが救いだ。
「……という訳で大変だったのよしーちゃん」
「あんまり無茶しないで欲しいなあ」
文恵の帰りを待っていた柴羽は苦笑する。文恵は「ごめん」と素直に謝った。
「でもほんとのところ、死んだ人を生き返らせるのってどのくらい難しいの?」
「論文誌で読んだ限りじゃ、3年保ったって報告はひとつもないね」
「うわァ厳しい……」
「復活させられる本人も辛いんだけど、家族や関係者の生活を壊しちゃうことが多くて、最近は試すのも稀になっちゃったね」
溜息をついた文恵はがっくりと肩を落とす。
「ところでしーちゃん、どうしたのこれ」
これ、という文恵の一言に「この有様は」というニュアンスが込められていた。
文恵が帰宅した時、『玲瓏華穏』の店舗には明かりがついていて、まだ父が何かしているのかと覗いてみると、床一面にチョークでびっしりと書き込まれた魔法陣と、一心不乱にそれを書き続ける柴羽が目に入り、文恵はしばし絶句したものである。
ちなみに、元々あったテーブルや椅子は何か三次元的にあり得ない形に積み重ねられ、片隅に追いやられていた。
「これが今一番使われてるタイプの飛行術式。簡単だったからちょっと描いて見た。おやっさんには一応許可をもらったよ」
「たぶんお父さんはこういう意味だと思ってないと思う」
「……ちゃんと元に戻すから大丈夫。傷一つつけないし、チョークの粉も残さないから」
「そこは信用するけど」
柴羽の魔法の多くは物理的な力や現象を発生させるもので、マイクロメートルのレベルで制御して見せたことが何度もある。普段その力が喫茶店の皿洗いに使われているのはどうかとも思うが、香坂家としてはとても助かっているので文句は言えない。
「……よくこんなに描き込めるなァって感心しちゃうけど、いつもそんな風にチョークで書いてるの?」
「いや、これは古いやり方。これより複雑になるとチョークじゃ無理だねェ。それじゃ、転写(transcript)っと」
柴羽が「転写」と言うと、チョークで描かれた線とルーン文字がすべて青い光に変わる。見たところ、粉はすべて光に変わったようだ。おそらくこのチョークは魔法の道具なのだろう。
「これで完成?」
「とりあえず試運転して見ないとね。真ん中に立って、力抜いて」
「えっ、私?」
「僕が制御してたら意味ないよね。術式の対象になる人が自分で制御しないと。その子でいきなり試す訳にいかないから、文ちゃんにやってもらわなきゃ」
「今スカートなんだけど……」
学校から帰ってきたばかりの文恵はセーラー服姿だった。
「50センチも持ち上げないから大丈夫」
「ンもう、魔法のことになると見境ないンだから……」
夜中までずっとこの作業をしていた彼のことを思うと、着替えるからちょっと待って、ともすぐには言いづらい。ま、いいかと呟きつつ、柴羽に急かされて魔法陣の真ん中に立つと、文恵の身体の周りを青い光が締め付けるように取り巻いた。
《個人用飛行術式、試験発動》
光る魔法陣がゆっくりと回転を始め、身体が少しずつ宙に浮く。
「わァ……」
「これが今一番普及してる個人用飛行術式。魔法で力場を作って、垂直からやや斜め前に引っ張り上げてる。どお?」
「後ろから誰かに羽交い締めにされてる感じ」
「そりゃまァ、そうだね」
実際、光る帯がたすきがけのように文恵の身体を囲んでいる。
「これ、制御ってどうするの?」
「体重を左右に傾けると方向転換、上体を前傾すると上昇、垂直にすると下降。この術式だと操作性はいまいちかな。戦闘機とドッグファイトはやらない方がいいね」
「ちょっと回ってみてもいい?」
「いいよ。加速は最低にしてあるから、ちょっとぐらい振り回しても大丈夫」
「ほんとだ、回る回る」
おそるおそる、身体を傾けると、確かにくるくると回り始めた。
「で、身体を前に傾けると上昇……だっけ?」
「うん」
だんだん楽しくなってきたのか、文恵は思い切りよく前傾姿勢を取った。すると、ぐいっと勢いよく文恵のお尻が持ち上がる。
「あっ」
慌ててスカートの裾を抑えるも時既に遅し。
「……水色に白の水玉」
「しーちゃんの馬鹿ぁぁぁぁぁ!」
くるっと身体を回した文恵の足が鈍い音と共に柴羽の側頭部を捉え、彼は見事にひっくり返った。しかし意識を失う前に魔法使いは術式を制御しきり、文恵は無事着地することができた。
この時、柴羽には避けるなり、手で頭を守るなりする余裕があった。しかし、彼にとっては頭を守るよりも、自分が意識を失った後で文恵がどうなるかの方が重要だった。彼は冷静に、自分の頭をめがけて飛んでくる文恵の足の軌道を見つめながら、文恵が無事着地できるようとっさに魔法を終了させてのけたのだった。

■7th 光の魔術師

犬も食わないような騒動の後、寝間着代わりのスエットに着替えた文恵は、テーブルと椅子を元に戻す柴羽をじと目で眺めていた。複雑に組み合っていたはずのそれらは、魔法の光に包まれながら音も立てずに宙を漂い、元の配置に戻って行く。
「飛行術を研究していた魔法使いは多かったンだけど、僕らは根本的に『航空力学』というものを理解していなかった。風の強さ、恐ろしさというのを完全にナメていたんだ」
なお脳震とうを起こした柴羽は直前の記憶を失っており、文恵のプライバシーは無事守られたのだった。意識を取り戻した柴羽は文恵が怒っている理由が分からず、恐々としながらも間を持たせようと飛行術の歴史を解説し始めた。
「1893年、空飛ぶ絨毯から落ちて死んだポーラ・“ヘルキャット”・マコーリー。1925年、魔力で動く飛行機械に乗ってグランド・キャニオンから転落したジョナサン・ダイモン……何人もの偉大な魔法使いを事故で失って、ようやく僕らは近代科学を見直す気になった。飛行術の実験には徹底的な安全対策が施され、その結果、飛行術を専門に研究する魔法使いはものすごく少なくなったんだ……若い魔法使いの間では、飛行術はすっかり不人気部門だよ」
「へえぇ……需要ありそうなのに、残念ね」
「並みの魔法使いなら、安全対策だけで魔力尽きちゃうからねェ。仕方がないよ」
「そんなに大変なの?」
「例えば、転落や衝突の時にエアバッグみたいなダメージを軽減する空気の壁を作るんだけど、これは成功・失敗にかかわらず3秒以内に3回投射しなきゃならない。これがもう、一苦労」
魔法の成功率は常に100%と言うわけではない。そのため、瞬時に何回も投射することで成功率を高める。百回に1回失敗する魔法を3回連続で唱えれば、すべて失敗する可能性は百万分の1になる。これを『三重投射法』という。
「最初にかけとけばいいのに」
「魔法の制御に失敗した時は、最初にかけた魔法も解除されちゃうことが多いから。事故った時にはアテにならないンだ」
「パラシュートとかは?」
「1939年にアメリカ人の魔法使いがパラシュートを背負って実験したんだけど、横風を受けた時に慌ててパラシュートを開いちゃって、術式と干渉したパラシュートが身体に絡まって落ちて死んだ」
「えうぅ……」
「それでまァ、パラシュートがあってもなくても魔法で安全対策をするべし、ということになった訳だ」
「空を飛ぶって大変なのねェ……」
だんだん柴羽を一人で働かせていることに気が引けてきた文恵は、お茶でも淹れようとお湯を沸かし始める。
「で、文ちゃんはさっきのどう思う?」
「うーん……」
文恵は口ごもる。翼に触れて幻視した光景と、柴羽の飛行術式が重なるようには思えなかった。だが、“ピンと来ない”とは言えなかった。文恵の目は魔法に触れた時、その魔法に関わる記憶を幻視することがある。柴羽の飛行術式に触れた時も、幻視は起こっていた。営業を終えた『玲瓏華穏』の中で、黙々とルーンを刻み続けた魔法使いの姿を。
そのひたむきな努力を、曖昧な言葉で台無しにする気にはとてもなれない。
「あんまりピンと来ないみたいな感じだねェ」
しかし、そんな文恵の心を読んだかのように柴羽が言う。
「そ、そういう訳じゃ」
「魔法使いにとっては、気を遣われるよりはっきりと『駄目』って言われた方がいいんだよ――魔法を間違ったことに使ってはならない。それは魔法使いにとってどんなことより屈辱的なことなんだ」
普段はうすぼんやりとした柴羽だが、こと魔法に関してだけは愚直なくらい真摯になるのだった。
「ごめん。私が“見た”感じじゃ、ああいうのと違うと思う」
「なるほど。そうするとやっぱりあっちが本命かなあ……」
「しーちゃんが昔やって見せてくれたのは?」
「あれは重力制御術の応用なんだよね。力の発生する機構が違うだけで、飛行術式と大きな違いはないんだ。飛んでる感じはするだろうけど、鳥のようにとはいかない」
「そうだったっけ……ううン、言われてみればそうかも……」
古い記憶を呼び起こしながら、文恵は唸る。
「それに、重力制御術は極めて複雑な術式で、文ちゃんが見たっていう羽の大きさに収まるとは思えないンだよね」
柴羽たち“光の魔術師(Photo-scripter)”と呼ばれる魔法使いの一派は、光り輝く魔法陣を使って魔法をかける。魔法陣の形は、柴羽がやって見せたような円とルーン文字による正統派(orthodox)から、翼の背中にあるような生物や植物をイメージしたものまで様々だ。しかし、複雑な術式になるほど魔法陣が大きなものになるところは共通している。
「ちょっと展開して見ようか」
柴羽がさっと腕を振ると、青い光の渦が沸き起こり、店内を埋め尽くす。
《重力制御術式、展開》
立体フラクタルを基調とする、幾何学的な魔法光が幾重にも柴羽を取り囲んでいた。
ああ、柴羽の魔法だ、と文恵は思い、その非現実的な輝きに見入った後、魔法陣が店の外まではみ出していることに気づいて我に返る。
「待って待ってしーちゃん、ご近所迷惑だから! 仕舞って!」
「魔法光が見えるご近所さんはいないと思うけど」
そう言いつつも、柴羽は逆らわずに術式を中断した。
「その重力なんとかが、つーちゃんの羽に収まりそうにないのはよく分かった……」
「でまあ、そうなると本命はこっちなんだけど」
そう言いつつ、柴羽は別の魔法陣を展開する。宙に大きな鳥を模した飛行機を、ワイヤーフレームで描いたような三次元図形が現れる。
「これは?」
「要するに翼の形に魔法で力場を作って、正面から風を受ければ揚力が働いて飛べるって話」
単純に言えば、平たい板を斜めにして風を受けると、板の下側では気流が圧縮され、上側では圧力が下がるため上向きの力が発生する。
「自然にある風の力を使う分、飛行術式より魔力効率が良いはずなんだけど……これは未完成なんだ」
「上手く行かなかったの?」
「いや、重力制御の方が効率が良かったンで研究する人がいなくなった」
「やっぱり世知辛い……」
「これの論文がThe Scrollに載った頃には、飛行術式の研究はもう下火だったし、仕方ないね」
The Scrollというのは、柴羽が購読している魔法学会の査読付き論文誌の名前だ。論文誌は他にもあるが、魔法学会では最も権威があって人気が高いのだという。
「しーちゃんも論文書いたりするの?」
「……今は書いてない」
柴羽が遠い目をしながら言うので、文恵が話の先を促すと。
「5本書いてThe Scrollに送ったけど、1本しか載らなかった……」
それでやる気をなくして書かなくなったというのが、柴羽らしい話だと文恵は笑った。文恵からすると、一本でも載るだけすごいと思うのだが。
「でも、肝心の魔法が未完成だと……困っちゃうわね」
文恵が淹れたお茶を二人で飲みながら、文恵は溜息をついた。
「まァ僕がコレを完成させれば良いって話なら……2、3日だとキツイかな。1週間もあれば」
「……それってしーちゃんが、不眠不休で頑張ってって話よね」
文恵の中では、柴羽に魔法を使ってもらうのと、新しく魔法を作ってもらうのは別のことだった。それはさすがに、“お願い”の範疇を超えていると思うのだ。柴羽が普段、魔法に対して身を投げ出すような打ち込み方をしているのを見ているだけに、躊躇してしまう。
とはいえ、先刻の憔悴の仕方を考えると、翼も危険な状態にあることは間違いない。手を打つなら早いに越したことはない。
二人がお茶を飲み終えるまで、静かな時間を過ごした後。
「……つーちゃんの彼氏さんの家に行ったら何か分かるかな」
「ふむ。研究メモのひとつでも残ってれば、手がかりになるかもね」
ふとした思いつきを文恵が述べ、柴羽も悪くない考えだと応じる。
そして、善は急げということになった。

■8th 何もなかった

翌朝、少し寝坊して父に起こされた後、文恵は翼とメッセージをやりとりして、彼氏の家の場所と電話番号を聞き出した。それから、彼との最後の約束を果たせるかもしれない、と切り出し、早まった真似をしないように言い含める。翼からは「分かりました」とだけ返ってきた。
彼氏の家に電話をかけて、正直に「拝島翼さんの知り合いですが」と話す。電話に出た母親に「ご位牌に手を合わせたい」と言うと、驚いている様子ではあったが、快く承諾してもらえた。同行者がひとりいることと、昼過ぎに伺うことを伝える。
着ていく服に悩む。柴羽はだいたいいつも黒っぽい格好をしているが、それに合わせる服がない。文恵の持っている服は近所の量販店で買った安物か、亡き母から受け継いだ着物ばかりだ。柴羽は無駄に高級な仕立て服しか持ってないので、安物を合わせるとちぐはぐになってしまう。文恵ひとりでは何が魔法に関して書かれたものか分からないし、柴羽ひとりで行かせる訳にもいかない。
無難に制服で行くことにして、少しスカートを長めに出し直す。柴羽と早めの昼食を取り、父に頼んで売り物のギフトセットをひとつ分けてもらってから家を出た。
「店外デートは久しぶりだねェ」という柴羽に「そういうのと違うから!」と突っ込むのも何度目か。電車とバスを乗り継いで、小高い丘の上の団地に向かう。
オートロックのない古い造りの集合住宅に入るところで、柴羽が呟くように言った。
「魔力反応なし。……普通は結界のひとつもあって良いとこだけど。望み薄かなあ」
既に亡くなっているとはいえ、魔法使いの根拠地に乗り込むとなれば最大限の警戒が必要になる。柴羽はいくつもの防御魔法を仕込んでいたようだが、彼の広域魔力探知に反応はなく、文恵の目にもおかしなものは映らなかった。
「ま、駄目でもともと、とにかく行ってみよ」
魔力の反応がないということは、既に彼にとって大事なものは残ってないか、どこか他の場所にあるということになる。しかし、他の場所にあるならばその手がかりくらいは残っているかもしれない。
程なく目的の部屋の前に着いて、呼び鈴を押した。すぐにドアが開いて、妙齢の上品なご婦人が顔を出す。
「まァまァ、遠いところをようこそ。さ、上がってらして。あの子もきっと喜びます」
二人は丁寧にお悔やみを述べて、部屋に上がる。もし何か手がかりがあれば、柴羽の検索魔法か文恵の目のどちらかに引っかかるはず。目星がつけば、柴羽がそれを魔法で複写するのはわずかな時間で済む。この時間、家に母親しかいないことは確認済みで、母親の目をそらすのは文恵の役目という段取りになっていた。
仮に資料が大量にあったとしても、時間がかかるのは検索魔法であり、母親にはその光は見えないはずなので、その間雑談でもしていればいい。
リビングに通され、自己紹介のあとでお茶を飲みながら少し雑談をした。婦人は翼のことを気にかけていて、彼女の話を聞きたがった。
「本当に翼ちゃんにはよくしてもらって……ただあの後ずいぶんショックを受けてらしたから、心配していたのよ。今日様子が聞けて嬉しかったわ」
「もしよかったら、息子さんのことを教えていただけますか」
「そうねェ……あの子は生まれつき身体が弱くて……いつもおとなしい、良い子でした」
婦人は若き魔法使いについて、ぽつぽつと語り始めた。翼とは隣近所だったこと、先天的な疾患で入退院を繰り返していたこと、読書が好きで、将来はパイロットか宇宙飛行士になりたいと語っていたこと……。
「最後は心臓移植しかないと主治医に言われましたが、あの子は自分のために誰かの命を使うのは嫌だと言って……」
彼は一生に一度のわがままだから、と移植を拒否し、両親が治療のために貯めていた蓄えをあることに使って欲しいと頼んだのだという。
「とても高価な本を何冊も買いました。確か……『The Scroll』というタイトルで、英語のご本だったので私には読めませんでしたが」
思わず顔を見合わせる文恵と柴羽。
「あら、ご存じなの?」
「欧米では知る人ぞ知る本というか、雑誌ですね。もし世の中に魔法があったら、という設定で、研究発表などを行うファンタジー・ファンのクラブがイギリスにあるんです」
柴羽は、魔法使いの存在を知らない人が見ればそう解釈されるだろう、という感じのことを淀みなく答える。
「まァそうだったの! 確かシャーロック・ホームズにそういう熱心なファンの方がいらっしゃるのよね?」
「シャーロキアンの人ですね。それのファンタジー小説版みたいなものです。よく入手できましたね」
「ええ、それはもう幸運なことなんだって、あの子は凄くはしゃいで……あんなに嬉しそうな顔は初めて見ました。移植を諦めるのは辛いことでしたが……今となってはあれで良かったのかも、と……」
「僕も生きている内にお話ししたかった……残念です」
婦人が涙をそっと拭い、少しの間沈黙が流れる。お茶のおかわりを淹れますね、と婦人が立とうとしたところで、文恵は持参したギフトセットを差し出した。
「あの、うちでお出ししているものですけど、よろしかったら」
婦人は恐縮しつつも受け取り、お湯を沸かす間に、と二人を息子の部屋に案内した。

その部屋には、仏壇以外のものが何もなかった。本棚や机の類もなく、ただがらんとした空間が広がって言うだけだった。仏壇には位牌と本人の遺影があった。
文恵の隣で、柴羽が息を呑むのが分かった。文恵が柴羽に視線を向けると、彼は僅かに首を横に振った。ここに手がかりはない、というサインだった。
仏壇の前に二人並んで正座し、線香を上げて手を合わせる。現代の魔法使いには、宗教的タブーはないらしい。程なく、珈琲を淹れた婦人が戻ってきた。
「何もなくてびっくりされたでしょう。最後に一時帰宅が許された時に、あの子が全部処分するって言って聞かなくて……あのご本も何もかも、全部業者の人に引き取っていただいたの。残っていたら差し上げたのに」
「いや、それは……高価な本ですから、そういう訳には」
柴羽は恐縮して謝絶する。
それから、ギフトセットに入っていたお菓子を三人で食べ、とりとめのない雑談をした。婦人が「お二人はお付き合いしていらっしゃるの?」と聞き、柴羽が「彼女は僕のご主人様です」と答えて文恵が顔を真っ赤にしてうろたえる一幕があった。
その家を辞去した後、二人は押し黙ったまましばらく歩いた。ためらいながら、先に口を開いたのは文恵だった。
「しーちゃん。しーちゃんが自分の物を何もかも処分したいって、思うことがあるとしたら、どんな時?」
「……君との契約が終わって、生きる意味がなくなった時、かな」
かつて二人が交わした、とても大切な約束に、それぞれが思いを馳せる。
「だとしたら、つーちゃんとの約束は……」
「……既に果たされているのかもしれない」
それはどんな感覚だろう。
最後の魔法をかけて、その結果を見届けることなく、自分の生きた証をこの世から消していく感覚とは。
「たぶん、何か条件があるんだ。空を飛ぶために。二人の間にしか分からないような」
「……私、それ、分かるかも。つーちゃんが必ずすると信じていて、彼が亡くなった後にしなかったこと」
ふと、二人が見上げた晩秋の空はどこまでも青く、澄み渡っていた。

■9th The World is yours.

その週末、文恵は翼をある丘の上に呼び出した。そこは翼が幼い頃を過ごした家の近くにあり、文恵の記憶通りの桑の木が、斜面の中程に生えていた。
制服姿の翼は相変わらず暗い表情をしていたが、その目には以前よりは力があるように見えた。
「つーちゃん、私、スカート厳禁って言わなかったっけ」
「下に体操着着てきました」
それならOK、と言って文恵はもう一人の同行者に視線を移す。

枯れ野にひとり、黒衣の魔法使いが佇んでいる。
その腕は力なく下がり、その瞳は閉じられたまま。ささやくように口元をゆがめる。

《多段起動光学式魔術反応路、展開》
Spread multi-booting photoscripted magical circuit.

渦巻くような青い魔法光を身に纏い、黒衣の魔王が宙に描く魔法陣は三重。
高速で回る内陣、時を刻む中陣、緩やかに反転する外陣。

《詠唱による世界支配、第4章終了》
Level IV Incantation fullfilled.
《地軸座標系に基づく静的対象先指定、完了》
Pre-targetting locked by the static geometly coordination.
《中陣接続、外陣反転》
Middle circle contacted. Outer circle turns over.
《広域重力制御術式、発動》
Wide range gravity control programs succeed.

万が一に備えて、翼の安全を確保するのが柴羽の役割だった。いざという時には、翼にかかっている魔法を打ち消して落下速度を柴羽が制御する。これなら、文恵に普段かかっている防御魔法と大きな違いはなく、最低限の手間で済むのだ。
「……ま、こんなもんかな」
文恵に向かってOKのサインを出す。それを見た文恵は翼に声をかけた。
「いいよ、つーちゃん!」

そうして、翼は、翼を広げる。

ずっと二人でここにいた。
二人でたくさんのことを話した。
光り輝く未来があると信じていた。
永遠に。
(――その記憶が辛すぎて、今日までここには来られなかった。彼は約束を果たしてくれたのに、約束を破っていたのは私だった)

子供の頃と同じように、両腕を広げて、丘を駆け下りる。一息に。途中に桑の木があって、その横を駆け抜けながらくるりと右旋回――。

《The Last Magic: Aerodynamical Static Field》

文恵の目に、大空へと羽ばたく一対の翼が映る。
ふわり、と。
滑るように滑らかに、少女の身体が、宙に浮いた。
少年がかけた最後の魔法は今、力強く翼をはためかせ、少女を空へ導く。

『ワールド・イズ・ユアーズ』
少女の耳に、在りし日の少年の声が届く。それは、魔法の中に記録された、彼の最後のメッセージ。
『ハッピー・バースデイ、ツバサ』
泳ぐように空を飛ぶ。
胸に風を受け、腕に風をはらみ、息継ぎをするように上昇から下降へ。
左に身体を傾ければ左旋回。思い切って右に倒してローリング。
速度が足りなくなったら?
羽ばたきながら上空へ、街から立ち昇る上昇気流を捕まえよう。

(大丈夫、地球は相変わらず私をつなぎ止めようとしている。いつかまた、あの人が遺してくれたこの世界に戻ってこれる。だから今は、重力と追いかけっこを楽しもう。突き放しても、突き放しても、きっとあの人は私を捕まえてくれるから――)

翼の頬を涙が伝う。
丘の上で、文恵が手を振っていた。翼は宙返りでそれに応えた。
文恵の隣に、黒い服を着た男の人が面白くなさそうに座り込んでいるのが見えた。
きっと、彼も飛んでみたかったんだろう、と翼は思った。

物思いに沈む柴羽を見て、文恵はある予感を抱いた。
「しーちゃん、一本だけ載った論文のタイトルってなんていうの?」
「……『航空力学的静止場の試み』」
文恵が柴羽の顔を覗き込むと、柴羽はうん、と軽く頷いた。
「じゃあ、彼はきっとしーちゃんのお弟子さんだね」
「とった憶えのない弟子は、ひとりで勝手に師を超えた、という訳だね」
「ねェしーちゃん。いつか私もあんな風に空を飛んでみたいな」
そういって、文恵は目を細めて微笑む。
柴羽はいつものように答えた。
「Yes lady, my master!」

魔機復元09

エルランとイスカンダル ―― Elran & Iskandar

 エルランの意識状態が回復するまでは、なるべく動かない方がいいだろう。ヘッドライトを修理しながら、ついでに車体の点検もする。タイヤの空気圧は問題なし。電池もまだ予備がある。冷却系異常なし。しかし、セラミックのフレームにごく小さなクラックが入っていた。たぶん放置してもしばらくは大丈夫だと思うが、念のため焼き直して修復する。

 地味な作業を続けながら、ふと、この術式が生まれるきっかけになった出来事を思い返した。
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魔機復元08

魔法工学者 ―― Who am I?

「あなたは何者なのか?」

 と聞かれたら、ぼくは何と答えるべきだろう?
 もちろんぼくは魔法使いで魔法学者だが、「何の」魔法学者なのかと言われるとちょっと言いよどんでしまう。
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魔機復元07

魔機復元 ―― Reconstruct Machine Maiden

「Combat load, ready.」 (戦闘態勢)

 いくつもの戦闘補助術式が起動され、視界がワイヤーフレームのような簡素化された表示に置き換えられる。戦闘時に必要なのは、たくさんの情報ではなく、不必要な情報を意識から隠すことだ。多すぎる情報は迷いを生み、瞬時の判断を難しくする。
 達人と言われるような魔法戦のプロたちなら、訓練と経験で意識しなくても情報の取捨選択ができるらしいけど、ぼくはプロではないので、魔法でなんとかする。
(Continued) «魔機復元07»” class=”more-link”>(Continued) «魔機復元07»

魔機復元06

魔法近接戦 ―― Magical Closed Combat

 魔法使い同士の戦闘というのはとかく不毛なもので、毎時数千基数の防御魔法を垂れ流しながら、お互いの探知魔法を数時間から数日にわたってつぶし合うとか、そういうただひたすらダルいものになりがちだ。仮に相手がぼくよりよっぽど弱くて充分勝ち目があるとしても、ぼくが費やした魔力に見合う報酬を得られる可能性はほとんどない。
(Continued) «魔機復元06»” class=”more-link”>(Continued) «魔機復元06»

アニメ『氷菓』3年目の答え合わせ

 先だって、米澤穂信〈古典部〉シリーズ最新作が『野性時代』2016年1月号に掲載されることが発表された。
 2001年から続く大人気シリーズだが、現在「連峰は晴れているか」「鏡には映らない」「長い休日」の短編3作が単行本未収録となっており、長らく単行本化が嘱望されて来た。まだいささか気の早い話だが、この最新作をもって『遠まわりする雛』以来の短編集として出版されることを一ファンとして期待したい。
 なぜなら、この短編集はおそらく〈古典部〉シリーズ最大の“謎”に対する解決編となることが予想されるからだ。

(以下、本編およびアニメの一部ネタバレが含まれます)
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魔機復元05

盗賊になろう ―― Parallel World

 ぼくのライブラリによれば、「カウバ」という単語には少なくとも2つ該当する言語がある。ひとつはハワイ語で「奴隷」という意味だが、ここがハワイのようには思えない。もうひとつは……ぼくの考えが正しければ、「カウバ」はこの大陸の先住民の言葉で「岩」という意味のはずだ。彼らは白人種ではないので、このお嬢さんは後からやってきた移民かその子孫だろうと思われる。
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魔機復元04

脳と心の相関地図 ――Brain-mapping

 賢明なる読者諸兄は先刻承知と思うが、現代の魔法の多くは「科学技術の後追い」である。すでに原理の解明されたものを魔法で再現しているに過ぎない。燃料を使う代わりに魔力を使っているだけで、そこに不思議なことは何もない。しかし、いくつかの部分では科学よりも魔法の方が進んでいる分野もある。

 そのひとつが、ブレインマッピング――脳と心の相関地図だ。
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魔機復元03

既知の言語に該当なし ――No data in a known language.

 さて、タブレットの表示を見ると、井戸の方はまだ時間がかかるようだ。既に夜を越す算段はついているので、次はもうちょっと快適に過ごす方法を考えよう。
 まず、簡単な魔力感知術式を組む。たいていの生き物は強い魔力を帯びているので、生き物が動くとその周囲にさざなみのような魔力の波紋が生まれる。この魔力の波を計測する術式を複数の箇所に置いて、三角法を用いれば対象までの方向と距離が分かる。まあもちろん、面倒な計算はタブレットにやらせるけど。
(Continued) «魔機復元03»” class=”more-link”>(Continued) «魔機復元03»

魔機復元02

井戸を掘る ――Wishing Well

 エアコン代わりに気温を下げる簡単な魔法(といってもこれのおかげで魔力の集まる速度が8割に減った)を使い、ようやく砂の上に腰を落ち着けることができた。尻が熱いとか砂まみれになるのはもう気にしていられない。どっちみち、魔法陣を描いた時に砂まみれの手で顔をぬぐったりしたから、何もかも手遅れだ。
(Continued) «魔機復元02»” class=”more-link”>(Continued) «魔機復元02»