こいちゃんの趣味全開!!

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Monthly Archives: 2月 2013


無題 Type1 第3章 第2稿

2013.02/26 by こいちゃん

<無題> Type1 第3章原稿リスト
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第3章

1
 そのあと、彼らは僕に“取り調べ”をした。…もちろん言葉通りじゃない。
 僕の罪状は2つ。リモートコンピュータへの不正アクセスと、データの改ざんだ。それだけ聞くと最近よくある、日常茶飯なありふれた犯罪だけど、しかし、どちらも規模が今までの物とは桁外れに大きかった。
 社会の授業でやるくらいだ、といえば納得してもらえるかな。
 リモートサーバーへ不法侵入され、データを奪われ、犯人の決定的な手がかりをつかむ前に一度取り逃がして、挙句に自分たちのサーバーだけでなくインターネット全体を約2週間にわたって使用不能にされた。そんな事態が起こらないように、未然に防ぐために設置された機関だったのにも関わらず、犯人への対処を間違えて被害を隠せない自分たちの|テリトリー《サーバー》の外にまで広げてしまった。
 諸外国だけでなく隣の省庁に、自分たちの不手際だとばれたら、どんな因縁を付けられるか分かったもんじゃない。だから彼らは、公式には犯人は分からなかったことにして、犯人を示す証拠を片っ端から削除してまわった。
 普通だったら犯人に重い刑罰が下ることは必然だったはずだ。しかし、|犯人《僕》は当時まだ小学3年生、年齢は1桁だ。いくら「利用者ならば大人扱い」なインターネットでの事件だといっても、日本の法律では極刑を科すことはできない。だから彼ら自身が秘密裏に開発されていた様々な薬物や拷問道具を駆使して僕に|罰を与える《復讐する》事にした。
 …そんな青い顔しないでよ。全ては僕の身に起こったことだ、君のことじゃない。
 そして僕は憂さ晴らしに使われた薬物や蓄積されたストレスによって、人格が分裂した。その時に、最初から存在したものがそのまま2つ以上に分かれたせいで、例えば。
 僕には感情がほとんどない。

 俺には感覚、いわゆる五感のうち特に触角が、その中でも痛覚が存在しない。
 どっちも日常生活をするうえで必要な部分はそれぞれに残ってるから、不意に屋上から飛び降りたり間違って缶ジュースを握りつぶしたりすることは、少なくても最近はない。
 不安定になったアイデンティティを維持するために、俺らは、使う言葉で自分たちのどちらがどちらかを分かりやすくすることにした。そうしないと、どっちがどっちだか、すぐに分からなくなる。
 最初はそんなことしてなくて。自分がどっちの自分か確かめるために、痛みを感じるかどうかを毎回試してたんだ。そしたら、母さんがヒステリーになりかけた。かといって毎回隠れてこそこそ自分を痛めつけて確認しても、俺が表に出てるときには力の加減が難しくて、どうしても痣ができちまう。それじゃ隠れて確認しても意味がない。
 だから2人で相談して、基本的にあいつが表に出る、使う言葉を変えることを決めた。1人称も違うだろ?
 産業情報庁のヤツらは、疑似的なものだが自分で判断することのできる、人工知能とは呼べないけどそれに近いプログラムだった、俺のクラックツールに目を付けた。こいつは使える、と思ったんだろうな。俺が使ってた|OS《オペレーティングシステム》もソースコードから解析して、奴らは俺を、新しいシステムの開発者に祭り上げた。
 ただ命令を聞いて言われたことをやる“でぐの坊”にして、ソースコードと命令、薬物を与えれば自動的にシステムのセキュリティを強化する機械のように扱った。1日中、朝から晩まで、食事はなく栄養は全部点滴で採って、風呂に入れてくれるわけでもなく用を足しに行かせてくれるわけもなく。寝たきりで体が動かせない人が使うようなベッドにずっと、文字通り縛り付けられて。
 人間として扱ってもらえたのは、俺が何とかシステムを完成させた後、うちに返してもらう時が初めてだったね。それまでの給料としてかなり大金を払ってくれたんだ。その頃はまだ地方に住んでいたから噂が広がるのも早くて、ご近所さんは俺が何をして誰に連れていかれたか知らない人なんていなかったし、母さんも働きになんて行けなかった。
 だから俺がうちに帰ってきて、クスリが抜けきってまともな人間として生活できるようになるのを待ってから、今住んでるここに引っ越した。
 ちょうど小5になる春休みだったから始業式はちゃんと行ったんだが、ヘンな転校生って注目浴びて、すげぇ居づらくて。1回でもう学校通う気、失せたから小学校はそれ以降行ってない。
 ずっと家でぼけーっとしてて、見かねた母さんが俺の部屋来てドサドサいろいろ古い小説持ってきたんだよ。今まで本っつったらコンピュータの解説書ばっかりで物語なんて読んだことなかったんだけど、それが面白くてさ。あの時ははまった。
 今度は食事も睡眠も忘れて無視して、部屋に鍵かけて閉じこもって1日中文庫本を読み漁った。2日位するとなんかフラフラしてさ、あれ、どうしたんだろーとか思ってたらばったり部屋で倒れて動けなくなって。ヤバいかも、って思ったんだけど声も出なくて、死ぬのかな、って思った。
 あの時の精神状態は不思議だったぜ。死んでもいいや、ってのと、死ぬのが怖い、ってのが交互にやってくるんだ。そのあと母さんがベランダから入ってきて病院つれてかれて、見ての通り死ぬことはなかったんだけど。でもあの時はかなり絞られたなぁ。

2
「まあそんなこんなで、今に至るわけなんだけど」
「……」
 今、私の前で横になっている同級生は、想像もしない過去を持っていた。
「さっき君は“虐待はされてない”って言ってたけど、――それよりもっとひどい目に遭ってきたんじゃないの」
 私はこれから、彼とどういう関係でいればいいのだろう。自分のことだから断言できる。もう、
 ――ただの友達として接することなんて出来ない。
「そうかなぁ? 割と面白い経験ができたと思ってるんだけど?」
 飄々と話す彼を、まっすぐ見られない。
 なんか、私、馬鹿みたい。何でこんな、常識外れな規格外の人を、私と同じような、過去なんてあってないような人間だ、って考えていたんだろう。そんなこと、したって意味ないじゃない。
 …私、何を考えているの? 彼は、彼の過去によってこうなった、私と同じ年の男子じゃない。彼と私が違う人間なわけないよ。
 だんだん頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
「別に、自分自身を嫌いになったわけじゃねぇし? 今の生活があればそれで十分だし?」
「君は、あんなことされて、自分を壊されて、復讐してやろうと思わないの?」
「思った。思ってる。でも今はその時期じゃない、ってあいつが言ってるから我慢してる」
 感情に任せて勝算もなく行動を起こしたら、体の操縦権もらえなくなるんだよなー。
 そんなことを言いながら悔しそうに唇を歪ませて、でもすぐにその歪みが笑いに代わる。
「…なんか、楽しそうだね」
 今さら、やっぱり聞かなければよかった、なんて思っている私は、なんてひどい人間なんだろう。彼のほうがよっぽど、人ができてる。
「そりゃあ、人生楽しまないと損だろ」
「そっか」
「そう。だから、お前も俺のこと色々考えて、勝手に鬱になるなよ」
「……」
 見透かされてる?
「お前、うわの空で受け答えしてるのがバレバレ。どうせ関係ない、過去のこと全然知らなかったのに余計な踏み込んだ真似したって、後悔していたんだろ。じゃなかったらアレか、聞かなきゃよかったと思ってるとか?」
「……」
「図星だな。何も言えない、って顔してるぜ」
「だって、」
「だってもくそもない。出会うまでの過去に、お前は関係ない。お前に関係があるのは出会ってから、同じクラスになってからの俺だけだ。分かったな」
「…分かった」
「よし」
 にま、と効果音を付けたくなるような笑い顔。
 そうして彼はパソコンのキーボードを、いつも通り尋常じゃない速さで叩き始めた。
 画面を見て私を見ない横顔を見ていると、私は何故か気分が軽くなっていった。目を閉じるとさっきの笑い顔が浮かんだ。

「じゃあ私、一度うちに帰るね。両親が心配してるだろうし。また明日来る」
「ん、そうか。悪ぃな、付き合わせちまって」
「いいの、さっきも言ったけど、来たいから来るんだもん」
 彼は苦笑して、はいはい、といった。
「なぁ、頼まれもの、おつかい、してくれねぇかな」
「え、買い物ってこと?」
「そうそう。ダメ?」
「ものによるなぁ。重いもの?」
「文庫本買ってきて欲しいんだけど。…そんな嫌な顔するなよ」
 表情に出てしまったらしい。
「分かった、買ってくる。何が読みたいの?」
「メールアドレス教えて、リスト送るから」
「ずいぶん突然なアドレス交換ね。…いいわ、これ」
 彼に携帯端末を手渡すと、ありがとーといいながら赤外線送信モードにしておいた画面を戻して、電話帳に切り替え、表示された私のデータを手で直接、パソコンに打ち込み始めた。
「あい、どうも。俺のアドレス、送信しておいたから」
 彼の言葉に応えるタイミングで、私の携帯端末が震えた。
「へぇ、流石クラス1の真面目ちゃん。病院ではちゃんとマナーモードなんだ」
「あ、当たり前じゃない!」
「うん、当たり前」
 へへっ、と笑われた。
 普通にしていれば結構、彼はカッコいいほうだと思うんだけどな。イジワルを言わなければ。
「おい、どーした、顔真っ赤になったぞ」
「ウソ!? な、え、うううるさいわね、本買ってきてあげないわよ!?」
「…俺、悪いこと言ったか?」
「最初から最後まで悪いことしか言ってないじゃないの!」
 彼はちぇ、と舌打ちして。
「じゃ、頼んだ。レシートちゃんともらって来いよ、じゃないと金払えねぇからな」
「分かってるわよ、もう。…また、明日。おやすみ」
「おう、おやすみ」
 彼に背を向け、病室を出る。無意識におやすみ、と言ってしまったけど、時計を見て驚いた。
「やば、もう6時まわっちゃってるじゃないの」
 ママに電話しないと、夕飯抜きになっちゃう。
 意識して早く帰ること、ママに連絡しなければいけないことを考える。そうでないと、私が私でなくなってしまうような気がした。
 なんでだろう。どうしてだろう。
 私はいつも冷静沈着な、クールでカッコイイなオンナノコ。
 そのはずだったのに。彼に会って助けられたあの後から、彼のことが頭から離れない。
 彼の前だと、私が私じゃないみたいだった。こんなにほかの人に甘えるなんて、私らしくない。

3
 それから2週間ほどで僕は退院できた。
「結局2週間も、葉村にはお世話になり続けちゃったな」
「いいわよ、気にしないで。…退院、おめでとう」
「ありがとう。今日これから、予定ある?」
「え、何で? 予定なんてないけど」
「お昼まだだろ? もう13時過ぎちゃうし、どこかで奢るよ」
「いいの? あんなに本買った後で、お小遣い足りる?」
「大丈夫、お金は気にしなくていいよ。入院中もバイトしてたから、結構余裕あるんだ」
「入院中って」
「プログラミング。パソコンさえ持ち込めれば、ソフトは作れるから」
「そうなの?」
「そうなの。何か食べたいものある?」
 病院の最寄り駅まで歩く間、彼女はずっと考えて、こう言った。
「山本んちに行きたいな。途中で材料買って、一緒にお昼ご飯、作ろう?」

「梯子、気を付けてね。先に登るよ」
 彼女は普段着、スカートだったが、短めだったから多分つまずいて落ちることはないだろう。先に梯子を登り、窓の鍵を開けておく。
「本当にベランダから出入りしてるんだね」
「そんなことで嘘、吐いたって仕方ないじゃないか」
「それはそうなんだけどー」
「よそ見して踏み外さないようにね」
「分かってる。…君、どういう生活してるの」
「こういう生活さ」
 窓の外にベランダが約6畳、家の中に自分の部屋が8畳。ベランダには鉄パイプで屋根の骨組みが作られていて、太陽光発電パネルが設置されている。部屋の中から見て右側に水道、左側に先ほど登ってきた梯子、奥に置いてあるプランターには苦瓜らしき植物が育っている。
 室内は和室。窓の内側、左側にはスチール机があり、上にカセットコンロとデスクトップパソコンが置いてある。押入れの戸は開け放され、上の段には布団と枕が見え、下の段には冷蔵庫があった。右の壁には埋める大きな本棚。
 一通りの生活を営むために必要な設備はそろっている。
「なんでこういう部屋なの?」
「妹に嫌われてるからさ、この部屋から出ると嫌がられるんだ。ほら、事件の時は妹にも散々迷惑かけたわけだし。こっちに非があると思ってるから、引っ越してきた時にこの部屋だけで生活できるようにしてもらったんだ」
「だから出入りも窓からなの?」
「そう。慣れると便利だよ。後で見せるけど地下室もあるし、屋根裏も使えるし、ベランダに水道引いてあるから冷たくていいのならシャワーも浴びれるし。住めば都ってやつ?」
「……」
「風呂は銭湯に通ってるんだ。このあたり、まだ銭湯いくつかあるしさ、ついでに買い物も済ませて、そこのカセットコンロ使って料理して。それに僕はほかの大多数の人間と生活時間帯違うみたいだから、隔離されてると逆に楽なんだよね」
 当たり前のように、自分自身が“隔離”されていると言い放ったからだろうか。彼女は複雑な表情をした。
「外で料理しようか」
「うん」
「道具、取ってくる」
 窓を開け、身を乗り出してカセットコンロを取る。

 玉ねぎを切りながら、彼女は言う。
「もしかして、休みの日って、誰とも話さないでしょ」
 ハムを1cm角に切りながら答える。
「そうだな。夏休みとか、普通に1週間くらい声出さないことあるね」
「寂しくないの?」
「いや、別に。慣れたのかもしれない」
「学校でも人と話してるの、あんまり見たことないし」
「そうなんだよねぇ。なんでだろうね?」
 割と真面目に聞いたのだが、彼女はあきれたようにため息をついた。
「ずっと本読んでるからだよ」
「それがどうかした」
「本読んでる人には話しかけづらいんだ、って気づいてなかったの?」
「え、そうなの?」
「そうなの。まったくもう、そんな社会生活不適応者みたいな答え、返さないでよ」
「すんませんねー」
「…それにしても。意外と、器用なのね」
「そりゃ、毎日3食、きちんと作ってますから」
「てっきりコンビニ弁当ばっかりなんだと思ってた」
「そんなことしないよ。本が買えなくなるじゃないか」
「理由が予想と違ったけど、健康的でいいわね」
「やっぱ、女子ってそういうの気になるんだ?」
「そりゃそうよ。そんなものばっかり食べてたらお肌が荒れちゃうし、太っちゃうもの」
 小さい声で彼女がごにょごにょつぶやく。
「ん? 何の人のことだから?」
「え、な、聞こえた!?」
「…いや、聞こえなかったからなんて言ったか聞いたんだけど」
「じゃあ、なんでもない! 私は何も言ってない!!」
「なんだよ、言ってることが矛盾してるぞ」
「うるさいうるさいうるさい」
「教えてくれたっていいじゃん、減るもんじゃないし」
「やだ、絶対やだ」
 ――突然いじけて、なんなんだまったく。

「「いただきます」」

「「ごちそうさま」」

「結構美味しかったわ。料理、上手いんだね」
「そりゃあ、な。もうかれこれ4~5年くらいは自炊してるから」
「…そっか」
 まずい方向に話が飛んでしまった。そう彼女の顔に書いてあった。苦笑は心の中だけに留め置いて、話題を変えてやることにした。
「洗い物、俺がやっとくよ。お前は中でくつろいでな」
「あらありがとう。どっちの君も、意外と優しいのね」
「意外とってなんだ、意外とって。俺はいつもジェントルマンだ。客をむやみに働かせるような無礼はしないさ」
 そう言ってやると、彼女は「ありがと」と言いながら、含み笑いを漏らして窓から部屋へ入っていった。
「んだよ、今の笑いは。まったく」
 でも、たまには他人と過ごす休日も悪くねぇもんだな。

「お前、帰らなくていいのか? もう17時になるぞ」
「平気、友達んちに泊まるって言って出てきたから」
「お前な、年ごろのオンナノコがそんなんでいいのか」
「いいのいいの、もう手遅れなんだから」
「まったく、何が手遅れなんだか」
「え、泊まっちゃダメ?」
「別にいいけどよ。じゃ、銭湯行くぞ、着替えは持ってきてるんだろうな」
「当然じゃない」
 押入れから銭湯セットを出して窓からベランダへ。
「ほら、鍵閉めるぞ」
「ちょっと待って、…お待たせ」
 葉村が出てから後付けの鍵を閉める。
「梯子、気をつけろよ」
「うん」
 そろそろ、おっかなびっくり降りていく彼女を見ていると、こっちのほうが心配になってくる。
「大丈夫か?」
「へ、平気よ。馬鹿にしないヒャっ」
「ほら言わんこっちゃない、ちゃんと足元見て降りろよ。怪我されても困るんだから」
「…お荷物だって言いたいの?」
「え、なんか言ったか?」
 小さい声でぼそぼそ言われても、俺は感覚が遠いんだ。
「何でもないっ!」
 そんな、機嫌悪くされても困るんだけどな。

 銭湯までの道中は口を利いてもらえず、銭湯内は男女別。風呂から上がる時間だけ指定してすぐに女湯に引っこまれてしまった。
 何がいけないのか、ちっとも分からない。感情のないあいつのことだ、聞いたってロクな答えは出てきはしないだろう。
 うんうん唸りながら考えて、危うくのぼせるところだった。
 風呂から上がって扇風機にあたりながら牛乳を飲んでいると、上機嫌な彼女が出てきた。
 なんとなく、のぼせるまで理由を考えていた自分が馬鹿らしくなった。
 また機嫌が悪くなったら居心地悪いことこの上ないから聞くに聞けないし、どうしたもんだろうか。そんなことを考えていると。
「ねぇ、私も、牛乳飲んじゃダメ?」
「ん、残りあげる」
「…違うわよ。私も買っていいか、って聞いたの」
「ほい、財布」
「色気がないわね、まったく」
「…色気? お前、何言ってるんだ?」
「うるっさいわね!」
 またキレられた。ほんと、女って何なんだよ。
 葉村は俺の財布から必要なだけぴったり小銭を取り出して、財布を押し付けるように返すと、プリプリしながら受付へ歩いていった。受付のおじさんから目当ての瓶をもらって帰ってくる。
「一度、飲んでみたかったの。風呂上がりのフルーツ牛乳、ってやつ」
「夢が叶ってよかったな」
 くっはー、と実に女子高生に似合わない声を上げる葉村。学校にいるときとのギャップがすさまじい。笑いをこらえるのに骨を折る。
「そういえばさ。普段の山本はいつも、…丁寧な方…が表に出てるじゃない?」
「そうだな」
「普段は、うちでは、そんなことないの?」
「…どうだろう。うちでのことは意識したことなかったな」
「学校だといつも…」
「そりゃ、あんまり人に知られてうれしいことねぇしな」
「そっか」
「おう。だからいつも、今沈んでるほうが表に出てるようにしてる」
「君は、今表に出てる山本はそれでいいの?」
「最初から同意の上だ。俺が出てたら、喧嘩ばっかりしちまうしな。冷静なあいつのほうがいい」
「誰とも話さないで、寂しくないの?」
「うーん、表に出てねぇだけで、外の様子はあいつと共有してるから。こいつ馬っ鹿じゃねぇの、とか中で思ってる。それであいつに諭されることもあれば、納得されることもある。それで十分だ」
「私なら、耐えられないよ、そんなの」
「いいんじゃね? 俺らの事情が異常なんだし」
「……」
「ちなみに、今は傷がまだ痛むから俺が出てるだけ。この前も言ったけど、俺のほうがあいつより感覚鈍いからな。もうちょっと治るまで、俺のほうが表に出るようにするつもりなんだけど、学校あるとな」
「学校あると今の山本だとだめなの?」
「あいつとはできるだけ違う人間だと分かるようにしてきたからな。今さらあいつの真似なんてやりたくてもできねぇよ」
「そっか」
「おう。…そろそろ帰るか」
「そうだね」
 そう言うと葉村は、半分くらい残っていたフルーツ牛乳を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「な、うるさいわね!」
 ただ単に感想言っただけなのに、顔をほんのり赤くして噛みつかれた。

「じゃ、そろそろ寝るから。ノートパソコンの方なら自由に使っていいぞ」
「え? まだ夕飯食べたばっかりじゃない。お風呂…はそっかさっき銭湯行ったか」
「俺の生活時間は20時寝の2時起きだ。お前いつも何時くらいに寝てるんだ?」
「日付が変わったくらい」
「そうか…じゃあまた明日、だな。俺が起きた時にはもう寝てるだろ」
「そうだね…って、そうじゃなくて。私はどこで寝ればいいの」
「あー考えてなかったな。ちょっと待て」
 そういって押入れの上段に登る山本。天井板を押し上げた。そしてそのまま天井に消えてしまう。
「勝手に上がっていいの、天井抜けない?」
「へーきへーき、500は軽く超える数の文庫本置いてあって抜けてないから」
「何それ、私が怖いんですけど!?」
「だいじょぶだいじょぶ、…あった」
「探し物?」
 ぽっかり四角い天井の穴から、ラグビーボールを一回り大きくしたような布袋が落ちてきた。
「なにこれ」
 いよっ、という声とともに降りてきた山本は天井板をはめなおすと、押入れから床に落ちたナゾの布袋から中身を取り出した。
「…寝袋…?」
「あたり。貸すよ」
 ほれほれ、と差し出されたぺっちゃんこの寝袋。
「これで寝ろと?」
「冬山でも使える耐寒-10℃のだから、暑すぎるくらいだと思うが」
「そんなことを問題にしてるんじゃないわよ!」
「え、じゃあ何が不満なんだ?」
「女子に向かって、男の臭いがしみついててちょっと汚そうな寝袋を使って寝ろ、と。それも同級生のぴっちぴちの女子高生に、普通言う!?」
 合点がいったように手のひらをぽんとたたく山本。
「俺のだから嫌なんだな。でもなぁ他に就寝具持ってねぇし…」
「客用布団とか、ないの」
「下にはあるだろうけど、取りに行くと嫌がられそうだし」
 山本が唸りながら考え始めた。そしてふと顔を上げ、
「俺と一緒に寝るか」
「馬鹿言ってんじゃないわよー!!」
 思わず大声で怒鳴りつけ、グーをお見舞いしてしまった。
 肩で息をする私、倒れた拍子に壁へぶつけた頭を押さえ仰向けで痙攣している彼。
 そこに控えめなノックの音が聞こえた。
「はい」
 つぶれたかえるのようなうめき声で答える山本。
 がちゃり。この部屋の扉が開くのを初めて見た。
「…ゆうくん? さっきの、…………」
 細く開けた扉の隙間から顔を覗き込ませたのは、40台、もしかしたら50に手が届いているかもしれない、そんなくらいの年齢の女性――山本のお母さんだろうか――だった。
 その女性は部屋の中を見て、しばし口をつぐんだ。
 寝る準備万端の押入れ上段。床では頭を押さえて大の字に倒れている息子。その正面で仁王立ちをして肩で息をする息子の同級生らしき女子。二人の間に横たわる薄汚れたくしゃくしゃぺちゃんこの寝袋。
「「「……」」」
 部屋の中の様子を改めて確認した私も、痛みをこらえるのに必死な彼も。黙り込んでしまう。
 だんだん私の顔が熱を持ってくる。
 そんな居づらい空間、私が取り乱しそうになる直前。沈黙を切り払ったのは。
「…あんた、誰」
 山本のお母さんの後ろから私を睨みつけている、一つ二つ年下に見える女の子だった。
「…私?」
「他に誰がいるっていうの」
 まさに“切り払う”ような冷たい声。
「山本の…祐樹くんの妹さんですか?」
「あたしがあんたに聞いてるの。あんた、誰?」
「…葉村ななみ」
「で、お兄ちゃんに何を――」
「ちょっと。失礼でしょう、初対面の方に向かって、なんですかその態度は。…ごめんなさいね、この子、普段は優しいいい子なんだけれども」
「…いえ」
 山本のお母さんは険悪になりかけた雰囲気を柔らかく戻した。
「…ふん。お母さん、あたしもう寝る。おやすみ」
 ペースを乱された山本の妹は鼻を鳴らしてそれだけ言い捨てると、バタンと乱暴に隣の部屋の扉を閉めた。
「…な、言ったろ。あいつ、俺のこと大っ嫌いなんだよ」
「あ、ごめん、大丈夫だった?」
「ちっ、何が大丈夫だった、だ。傷口開いたらどうするつもりだったんだ」
 のそのそ起き上がる。「うー痛てぇ」
 そんな彼を見て、お母さんが何かに落胆したようにため息をついた。それも一瞬のことで。
「ほらほらケンカしない。もうお母さん、うれしくなっちゃって。ゆうくんがお友達を、それも女の子を連れてくるなんて思ってもみなかったから」
 すぐにニコニコした笑い顔を取り戻して話しかけてくれた。
「私なんて、きっと彼には女の子だと思ってもらえてませんから」
「あらそうなの、全くうちのバカ息子にはもったいない別嬪さんなのに」
「べ、べっぴん…」
「こんな若々しくって。うらやましい限りだわ」
「そんな…」
「いけない、立ち話をしに来たんじゃなかったんだわ。あなた、お布団がないんでしょう」
「そうなんです」
「下に使ってないのがあるから、それを使ってくれても構わないんだけど、…その寝袋のほうがいいかしら」
「いえ、布団を貸してもらえますか」
「えぇ、ぜひどうぞ。たまには使ってあげないと、布団もいじけちゃうものね。ついていらっしゃい」
「はい」
 慣れた手つきで寝袋を丸めて布袋にしまっている山本に声をかけて、私はお母さんの後についていった。

4
 階段を下りて1階へ。明かりが点っている部屋に入る。物置らしいそこではお母さんが布団の入った圧縮パックを取り出していた。
「あ、私やります」
「あらそう、ありがとう」
 ちょっと高いところにあったが、なんとが手が届いて。敷布団と掛布団、シーツを受け取った。
「ねぇ、ななみさん、って言ってたわよね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょう」
「あの子のこと、どう思う?」
「え、あ、そんな、その…」
 ズバッと訊かれた。私が、あいつのことをどう思っているか…?
 また顔が熱くなる。最近赤くなってばかりだ。
「ん? ああ違うわ。ごめんなさいね、そうじゃないの。あの子の過去、どのくらい知ってるの?」
 さっ、と顔から熱が引いた。
「…それなら、全部教えてもらった、はずです。そう彼が言っていました」
「あの子、あんなことをやらかしたあとね。うちに帰ってきても1ヶ月くらいかしら、何にもしないでぼーっとしてるだけだったから、私があなたたちくらいの年の頃読んだ本をあげてね、何にもせずに1日を無駄にするなんてことは今日から許さない、って叱りつけたの。当時はあの子が何されたかなんて知らなかったからしょうがないとはいってもね、今も後悔してるの。何もしなかったんじゃなく、何もできなかったのに叱りつけてしまって」
「……」
「私のこと、なんか言ってなかった?」
「…特に、何も」
 特に、どころか、全く。正確にはそう言いたかったけど、でもそれは残酷すぎる言葉だ。
「…そっか。あともう一つ、聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「あの子、自分の妹についてはどう思ってるか、知ってる?」
「単に、ものすごく嫌われている、自業自得だから仕方ない、と」
「やっぱり。あなたはどう思う? うちの子、娘のほうは、兄を嫌ってると思う?」
 私を睨みつけてきたあの子の目を思い出す。
「いえ、思いません」
「…なんでそう思うの?」
「私をにらんだあの視線と言葉が、なんとなく。兄とその友達を嫌っているものというより、兄を心配しているものだったような気がしました」
 そう、あれは、兄が誰かに奪われないように、敵を威嚇するような目だったと思う。
「私と同じ意見ね。でも、肝心の兄は」
「妹の心配に気付いてすらいない」
 はぁ、と2人で溜息をつき、タイミングがそろったことに苦笑した。
「あなたとはいい嫁姑な関係になれそうだわ」
「え、嫁だなんて、そんな」
「ふふ、いい慌てぶり。私も昔はこうだったのかしら。懐かしいような気もするし、でもいつの間にか忘れちゃったな。…じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。お布団、お借りします」
 私は布団を抱えなおして、物置から出た。

「よう、遅かったな。何、話しこんでたんだ」
「なんでもない」
 彼の部屋に戻ると、彼は押入れ上段の布団にもぐりこんでいた。
「ちぇ、教えてくれたって罰は当たらねぇのに」
「教えてなんてあげないもん」
 私も袋から出したふとんを床の真ん中にひいた。
「お前も、もう寝るのか」
「うん。たまには早寝もいいかな、って」
「そうか。じゃ、電気消してくれ。豆球も消していいぞ。おやすみ」
 立ち上がって豆球にして、
「着替えるからこっち向かないで」
 そう言うと、彼は無言でふすまを閉めた。
 きちんと隙間なく閉まっていることを確認してから、私は寝巻に着替えて。それから紐を引っ張って灯りを完全に消した。
 布団に入ってじっとしているとコンピュータや周辺機器のパイロットランプが明るく排気音が気になったが、いつのまにか寝てしまった。

5
 いつも通りの時間に起きて、痛む背中の傷に触らないように気を遣いながら、寝転んだ態勢で4時間くらい過ごしていた。
 押入れの外で他人が寝ているという経験は初めてで、枕元に蛍光灯を用意しておいてよかったとしみじみ思いながら、光と音が漏れないように、ふすまを閉めたままパソコンをいじっていた。流石に、背中、今度は背骨や腰まで辛くなってきている。

 けたたましい目覚ましのベルが鳴り始めた。どうやら昨夜のうちに葉村がセットして寝たらしい。時計を見たらもう6時半だった。
 そろそろふすまを開けると、目をつぶったまま音の発生源に向かって、バンバンと手で床を叩きながら目覚まし時計を探している葉村の姿が目に入る。
 しばらくそうしていたが、なかなか目覚まし時計見つからない彼女はついにむくりと起き上って目覚まし時計を黙らせた。
 そしてきょろきょろ周りを見回し始めたところを見ると、どうやら彼女はまだ寝ぼけているらしい。
「おはよう」
 押入れの上段から声をかけた。ふっと振り向き、きょとんとしている。
「あーおはよう~」
 それから彼女は、もそもそ布団から抜け出し伸びをしたところで、ぎしっ、と効果音が付きそうなくらい突然固まった。
 フランケンシュタインのようにギギギと、赤く染まった顔を僕のほうに回して、
「……見た?」
「申し訳ない、何の話か全然見えないんだが」
「うるさいうるさい、うるさいっ」
 なんなんだ、まったく。理不尽すぎる仕打ちだと思うんだが。
「着替えるからあっち向いてて!」
「分かった」
 ふすまを閉める。
 何であんな、泣く寸前の表情を向けられなければいけないのだろう。僕がなにか悪いことをしただろうか。

「さっきはごめん」
 通学途中、葉村に謝られた。
 あのあと、彼女は朝食の時もずっと黙り通しだった。
「いや、別に気にしてないが」
「…そっか」
「……」
「……」
 再び2人で気まずい空気に沈み込んでしまう。黙々と学校までの道のりを歩いていく。
 そのまま学校に到着し、下足室で久しぶりに会った同級生たちは、僕らに話しかけようとしても、纏っている重い空気に気圧されたようで早足で逃げていく。
 どうやら一緒に来た僕らを囃したてたいようだったのである意味助かったともいえるのだが、それにしてもこの雰囲気はまずいと思う。思うのだが、どうやって解消すればいいのかわからない。
 僕らは教室の、隣同士の席について。気まずいまま授業が始まった。

――なあ、なんでこんな気まずくなったのか、君は分かっているのかい?
――当然だろ。むしろ、なんで分からねぇんだよ。
――僕に聞かれても困るから君に聞いたんだが。
――あーはいはいそうでしょうねー、と。…多分な、葉村は俺らに寝ぼけた姿を見られたくなかったんだろうよ。
――だから寝ぼけた姿を「見た」か、を聞いたのか。
――だろうな。恋する乙女としては、そんなところを見られたくなかったんだろ。
――恋する…葉村が? 誰に恋するんだ?
――…もう俺は知らん、寝る。
――そうか、おやすみ。
――ちっ、うらやましいぜこの野郎…

 怪我をして以来、約1ヶ月ぶりの学校は1学期末試験直前で、授業は夏休み前の峠だった。
 葉村にノートは見せてもらっていたので特に困るようなこともなく。同級生数人に体の調子を聞かれたくらいで変わったことも無いようだった。

 今日1日の、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
 鐘が鳴ると同時に、まだ話している教師にはお構いなしで帰り始める同級生たち。試験1週間前になって、どの部も活動が休止状態になっているのだろう。いつもなら重そうな部活道具を抱えているやつらも、さっさと帰り支度をしていた。
 僕も教科書を鞄にしまい込み、一応教師が教壇から降りるのを待ってから席を立った。
 葉村に話しかけられたのはそんな時。
「あの、昨日はありがとう」
「いや、あのくらい別に何でもないさ。結構な頻度で見舞いに来てくれていたしね」
「じゃ、また明日」
「気をつけて帰りなよ」
 ニコっと笑って彼女は教室から出ていった。

 無事退院できたし、学校はちっとも変り映えのしない1日を繰り返しているようだ。葉村に世話をかけられるのも昨日まで。今日これからは今までの、いつも通りの日常が帰ってくる。

 そのはずだった。

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無題 Type1 第3章 第1稿

2013.02/14 by こいちゃん

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第3章

1
 そのあと、彼らは僕に“取り調べ”をした。…言葉通りに受け取らないでね?
 既存のプログラムはほぼ全て、この事件によって脆弱性を持つことが証明され、安全だとは言えなくなることが判明した。侵入に使われたツールが公開されなくても、侵入手口が分からなくても、一度ウイルスに侵入されたシステムを喜んで使い続けようとする人間が多いとは思えないだろう?
 経済損失は計り知れない規模だし、なにより。当時日本最高のセキュリティを謳っていたサーバーから機密を奪われたんだ。データを盗む側の諜報機関としては、プライドを完璧につぶされた形になったわけだ。やっとのことで認めてもらいつつあった諜報機関にとっては、苦労して収集した最高機密が一般市民に勝手に読まれてプライドはズタズタ。
 リモートサーバーへの不法侵入だけでも重罪なのに、そのデータを奪われたうえ、犯人を一度取り逃がした挙句サーバーのデータだけでなくインターネット全体を約2週間にわたって使用不能にしたんだ。普通だったら犯人に重い刑罰が下ることは必然だっただろうね。
 でも、犯人はまだ小学3年生、年齢は1桁だ。いくら「利用者ならば大人扱い」なインターネットでの事件だといっても、日本の法律では極刑を科すことはできない。
 当然、産業情報庁構成員なら雪辱を晴らしたいだろう。頑張って犯人につながる断片を見つけて、血眼になって世界中を調べ上げて。でも最初に捕まえた容疑者は人違いで真犯人はその息子。そんなことになれば、構成員なら誰であっても頭にくる。
 幸いネットは完全復旧してなかったから子供相手に何をしてもニュースになって広まることはないし、広まったって生活の綱であるインターネットを破壊した張本人の味方をする人が多いわけないし。第一、日本最高のセキュリティを誇るサーバーが侵入されたんだ、ウイルスの残骸によって記録が抹消されてしまいました、と言えば証拠がないことを誰も責めることはできない。
 そもそも諸外国に、自国民の仕業です、とばれたら、どんな言いぐさを付けられるか分かったもんじゃない。だから公式には犯人は分からなかったことにして、むしろ犯人を示す証拠を片っ端から削除して。
 そうして彼らは秘密裏に、開発されていた様々な薬物や拷問道具を駆使して僕に復讐をしたよ。
 当たり前だよね。
 体よく人体実験の被験者にしても何の問題もなかった。犯人を逮捕した、なんて事実は公式には存在しない。それを公表しても、日本国内の世論はいたぶってやれ、苦しめてやれって方向に流れていただろうな。当時の記録がないから外の様子、事実は知らないけどね。
 そんな青い顔するなよ。全ては僕の身に起こったことだ、君のことじゃない。
 そして僕は憂さ晴らしに使われた薬物や蓄積されたストレスによって、人格が分裂した。その時に、最初から存在したものがそのまま2つ以上に分かれたせいで、例えば。
 僕には感情がほとんどない。

 俺には感覚、いわゆる五感のうち特に触角が、その中でも痛覚が存在しない。
 どっちも日常生活をするうえで必要な部分はそれぞれに残ってるから、不意に屋上から飛び降りたり間違って缶ジュースを握りつぶしたりすることは、少なくても最近はない。
 そこら辺はお前が気にすることないぜ。同情する必要もないしな。
 で、不安定になったアイデンティティを維持するために、俺らは自分たちに、役割言葉を厳格に使うことを科した。そうしないと、どっちがどっちだか、すぐに分からなくなる。
 最初はそんなことしてなくて。自分がどっちの自分か確かめるために、痛みを感じるかどうかを毎回試してたんだ。そしたら、母さんがヒステリーになりかけてさ。かといって毎回隠れてこそこそ自分を痛めつけて確認しても、俺が表に出てるときには力の加減が難しくて、どうしても痣ができちまうんだ。
 だから2人で相談して、基本的にあいつが表に出る、役割言葉をつかう、って決めた。
 1人称も違うだろ?
 話を戻すぜ。
 そしてあいつらは、疑似的なものだが自分で判断することのできる、人工知能とは呼べないけどそれに近いプログラムだった、俺のクラックツールに目を付けた。こいつは使える、と思ったんだろうな。俺が使ってたシステムもソースコードから解析して、奴らは俺を、新しいシステムの開発者に祭り上げた。
 あらゆる手段を使って強制的に命令を聞く奴隷化して、ソースコードと要求、薬物を与えれば自動的にシステムのセキュリティを強化する機械のように扱いやがった。1日中、朝から晩まで、食事はなく栄養は全部点滴で採って、風呂に入れてくれるわけでもなく用を足しに行かせてくれるわけもなく。寝たきりで体が動かせない人が使うようなベッドにずっと、文字通り縛り付けられて。
 人間として扱ってもらえたのは、俺が何とかシステムを完成させた後、うちに返してもらう時が初めてだったね。それまでの給料としてかなり大金を払ってくれたんだ。その頃はまだ地方にいたから噂が広がるのも早くて、ご近所さんは俺が何をして誰に連れていかれたか知らない人なんていねぇし。母さんも働きになんて行けなかった。
 だから俺がうちに帰ってきて、まともな人間として生活できるようになるのを待ってから、今住んでるここに引っ越した。
 お前、俺んち来たことなかったよな、今度連れてってやるよ。きっと驚くぜ、俺の部屋に。
 俺の部屋、2階にあってちょっと大きめのベランダがあるんだけどさ、6畳くらいの部屋とベランダだけでばっちり生活できるようにしてあるんだ。地下室へ直接行けるようにしてあるしな。家のほかの部分に入らなくても済む。ちっと、妹に嫌われててな、気まずいし。
 まぁそれはどうでもいいか。
 引っ越したのが小5になる春休み。始業式は学校へちゃんと行ったんだが、転校生ってことで注目浴びて、すげぇ居づらくて。1回でもう学校通う気失せたね。だから小学校はそれ以降行ってない。
 ずっと家でぼけーっとしてて、見かねた母さんが俺の部屋来てドサドサいろいろ古い小説持ってきたんだよ。今まで本っつったらコンピュータの解説書ばっかりで物語なんて読んだことなかったんだけど、それが面白くてさ。あの時ははまったはまった。
 今度は食事も睡眠も忘れて無視して、部屋の鍵もかけて1日中文庫本を読み漁った。2日位するとなんかフラフラしてさ、あれ、どうしたんだろーとか思ってたらばったり部屋で倒れて動けなくなって。ヤバいかも、って思ったんだけど声も出なくて、死ぬのかな、って思ってて。
 あの時の精神状態は不思議だったぜ。死んでもいいや、ってのと、死ぬのが怖い、ってのが交互にやってくるんだ。そのあと母さんがベランダから入ってきて病院つれてかれて、見ての通り死ぬことはなかったんだけど。でもあんときはかなり絞られたなぁ。

2
「まあそんなこんなで、今に至るわけなんだけど」
「……」
 今、私の前で横になっている同級生は、想像もしない過去を持っていた。
「さっき君は“虐待はされてない”って言ってたけど、――それよりもっとひどい目に遭ってきたんじゃないの」
 私はこれから、彼とどういう関係でいればいいのだろう。自分のことだから断言できる。もう、
 ――ただの友達として接することなんて出来ない。
「そうかなぁ? 割と面白い経験ができたと思ってるんだけど?」
 飄々と話す彼を、まっすぐ見られない。
 なんか、私、馬鹿みたい。何でこんな、常識外れな規格外の人を、私と同じような、過去なんてあってないような人間だ、って考えていたんだろう。そんなこと、したって意味ないじゃない。
 …私、何を考えているの? 彼は、彼の過去によってこうなった、私と同じ年の男子じゃない。彼と私が違う人間なわけないよ。
 だんだん頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
「別に、自分自身を嫌いになったわけじゃねぇし? 今の生活があればそれで十分だし?」
「君は、あんなことされて、自分を壊されて、復讐してやろうと思わないの?」
「思った。思ってる。でも今はその時期じゃない、ってあいつが言ってるから我慢してる」
 感情に任せて勝算もなく行動を起こしたら、体の操縦権もらえなくなるんだよなー。
 悔しそうに唇を歪ませ、すぐにその歪みが笑いに代わる。
「…なんか、楽しそうだね」
 今さら、やっぱり聞かなければよかった、なんて思っている私は、なんてひどい人間なんだろう。彼のほうがよっぽど、人ができてる。
「そりゃあ、人生楽しまないと損だろ」
「そっか」
「そう。だから、お前も俺のこと色々考えて、勝手に鬱になるなよ」
「……」
 見透かされてる?
「お前、うわの空で受け答えしてるのがバレバレ。どうせ関係ない、過去のことまでしょい込んで、これからを悩むつもりだったんだろ。じゃなかったらアレか、聞かなきゃよかったと思ってるとか?」
「……」
「図星だな。何も言えない、って顔してるぜ」
「だって、」
「だってもくそもない。出会うまでの過去に、お前は関係ない。お前に関係があるのは出会ってから、同じクラスになってからの俺だけだ。分かったな」
「…分かった」
「よし」
 にま、と効果音を付けたくなるような笑い顔。
 そうして彼はパソコンのキーボードを、いつも通り尋常じゃない速さで叩き始めた。
 画面を見て私を見ない横顔を見ていると、私は何故か気分が軽くなっていった。目を閉じるとさっきの笑い顔が浮かんだ。

「じゃあ私、一度うちに帰るね。両親が心配してるだろうし。また明日来る」
「ん、そうか。悪ぃな、付き合わせちまって」
「いいの、さっきも言ったけど、来たいから来るんだもん」
 彼は苦笑して、はいはい、といった。
「なぁ、頼まれもの、おつかい、してくれねぇかな」
「え、買い物ってこと?」
「そうそう。ダメ?」
「ものによるなぁ。重いもの?」
「文庫本買ってきて欲しいんだけど。…そんな嫌な顔するなよ」
 表情に出てしまったらしい。
「分かった、買ってくる。何が読みたいの?」
「メールアドレス教えて、リスト送るから」
「ずいぶん突然なアドレス交換ね。…いいわ、これ」
 彼に携帯端末を手渡すと、ありがとーといいながら赤外線送信モードにしておいた画面を戻して、電話帳に切り替え、表示された私のデータを手で直接、パソコンに打ち込み始めた。
「あい、どうも。俺のアドレス、送信しておいたから」
 彼の言葉に応えるタイミングで、私の携帯端末が震えた。
「へぇ、流石クラス1の真面目ちゃん。病院ではちゃんとマナーモードなんだ」
「あ、当たり前じゃない!」
「うん、当たり前」
 へへっ、と笑われた。
 普通にしていれば結構、彼はカッコいいほうだと思うんだけどな。イジワルを言わなければ。
「おい、どーした、顔真っ赤になったぞ」
「ウソ!? な、え、うううるさいわね、本買ってきてあげないわよ!?」
「…俺、悪いこと言ったか?」
「最初から最後まで悪いことしか言ってないじゃないの!」
 彼はちぇ、と舌打ちして。
「じゃ、頼んだ。レシートちゃんともらって来いよ、じゃないと金払えねぇからな」
「分かってるわよ、もう。…また、明日。おやすみ」
「おう、おやすみ」
 彼に背を向け、病室を出る。無意識におやすみ、と言ってしまったけど、時計を見て驚いた。
「やば、もう6時まわっちゃってるじゃないの」
 ママに電話しないと、夕飯抜きになっちゃう。
 意識して早く帰ること、ママに連絡しなければいけないことを考える。そうでないと、私が私でなくなってしまうような気がした。
 なんでだろう。どうしてだろう。
 私はいつも冷静沈着な、クールでカッコイイなオンナノコ。
 そのはずだったのに。彼に会って助けられたあの後から、彼のことが頭から離れない。
 彼の前だと、私が私じゃないみたいだった。こんなにほかの人に甘えるなんて、私らしくない。

3
 それから2週間ほどで僕は退院できた。
「結局2週間も、葉村にはお世話になり続けちゃったな」
「いいわよ、気にしないで。…退院、おめでとう」
「ありがとう。今日これから、予定ある?」
「え、何で? 予定なんてないけど」
「お昼まだだろ? もう13時過ぎちゃうし、どこかで奢るよ」
「いいの? あんなに本買った後で、お小遣い足りる?」
「大丈夫、お金は気にしなくていいよ。入院中もバイトしてたから、結構余裕あるんだ」
「入院中って」
「プログラミング。パソコンさえ持ち込めれば、ソフトは作れるから」
「そうなの?」
「そうなの。何か食べたいものある?」
 病院の最寄り駅まで歩く間、彼女はずっと考えて、こう言った。
「山本んちに行きたいな。途中で材料買って、一緒にお昼ご飯、作ろう?」

「梯子、気を付けてね。先に登るよ」
 彼女は普段着、スカートだったが、短めだったから多分つまずいて落ちることはないだろう。先に梯子を登り、窓の鍵を開けておく。
「本当にベランダから出入りしてるんだね」
「そんなことで嘘、吐いたって仕方ないじゃないか」
「それはそうなんだけどー」
「よそ見して踏み外さないようにね」
「分かってる。…君、どういう生活してるの」
「こういう生活さ」
 窓の外にベランダが約6畳、家の中に自分の部屋が8畳。ベランダには鉄パイプで屋根の骨組みが作られていて、太陽光発電パネルが設置されている。部屋の中から見て右側に水道、左側に先ほど登ってきた梯子、奥に置いてあるプランターには苦瓜らしき植物が育っている。
 室内は和室。窓の内側、左側にはスチール机があり、上にカセットコンロとデスクトップパソコンが置いてある。押入れの戸は開け放され、上の段には布団と枕が見え、下の段には冷蔵庫があった。右の壁には埋める大きな本棚。
 一通りの生活を営むために必要な設備はそろっている。
「なんでこういう部屋なの?」
「や、ちょっと妹に嫌われてるらしくてさ、この部屋から出ると嫌がられるんだよね。ほら、あんな過去がある、ってことは妹にも散々迷惑かけたわけだし。こっちに非があるかな、って思ってるからさ、引っ越してきた時にこの部屋だけで生活できるようにしてもらったんだ」
「だから出入りも窓からなの?」
「そう。慣れると便利だよ。後で見せるけど地下室もあるし、屋根裏も使えるし、ベランダに水道引いてあるから冷たくていいのならシャワーも浴びれるし。住めば都ってやつ?」
「……」
「風呂は銭湯に通ってるんだ。このあたり、まだ銭湯いくつかあるしさ、ついでに買い物も済ませて、そこのカセットコンロ使って料理して。それに僕はほかの大多数の人間と生活時間帯違うみたいだから、隔離されてると逆に楽なんだよね」
 当たり前のように、自分自身が“隔離”されていると言い放ったからだろうか。彼女は複雑な表情をした。
「外で料理しようか」
「うん」
「道具、取ってくる」
 窓を開け、身を乗り出してカセットコンロを取る。

 玉ねぎを切りながら、彼女は言う。
「ねぇ、もしかして、休みの日なんて、誰とも話さないでしょ」
 ハムを1cm角に切りながら答える。
「そうだな。夏休みとか、普通に1週間くらい声出さないことあるね」
「寂しくないの?」
「いや、別に。慣れたのかもしれない」
「学校でも人と話してるの、あんまり見たことないし」
「そうなんだよねぇ。なんでだろうね?」
 割と真面目に聞いたのだが、彼女はあきれたようにため息をついた。
「ずっと本読んでるからだよ。話しかけづらいんだ、って気づいてなかったの?」
「え、そうなの?」
「そうなの。まったくもう、そんな社会生活不適応者みたいな答え、返さないでよ」
「すんませんねー」
「…それにしても。意外と、器用なのね」
「そりゃ、毎日3食、きちんと作ってますから」
「てっきりコンビニ弁当ばっかりなんだと思ってた」
「そんなことしないよ。本が買えなくなるじゃないか」
「理由が予想と違ったけど、健康的でいいわね」
「やっぱ、女子ってそういうの気になるんだ?」
「そりゃそうよ。そんなものばっかり食べてたらお肌が荒れちゃうし、太っちゃうもの」
 小さい声で彼女がごにょごにょつぶやく。
「ん? 何の人のことだから?」
「え、な、なんでもない!!」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃん」
「やだ」
 ――突然いじけやがって。なんなんだまったく。

「「いただきます」」

「「ごちそうさま」」

「結構美味しかったわ。料理、上手いんだね」
「そりゃあ、な。もうかれこれ4~5年くらいは自炊してるから」
「…そっか」
 まずい方向に話が飛んでしまった。そう彼女の顔に書いてあった。苦笑は心の中だけに留め置いて、話題を変えてやることにした。
「洗い物、俺がやっとくよ。お前は中でくつろいでな」
「あらありがとう。どっちの君も、意外と優しいのね」
「意外とってなんだ、意外とって。俺はいつもジェントルマンだ。客をむやみに働かせるような無礼はしないさ」
 そう言ってやると、彼女は「ありがと」と言いながら、含み笑いを漏らして窓から部屋へ入っていった。
「んだよ、今の笑いは。まったく」
 でも、たまには他人と過ごす休日も悪くねぇもんだな。

「お前、帰らなくていいのか? もう17時になるぞ」
「平気、友達んちに泊まるって言って出てきたから」
「お前な、年ごろのオンナノコがそんなんでいいのか」
「いいのいいの、もう手遅れなんだから」
「まったく、何が手遅れなんだか」
「え、泊まっちゃダメ?」
「別にいいけどよ。じゃ、銭湯行くぞ、着替えは持ってきてるんだろうな」
「当然じゃない」
 押入れから銭湯セットを出して窓からベランダへ。
「ほら、鍵閉めるぞ」
「ちょっと待って、…お待たせ」
 葉村が出てから後付けの鍵を閉める。
「梯子、気をつけろよ」
「うん」
 そろそろ、おっかなびっくり降りていく彼女を見ていると、こっちのほうが心配になってくる。
「大丈夫か?」
「へ、平気よ。馬鹿にしないヒャっ」
「ほら言わんこっちゃない、ちゃんと足元見て降りろよ。怪我されても困るんだから」
「…お荷物だって言いたいの?」
「え、なんか言ったか?」
 小さい声でぼそぼそ言われても、俺は感覚が遠いんだ。
「何でもないっ!」
 そんな、機嫌悪くされても困るんだけどな。

 銭湯までの道中は口を利いてもらえず、銭湯内は男女別。風呂から上がる時間だけ指定してすぐに女湯に引っこまれてしまった。
 何がいけないのか、ちっとも分からない。感情のないあいつのことだ、聞いたってロクな答えは出てきはしないだろう。
 うんうん唸りながら考えて、危うくのぼせるところだった。
 風呂から上がって扇風機にあたりながら牛乳を飲んでいると、上機嫌な彼女が出てきた。
 なんとなく、のぼせるまで理由を考えていた自分が馬鹿らしくなった。
 また機嫌が悪くなったら居心地悪いことこの上ないから聞くに聞けないし、どうしたもんだろうか。そんなことを考えていると。
「ねぇ、私も、牛乳飲んじゃダメ?」
「ん、残りあげる」
「…違うわよ。私も買っていいか、って聞いたの」
「ほい、財布」
「まったく、なんて想像してるのよ」
「…? なんでお前、顔赤くなってるんだ?」
「うるっさいわね!」
 またキレられた。ほんと、女って何なんだよ。
 葉村は俺の財布から必要なだけぴったり小銭を取り出して、プリプリしながら受付へ歩いていった。そして目当ての瓶を持って帰ってくる。
「一度、飲んでみたかったの。風呂上がりのフルーツ牛乳、ってやつ」
「よかったな」
 くっはー、と実に女子高生に似合わない声を上げる葉村。学校にいるときとのギャップがすさまじい。笑いをこらえるのに骨を折る。
「そういえばさ。学校だと山本はいつも、…丁寧な方…が表に出てるじゃない?」
「そうだな」
「普段は、うちでは、そんなことないの?」
「…どうだろう。うちでのことは意識したことなかったな」
「学校だといつも…」
「そりゃ、あんまり人に知られてうれしいことねぇしな」
「そっか」
「おう。だからいつも、今沈んでるほうが表に出てるようにしてる」
「君は、今表に出てる山本はそれでいいの?」
「同意の上だ。俺が出てたら、喧嘩ばっかりしちまうしな。冷静なあいつのほうがいい」
「誰とも話さないで、寂しくないの?」
「うーん、表に出てねぇだけで、外の様子はあいつと共有してるから。こいつ馬っ鹿じゃねぇの、とか中で思ってる。中であいつに諭されることもあれば、納得されることもある。それで十分だぜ」
「私なら、耐えられないよ、そんなの」
「いいんじゃね? 俺らの事情が異常なんだし」
「……」
「ちなみに、今は傷がまだ痛むから俺が出てるだけ。この前も言ったけど、俺のほうがあいつより感覚鈍いからな。もうちょっと治るまで、俺のほうが表に出るようにするつもりなんだけど、学校あるとな」
「学校あると今の山本だとだめなの?」
「あいつとはできるだけ違う人間だと分かるようにしてきたからな。今さらあいつの真似なんてやりたくてもできねぇよ」
「そっか」
「おう。…そろそろ帰るか」
「そうだね」
 そう言うと葉村は、半分くらい残っていたフルーツ牛乳を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「な、うるさいわね!」
 ただ単に感想言っただけなのに、顔をほんのり赤くして噛みつかれた。

「じゃ、そろそろ寝るから。ノートパソコンの方なら自由に使っていいぞ」
「え? まだ夕飯食べたばっかりじゃない。お風呂…はそっかさっき銭湯行ったか」
「俺の生活時間は20時寝の2時起きだ。お前いつも何時くらいに寝てるんだ?」
「日付が変わったくらい」
「そうか…じゃあまた明日、だな。俺が起きた時にはもう寝てるだろ」
「そうだね…って、そうじゃなくて。私はどこで寝ればいいの」
「あー考えてなかったな。ちょっと待て」
 そういって押入れの上段に登る山本。天井板を押し上げた。そしてそのまま天井に消えてしまう。
「勝手に上がっていいの、天井抜けない?」
「へーきへーき、500は軽く超える数の文庫本置いてあって抜けてないから」
「何それ、私が怖いんですけど!?」
「だいじょぶだいじょぶ、…あった」
「探し物?」
 ぽっかり四角い天井の穴から、ラグビーボールを一回り大きくしたような布袋が落ちてきた。
「なにこれ」
 いよっ、という声とともに降りてきた山本は天井板をはめなおすと、押入れから床に落ちたナゾの布袋から中身を取り出した。
「…寝袋…?」
「あたり。貸すよ」
 ほれほれ、と差し出されたぺっちゃんこの寝袋。
「これで寝ろと?」
「冬山でも使える耐寒-10℃のだから、暑すぎるくらいだと思うが」
「そんなことを問題にしてるんじゃないわよ!」
「え、じゃあ何が不満なんだ?」
「女子に向かって、男の臭いがしみついててちょっと汚そうな寝袋を使って寝ろ、と。それも同級生のぴっちぴちの女子高生に、普通言う!?」
 合点がいったように手のひらをぽんとたたく山本。
「俺のだから嫌なんだな。でもなぁ他に就寝具持ってねぇし…」
「客用布団とか、ないの」
「下にはあるだろうけど、取りに行くと嫌がられそうだし」
 山本が唸りながら考え始めた。そしてふと顔を上げ、
「俺と一緒に寝るか」
「馬鹿言ってんじゃないわよー!!」
 思わず大声で怒鳴りつけ、グーをお見舞いしてしまった。
 肩で息をする私、倒れた拍子に壁へぶつけた頭を押さえ仰向けで痙攣している彼。
 そこに控えめなノックの音が聞こえた。
「はい」
 つぶれたかえるのようなうめき声で答える山本。
 がちゃり。この部屋の扉が開くのを初めて見た。
「…ゆうくん? さっきの、…………」
 細く開けた扉の隙間から顔を覗き込ませたのは、40台、もしかしたら50に手が届いているかもしれない、そんなくらいの年齢の女性――山本のお母さんだろうか――だった。
 その女性は部屋の中を見て、しばし口をつぐんだ。
 寝る準備万端の押入れ上段。頭を押さえて大の字に倒れている息子。その正面で仁王立ちをして肩で息をする息子の同級生らしき女子。二人の間に横たわる薄汚れたくしゃくしゃぺちゃんこの寝袋。
「「「……」」」
 部屋の中の様子を改めて確認した私も、痛みをこらえるのに必死な彼も。黙り込んでしまう。
 だんだん私の顔が熱を持ってくる。
 そんな居づらい空間、私が取り乱しそうになる直前。沈黙を切り払ったのは。
「…あんた、誰」
 山本のお母さんの後ろから私を睨みつけている、一つ二つ年下に見える女の子だった。
「…私?」
「他に誰がいるっていうの」
 まさに“切り払う”ような冷たい声。
「山本の…祐樹くんの妹さんですか?」
「あたしがあんたに聞いてるの。あんた、誰?」
「…葉村ななみ」
「で、お兄ちゃんに何を――」
「ちょっと。失礼でしょう、初対面の方に向かって、なんですかその態度は。…ごめんなさいね、この子、普段は優しいいい子なんだけれども」
「…いえ」
 山本のお母さんは険悪になりかけた雰囲気を柔らかく戻した。
「…ふん。お母さん、あたしもう寝る。おやすみ」
 ペースを乱された山本の妹は鼻を鳴らしてそれだけ言い捨てると、バタンと乱暴に隣の部屋の扉を閉めた。
「…な、言ったろ。あいつ、俺のこと大嫌いなんだよ」
「あ、ごめん、大丈夫だった?」
「ちっ、何が大丈夫だった、だ。傷口開いたらどうするつもりだったんだ」
 のそのそ起き上がる。「うー痛てぇ」
 そんな彼を見て、お母さんが何かに落胆したようにため息をついた。それも一瞬のことで。
「ほらほらケンカしない。もうお母さん、うれしくなっちゃって。ゆうくんがお友達を、それも女の子を連れてくるなんて思ってもみなかったから」
 すぐにニコニコした笑い顔を取り戻して話しかけてくれた。
「私なんて、きっと彼には女の子だと思ってもらえてませんから」
「あらそうなの、全くうちのバカ息子にはもったいない別嬪さんなのに」
「べ、べっぴん…」
「こんな若々しくって。うらやましい限りだわ」
「そんな…」
「いけない、立ち話をしに来たんじゃなかったんだわ。あなた、お布団がないんでしょう」
「そうなんです」
「下に使ってないのがあるから、それを使ってくれても構わないんだけど、…その寝袋のほうがいいかしら」
「いえ、布団を貸してもらえますか」
「えぇ、ぜひどうぞ。たまには使ってあげないと、布団もいじけちゃうものね。ついていらっしゃい」
「はい」
 慣れた手つきで寝袋を丸めて布袋にしまっている山本に声をかけて、私はお母さんの後についていった。

4
 階段を下りて1階へ。明かりが点っている部屋に入る。物置らしいそこではお母さんが布団の入った圧縮パックを取り出していた。
「あ、私やります」
「あらそう、ありがとう」
 ちょっと高いところにあったが、なんとが手が届いて。敷布団と掛布団、シーツを受け取った。
「ねぇ、ななみさん、って言ってたわよね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょう」
「あの子のこと、どう思う?」
「え、あ、そんな、その…」
 ズバッと訊かれた。私が、あいつのことをどう思っているか…?
 また顔が熱くなる。最近赤くなってばかりだ。
「ん? ああ違うわ。ごめんなさいね、そうじゃないの。あの子の過去、どのくらい知ってるの?」
「…それなら、全部教えてもらった、はずです。そう彼が言っていました」
「あの子、あんなことをやらかしたあとね。うちに帰ってきても1ヶ月くらいかしら、何にもしないでぼーっとしてるだけだったから、私があなたたちくらいの年の頃読んだ本をあげてね、何にもせずに1日を無駄にするなんてことは今日から許さない、って叱りつけたの。当時はあの子が何されたかなんて知らなかったからしょうがないとはいってもね、今も後悔してるの。何もしなかったんじゃなく、何もできなかったのに叱りつけてしまって」
「……」
「私のこと、なんか言ってなかった?」
「…特に、何も」
 特に、どころか、全く。正確にはそう言いたかったけど、でもそれは残酷すぎる言葉だ。
「…そっか。あともう一つ、聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「あの子、自分の妹についてはどう思ってるか、知ってる?」
「単に、ものすごく嫌われている、自業自得だから仕方ない、と」
「やっぱり。あなたはどう思う? うちの子、娘のほうは、兄を嫌ってると思う?」
 私を睨みつけてきたあの目を思い出す。
「いえ、思いません」
「…なんでそう思うの?」
「私をにらんだあの視線と言葉が、なんとなく。兄とその友達を嫌っているものというより、兄を心配しているものだったような気がしました」
 言ってみれば、兄が誰かに奪われないように、敵を威嚇するような目だった。
「私と同じ意見ね。でも、肝心の兄は」
「妹の心配に気付いてすらいない」
 はぁ、と2人で溜息をつき、タイミングがそろったことに苦笑した。
「あなたとはいい嫁姑な関係になれそうだわ」
「え、嫁だなんて、そんな」
「ふふ、いい慌てぶり。私も昔はこうだったのかしら。懐かしいような気もするし、でもいつの間にか忘れちゃったな。…じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。お布団、お借りします」
 私は布団を抱えなおして、物置から出た。

「よう、遅かったな。何、話しこんでたんだ」
「なんでもない」
 彼の部屋に戻ると、彼は押入れ上段の布団にもぐりこんでいた。
「ちぇ、教えてくれたって罰は当たらねぇのに」
「教えてなんてあげないもん」
 私も袋から出したふとんを床の真ん中にひいた。
「お前も、もう寝るのか」
「うん。たまには早寝もいいかな、って」
「そうか。じゃ、電気消してくれ。豆球も消していいぞ。おやすみ」
 立ち上がって豆球にして、
「着替えるからこっち向かないで」
 そう言うと、彼は無言でふすまを閉めた。
 きちんと隙間なく閉まっていることを確認してから、私は寝巻に着替えて。それから紐を引っ張って灯りを完全に消した。
 布団に入ってじっとしているとコンピュータや周辺機器のパイロットランプが明るく排気音が気になったが、いつのまにか寝てしまった。

5
 いつも通りの時間に起きて、痛む背中の傷に触らないように気を遣いながら、寝転んだ態勢で4時間くらい過ごしていた。
 押入れの外で他人が寝ているという経験は初めてで、枕元に蛍光灯を用意しておいてよかったとしみじみ思いながら、光と音が漏れないように、ふすまを閉めたままパソコンをいじっていた。流石に、背中、今度は背骨や腰まで辛くなってきている。

 けたたましい目覚ましのベルが鳴り始めた。どうやら昨夜のうちに葉村がセットして寝たらしい。時計を見たらもう6時半だった。
 そろそろふすまを開けると、目をつぶったまま音の発生源に向かって、バンバンと手で床を叩きながら目覚まし時計を探している葉村の姿が目に入る。
 しばらくそうしていたが、なかなか目覚まし時計見つからない彼女はついにむくりと起き上って目覚まし時計を黙らせた。
 そしてきょろきょろ周りを見回し始めたところを見ると、どうやら彼女はまだ寝ぼけているらしい。
「おはよう」
 押入れの上段から声をかけた。ふっと振り向き、きょとんとしている。
「あーおはよう~」
 それから彼女は、もそもそ布団から抜け出し伸びをしたところで、ぎしっ、と効果音が付きそうなくらい突然固まった。
 フランケンシュタインのようにギギギと、赤く染まった顔を僕のほうに回して、
「……見た?」
「申し訳ない、何の話か全然見えないんだが」
「うるさいっ」
 なんなんだ、まったく。理不尽すぎる仕打ちだと思うんだが。
「着替えるからあっち向いてて!」
「分かった」
 ふすまを閉める。
 何であんな、泣く寸前の表情を向けられなければいけないのだろう。僕がなにか悪いことをしただろうか。

「さっきはごめん」
 通学途中、葉村に謝られた。
 あのあと、彼女は朝食の時もずっと黙り通しだった。
「いや、別に気にしてないが」
「…そっか」
「……」
「……」
 再び2人で気まずい空気に沈み込んでしまう。黙々と学校までの道のりを歩いていく。
 そのまま学校に到着し、下足室で久しぶりに会った同級生たちは、僕らに話しかけようとしても、纏っている重い空気に気圧されたようで早足で逃げていく。
 どうやら一緒に来た僕らを囃したてたいようだったのである意味助かったともいえるのだが、それにしてもこの雰囲気はまずいと思う。思うのだが、どうやって解消すればいいのかわからない。
 僕らは教室の、隣同士の席について。気まずいまま授業が始まった。

――なあ、なんでこんな気まずくなったのか、君は分かっているのかい?
――当然だろ。むしろ、なんで分からねぇんだよ。
――僕に聞かれても困るから君に聞いたんだが。
――あーはいはいそうでしょうねー、と。…多分な、葉村は俺らに寝ぼけた姿を見られたくなかったんだろうよ。
――だから寝ぼけた姿を「見た」か、を聞いたのか。
――だろうな。恋する乙女としては、そんなところを見られたくなかったんだろ。
――恋する…葉村が? 誰に恋するんだ?
――…もう俺は知らん、寝る。
――そうか、おやすみ。
――ちっ、うらやましいぜこの野郎…

 怪我をして以来、約1ヶ月ぶりの学校は1学期末試験直前で、授業は夏休み前の峠だった。
 葉村にノートは見せてもらっていたので特に困るようなこともなく。同級生数人に体の調子を聞かれたくらいで変わったことも無いようだった。

 今日1日の、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
 鐘が鳴ると同時に、まだ話している教師にはお構いなしで帰り始める同級生たち。試験1週間前になって、どの部も活動が休止状態になっているのだろう。いつもなら重そうな部活道具を抱えているやつらも、さっさと帰り支度をしていた。
 僕も教科書を鞄にしまい込み、一応教師が教壇から降りるのを待ってから席を立った。
 葉村に話しかけられたのはそんな時。
「あの、昨日はありがとう」
「いや、あのくらい別に何でもないさ。結構な頻度で見舞いに来てくれていたしね」
「じゃ、また明日」
「気をつけて帰りなよ」
 ニコっと笑って彼女は教室から出ていった。

 無事退院できたし、学校はちっとも変り映えのしない1日を繰り返しているようだ。葉村に世話をかけられるのも昨日まで。今日これからは今までの、いつも通りの日常が帰ってくる。

 そのはずだった。

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