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俺に明日は来ない Type1 第13章

2022.07/14 by こいちゃん

 朝を迎えたのがいままでと同様の一人暮らししているアパートではなかったので少し混乱してしまったが、すぐに昨日の記憶がよみがえる。
 起き上がって全ての部屋を見たが、まだ両親ともに出勤前の時間のはずなのに、やっぱり家には誰も居なかった。
 実家で日付を跨いだから、実家で復活したのだ。
 もしかしたら、親方をこちらの世界に巻き込んでしまったかも知れない。慌ただしく最低限の身支度だけ調えると、普段は母さんが通勤に使っている車の鍵を取って家を出た。
 生きている世界なら無免許運転だが、死後の世界なら法律なんて関係ない。自動車の運転は鈴木さんに少しだけ教えてもらっただけだが、多少ぶつけたくらいどうという事は無い。集落を抜けて山を下っていくと、みんなで温泉へ行ったときの国道に合流する。つい1週間ほど前は荒れてアスファルトの割れ目から所々雑草が生えていた道が、すっかりあっちの世界と同じくらいまで回復している。
 死後の世界に物が持ち込まれているということは、この辺りで誰かが、その人にとっては初めて世界を移動したと言うことだ。
 対向車がいないからその分だけスピードが出せて、かなり怖い思いをしながらも無事に麓の高校までたどり着く。
「あれ、樋口さん? 昨日は来なかったから、もうあっちで死ぬことはないだろうと思ってたんですけど、何かあったんですか」
 門番をしている木下くんが不思議そうにしている。
「またうっかりやらかしちゃって……いやそれどころじゃないんだ。こっちの世界に物が増えてるというか、道が綺麗になってた」
「それじゃ、誰か樋口さん以外にも昨晩誰かが移動してきたって事ですか」
「そうみたいなんだよ。というか、それが誰か心当たりがあって」
「知り合いですか?」
「俺の、というよりは水上の知り合いなんだけど、出かけちゃった?」
「いると思いますよ」
「ちょっと呼んでくる」
「あ、ここに居てください」
 木下くんは守衛小屋から陸上用のピストルを持ってくると、空砲を1回ならした。
「何それ」
「何かが校門であったときに鳴らすことになってるんです。水上さん以外も来ちゃうと思いますけど、食べ物が届いたなら今日は調達をしないといけませんし、ちょうどいいですよね」
 見れば校舎から大人達が出てくる。細川さんが、俺を見て少し表情を硬くした。
「どうしたの?」
「なあ水上、お前の親方さんがどこに住んでいるか、知らないか」
 細川さんの質問には答えず、水上に問いかけた。
「知ってる、というか住まわせてもらってた。なんで?」
「俺が道連れにしちゃったみたいなんだ」
「道連れ?」
「水上の親方さんに偶然会ってさ。車に乗せてもらったんだけど交通事故に遭って」
 水上は無表情のままでくるりと踵を返すと校舎へ走っていく。
「校門を開けといてくれ!」
「おい、どこへ行くんだ」
「車でも取りにいったんじゃないですか」
「俺たちは調達活動に出かけないといけませんよね」
 言われたとおりに校門を開けながら、木下くんが鈴木さんと細川さんに聞いた。
「そうだなあ。まだ前回のが残ってはいるけど、あるときに集めておかないといけないね」
 鈴木さんが同意する。
 俺は実家から乗ってきた母さんの車が邪魔になってはいけないので、高校の敷地の中に入れていると、軽トラックの低速ギアでエンジンを思い切り回しながら水上が飛び出してきた。
「出かけてくる、後はよろしく。もしかしたら今夜は帰らないかも知れない」
 開けた窓から水上が叫んだ。
「ちょっと待て、俺も一緒に連れてけ」
 思いだした。田口さんが乗っていた軽トラは、この車だ。
「勝手にしろ」
 そう言いつつも彼は少しだけ速度を緩めた。俺が乗りやすいようにではなく、単に敷地から直角に曲がって道路に出るためだったかもしれない。走って荷台に飛び込むと、俺が乗ったことをバックミラーで確認した水上は再び強くアクセルを踏み込んだ。横に揺れながら加速していく軽トラックの荷台で、俺は危うく掴んだ鳥居を離してしまいかける。
 滝のように冷や汗をかきながら、振り落とされないような姿勢を模索しながら両手でしっかりと出っ張りを握りしめた。

「こっちの世界に来てから俺はやたら吐いているんだけどさ。乗り物酔いではいやだなあ」
 かなり乱暴な運転で人通りも他の車もない道をすっ飛ばしていく。
「うるせえ、着くまで舌を噛まないように黙ってろ」
 舌の前に、荷台に打ち付け続けている全身に青たんができかけているような気がする。
 かなり気が立っているようだった。無理もないか。
 まだ決まったわけでは無いが、自分の死に、他の人にとって大事な人を巻き込んでしまった罪悪感もあって、俺は言われたとおり口をつぐむことにした。

 冗談のつもりで口にした乗り物酔いを本気で懸念し始めたころ、タイヤが滑っているのではないかと思うほど喧しく、ある一軒家の前で軽トラックが停車した。
 腰が痛くて荷台から降りられない俺のことなど眼中にない水上は、運転席のドアを開けっぱなしのままでその家に駆け寄って、玄関の前でその中へ飛び込んでいくのを寸前で躊躇した。
 ドアノブと呼び鈴のどちらに手を伸ばそうか逡巡しているようだ。すると家の中からカタリと錠を開ける音がした。後ろから見て分かるほど水上の肩が震え、そのまま外開きの扉が開くと体がぶつかる位置から後ろへ飛び退いた。
 出てきたのは昨日、俺が水上家の墓の前で会ったおっさんだった。
「……」
「……あ、あー。その、久しぶり?」
 背中しか見えない水上が、どんな表情でその言葉をひねり出したのか、無性に気になった。
「何で? え?」
「老けて見えることを気にしていたけど、世界はちゃんと30代だって認めてくれたって事」
「……何の話? お前、どうしてしゃべって、動いて……生きてるんだ」
「全部、話すよ。まだ、俺もこの家に入っていいかな。親友を連れてきたんだ」
 雰囲気を邪魔しないよう、荷台から降りるのを諦めていた俺を振り返った水上は、泣きそうな、嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「こんにちは、またお会いできましたね」
 水上しか見えていなかった田口さんがやっと俺に気付いてもう一度驚いた。
「……昨日の?」
「はい、樋口と言います」
「いつまで荷台に張り付いてるんだよ、さっさと降りて来いよ」
「裕吾の運転は乱暴だもんな、ぶつけた所に湿布でも貼ってやる」
 手を貸してもらいながら地面に降りて、我が家のように振る舞う水上に続いて田口さんの家に入った。

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俺に明日は来ない Type1 第12章

2022.04/14 by こいちゃん

 自分のうなされる声でふと気がつくと、俺のアパートの窓から朝日が差し込んでいた。
 思い出すまでもない。
 両手にかいた脂汗以上に、残る感触が気持ち悪い。
 本人の意思とは関係なく、塞がれた気道と動脈がびくびくと酸素を求めて跳ねる。力ずくで上から押さえ続けていると、やがて彼の体全体が震え出した。徐々に大きくなっていったと思ったら、張り詰めたゴムが弾性限界を迎えたように力を失って動かなくなった。
 手を離した途端に動き出すのではないかと無駄な心配をしながらゆっくり水上の首から両手をずらしていく。知らず知らず俺も息を詰めていたようで、肩で大きく息をしながら浮いていた腰を下ろす。水上の腹の上はついさっきよりも深く沈み込んだような気がした。
 少しずつ俺の息が整えながら目を開けると、僅かも上下していない水上の胸の上に、代わり映えしない自分の両手が見えた。恐る恐る視線を上げていくと、伸びたTシャツの襟では隠しきれない赤黒い指の跡が、月明かりでもそれとはっきり分かるほど痣になっていた。大きく開いた口から下が突き出て、両目はそっぽを向いて見開かれている。
 見なきゃ良かったのに水上の死相を正視して今夜だけで3回目の吐き気を覚える。死んでいたとて、幼なじみの体の上には吐瀉物を出したくなくて横に跳ね飛んで校庭の土へ僅かに残った胃液を吐き出した。
 記憶に連想されて、生きている俺は再び吐きそうになり掛け布団を跳ね飛ばすと便器を求めて狭いアパートを駆けた。4回目の嘔吐は胃液だけでなく消化途中の食べたものも含まれていたので、前回よりは幾分楽だった。
 ……今吐き出したこれは、いつ食べたものだ?
 臭いも流すのも忘れて汚れた便器の水たまりを見つめて記憶を掘り返そうとしていると、外から踏切の音が聞こえた。
 死後の世界に、鉄道は走っていない。走らせる技術を持つ人も居なければ、需要もない。踏切の音だけなら報知された機械の誤動作を疑えたが、やがて電車が線路の段差を踏み越える規則的な音に気がついた。
 昨晩は、高校を出てアパートへ帰ってきた記憶は無い。
 つまり、持ち帰れないはずの死後の世界の記憶を俺は保持したままだが、生きている世界に俺は居るのだ。

 どれくらいそうしていたか分からないが、飛び出してきた寝室から、仕掛けられた目覚ましのアラームが鳴り出した。
 水を流して手を洗い、ついでに春先の冷たい水で顔も洗って寝室に戻ると、死後の世界の俺の部屋にならあるはずの作業着はどこにもなかった。
 いつまでも喧しいアラームを切ると、まさか寝間着のままで外の様子を見に行くわけにもいかないから、のろのろと高校の制服を身につける。条件付けによるものだろうが、無意識に通学カバンを持って家を出た。重い足を引き摺るように通学路を消化していく。
「よっす、今日も朝は苦手みてえだな」
 振り向くと高橋が俺を自転車で轢こうとしていた。
「危ねえ」
「寝起きの樋口にどついて気合いを入れてやろうとした俺の優しさを分かってくれてもいいんだぜ? それにしても、2年になったばっかりなのに、制服を着崩しすぎじゃねえ? 先輩達にシメられるぞ」
 見下ろしてみれば、シャツも学生服も普段通りの俺ならもう少しましな着方はないのかとまゆをひそめるほど、だらしなかった。
 今日はそれを直す気力がどうしても沸かない。
「絞めたのは俺の方さ」
「……あん? 何て言った?」
「なんでもない」
「顔色も酷いし、体調でもおかしいのか」
 少し真面目な表情になった高橋は俺の顔をしたからのぞき込んだ。
「起きたときから頭痛と吐き気がして」
 嘘はついていない。
「変なものでも食ったんだろ。覚えはないのか」
「ないなあ」
 今度は純度10割の嘘だった。内心はどうであれ顔色一つ変えずに人を殺せる水上と違って、俺に人殺しは出来ないようだった。
 それでも。何が適材適所だよ。くそ食らえ。
「今日はこのまま帰れよ。先生には上手く言っておくから」
 サボりか。たまにはそれも良いかもしれない。
「……そうする。よろしく」
「おう、気をつけて帰れよ。今にも車に轢かれそうだ」
「自転車だって車なんだぜ、確かにさっき轢かれかけたな」
「……俺のことかよ。やっと減らず口くらいはたたけるようになったか」
 高橋との他愛ない、次の瞬間には忘れてしまいそうな遣り取りで少しだけ気分が上を向いたような気がする。

 アパートに帰ったところで再び気持ちが沈み込みそうだったので、当てもなく散歩することにした。行き先を決めていなかったのだが、辿りついたのはあっちの世界で水上と忍び込んだディスカウントストアだった。
 日が暮れたら柄の悪そうな同年代が店頭に屯する24時間営業の店だが、連中にとって今からならまだ1時限目にぎりぎり遅刻するこの時間帯は早朝なのだろう。既に朝日とは言えなくなった太陽に照らされた看板の下は平和そうだった。
 狭いショーケースや天井まで棚に積み上げられた商品の間をすり抜けるような店内通路は空いていて、買い物をするために来たわけじゃない俺にとって丁度良い時間つぶしになる。
 体感時間では1ヶ月以上もこっちの世界で生活していないから、ティッシュや洗剤といった日常消耗品を眺めていても家に買い置きがどれくらいあったのか思い出せない。
 玩具売場で水上が使っていて見覚えのある自動拳銃のエアガンを見つけた。18禁指定されていて俺には買えないが、同い年の幼なじみが火薬式の本物を当たり前のように撃っていたのを考えると少しおかしかった。
 レジ近くのブランドものコーナーで、ふと視界の端に何かが引っかかった。何かと思えば、整然と並んでいる中のある一つは、陳列されているところから取り出されたところは直接見ていないのに、あっちの世界で俺が使っていたオイルライターだと何故か分かった。無意識にライターの定位置となっていたズボンの左ポケットを左手が、煙草を入れていたシャツの胸ポケットを右手が、そこにあるはずのないものを探っていた。
 記憶があるということは、経験も習慣も同様に持ち越したと言うことなのだと実感する。
 つい一瞬前までは全く頭から抜け落ちていたのに、今は無性に煙草が吸いたくなっていた。
「あ、ちょっと、すみません。コレください」
 レジの店員に声を掛ける。
「あと、えっと。……51番を一つ」
「はい?」
 俺の顔を見て、そして服装を見て、大学生のアルバイトらしいレジ打ちのあんちゃんが怪訝な顔をしていた。
 高校の制服を着たままだったことに今更気がついたが、高橋が3年に因縁を付けられそうだと言ったほど着崩してもいる。開き直ってしばしにらみ合いを続けると、先に折れてくれたのは店員だった。
 さっと周りを見て、レジに並ぶ他の客も他の従業員も自分たちに注目している人は居ないことを確認して、彼は俺が指さしたライターとオイルを鍵付きのショーケースから手早く取り出した。続いて流れるような手つきでハイライトを2箱取り出すと、まとめて大人のおもちゃ用に用意されていると噂されている、中身が見えないレジ袋に入れた。
「5180円」
 衝動的な買い物だったが、手持ちの現金はなんとか足りた。
「もう制服で堂々と買いに来るなよ」
 おつりを手渡されるとき小さくささやかれて、少し申し訳なくなって首をすくめた。

 店頭にも灰皿は立っているが、釘も刺されてしまったし、制服を着たまま外で吸うわけにはいかない。そもそもオイルライターは売られているときに燃料であるオイルが入っていない。オイルを入れなければ火を点けられないのだから、使う前にこぼさず落ち着いて給油するためには帰宅するのが一番都合が良かった。
 早足でアパートへ帰る途中に、自販機で広口の缶に入ったコーンスープを買う。
 鍵を開けるのももどかしく、靴を脱ぎ散らかして包装を開け、新品のインサイドユニットの底から溢れるぎりぎりまで透明なオイルを中綿へ染みこませた。
 新しいおもちゃを手に入れたときのワクワク感を、ここまで強く感じたのはいつぶりだろうか。
 ケースに入れて何度か石を擦ると、静かな音を立てて火が点いた。
 こっちの世界には敷金がある。築年数の大分経ったぼろアパートだが、室内で煙草を吸うのを迷った上でやめてベランダに出る。
 記憶の上では約1ヶ月をともにした吸い慣れた銘柄だが、タール値17mgの煙を体は初めてだったせいか盛大に噎せた。涙まで出てきた。
 決めた。サボったなら1日も2日も一緒だ。
 これから実家へ帰ろう。
 明日は水上の墓参りをしよう。
 昨日までの俺は、あいつが死んだことすら知らなかった。
 でも、今日の俺はその事実を知っていて、多分明日も覚えているだろう。
 だから一度も行ったことがないし、そもそもどこに水上家の墓があるのかを知らない。
 田舎だからそれぞれの家がそれぞれの場所に代々の墓地を持っている。余所の家がどこに先祖を奉っているのかなど気にしたこともなかった。
 俺に明日は来るのだろうか? 気がかりなのはそれだけだった。

 杞憂だったようだ。
 次の朝を迎えても、昨日のうちに電車とバスを乗り継いでやってきた実家の自室で寝ていた。もし知らない間に死んでいたのなら、目を覚ますのは借りているアパートの部屋のはずだ。
 脱ぎ捨てられた作業着は部屋にないし、外から行き来する自動車の音が聞こえる。
 記憶もちゃんとある。
「体調はどう?」
 ドアを開けっぱなしにしているから、朝飯の支度をしている母親の声がよく聞こえる。
「結構マシになった」
「なら会社を休まなくても良いわよね」
 平日にも関わらず急に帰ってきた息子を問い詰めて、体調不良で学校を休んだと聞くやすぐに寝床へ押し込んだ母親は、まだすっぴんの顔を覗かせた。
「大丈夫、いってらっしゃい」
「じゃあまだ間に合うから、急いで出勤しないと」
 当分、洗面台は化粧をするために占領される。その間はぬくい布団の中でゴロゴロしていることにした。
「おにぎりを握っておいたから、朝ご飯にでも、寝坊して昼ご飯にでもしてね」
「分かった」
「いってきます」
 既に父親は出勤している時間だ。地べだだけは余っている田舎あるあるで、俺の実家も3人で暮らすには無駄に広いのだが、兄弟の居ない俺はひとりぼっちで置いていかれる。
 小さい頃からずっとそうだったから、今更なんて事無いが。だから自宅から半径30kmで唯一の同い年である水上と、毎日放課後の時間を共有していた。
 遊び相手が居なかったら、俺はどうして過ごしていたのだろう。
 想像も出来ない”もしも”を考えるのは止めて起き上がる。縁側に出て、実家では流石に隠していた煙草を深く吸い込んだ。

 手土産を持って同級生の家を訪ねるのは初めてのことだった。
 1人で遊びに行ったときには、中学の時までは勝手に玄関を開けて、戸口から大声で呼ぶのが当たり前だったが、流石に今回はしなかった。
 呼ぶ相手が既に居ないことを知っているのはもちろんだが、高2ににもなっていつまでも子供みたいなことをするのが恥ずかしかったからだ。
 呼び鈴を鳴らし、出てきたのは水上のおばあちゃんだった。
「ご無沙汰しています、樋口です」
「……あら、まーくん? 見ないうちに、また背が伸びたんじゃない?」
 懐かしい呼ばれ方だった。ひぐち・まさとし、縮めて、まーくん。
「そんなことはないと思いますけど」
「ごめんねえ、裕吾はいないのよ」
「知ってます。知っていますというか、だから来たというか」
「はい?」
「その……お線香を上げに来たんです」
 この瞬間のおばあちゃんの表情の変わり方は、きっと死ぬまで忘れないと思う。
 驚き、強ばって、何か言おうとして口を開いたり閉じたりして、やがて大きく開いた両目から静かに涙を流しはじめた。
「どうぞ、入って」

「裕吾。まーくんが来てくれたわよ」
 いつもぴんと伸びていた背筋を丸めたおばあちゃんは、年季の入った仏壇の前にぺたんと座ると、置かれている中で一つだけ真新しい位牌に、愛おしそうな声を掛ける。
 真っ白い蝋燭を新しく抽斗から出して火を灯すと、後ろへずり下がって座布団を裏返した。
「ゆっくりしていってね」
 ポンポンと座布団を叩いて、どっこいしょと立ち上がって俺に場所を空けてくれる。
「これ。皆さんで召し上がってください」
 持ってきたどら焼きを渡す。
「あらあらあら、そんな、気にしなくて良いのに。まずは裕吾に上げましょうね」
「お邪魔します」
 渡された、滅多に食べる機会が無いといつも言っていた水上の好物を、おばあちゃんは仏壇の横の畳へ丁寧に置いて、仏間から出て行った。
 飾られた肖像写真は中学の卒業式の物だろう。記念に撮った物だというのに、にこりともせずいつも通りの表情で写された彼は、自らのその後数ヶ月をどう予想して、予想と現実の違いに何を感じたのだろう。
 ただ座布団に正座して、手も合わせず、線香も立てず、俺はその写真をずっと眺めていた。
 墓も仏壇も、生きている者が死んだ者に語りかけるための舞台装置に過ぎないと、言っていたのは本人の生きていた証の前で、ただ呆然としているしかなかった。死んだ後のあいつに会って話した後で、本人は単なる飾りだと言っていた物の前で、俺は改まって何を祈れば良いのか、全く考えが浮かばなかったのだ。
 線香なんかよりセブンスターを立ててくれれば良いのに、とか言いそうだなあ。
 土産はどら焼きよりそっちの方が良かったかい?
「そうだ、お線香」
 俺の家より山に近い場所にあるここはとても静かで、床をきしませながらまた歩いてくるおばあちゃんの足音に慌てて線香を立てる。
 なめらかに障子を滑らせて、急須と2つの湯飲みを盆に載せておばあちゃんが仏間に戻ってきた。
「もう、あの子の部屋は片付けちゃってね。ここでいいかしら」
「お構いなく」
 まだおばあちゃんの目の縁が赤かった。
「本当にごめんなさい。亡くなったことを知られるのを、息子達が嫌がって。とんだ不義理をしてしまったわね」
 急須からお茶を注ぎ、勧めてくれた。
「いただきます」
「どうぞ。……少なくともあなただけには、真っ先に知らせるべきだった。誰かから聞いたの?」
「……」
 本人から教わったとは言っても信じてもらえないだろう。何て言いつくろうか迷っていると、言いたくないのだと解釈してくれたらしい。
「ああ、いいのよ別に、言わなくても。家族以外で、裕吾のお参りに来てくれたのがあなただったから驚いちゃって。突然泣き出して、そちらこそビックリされたでしょう」
「それは、まあ」
「あの子は進学した高校をすぐに辞めて働き出したのは知っている?」
「はい」
「それに息子夫婦がとても怒って。今時、勘当なんて言葉をまさか自分の家で聞くことになるとは夢にも思っていなかったわ。端だと思ったんでしょうね。学校や、あなたの親には伝えたんだけど、子どもたちや何かには絶対に言うなって、死んだときももの凄い剣幕だったの」
 うちの両親も、知っていて黙っていたのか。
「止めさせた方が良いとは思っても、私も親の1人だから、気持ちは分かるからね。言い訳でしかないんだけど、どうしてもそうできなかった。……親には遠ざけられて、仲の良かったお友達にも会えなくて。死んでからも寂しい思いをさせてしまった」
 おばあちゃんは涙声で断りを入れると、ちり紙で鼻をかみ、目元を押さえて涙を拭った。
「多分あいつも、みんなが集まって泣かれるのは……迷惑がると思います。しばらく経ってから伝えていくのでも良いと思いますよ」
 迷惑がる、とか言っちゃ拙かったか。
 にわかに俺は焦ったが、おばあちゃんは俺の言葉を聞いて泣きながら柔らかく微笑んだ。
「あなたがそういうと、本当にそうみたいな気がするの。不思議ね、家族よりも裕吾のことを知っているのはまーくんかもしれないわ」
「いや、そこまででも……あんまり自分のことをしゃべる奴じゃありませんでしたし」
「そうだったわね。……でもこれで、裕吾が亡くなったことを、隠しておく必要は無くなった。一度内緒にしてしまった事実を、他の誰よりも、あなたに知られることが私は怖かった」
 どこからか自分でそれを知って、訪ねてきてくださったのだもの。
「本当にありがとう。そして改めて、申し訳なかった」
 居住まいを正し、おばあちゃんは畳に正座して手をついて俺に向かって頭を下げた。
「そ、……顔を上げてください!」
 土下座というよりも、古式ゆかしい座礼と表現した方が適切だと直感できるほど、微塵も隙を見せない所作だった。一瞬だけ見とれてしまい、慌てて声を掛けるしかしようがなかった。
 自分よりも遙かに年下の、正に孫と同い年の子供に向かってするような代物ではない。
「今日はね、丁度月命日なの」
「月命日?」
「もうこれも古風な習慣かしら。毎月訪れる、亡くなったのと同じ日の事よ」
「不勉強ですみません」
「いいのよ。……それでね、もしよかったら、私も今朝行ってきたばかりなんだけど、あの子のお墓にもお参りに行ってみて欲しいの」
「元からそのつもりでした。場所を教えてもらえますか」
「地図を書くわね、紙を持ってくるからちょっと待ってて」

 地図を受け取って水上の家をお暇する。
 自転車で一度集落の中心まで降りて、悪い先輩達が店主のおじいちゃんがぼけてて簡単に買えると話していた煙草屋へ行く。
「セブンスターください」
「……うん?」
 耳が遠いらしい。
「セブンスター、ひとつ、ください!」
 未成年だしあんまり大きな声を出したくなかったのだが、仕方が無い。
「ああ、はいはい」
 ごそごそと店内に並べられた棚から目当ての物を取り出して釣り銭皿の隣に置いた。代金を支払う。
「誰かと思えば、樋口さんとこの、まーくんじゃねえか」
「えっ」
「全く、真面目だと思ってたんだけどなあ。お前までそんな歳でこんなもん覚えやがって」
「……すみません」
 田舎特有のみんな知り合いが発動してしまった。
「お上には内緒だぞ。俺は死ぬまで捕まりたくねえからな」
「はい」
 没収とかじゃないのか。少し拍子抜けした。
「あっ、でもこれは俺のじゃなくて」
「はあ? ……ソフトのセッタの14mgだろ、水上さんちの小僧は……あ」
 煙草屋のじいちゃんまで知っているらしい。というか、あいつはここで買っていたのか。
「ああいや、もう知ってます。これは墓参りしようと思って、供えようと」
「何だそうだったのか。すまんなあ、固く口止めされてて。お詫びに代金は要らねえよ」
「えっ」
「俺からの、2人への餞別と思って受け取ってくんな。それともお前は自分のを買っていくか」
「ありがとうございます。……じゃあハイライトを」
「結局、てめえも吸うんじゃねえかよ。せいぜい高額納税者になって買い支えてくれな」
「はい」
 もう一箱も受け取り、こちらは正規の代金を差し引いたお釣りが帰ってきた。
「足が悪くて俺はもうあの山ん中まで行けねえんだ。あいつにもよろしくな」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うな。言われるようなことどころか、こっちらのほうがもっと酷いことをしていたんだ、居心地が悪くていけねえや」
 歳は取っても、悪いことはしちゃいけねえなあ。
 そう呟いて、じいちゃんは店の奥に引っ込んだ。

 来た道を引き返し、気温の高くなってきた昼時に坂を自転車で登っていけば、墓地に着く頃には汗ぐっしょりになってしまった。
 山間だから、じっとしていれば吹き抜けていく風が心地よい。
 今度は線香の代わりに、買ったばかりのセブンスターを一口吸って火を点け、線香皿に立てかける。俺も自分のハイライトをつけて一服した。
「なあ、お前は俺の知らないところで、何をして、されていたんだ?」
 一瞬だけ、もう一度あっちの世界に行って、本人に直接聞いてみたくなった。
 短くなった一本を、吸い殻入れにした空き缶に入れ、二人分のそれぞれ2本目に火を点けてやる。
「また来るよ」
 聞こえるはずのない親友に声を掛け、車道までの獣道を下ろうとしたときだった。
 さっきまで俺がいた墓地以外にはこの道は続いていないはずなのに、作業着にニッカボッカを履いた男が登ってくるのに気がついた。
「みなか……っ」
 うっかり見間違えて、居るはずの無い人の名前を呼んでしまう。あちらも誰かいるとは思っていなかったのだろう。足元を確かめながら登ってきたから、俺には気付いていなかったらしい。さっと顔を上げたその人は水上であるわけもなく、強面で40手前くらいのおっさんだった。
「すみません、知り合いとそっくりな格好をしていたので、見間違えました」
「……もしかして君が樋口くん?」
 何で俺の知らない、しかも生まれてから15年間ずっと過ごした集落で見覚えのない人が、俺の名前を知っているんだ。
「そうですけど」
「やっと会えた。先にお参りをしてきてもいいかな」
 その人は手に持った仏花を揺らす。
 うなずきながらも警戒を解かないまま、すれ違えるほど太くない道を墓へ戻った。
 その人は、静かに花を生けると、しゃがんで長いこと手を合わせていた。
「ここは相変わらず気持ちの良いところだな。そうは思わないか」
「俺は今日、初めて来たので」
「そうだったのか。……煙草を吸ってもいいかい」
「はい」
「悪いな」
「俺も吸うので……」
 初対面だし、相手は俺を知っているようだが未成年者の喫煙を咎めるようには見えなかった。むしろ、堅気には見えない。
「そうか、まあやつも吸っていたしな」
 火を点ける間は、俺もその人も黙っていた。
「それであなたは」
「君は裕吾の」
「……」
「……」
 そしてほぼ同時に煙草へ火が点いて、言葉がぶつかった。
 目線でどちらが先に話しをするか譲り合う。
「あの、あなたは誰ですか。水上の知り合いなんですよね」
 あいつを下の名前で呼ぶということは、そういうことなんだろう。
「そう、裕吾が君にどこまで話をしていたのかは知らないけど、あいつの勤め先の……何というか。社長だよ」
 高校を辞めてからは、どの町にも一つはあるような土建屋で働いていたと言っていた。
 服装と風防には合点がいった。
「俺ん所の会社は俺を入れても4人で、今は3人しか居なくなっちゃったような小さな所帯なんだ。社長でも何でもいいんだが、裕吾は親方と呼んでくれてたな」
 何度か話に出てきた、親切にしてくれたけど最後の最期で決別したというのが、この人なのか。
「幼なじみだったって言う、樋口くんだろ。君の話は何度も聞いたよ。むしろ、やつの小さい頃の話には毎回出てきたといった方が良いかもしれない」
「そうだったんですか」
「まあ、今更だけどな。俺があのとき、ちゃんとロープを固定していれば」
「なんですって?」
「裕吾が死んだのは、というか死なせちまったのは俺のせいなんだ。申し訳ない」
 水上の話とはちょっとニュアンスが違う。
 彼は、大喧嘩して何もかもが嫌になったから、自分で事故ったと言っていた。
「どういうことですか」
「俺たちの仕事は、聞いているかもしれないが、高所作業……要するに高い所に足場を作って、そこで作業をするんだ」
 当然高い所から落ちたら人は死ぬから、一定以上の高さで仕事をするときには必ず命綱を結ぶことになっている。しかし、親方が綱の固定をしたのが甘く、バランスを崩した水上が足場から落ちたときに、命綱が外れてしまったのだという。
「落ちたときの打ち所が悪かったみたいでな、直後にはまだ息はあったから俺も必死で救命措置をとったんだ。でも、ようやく来た救急車で病院に運ばれている途中で容態が急変した。そのまま脈が戻らなかった」
 どこを見ているのか分からない暗い目で、恐らく1年前後が経ったはずなのに、この人はまだ後悔に苛まれて、彼のことを引き摺り続けている。
 俺は話が違うと言いたかったが、俺の知るはずのない余計なことを口走りそうで、何もしゃべること出来なかった。
「小学校・中学校と、唯一の同い年だったんだろ。最も大切な友達を死なせてしまって、本当に申し訳ない。君だけには黙っていろというのがあいつのご両親の考え方だったから、君には謝りに行くことも出来なかった。どう詫びたら良いか」
 今日はやたら、大人に謝られる日だな。
「別に、もう過ぎてしまったことですし。冷たいやつだと思われるかも知れませんけど。水上が親方さんのことを凄く慕っていたのは知っていますから」
「取り返しの付かないことをしたのは俺なんだから、怒ったって構わないんだぞ。死んでからいつも、殴られても、それこそ俺がころされても仕方が無いと」
 黙りこくっていた俺が、もの凄く怒っているのだと勘違いしているらしい。
「そんなことするわけないじゃないですか。もうそんなに怒ってもいません」
 むしろ、毎月この人はわざわざ山奥のここまで来てくれていたのだろうか。
「例え嘘だったとしても、有り難すぎて申し訳ない」
「嘘じゃないですって。もしかして毎月、こんなところまで来て?」
「そうだ。もちろん彼への謝罪の思いもあるが、もうひとつ目的があった」
「目的?」
「君に会うことだよ。偶然ならまだ、許されるかと思ったんだ。いつか裕吾が話していた、幼なじみという君と話が出来るんじゃないかと」
 今日、やっと叶ったというわけだ。
「話が出来て良かった」
「……俺もです」
 今までも嘘をついてはいないが、これは間違いなく偽りのない本音だった。
「ならいいんだが。……送って行くよ」
 迷ったが、お言葉に甘えることにした。
 しらないひとのくるまにのってはいけません。
 ふと小学校で習った教訓を思いだした。

 今度こそ獣道を降りていくと、どこで見たのかは思い出せないが、白い軽トラックが路駐されていた。
「汚くて済まんな。乗り心地も良くないが、しばらく我慢してくれ」
「この辺で育った子供なら、親の暴走軽トラで畑の手伝いや買い物に連れて行かれるのは日常茶飯事ですから、気にしないでください」
「そうか」
 シートベルトを締めてハンドルを回し窓を薄く開けると、親方は煙草に火を点けた。
「そういえば、なんと仰るんですか」
「ん、そうか名乗っていなかったか。失礼した、田口浩治という。田口工務店のたぐちこうじ、鳶なんだが土方とよく間違えられる。笑えるだろ」
 持ちネタらしい。
「狙って付けたんじゃないんですか」
「実はそうなんだ」
 ニヤリと笑った顔は極悪人そのもので、気さくそうな人柄は話してみないと分からないなと思った。
「どこまで行けば良い?」
「あー家の近く……」
 今日も実家に帰るつもりでいたが、両親も水上の死を隠していたことを思いだした。きっと俺がショックを受けないよう思いやってくれてのことだろうが、それでも少し裏切られたような気持ちも拭えない。
「あの、田口さんはどちらまでお帰りですか」
「親方で良いぞ。……俺は下の市街に住んでいる」
「申し訳ないんですけど、一度俺の実家によってもらってから、荷物を取ってきますので途中の下宿の最寄り駅まで連れて行ってもらえませんか」
 駅の名前を伝える。
「通り道だし、お安いご用だけど……高校生? やっぱり麓の街に一人暮らしなのか」
「流石にこんな山奥から毎朝通うのは大変で」
「だろうなあ。親御さんには連絡しておけよ」
「置き手紙を残していきます」
「それがいい」

 風貌に似合わず安全運転で山道の国道を下っていく。だからかもしれないが、後ろから観光に来た帰りのような他県ナンバーのスポーツカーに追い付かれ、煽られ始めた。
「鬱陶しいな。あちらさんもそう思ってるんだろうが」
「迷惑ですよね」
「ああ。少し行った道が太くなった所で抜いてもらおう」
「はい」
 地元の車同士なら、この先の道の線形も分かっているだろうが、よく知らないくせに速度を出す連中が本当に困るのだ。
 土砂採掘場を過ぎた所の橋の手前にある緩いカーブの待避所に向かって左のウィンカーを出し、軽トラックの速度を落としていく。後ろのマフラーをいじっているのかやたら下品な爆音をまき散らすスポーツカーはぎりぎりを狙って格好を付けたいのか十分な間隔を取らずに追い抜こうとしていた。その時、土砂採掘場から頭を出して止まった大型トレーラーに気付いて、反射的に左へ逃げようと、ハンドルを切った。
 当然だが、僅かしかない隙間をあっという間に割り込んで、俺たちの乗った軽トラックへ衝突する。今度は右に切って、切りすぎたようだった。斜め右前でスピンし始めるスポーツカーを、辛うじて舌打ちをした田口さんが避けた。と、思ったのだ。
 抜きかえした所で、橋のすぐ手前で、後ろから突っ込んできた。既に左に寄りすぎていた軽トラックは強い衝撃とともに欄干へぶつかって、しばし両側から車体を押しつぶされながら減速して、耐えきれずに折れた欄干とともに谷底の川に向かって落ちていく。
 舌を噛まないように耐えていた俺は、昨日一日こちらの世界で生き延びられたことに油断してしまったことを強く悔いていた。
 昨日が大丈夫だったからといって、まるで呪われているかのような俺が、今日になって死なないとは限らないじゃないか。
 多分、いや絶対、これで俺はまた死ぬ。
 今度は俺だけじゃない。明確に他人を巻き込んでしまった。
 しかも赤の他人ではなく、水上が慕っていた勤め先の親方だ。

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俺に明日は来ない Type1 第11章

2022.04/12 by こいちゃん

 耕された校庭の隅で地面にどっかりと座った水上は、隣の地面を叩いたうえで俺にも座れと目で語る。
「口で言え」
「人の仕事を勝手に盗み見て気が済んだか」
 不機嫌そうな水上は言葉を吐き捨ててイライラと煙草に火を点ける。
「ついでに火をちょうだい」
 咥えた自分の煙草を寄せるが、間に合わず水上のオイルライターは軽やかな音を立てて蓋が閉まる。
「遅えよ」
「ごめん」
 座ったせいでポケットがしわになって手を入れづらい。もたもたライターを出そうと腰を浮かせた。
「こっち向け」
「あ?」
 赤く輝く火口を、咥えたまま火の点いていない俺の煙草の先に押しつける。
 反射的に息を吸い込んで火を移す。
「……エロいな」
「何がだよ! てめえが寄越せっつったんだろうが!」
「そうだね、ありがと」
 頬が赤く見えるのは、火の色か、それとも照れているのか。ちょっと笑えた。
「なあ」
「なんだよ」
「いつも思っていたことだけど、一人で抱え込もうとするなよ」
「……誰がずっと俺と一緒に居て、一緒に荷物を持ってくれるんだ」
 あっちよりも余計な光が少ない分だけ綺麗に星が見える空へ、二筋の青い煙が上っていく。
「ずっと一緒じゃなくたって、誰かが隣に居るときだけでも放り出してみろって言うんだ」
「また1人で持たなきゃいけないなら、渡すだけ無駄だ」
 重い物であればあるほど、再び持ち上げるのにだって力が要るだろ?
「まあな。でも持たせてもらえないのも傷つくもんなんだぜ」
「これ以上に俺が他人へ気を遣えと」
「せめて俺たちの間だけは、常に気を遣い合う間柄でいたいんだけどな」
 俺は水上の特別な友人にはなれないのだろうか。
「分かった」
「何が?」
「俺は今晩、もう1人殺すはずだったんだ。代わりにお前がやってくれよ」
「……それってさ」
「おう」
「お前自身のことか」
「そうだ」
 胸いっぱいに吸い込んだ煙をゆっくり吐き出してから、幼なじみは肯定した。
「……分かった」
「真似するんじゃねえよ」
 少し笑いながら、彼はくわえ煙草で両手を頭の後ろに組み、ゆっくり仰向けに寝転がった。
「土で背中が汚れるよ」
「作業着ってのは汚れる事を前提に着るんだぜ」
 片足をぶらぶらさせて、半長靴の中に裾をしまい込んだニッカの膨らみを風に泳がせる。
「そうだろうけどさ。……貸して」
「何を?」
「拳銃。まだ弾は残ってるだろ」
「やだ」
「どうして」
「お前、銃を撃ったことはあるのか」
「あるわけないだろ」
 平和な日本で、どこに実銃を使う機会があるって言うんだ。俺はヤクザでも警察官でもないんだぞ。
「ならやっぱりダメ。見た目より反動がきついんだよ、うっかりお前に怪我でもされちゃ目覚めが悪いし、当たり所が悪くて一発で死ねなかったら俺も痛い」
 当たり所が良くて、ではないのか。
「じゃあどうやって殺……死なせれば良いんだ」
 理由は分からないが、殺すと言いたくなかった。
「手があるだろ」
「……手?」
 短くなった煙草で新しい1本に着火して要らなくなった吸い殻を指ではじいた水上は、斜め後ろについた俺の手首を握りしめた。
「これを」
 引っ張って動かそうとするので寄りかかっていた腕から重心を抜いてやると、水上は俺の手を自分の首に当てる。
「こうやって、さ」
 声帯の震えが彼の喉仏に当たった小指から伝わってくる。
「絞めろと」
「その通り」
 彼の手を振りほどいた。
「そっちの方が一発で死ねないより辛いんじゃないのか」
「かもな? 俺はどっちでも良いけど、本気ならあと30分くらいしかねえから、早めにやってくれ」
 試されているのはよく分かっている。
 よりにもよって、自分だけではなく水上にも、あっちでまっとうに生きて欲しいと願っている俺に、こっちで生き続けるため今日のうちに死ななければいけないのを手伝えと?
 煙草が短くなる。お互いのこの1本が短くなったときが躊躇していられる僅かな時間だった。
 少しでも引き延ばしたかったのに容赦なく葉は燃えて、吸い口の巻紙に書かれたhi-liteの文字までもが焦げて灰になっていく。
 自分でもため息なのか煙なのか分からない空気を吐き出して、地面に吸い殻をこすりつけた。
 俺は仰向けに寝転がる水上の腹の上に座りこむ。
 つい数十分前には小学生達の裂かれた首を触ったときはあんなに震えていた両手を、水上の首に添える。
「いいんだな?」
 目をつぶって気合いとともに体重を乗せると、見えないはずなのに水上が薄く嬉しそうに笑ったのが分かった。

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俺に明日は来ない Type1 第10章

2022.04/11 by こいちゃん

「ところでさ、この世界で生まれた子供も、その……亡くなったらあっちの世界に行くのか?」
 いい加減に話題を変えようと苦し紛れに放った発言だったのだが、まず細川さんの顔色が変わった。
「試してみればいいじゃない。私はもう嫌、2度と子供なんて作りたくないけど」
 語気の激しい否定に戸惑う。
 何か地雷を踏んでしまったようだったが、どこにあったのかが分からない。戸惑って他の面々の表情を盗み見ると、青山くんは単にびっくりしているだけに見えたが、鈴木さんは沈痛そうな、水上は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「そろそろ、私は戻るわね。あんまり長いこと二人に子どもたちを任せっぱなしなのも悪いから」
 ごゆっくり。細川さんは、つい失敗してしまったと言いたげに下唇を噛みながら風呂場を出て行った。
 残された4人の間には、先ほどまでの盛り上がりが嘘のような気まずい沈黙が横たわる。
「……じゃあ、僕もそろそろ出るよ。のぼせてしまったかもしれない」
 やがて、脱衣所が空いたくらいのタイミングで逃げるように鈴木さんが先抜ける。
 事情を知っているらしい水上と、どうしていいか分からずに戸惑っている俺と青山くんの3人になった。
「俺、拙いこと言っちゃったんだよな」
 水上は黙ったまま煙草に火を点けると、やっと口を開いた。
「ここのこと、丁度良いから説明しとく」
「説明って今更、何のこと」
 何も写していない彼の目が俺を真っ直ぐ向く。
「みんながどうやってここに居続けているのか、どんな理由でここに来たのか」
 確かに考えてみれば、定められた日数を生き続ければこの世界から居なくなり、元の世界に戻るはずだ。なのに、高校で暮らしているみんなはいつも高校で暮らし続けているのはおかしいことだった。
 それぞれの事情については……。
「最初に聞くなって言ってたことか。いいのか」
「お前だってもう4回目だし、そろそろいいだろ」
「確かに4回目だけど。関係があるのか」
「4回目は、こっちの滞在期間が8日だから、一週間を超えるんだ」
「だからなんだって言うんだよ。さっぱり分からん」
「俺を含めて、毎週日曜日の晩に、全員死ぬようにしてるんだよ」
 毎週、全員、……日曜日?
「……なんの話?」
 言われてみれば、今回こちらに来て最初の日に、細川さんが心配していたのは、曜日だった。学校も会社も何もかもないこの世界で、曜日を気にしていた。
「あっちに生き返りたくない奴らは、定期的にこっちで死ななきゃならねえ。高校で暮らしている全員にとって、こっちに居続けるために死ぬ日って言うのがそれは日曜の夜なんだ」
「そこまでして、こっちで暮らしたいのか」
「生き返ってちゃんとした人生を過ごすつもりのお前には分からねえよな。青山、お前らはどうしてた」
「俺らは意識して死ぬようにはしないっすけど、大抵無茶をして死んでました」
「へえ、例えば?」
「クスリやり過ぎたり、そのままバイクに乗って事故ったり。ケンカが撃ち合いになったこともあるっす」
 日付が変わる直前にキメて、翌日のうちに死ねばキメ直さなくてもキマるんですよね。無意識だろうが、なにもない腕の内側をさすりながら言った。
「やっぱり生き返ろうとは思わないの?」
「樋口さんは、ちゃんとした生活をしてたんすね。俺らはそうじゃなかったし……こっちの方が居心地がいいっていうか。むしろなんであんなところにわざわざ戻らなきゃいけないんすか」
 真顔で問い返されるとは思っていなかった俺は答えに窮する。
「カツアゲされてパシられて、暇だからって殴られて。俺らもやらされた。先輩達の見世物で、プロレスごっことか言われて小さい頃からずっと友達だったやつをお互いに立てなくなるまでボコすんすよ」
「……」
「グループから抜けたくても抜けさせてもらえないし、……俺たちの中で最初にあっちで死んだのは赤羽っす。あいつは小さい弟が居るんすけど、家に帰って面倒を見たいからもう一緒は遊ばないって先輩達に言ったらむちゃくちゃキレられて。大木が赤羽を押さえつけされられて俺が帰れなくなるまで殴れって言われて」
 俯いて淡々と話される内容を聞いているだけで気持ちが沈んでくる。
「俺は仲の良い奴に大怪我させたくないから手加減するとそれでまた先輩達が手本だって俺を殴るんすよ。腫れた顔でそれを見てた赤羽が、俺ら3人だけが聞こえるようにもう良いから……殺してくれって」
 本人が済んだ話だとばかりに続けるものだから、余計に聞いているのが辛い。
「それでお前はどうしたんだ」
「大木を見たら俺と同じ事を考えているっぽかったんで、赤羽の頭を石で殴ったっす。そしたら、むちゃくちゃ血が出て、動かなくなった赤羽を見た先輩達が慌てちゃって……そりゃそうっすよね。初めて俺たちが先輩にしてやれたんすよ。あの慌て方は笑えたなあ」
 青山くんが鼻をすすりながら少し笑った。
「俺らだけ残してみんな乗ってきたバイクとかで逃げていなくなったんで、大木と俺はお互いに持ってたナイフで刺し合って……意外と人間って死なないんだなって思ったっす」
「ごめん、無神経なこと言って。もういいよ」
「全然よくないっすよ」
「いやだって」
「樋口さんにあんなことやっちゃったんすよ。今は3人で仲良くやってるし、……遊び方を知らないからこっち来てもどうすれば良いか分からなくて」
 急に俺の名前が出てくるとは。
「あの日の昼間に、大木だけ川っぺりで殺されてたから、俺と赤羽で翌日の夜に大木を連れて行ったんすけど、覚えてますか」
 ビルの非常階段でのことか。空中で復活した最初の0時には、3人揃って踊り場から落ちていく俺を見下ろして笑っていた。
「そりゃ、もちろん」
「あの後、下に降りて死んでいる樋口さんを見た帰り道に、急に大木が俺たちも先輩達と同じようなことをしちゃったんじゃないかって言い始めて。でも俺らじゃ樋口さんが新しい日になるたびに死ぬループから抜けさせる事も出来なかったから、水上さんに襲撃された時に樋口さんが来て正直、よかったなって」
「良かったって、どういうこと」
「水上さんが俺らの所へ来たって事は、樋口さんを助けることが出来たからそれ以外のことを出来るようになったんだと分かるじゃないっすか」
 なるほど。
「考えてみりゃ、お前らあんまり抵抗しなかったな」
「あっちの世界に生き返るのも嫌だし、でもこっちで生きていくのももう嫌になってたんす」
「だからってなんで俺がわざわざお前らを手伝わなきゃいけねえんだよ。俺は別に好きで手を血に染めてるわけじゃねえんだぜ」
「……すみません」
 水上が煙と一緒に大きなため息をついた。
「俺が高校で暮らす全員を週一で殺すのは、それがコミュニティの中での仕事だからだ」
「仕事?」
「樋口はさ。他の奴らが分担して学校の先生の真似事をしたり、料理したり校庭を耕して野菜を育てたりしてるのを見て、俺だけ何もせずに遊んでいると思わなかったか」
 そう言われてみれば、水上だけ一人でふらふらと、俺に付き合ってくれていた。
「でも俺だって、手伝っただけで……」
「そりゃまだお前は正式にコミュニティの一員ってわけじゃねえからな。この場合の一員って言うのは、あっちの世界に生き返ろうと思わなくなったやつで、かつこっちの世界で生きていく場所としてあの高校を選んだ奴のことだ」
「こっちの世界で生きていくと決めた人間である事を前提とするなら、俺はそれを満たさないのか」
「その通り。対して、俺はコミュニティの一員であるが、分担した仕事をしていないように見える。では俺の仕事が何かと言えば、全員が生き返ることのないように毎週殺して回ることだからだ。週に1回の仕事を引き受ける代わりに、それ以外の全てを俺は免除されている」
「週に1度死んでまで、そんなに生き返りたくないのか」
「勝手に他人の事情をしゃべるのは、本来はルール違反なんだからな」
 水上は新しい煙草に火を点けてから口重そうに続けた。
「細川さんは、看護師学校へ通っていた時に付き合ってた彼氏の子供を身ごもったが、産む前に男に逃げられた。一人で赤ちゃんの面倒を見ることになったが、孤立無援で育てられなくなった」
「細川さんの子供って……」
「こっちで彼女が育ててる赤ちゃんだよ。ノイローゼになってうっかり自分の子供を殺してしまい、その後を追いかけてアパートで首を吊ったんだと」
 細川さんが子供を産むことにあれだけ激しい拒絶をした理由は、その辺りにあるのだ。
「鈴木さんの場合は、もともとバスの乗務員をしていたらしい」
「今朝、バスに乗る前にそう言ってたな」
「でも病気で運転を仕事にし続けることが出来なくなって転職したけど、その職場が良くなくて通勤中の過労運転で交通事故を起こした」
 運転中の案内放送を聞く限り、まだバスを降りてそれほど経っていなかったのではないだろうか。体に染みついているからいつでも出来ると言うことなのか?
「それで中学生二人はどっちも学校でいじめで自殺した。他の小学生たちは育児放棄や虐待されていたみたい」
「どうやって小学生を集めたんだ」
「誰かが新しくこっちの世界に来たら、ものが増えるだろ。増えたのに誰が来たのか分からないときがたまにあるんだが、そうするとどこかの家にまだ一人で生きていけない歳の子供がいるってことなんだ。捜索すると大抵の場合は、俺たちが見つけるまで家の中から出ないで、食う物もなくなって毎日飢え死ぬことになる」
 あっちに生き返っては死んでこっちに来て、こっちでも生き返るまで規定の日数だけ死に続ける。4回5回と行き来する間に生き返るまで過ごす日数が1週間を上回る……。
「そりゃ、みんな生き返りたくなくなるっすね」
「だろ?」
 それぞれが様々な事情を抱えて、こちらで生きていくことを選んだのか。
「……でもさ、何人もいるのに水上が殺して回ることになるんだ」
 それこそ、その仕事だって持ち回りでやれば良いじゃないか。
「細川さんは自分の子供を死なせてしまったことに絶望して後を追いかけたんだぜ? こっちに来てまで何度も自分の子供を殺せって?」
「……」
「人の命を奪うことが誰にでも出来るわけじゃねえんだよ」
「お前ならいいってのか」
「別に? これで1年以上引き受けてるけど、俺がどうにかなっちゃってるように見えるか」
「……見えないけど」
 表面上はなんともなく過ごしているように見えるけど、でも昔からこいつは何でもため込む性格をしていたんだ。
「適材適所ってやつだ。出来る奴が出来ることをする。それだけ」
 小さい頃から、小学校に入る前から水上を知っている俺には、隠している幼なじみの内面がどうも心配だった。
 いつか壊れるんじゃないか。

 日付が変わって日曜日の朝、温泉からまたバスに乗って高校へ帰る。
「樋口くん、なんか今日は元気ないね?」
「……え、そうですか?」
 バスを降りて旅荷物を手分けして降ろしながら、帰りも管理されずに荒れた国道でバスを1時間以上走らせた鈴木さんに声を掛けられた。
「まだそんなに君のことを知らないけど、何か悩んでいないかい?」
「そんなことないですよ、いつも通りです」
「年の功が何かあるってささやくんだけどなあ」
 首をひねりながら鈴木さんはバスを車庫へ納めに運転席に歩いて行った。

 夕飯を済ませると、子どもたちは電池が切れたように眠りについた。
 寝かしつけた大人達も、久しぶりに出かけて帰ってきたからか、すぐ床に就いた。俺も見習って自分に割り当てられた布団にもぐりこんだが、昨日の話が頭の中を駆け巡っていつまで経っても睡魔が訪れない。まだ8時過ぎと時間が早いせいもあるだろ。
 何度も寝返りを打って、ふと気付くと目が覚めたということは少しは寝られたのだろう。
 寝られたのならそのまま朝になってしまえば良いのに、教室は星明かりが少しだけ差しているだけでまだ暗かった。
 どうせすぐ寝付けないのならトイレとついでに一服してこようと起き上がる。こっちに来てから吸い始めたのに俺もすっかりニコ中だなあと少しおかしく思ったが、冗談で僅かに上向いた気持ちは隣で寝ていたはずの水上はおろか、この教室で寝ている全員の布団が空なのに気がついてあっという間にしぼんだ。
 何かが起きている。今夜は日曜日、ここの全員が死ぬ日、殺される日だ。誰も居ないということは、つまり……。
 どこかで水上が自分の仕事をしているのだ。
 自然と抜き足差し足で、枕元に置いた上履きは手に持って、小学生達が寝ている隣の教室をのぞき込む。
 外から覗いた限りでは、みんな静かに寝ているようだった。
 いつの間にか上がっていた心拍数を意識して押さえ、トイレへ行くべく踵を返そうとしたときだった。
 月を隠していた雲が退いたのだろう。窓から入ってくる光が僅かに増し、反射して白く輝くはずの布団が黒い何かに染められているのが見えた。
 シーツを汚すあの黒いものを確かめなければいけない……。
 いつの間にか細かく震える手を押さえつけ、軽い引き戸が余計な音を立てないよう慎重に開ける。自分の体が通れるだけの隙間を作るのに、やたら長い時間がかかったような気がした。涼しい春の夜なのに、背中が汗でびっしょり濡れている。
 寝ている子どもたちを起こしたら悪いから。見とがめられるような悪いことはしていないのに、間違っても誰かに見つかることのないようそろりそろりと最も近くで寝ている一人の枕元に立つ。
 ……寝ている? もう寝るなどという動詞が当てはまるわけはないと、とっくに理性では分かっていた。
 信じたくなかっただけだ。
 ここで寝ていたはずの、年端もいかない子どもたちは、全員が同じように首を切り裂かれて死んでいる。
 止せば良いのに、未だ震えの止まらない右手が俺の意思に反して創傷に伸びていく。
 僅かに指先が液体に触れたと同時に、そこから高圧の電気が走ったように手が跳ねて、死体をもろに叩いた。
 まだ温かい体から、もう冷たくなった血が溢れて固まりかけている。
 腰が抜けて、床に手をつくことすら出来ずに尻を床に打った。
 慌てて追われるように、しかし立ち歩けず廊下へ出ようと這い進む。右手をついた床が触った血液で点々と汚れる。
 月明かりで色味が分からなくて助かった。床に点々と残る赤黒い手形なぞ、フルカラーで見たくない。何人もの子供の死体など以ての外だ。
 すがりつくように扉を使って立ち上がると、全速力でトイレへ走った。
 パニックに陥っているんだと自覚できるくらい中心は鋭く冴え渡っているのに、周りの思考はぐちゃぐちゃだった。
 夜中でも付けっぱなしのトイレの蛍光灯が、他人の動脈血で鮮やかな赤に染まった右の掌をはっきり見せつける。
 食道を駆け上がる夕飯が、トイレの中にいるのに便器へは間に合わず、洗面台にぶちまけられた。
 洗面台に手をついて、倒れそうになる体を支える。
 発作が治まって、吐き出したものを綺麗に流そうと何気なく利き手を水道の栓に伸ばしたら、白い陶器に右手の跡が赤く残ってしまったのに気がついた。
 それを見てまた吐いた。
 目をつぶり、意識して左手で水を出す。目をつぶって両手を洗う。深呼吸をしてから目を開けて、他人の血液と自分の吐瀉物を下水道に流していく。
 手酌でうがいをしようと思ったが、両手で水を受けたところで止めた。
 一瞬前まで片手にはべっとりと血が付いていて、もう片方の手でゴシゴシ洗ったのだ。
 例え幻覚でも、もし生臭い匂いを自分の手から嗅いでしまったら、3回目の嘔吐が始まるに決まっている。
 着ているTシャツで手の水を切り、トイレットペーパーを無駄に多くたくし取って、口元を拭う。
 外に出て星空を見ながら、無性に煙草を吸いたかった。冗談ではなく、もう立派な喫煙者、ニコチン中毒でもいい。体に有毒だろうと知ったことか、むしろ気分転換が出来る嗜好品を知っていて良かったと本気で思った。今このときにもしこれが酒だったら、間違いなく悪い方に入っていただろう。
 ベランダに出て箱から取り出すのももどかしく、やっと出てきた一本に火を点けた。
 水上ありがとう、俺に煙草を教えてくれて。
 ……水上? あの惨状を作り上げたのは、彼の仕事なのだ。
 あいつは今どこにいる。

「……勝手に話したの?」
 ヒステリックに細川さんが叫んだ。
「ああ、話した。あんな急に出て行かれちゃ、事情を知らずに残された側は理由が気になるってもんだろ」
 高校の敷地の隅にある林の中で、細川さんと鈴木さんが水上と向かい合って立っている。
「だからって話して良いことと悪いことがあるでしょ!?」
 今にも殴りかかりそうにしている細川さんを、鈴木さんが後ろから押さえていた。
「知られたくないなら、自分できっかけを作るんじゃねえよ。どうして俺が色々配慮してやらなくちゃいけないんだ」
 対して水上は、面倒くさそうにいつもは背中のベルトに挿している自動拳銃をいじり回している。
「開き直るんじゃないわよ!」
「そっちこそ頭を冷やせよ」
「なっ」
「他の人から事情を話されたくないなら、さっさと自分から打ち明けろよ。知らない他人の地雷を踏まないように避けられるか?」
「でも」
「じゃなかったら、事情を知らない相手の発言にも誰彼構わずぶち切れてるんじゃねえ」
「……」
「俺としては、教えたって事を教えてもらえただけありがたいと思って欲しいもんだ」
「あんた、何様のつもり?」
「お前が心を壊さずに生きていけるようにしてやってるんだぜ、神様みたいなもんじゃねえ?」
 鈴木さんの制止を振り切った細川さんが、鬼のような形相をして水上に殴りかかろうと一歩前に踏み出したところで、彼は弄んでいた銃で細川さんを撃った。
 銃声の後に、彼女の体が踏み出した勢いそのまま崩れ落ちる。
「……ちなみに、どこまで彼に話したんだ?」
 さっきまで細川さんの肩に掛けていた腕を降ろして、鈴木さんが静かに問いかけた。
「中学生以上全員のあっちでの死に方と、週一で殺して回るのが普段遊んでいる俺の仕事だって事と。つまりほとんど全部だな」
「だからか」
「何が?」
 鈴木さんが胸ポケットから取り出した煙草に火を点けた。
「今朝から、樋口くんの元気がなかったように見えてね。何か悩んでいるようだったんだが、今の話を聞いて合点がいったよ」
「あいつは余計なものまで全部背負い込もうとするんだよ」
「いい友人を持ってるじゃないか、おじさんとしては羨ましいけどな。その時は鬱陶しい限りかもしれないが」
「……うるせえ」
「さて、この煙草も短くなってきたし、今週もお願いします。いつも悪いね」
「へっ」
 一度下げていた銃を持つ右手が真っ直ぐ鈴木さんを狙う。
「日が変わるまで、まだ1時間と少しある。今夜最後まで残された僕が、若い二人の時間を邪魔しちゃ悪い」
 鳥の鳴き声も聞こえない夜空に、火薬のはじける音が再び響く。
 低木の影に隠れて覗いていた俺の方を、撃たれる前に一瞬だけ鈴木さんの視線が向いた気がした。
「……二人?」
「俺のことだろ」
 俺は影からゆっくり立ち上がる。
 突然後ろから声を掛けられた水上は、反射だろうが握ったままの拳銃を真っ直ぐ声のした方向に、つまり俺へ向けた。
「心臓に悪いことしてんじゃねえよ」
「その台詞はそっくりそのままお返しする。銃を下ろしてくれないか」
 銃口を向けられたのは初めてだったが、直前に2人を殺した弾を打ち出した小さくて黒い穴を向けられていると、自分の心臓の音が少しずつ大きくなっていくのが分かるような気がする。
 しばしにらみ合い、俺の膝が震え始めたころになってやっと彼は銃を上に向け、安全装置を掛けた。
「ツラ貸せ」
 鼻を鳴らして背中の定位置に銃を戻すと、彼は歩き出した。

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俺に明日は来ない Type1 第9章

2022.02/24 by こいちゃん

「着いたっす」
 揺すり起こされると、バスはエンジンを止められて子どもたちも殆どが降りていた。
 立ち上がって伸びをする。大木くんと赤羽くんは着替えなどの荷物を降ろすのを手伝っている。俺を待たず先に降りれば良いのに、取り残されるのを心配してくれたのか青山くんだけがじっとそばに立っていた。
「起こしてくれてありがとう、行こうか」
「うす」
 着いたのは、俺たちの実家から山を一つ越えたところの温泉地だった。近すぎて、日帰り入浴には何度か来たことがあるが、改めて泊まったことはない。
「ここは玄関の自動ドアがタイマー式のオートロックだから、昼間ならいつ来ても建物を壊さずに入れるんだ」
 いつものようにガラスを割って侵入するのかとばかり思っていた。
「青山くん達はまだ、3人で一部屋を割り当てたら危ないかしら」
「樋口に懐いているみたいだし、心配ねえだろ。むしろ、あいつらを分けて元々いた誰かと一緒にする方が嫌がりそう」
 細川さんと水上が彼ら3人がまだ建物の外に居るのをチラチラと見やりながら、フロントデスクの裏に入って客室の鍵を並べて部屋割りを相談している。
「じゃあ私と花沢さんは子どもたちと一緒の大部屋で、鈴木さんと木下くん、あなたと樋口くん、青山くんと大木くんと赤羽くん、それぞれ1部屋ずつでいいかしら」
「おっけ、それでいこう。今日の夕飯当番は鈴木さんと木下くんだし丁度良いんじゃね」
「ならそれぞれ荷物を運び込みましょう」
 鍵を持ってわいわい言いながら廊下で各部屋に分かれる。
「まずは温泉だよな」
「服は乾いたけど、一度濡れたらなんとなく寒いし」
 部屋に荷物を置いたと思ったら、水上はタオルと着替えだけ抱えてすぐに出て行こうとする。
「この旅館は内風呂と外風呂が別なんだ。早い者勝ちだからさっさと行こうぜ」
「どっちへ行くか教えておいてくれないと合流できねえだろ」
 扉の外へ向かって大声を出す羽目になった。せっかちなんだから。
「着いてくりゃいいだろ、早く来い」
「……はいはい」
 落ち着いて荷物を整理する余裕が欲しかった。

 温泉に入って、飯を食って、だらしなく畳の床に寝っ転がる。
 ああなんていい休日なんだろう!
 ……休日じゃないんだよなあ。学校はないし、毎日が休日みたいなものだ。腹をパンパンに膨らませて動く気力を失った俺の横で、床にお店を広げた水上はあぐらをかいて黙々と拳銃の整備をしている。
「食い過ぎたんなら、右を下にして横を向いた方が消化が早くなるらしいぜ」
 片目をつぶってブラシとぼろ布で磨いている金属の部品をにらみつけながら、テレビ番組で紹介される裏技みたいなアドバイスをくれた。
 体勢を変えるのさえだるい。
「仰向けが一番楽なんだよ」
 スローテンポの会話はキャッチボールと呼べるのだろうか。
 体は真上を向けたまま、首だけ回してテキパキと器用に動く手元を眺めている。
「好きにすれば」
 大きい部品だけでなく、細かいネジやバネの類いまで一つ一つためつすがめつしていた。小さい頃からこいつは器用にいろいろな物を直したり壊したりしていたのが懐かしい。俺は不器用で、電車のおもちゃさえ電池交換のたびにプラスチックを割ってしまいやしないかとドキドキしていた。
「そういえば、拳銃の整備なんてどこで覚えたの」
 そもそも、どこから拳銃なんて調達したのだろう。少なくともあっちの世界では実銃を見た事なんて無い。
「自衛隊の倉庫から取扱要項ごと拝借してきた」
「……そういえばこの街にも駐屯地があったんだっけ」
「この県で唯一の駐屯地だろ」
 そうなんだ。知らなかった。
「この間テレビでやってたんだけどさ、駐屯地と基地の違いって知ってる?」
「陸自が駐屯地で、海自と空自が基地」
「はいこの話題おしまい」
 一瞬で即答されてしまった。
「細かいところが見えねえ。ここのこれって傷になってる?」
 俺にはどこに取り付ける何のための部品か分からないが、細い棒状の金属を渡される。
「接着剤かその類いのがへばりついて固まってるだけだと思う」
「じゃあ剥がせるな」
 シール剥がしとかも好きだったよなあ。中学の時の昼飯に持ってきていた俺の菓子パンから、必ずお皿がもらえるパンのシールを綺麗に剥がして、母ちゃんにやるんだって集めてた。俺が自分で剥がすと、袋に糊が残ったままになって後で台紙に貼りづらいと言われたような覚えがある。
「お前が不器用すぎるんだよ。細かい作業をしないなら俺の遠視と交換してくれ」
 まだ10代の同い年がおっさんみたいに、手に持った部品を手前に持ってきたり奥へ離したりしている。
「その歳で、もう老眼かよ」
「うるせえ」
 しばらく部品をゴシゴシとこすっていたが、低くうなると諦めた様子でブラシを放りだした。
「天気のいい屋外じゃないとこれ以上は無理だな」
 彼は床へ置いた部品を次々と手に取ると、あっという間にいつも背中に挟んでいる拳銃の形が出来ていく。すげえなあ。仕上げとばかりに、金属のいい音をさせて握りの下から細長い筒を差し込んだ。
「うー、目が痛え」
 俺の足を避けてあぐらをかいたまま後ろへばったり倒れ込んだ。
「疲れ目は温めるといいらしいぞ」
「よし風呂さ行くべ」
 足を高く上げてから、反動で一動作で立ち上がった。落ち着き無いなあ。
「飯前に行ったじゃん」
「お前も行こうぜ」
 まだ腹がいっぱいで動きたくないよう。

 渡り廊下を歩いて離れへ行くと、貸切露天風呂と書かれたのれんが左右に並んでいる。飯前は子どもたちを連れた女子班が使っていた、右側の広い方へ入っていく。脱衣所に置かれた籠を見ると、先客が4人居るらしい。
 水上はあっという間に着ていた物を脱ぐとひとまとめに籠へぶち込む。俺をおいて風呂場へ出て行こうとして、外への扉を開いたまま何かを思いついたように脱いだばかりの服を探り出した。脱ぎかけの俺に、隙間から夜の谷間を流れる冷たい風が吹き付けてきてブルッとくる。
「寒いんだけど」
「これから温かい湯船に入るんだからちょっとくらい、我慢しとけ」
 何をごそごそやっているのかと思えば、ライターと煙草と灰皿代わりのいつもの缶を持った手が出てきた。
「こういう露天風呂って、屋外だけど禁煙じゃないのか」
「こんな世界で、誰に気を遣うんだ?」
 はいはい俺はまだ馴染めていませんよ。考え直して、俺もタオルに包んでそれらを持ち込むことにした。
 こちらの湯船は確かに広い。子供なら15人くらいが一緒に入っても狭くなさそうだ。
 脱衣所を出ると揺らめく湯気の向こうで、鈴木さんがどこから持ってきたのか日本酒を飲んでいるのが目に入った。かけ湯をするために置かれた桶の中には、洗ってあるガラスのコップが3つ置かれていた。
「来ると思ってたよ」
 酒が入って少し声が大きくなっている。湯船に浸かっているから、赤い顔色からは上せかけているのか酔っているのか分からない。
「おじゃましてまーす」
 振り向いた赤羽くんの声色は明らかに酔っている。
「ごちそうさまです」
 湯船に満たされた濃白色の濁った湯をザブザブ掻き分けて、二人並んでコップに酒を注いでもらった。
「せっかく良い物なんだから、放置して呑み時を過ぎたらもったいないからな」
「単に自分が飲みたいだけだろ」
 注いでもらったコップに口をつける前に、水上は片手で煙草に火を点けた。
「意地悪を言うやつにはやらんぞ、返せ」
「やだね」
 煙を一吸いしてから透明な酒をすすり、一番奥で湯船の石段に掛ける鈴木さんの横に水上が腰を落ち着けた。
 俺はコップの酒をこぼさないようにしながら入口近くに戻って、少し冷めて温めのお湯にゆっくり浸かることにした。
「君らもいくらか馴染めた?」
「まあ……大人組の名前は覚えられたっす。みんないい人達っすね」
「水上さんだけまだ……ちょっと苦手で」
 そりゃ普通の人なら、あれだけ殴られて脅されれば苦手意識を持つだろう。
 ……気にせず3人組と話をできてしまう俺はやっぱり変なのかな。
「いい人だってのは分かってます!」
「慌ててフォローしなくても良いのに」
 そりゃ、あんな風に雑な殺され方をさせられれば、良い印象なんて持てないと思う。
 のんびりした遣り取りを交わしていると、脱衣所の入口が細く開いた。
「みんな、やってるわね」
「ちょっ、細川さん!?」
 まだ服を着ている。入ってくるのかと思ってビックリした。
「もともと混浴なんだからいいでしょ。私も混ぜて」
 入ってくるつもりらしい。
「若い青少年には刺激が強すぎやしないかい?」
「鈴木さんったら失礼しちゃうわね、私だって若い乙女でしてよ」
「こりゃ一本取られた」
 思いとどまらせてくれるのかと思ったのに、漫才みたいな掛けあいは結果的にむさ苦しい中へ紅一点が混じるのを認めてしまった。
「お土産を持ってくるわね」
 上機嫌で上半身を覗かせていた細川さんが脱衣所に引っ込み、扉が閉まる。
「若干一名がもう限界みたいだぞ」
「え?」
「……でへへへへ」
 見ればのぼせて完全に酔っ払った赤羽くんがうつろな笑い声を上げながら鼻血を噴いている。
「おい大丈夫かよ!」
「細川さんが戻ってくる前に片付けた方が良いんじゃね?」
 隣で慌てた大木くんに対し、他人事のように水上が言う。
「そうっすよね。俺、こいつを連れて部屋に戻ってます」
 自分自身も足元が危なさそうだが、大木くんがぐてんぐてんになった赤羽くんにほら上がるよと声を掛けながら肩を貸して立ち上がる。
「俺もついていこうか」
「大丈夫、青山は好きにして」
「分かった、じゃあもう少ししたら戻る」
 二人が脱衣所に消えた。
「いやあ、彼らは勇気があるなあ。水上くんも今すぐには立ち上がれないだろう」
 鈴木さんにしては珍しい、下世話な笑みを浮かべながら意地悪そうに問いかけた。
「今すぐは無理だな」
「……俺もっす」
 少し恥ずかしそうにしている水上と青山くんが同意する。
「何のこと?」
 わけが分からない。
「お前はなんともないのか」
「だから、何が」
「起立!」
 日直か。
 言われたままに立ち上がる。座ばっとお湯に波が立つ。
「……本当になんともないんだな」
「すげえっすね」
「僕ですら少しはくるものがあるのに」
 また脱衣所の扉が開いた。
「二人は帰っちゃったのね、せっかく人数分を持ってきたのに。……あらやだ、レディにそんな物、無防備に見せちゃダメよ」
 汗をかいた缶ビールを手に抱えた細川さんが、体にバスタオルを巻き付けて現れた。
 ああなるほど。言われてみれば全く俺は反応してなかった。
 女性が混じっているとは思えないほど品格の欠如した、せめて純文学作家の随筆から言葉を借りてバランスを取りたいと思うのだが、ビロウな話が始まった。俺への暴言から始まったそれは、俺の尊厳に関わるので割愛する。

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俺に明日は来ない Type1 第8章

2022.02/21 by こいちゃん

 夕飯に呼ばれたが、赤と黄色の髪をした2人は応じなかった。俺だけが食堂へ向かう。
 今夜はハンバーグだった。
「何か寒気がする」
「ずぶ濡れでトラックの荷台にいたもんな、風邪でも引いたんだろ」
「風邪薬ってある?」
「食い終わったら持ってきてやるよ」
「わりいじゃん」
 少し時間が経ったからだろうか。水上の様子は普段通りに戻っていて、調子を合わせて何事も無かったかのように振る舞うのは俺には少しきつかった。
 実際に体調も優れなかったが、その振りをして口数少なく食事を済ませる。
「みんな~、今日はカルピスの日よ」
 小さい子達も食べ終わった頃を見計らって、細川さん達が子どもたちにコップを持たせ、1人1人にカルピスを注ぎ回っていた。
「お前ももらえば?」
 傍目には物欲しそうにしていたのだろうか。風邪薬の入った瓶を片手に戻ってきた水上が声を掛けて、俺の分ももらってきてくれた。
「お前は要らないの?」
「要らねえ。ガキじゃあるめえし」
「どうせ、俺は子供だよ」
 いじけてみせると声を上げて笑われた。
 苦い薬を甘いカルピスで飲み下す。
 空になったコップと食器を洗い場に持って行き、他の人の分と一緒にまとめて洗ってしまう。手を拭いて外廊下に出てから思い出す。
「水上、煙草一本くれ」
「やだ」
「なんでだよ、ケチ」
「貴重な煙草を灯油まみれにしたのはどこのどいつだよ」
 その通り。頭に血が上った勢いで、作業服のポケットに入れていた煙草もダメにしてしまったのだ。
「ごめん」
「仕方ねえなあ」
 自分の分を咥えてから箱ごとこちらに向けてくれる。
「ごっそさんです」
 火も貸してもらった。いくつか離れた教室から、子どもたちの高い声と、布団を敷いている細川さんや木下くんの声が漏れてくる。
 それ以外は静かな、星の綺麗な夜だった。
 あくびが出る。
「眠そうだな」
「何かね。今日も色々あったし」
 ゆっくり紫煙を吹き流す。
「体調もよくねえんだろ。今日はさっさと寝ちまえ」
「……そうしようかな」
 腹が一杯になって、一服して落ち着いたからか、急に眠気を覚えた。
 まだ少し残っていたが火をもみ消して、大人組の寝室になっている教室に向かう。自分の布団に潜り込むと、すぐに寝落ちた。

 ぐっすり寝たはずなのにまだ寒気がする。
 朝飯を食いながらそう話すと、子どもたちにうつしたらいけないと保健室へ連行された。
 昨日のことを思いだしたが、青髪が殺されて汚れた布団は綺麗に片付けられていた。
「今日は一日、ゆっくり寝ていなさい」
 体温を測りながら細川さんに命じられる。
「38度。完全に熱を出したわね」
「ごめんなさい」
「まったく、いい年して世話が焼けるわね。おやすみなさい」
 怒って見せながら細川さんが出て行った。
 お言葉に甘えて寝させてもらうことにした。

 寝たり起きたり、うつらうつらしていたら、いつの間にかもう日が暮れていた。
 ガラガラと戸の開く音に目を開ける。
「起きてたんすか」
 盆の上に茶碗といくつかの皿を載せた黄色と、後ろからおひつを抱えた青がやってきた。
「今さっき目が覚めたところ」
 夕飯を持ってきてくれたらしい。体を起こして布団に掛けられていたフリースの上着を羽織った。
「水上さんが、持っていけって」
 だいぶ調子は良くなっていたが、それにしたって量が多い。旅館でよく出てくるおひつ一杯にお粥が入っていた。
「ありがとう、いただきます」
「どうぞ」
 茶碗によそって食い始める。箸休めは漬物と佃煮に、味噌汁だった。野沢菜にマヨネーズがかかっている。
 互いに殺した側でもあり、殺された側でもある。3人で黙り込んで気まずい。
 おひつから2杯目をよそったところで、黄色と青のどちらか分からないが腹の虫がなった。顔を赤くしてさりげなく腹を押さえたところを見ると、どうやら青髪の方らしい。
「もしかして飯を食ってないの?」
「……別に」
 そっぽを向いて唇をとんがらせる。
「俺たちには気にしないで、食べて良いっすよ」
 黄色い髪の方が取り繕うように言うが、直後に音色の違う腹の虫がまた鳴いた。
「……」
「……」
 この状態で素知らぬ顔して食い続けられるほど、俺は肝っ玉が太くない。
「食べ残しで悪いけど、残りやるよ」
「だめっす、それは樋口さんの分っすから」
「腹一杯でさ。動いていないからかな」
「そんなこと言われても。俺らはその……罰として今日一日は飯抜きなんすよ」
 なるほど。そんなことだろうと思った。
「それは俺に対する行為による物なんだろ。俺がいいって言ってるんだから気にせず食ってくれ」
「でも……」
「命令だ、食え」
 2人で顔を見合わせる。
「本当に良いんすか」
「せっかく作ってもらった物を残したらみんなに悪いし、心配させるだろ。それに俺、マヨネーズが食えないんだよな」
 野沢菜を見ながらそう言った。
「じゃあ……すみません」
「いいよ。……ちょっと出てくる」
「えっ、どこへ」
「いやその……トイレだけど」
 食事を前に、彼らが気にしないなら良いのだが。おひつからしゃもじ山盛りに茶碗へよそっている様子からは気にした風には見えなかった。
「いってらっしゃい」
 よほど腹が減っていたのだろう。がっつき始めた2人を残して保健室の扉を閉めた。
「お人好し」
「……お前だって人のことを言えないだろ」
 暗がりに、やっぱり水上がいた。
「何のことだ」
「あの食事はお前が用意したんだろ。あの1人では食い切れない量のお粥は何だよ」
「……昼飯を食ってないから腹が減ってるんじゃないかと思っただけだ」
「俺が小さい頃からマヨネーズを嫌いなことをお前ならよく知ってるだろ」
 せっかくの野沢菜に余計な物をかけて寄越しやがって。
「そんなこと忘れちまったぜ」
「都合の悪い嘘をつくときに鼻をかく癖も直ってないんだな」
 水上は舌打ちをして俺をにらむと、余計なことばっかり覚えていやがってと呟いた。
「お前を心配して見に来てやったのに、必要なかったな。戻るわ」
「はいはいツンデレだなあ」
「んだと?」
「何も言ってないよ、空耳じゃないの」
 もう一つ舌打ちをして、水上は逃げるように階段を上っていった。

 トイレから戻り保健室の扉に手を掛けると、鼻をすする音が中から聞こえた。慎重に細く開けて中を窺うと、2人して泣きながらお粥を食べている。
 こんな所に入っていけねえじゃん。
 気がつかれないようにそっと扉を閉め、俺は踵を返して校舎の外に出た。下足室の外にしゃがみ込んで煙草に火を点ける。
 誰かが見ているわけではないのに、ため息を隠すような煙を吐いた。

 意識して時間をかけて、2本を灰にしてから今度こそ保健室に戻る。
 綺麗に米粒一つ無く食べ終わった食器を持って、泣き止んでこそいたが、目を赤くした彼らが待っていた。
「ごちそうさまでした」
「俺が作ったわけじゃねえし、そういうのは作った奴に言えよ」
 気恥ずかしくてぶっきらぼうな言い方をしてしまった。
「熱を測りますか」
 黄色い方がそういうと、青い方がすかさず立ち上がって体温計を手にして戻ってきた。
「何から何まで悪いなあ」
 ケースから取り出した本体を脇の下に挟み込む。
「……俺たちのしたことに比べれば」
 すぐに俯く。
「もう気にすんなよ」
 気にして居なさそうに聞こえただろうか。
「そういや君らは何て名前なの」
 ずっと髪の色で呼ぶのも気が引ける。
「青木っす」
 青い髪が言う。
「大木です」
 続いて黄色い髪が言う。
「もう1人が赤羽です」
 ……苗字と髪の色が連動している。
「トレードカラーだったの?」
 会話をするには少し高すぎる角度だった俺の目線が伝わったらしい。
「そうっす。先輩達が、信号トリオって」
「別に好きでこの色に染めたわけじゃ無いっすけど」
 そうなんだ。意外とこいつらも苦労をしてきたのかも知れない。
 暇つぶしにポツポツと言葉を交わしていると、体温計から電子音がした。画面を見れば平熱に戻っている。
「今晩は念のため、ここで寝た方がいいって細川さんが言ってたっす」
「そっか。じゃあそうさせてもらおうかな」
「食器も片付けておくんで」
「おやすみなさい」
「ありがとう。おやすみ」
 ちゃんと挨拶をすると、彼らはそそくさと保健室を出て行った。
 思ったよりいい奴らのような気がしてきた。

「ご心配をおかけしました」
 朝一番に起きて、朝食の用意をしている細川さんのところへ行った。
「もう大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「なら良かった。……そろそろ出来上がるから、お皿の準備をしてもらえる?」
「はい」
 配膳を手伝っていると、ほかの人たちも起きて集まってきた。

「今日は天気が持ちそうだから、色々野菜を植えようか」
 スクランブルエッグを食べながら、鈴木さんが言った。
「今年は何を育てるんですか?」
「ピーマンとか?」
「俺、ピーマン嫌い」
「中学生が子供みたいなこと言わないの」
 あちらの島では、木下くんがおどけて一笑い起きる。
「……いつもこんな感じなんすか」
 人数が増えたから、大人の島が前から居た4人と、俺を含め新しく来た4人の二つに分かれた。あぶれる水上はその時によって細川さん達と机を囲んでいたり、俺たちと一緒に居たりする。
 大木くんの羨ましそうな視線を感じながら、質問に答えてやる。
「俺も来たばっかりだけど、こんな感じな事が多いみたいだよ」
「……平和で良いっすね」
 しみじみ呟かれると、何て声をかけてやれば良いのか分からなくなる。
 それきり会話の途絶えたこちらの島はあっという間に食べ終えて、誰からというわけでもなく食器をまとめ始めた。
 給食のようにみんなでごちそうさまをして、隣の家庭科室へ手分けして食器を運んだり、机を拭ったりする。
「じゃあ、今日は農作業の日ということで。今が8時半だから、各自準備をしたのち9時になったら校庭に集合すること!」
「はーい」
 鈴木さんの号令で、三々五々に食堂を出て行く。一日の始まりだった。

 俺は鈴木さんと水上と一緒に外廊下に出て煙草を吹かしていると、洗い物を済ませてきたらしい木下くんと3人組がやってきた。
「何だ、お前らも吸うんだ」
 みんな中学生だよな。
「ここでいう大人って言うのは中学生以上ですから」
 向こうの世界でなら、真面目で絶対に手を出さなそうな木下くんが、開き直ったようにメンソール煙草を取り出し火を点けた。
 対照的に、向こうの世界でも不良そうな3人組が気まずそうにそれぞれ煙草を咥えた。
「大人組の男は、結局全員喫煙者なんだなあ」
 鈴木さんが笑って言った。
「そう考えるとこのご時世にすげえな」
 水上が妙に感心したような顔で応じる。
「ちゃんと20歳になってるのって……鈴木さんだけっすか」
 おずおずと赤羽くんが聞いた。
「そうだね。今年で34になる」
「俺と水上が同い年の17歳で」
「まだ誕生日が来てないから俺はまだ16だけど。木下は中3だっけ」
「そうです。こないだ誕生日が来たんで15歳になりました」
「俺たちは中2のはずなんで」
「青木だけ14で俺と大木は13っすね」
 全員の年齢が分かった。……こっちの世界で良かった。
「僕1人だけおじさんだなあ。学校の敷地内で喫煙なんて、不良くんたちをを叱らなくちゃいけないかな?」
「今更じゃないですか。それに僕は最初に鈴木さんから勧められた記憶があるんですけど」
「だってあのときは、君があまりに落ち込んでたんだもの」
「まだあのときは小6だったんですよ」
 木下くんと鈴木さんが過去の話を始めると、どこに地雷が埋まっているか分からない俺には口を挟めない。
「そろそろ準備するか」
 それを察してくれたのか、水上が話を切り上げようと煙草の火を消した。
「長靴があればいいかな」
 これ幸いと俺も乗っかる。
「ゴム手袋も用意しておいた方が良いよ」
「分かりました」
 先に喫煙所を出て倉庫へ向かった。

 この日は農作業を、翌水曜日は雨が降っていたから勉強の日になった。
 木曜日になっても降り続けた雨は金曜日になってやっと止んだが、朝から冷たい風が吹いていた。それもやがて雷の音がして、午前中で農作業を切り上げようと片付けていたら雨が降ってきた。
「急に降ってきたから、濡れちゃったわね」
 農作業の出来ない小さな子どもたちと遊んでいた細川さんが、濡れたみんなにタオルを配る。
「寒いよう」
 花沢さんが濡れた髪を拭いている。
「ちょっと時間が早すぎますけど、お風呂でも沸かして入りますか?」
 木下くんはみんなの長靴の中に古新聞を詰めてくれた。
「でも交代で入らなきゃいけないから、また誰か風邪を引くんじゃねえ?」
 意地悪そうな目の水上が俺を見ながら難色を示す。
「なんだよ」
「いや別に」
「まだ時間も早いことだし、たまにはみんなで遠足に行こうか?」
 ニコニコしながら話を聞いていた鈴木さんが唐突に言った。
「遠足?」
 久しぶりにそんな単語を聞いた。
「バスに乗ってみんなで温泉に行くんだよ」
 水上が事情の分からない俺たちに開設してくれる。
「どうだろう、最近はあんまり行ってなかったし」
「確かに、温泉ならいっぺんに暖まれるけど」
「子どもたちも喜ぶと思います!」
「ねー細川さん、お肌つるつるになる温泉だよ」
「……たまには、いいか」
「えっ、じゃあ」
「今日のお昼ご飯はサンドウィッチのつもりだったから、バスの中で食べられるの。お出かけしましょうか」
「やったー」
「みんなに知らせてくる!」
 細川さんが承諾すると、木下くんと花沢さんの中学生コンビが満面の笑顔で駆けていった。
「バスのエンジンはかかるわよね? バッテリーが上がってたりしない?」
「バッチリだと思うよ。昨日も点検したときは問題なかった」
 鈴木さんが太鼓判を押した。
「暖機して待っているね」

 はしゃぐ子どもたちを連れていくのは木下くんと花沢さんに任せ、細川さんが手際よくラップにくるんでいくサンドウィッチを袋に詰めて、俺たちは校舎を出た。
「ぼろっちいな」
 校庭の真ん中でリズムよくエンジン音を響かせていたのは、地元のバス会社のラッピングがそのまま残る、今時珍しい前後扉の一般路線バスだった。
「ボロく見えてもこいつは産業史に残る偉大な車輌なんだ」
 俺がうっかり呟いてしまった一言を、聞きつけられてしまった。
「あーあ、始まっちゃった」
 水上があきれたように荷物をバスの座席に積み込んでいく。
「世間ではトータの乗用車プリンがもてはやされているけど、世界で最初に量産されたハイブリッド自動車はこのバスでね。この車はその最終型、つまりは一つの完成形と言えるわけだ」
 鈴木さんはいつの間にかバス会社の制服に着替えて、帽子まで被っている。
「何年前に製造されたんですか」
 鈴木さんは生前、この会社で働いていたらしい。
「2000年式だよ。大丈夫、点検整備はバッチリしてあるから」
 気のせいでなければ、この中で最も大人のはずなのに、おもちゃを与えられた子供のような軽い足取りだった。
「古巣のバス会社の車庫から、何でわざわざこの車輌を選んで持ってきたのか、前に俺も訊いた事があるんだけどさ」
「へえ」
「単に鈴木さんの趣味だってさ」
「……そうなんだ」

 前の方に子どもたちと、子守のために花沢さん・木下くん・細川さんが座った。誰が一番前に座るのかで少しもめ、細川さんの雷が落ちていた。
 後ろには、俺と水上に、まだ馴染めていない3人組が落ち着いた。
 ――発車します、ご注意ください。
 ドアを閉めたときに流れる自動放送まで整備されていた。
 ――毎度ご乗車有り難うございます。このバスは……。
 わざわざ次の停留所の案内まで流してくれて、前の方で子どもたちが大盛り上がりをしている。
「ご利用ありがとうございます。遠足バス、温泉行きです。安全のため、ご乗車中は安定した姿勢で深くお座席におかけいただき、危険ですので走行中は立ち上がりませんようお願い致します。降りる停留所の案内が流れましたら、降車ボタンでお知らせ下さい。本日この10073号車で皆様を目的地へお連れ致しますのは、信濃電鉄バス赤松営業所の鈴木でございます。狭い車内ではありますが、ごゆっくりおくつろぎ下さい」
 ……プロの放送だった。
 小さい手を一生懸命に叩いて、子どもたちが喜んでいる。
「楽しそうだなあ」
 俺も、小学生の頃の遠足はあんな感じだったのだろうか。

 整備されなくなったアスファルトを踏みしめながら、山道を俺たちの地元に向けてバスが進んでいく。
 やがて30分ほどすると、小学生は騒ぎ疲れて寝てしまったらしい。子どもたちを楽しませていた停留所放送が流されなくなると、車内はゴトゴトと古びた車輌がきしむ音に、力強いエンジン音とたまに聞こえるのは電車のようなモータの音だけが聞こえるようになった。
「ハイブリッドバスだからな」
「なるほど」
 何回か乗ったことがあるらしい水上が教えてくれた。
「あの……っ」
 振り向くと、俺の後ろの席から決死の表情の青木くんと目が合った。
「どうしたの」
「一つ聞きたいことがあるっす」
「いいよ、俺に答えられることなら」
「何で、樋口さんは俺たちによくしてくれるんすか」
「って言われても……何で?」
「その……自分で言うのもアレっすけど、すげえ酷い目に遭わせたわけじゃないっすか」
 そうだね。ボコボコに殴られて蹴られて、その上で何度も地面へ叩きつけられた。
「なのに、どうして……俺たちがやられるのを止めてくれたり、樋口さんが死にそうな目に遭ったり、飯を分けてくれたりするんですか」
 もしかして、そういうことをされるのが好きなんすか。
「反省したのは見た目だけかよ、やっぱり殺すぞてめえ」
 横から聞いていた水上が凄んだ。
「だってそうとしか考えられねえじゃないっすか。意味わかんないっすよ」
「いや、君らのためにああしたってわけじゃないから」
「……は?」
「俺の行動は基本的に、全部自分のためだよ。目覚めが悪いじゃないか」
「……?」
 俺にとっては、当たり前のことなんだよな。だから改めて説明しろと言われても、言葉にしにくい。
「誰かが傷つくのを放置するってさ、後から思いだして嫌な気持ちになるだろ」
 飯が不味くなるっていうか。
「君らが可哀想だから水上が復讐しようとしたのを止めたわけじゃない」
「でも、あのときは樋口さんは俺らの事なんて知らなかったっすよね」
「相手が知り合いかどうか何て関係ないよ」
 俺はやりたいようにやりたいことをやっているんだ。
 それが他人からどう見えるかなんてどうでも良い。
「たまたま、あのときの俺の行為が君たちにとってもいいことだっただけさ。利害が一致したって言うか」
 質問してきた青木くんだけでなく、隣で聞いていた他の2人にも、納得できないという顔をされた。
「俺はもっと自己中心的な、君らが思っているより利己的な人間だよ。買いかぶりすぎだ」
「理解しよう何て無理だぜ、諦めろ」
 水上があきれたように口を挟んだ。
「俺はこいつが鼻水垂らしてた頃から知ってるけどな。昔からこうなんだ」
 俺だって、水上のことなら寝小便していた頃から知っているぞ。
「他人にありがたがられると、今度は利己的な行動だったのにお礼を言われた、そんなつもりはなかったのにって勝手に凹み始める。面倒くせえ奴だと思わないか」
 悪かったな。
「それにこの上なく頑固で、誰に対しても優しいくせに、それを自分では絶対に認めない」
 お前だって人のことを言えないくらいの石頭じゃないか。
「……そうなんすか」
「そうなんだよ。たまたま手を出したのが、こいつで良かったと思えよ? 俺だったら、お前らの今頃は全身に治らない大火傷をして、体中から体液をまき散らしながら死んでたんだぜ」
 俺が灯油を被ったことを思いだしたのだろう、3人揃って顔色が悪くなる。
「だから俺はこいつの言うことならそれなりに聞くんだ。こいつの身に何かが起こったら助けに行くんだ」
「……そうだっけ」
「へっ、知るか」
 自分のことだろう。
「こっ恥ずかしい思い出話をさせやがって。……着くまで寝る」
 自爆だろう。
 窓の方を向いて狸寝入りを決め込み始めた。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい」「ごめんなさい」
 目を赤くして改めて謝られると、こっちがいじめたみたいで気まずいじゃないか。
「もう、いいって。いつまでも気にすんな」
 俺も水上を見習って、寝たふりをすることにした。

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俺に明日は来ない Type1 第7章

2022.02/20 by こいちゃん

 ケータイに仕込んだ目覚ましのアラームが鳴った。
 手を伸ばして止めようと思ったのだが、なんとなく全身がだるい。特に身体に異常は無さそうだったが、大怪我をした後のような倦怠感が残っている。
 それほど夜更かししたわけではないし、疲れが残っているとは思えないのだが、気味の悪さを感じた。そういえば、変な夢を見た気がする。
 気合いを入れて起き上がる。いつもよりテキパキと朝の準備を心がけて家を出る。
 1時限目が始まる頃には違和感を忘れていた。

 今日の授業中に補充したシャープペンの芯が最後の1本だったが、町へ出て会に行こうか考えたときに、ふと昨晩の夢のことを思いだした。
 電車を待っているときに、誰かに線路へ突き飛ばされて自分が死ぬ夢だった気がする。
 朝起きたときに謎の体調不良を感じたこともセットで頭をよぎり、帰る準備をして自分の机から腰を上げるまでにしばし逡巡した。
 ……やっぱり、出かけるのは止めておこうかな。
「帰ろうぜ」
 同じく帰宅部の高橋に声を掛けられる。
「一緒に帰ろうと思っても、お前は自転車だろ」
「駐輪場までで良いからさ」
「学校の敷地内じゃないか」
 とはいえ、その短い遠回りを断る理由も無かったので、徒歩通学の俺には関係ない駐輪場までは付き合うことにした。
 家に着く頃には忘れてしまうような何でも無い雑談を交わしながら階段を降りる。
 下足室で上履きを仕舞おうとして、見慣れない白い封筒が運動靴の上に置かれているのを見つけた。下駄箱の扉を見返してみるが、間違いなく自分の場所だった。封筒の下にある運動靴だって、今朝の登校時に履いていた俺の物だった。
「おっ、モテモテ樋口くんは下駄箱にラブレターっすか!」
 俺の下駄箱の中をのぞき込んで高橋が茶化す。
 駐輪場までつきあうなんて、一緒に帰ろうという誘いを断れば良かった。
「みたいだなー」
「興味なさそうだな。お前、彼女いたっけ」
「いないけど」
「なんで嬉しそうにしないんだよ。短い高校生活を彩る恋の始まりかもしれねえじゃん」
 彼女なんていないけど、欲しいと思ったこともないんだよなあ。
「あげる」
「俺がもらってどうするの。……開けてみていい?」
「好きにすれば」
 宛名も差出人の名前もない白い封筒は、小さいピンク色のシールで封がされているだけだった。
 ぺりっと高橋が開けて中の便箋を取り出すのを横目に見ながら運動靴を床に落として上履きを仕舞う。
「どれどれ」
 便せんを広げた高橋が、ピューと口笛を吹いた。
「放課後、体育館裏にお呼び出しだってよ!」
 今日の下校時間ぎりぎりに、体育館の裏手にある木の下で待っています。必ず来てください。
「テンプレかよ」
「……あ」
「何?」
 変な興奮をしながら便せんを呼んでいた彼は、急に顔色を暗くした。
「これ、見なかったことにした方が良いかも」
 さっきまで楽しそうにしてくせに、神妙に言った。
「お前としては、高校生活の彩りなんじゃねえの?」
「こいつのじゃ無かったらな」
 便箋の末尾に書かれた差出人らしい署名を俺に示し見せる。
「三雲さやか?」
「クラスメイトだよ、お前の二つ後ろの左側に座ってる奴だけど、わからねえ?」
 お下げにした暗い雰囲気の女子か。
「名前と顔が一致してなかった」
「もうクラス替えしてから1ヶ月以上経つんだけど。……同じ中学だったんだけどさ、こいつはちょっと……お勧めしない」
「なんで?」
「色々あってさ……俺とって事じゃないけど。いつも長袖の制服着てるだろ」
 まだ5月だしな。
「季節の問題じゃねえよ。体操着とかも」
「寒がりなんだろ」
「そうじゃなくて。……体育の着替えって女子は更衣室へ行って着替えるだろ。その時に俺と仲の良い女子に聞いたんだけどさ、どうやら常に手首に包帯を巻いてるのを、隠してるらしいんだと」
「……」
「雰囲気だけじゃ無くて、実際にちょっと危ないみたいで」
 高橋が手首を切るジェスチャーをする。
「会って断るくらいなら何にも無いだろ」
 下校時間ぎりぎり、という指定時刻からすると、図書室で1時間半ほど時間を潰すのが良さそうだった。
「そうだろうけどさ……」
 高橋はまだ何か躊躇していたが、一度出した運動靴を下駄箱に入れて、内履きを出し直した。
「図書室で本でも読んで待つよ」
「……どうなったか明日教えてくれよ」
「いいよ」
「……本当に恋愛への興味が無いんだな」
「そうかな」
 帰るという高橋を下足室で見送ると、図書室へ向かった。

 久しぶりに本を読んでいたら思いのほか面白かった。適当に選んだ物を読んでいるとあっという間に下校時間を知らせるチャイムが鳴る。
 読みかけの上巻と続きの下巻を貸出手続きに通してカバンにしまい、体育館へ向かう。
 面倒くさくてかかとを踏んだままの上履きが、生徒の居なくなった廊下にペタペタと音を響かせる。
 日が落ちかけて暗くなった体育館の裏手に、ひっそりと1人の女子が立っている。
「ごめん、待った?」
 足音で気付いているだろうに、声を掛けるまで顔を上げず、前に抱えたバッグの中身を見つめている。
「……そうでもない」
 見た目通りの細い声だった。
「三雲さん、手紙、読んだよ」
 全く話をしたことのないクラスメイトに、こういう状況でどんな雑談を振れば良いのか分からなくて、用件を直球で投げた。
「……ありがとう」
 前置きなしの発言にたじろいだ様子で目をしばたかせる。
「私、同じクラスになったときからあなたが好きでした。つ、……付き合ってください」
 会話もしたことないのに。俺が彼女のことを知らないように、彼女だって俺のことをどれくらい知っているのだろう。
「ええとさ。俺は今まで誰か女子と付き合ったこともないし、君のこともよく知らないから、まずはお友達からでいいですか」
「そうなの? 樋口くんはかっこいいし、私と違って誰とも話せる明るい人だから、経験豊富なんだと思ってた」
 経験て、どこで身につけられるどんな物を指しているのだろう。
「そんなことねえよ。買いかぶりだ」
 今だって、初めての状況に少しドキドキしている。
「なら、お友達じゃ無くて、最初から……特別でも良くない? 樋口くんなら……いつでも良いよ」
 ちょっとスカートの裾をつまんで言われても。むしろ身持ちは堅い女子の方が良いんだけどなあ。……と言うことすら俺のことを知らない状態で彼女と言われても。
「いやいいです、遠慮しておきます」
 見ているこっちがはしたないことをしているようで恥ずかしい。
「何で? 同じくらいの歳の男の子ってやりたくないの?」
 むしろ同じくらいの歳の女の子から、それほど仲良くない間柄でやるとか言わないでくれ。
「……人に因るんじゃないかなあ、俺は別に、それほどでも……」
「私に魅力が無いから?」
「三雲さんの問題じゃ無いよ」
「私が可愛くないから?」
「俺の気持ちの問題なんだって」
「そんなに私はダメな女だってこと?」
「違うって」
 人の話を聞いて欲しい。
「みんなみんな私のことを好きになってくれない、私はいつもみんなのことを見ているのに、みんなは私のことをちゃんと見てくれない」
 何かスイッチが入っちゃったようだ。
「そんなことないよ、きっといつか君を好きになってくれる人が見つかるって」
「適当なこと言わないで!」
 だって適切なことが言えるほど、俺は三雲のことを知らないんだ。
「もういい、私のことをちゃんと教えてあげる」
「教えてくれなくても良いけど」
「……やっぱり私のことが嫌いなんだ」
「好きとか嫌いとかじゃ無くてさ」
「嫌いだって事を否定しないんだ」
 何でそうなるんだ。
「好きでも嫌いでもないってば。俺は三雲からじゃ無くても振るつもりだったことを知らなかっただろ」
「じゃあ私に教えて。……ううん、やっぱりいい。勝手に知る」
 彼女はバッグの中に手を入れると、中で何かを握りしめてバッグを地面に落とした。
「……おい、それ」
 暗くなってきた木々の下でも分かるほど金属が輝いている。
「これ? 大丈夫、使い慣れているから。今時の普通の女子高校生にしては私、包丁をちゃんと砥石で研げるんだよ」
 つまり研ぎたての包丁だと言うことか。
「普通の女子高校生は、バッグにむき出しで包丁を入れておくことはないだろ」
 ……むき出しじゃ無くても刃物を持ち歩かないと思う。
「えー、そうかなー。他の女のことなんて知らない。……樋口くんは、私のことは知らないのに、他の女のことは知っているんだね」
「一般論だ」
「私のことも知っておいてね」
 うふふと笑ったのがもの凄く不気味だった。
「どうするつもりだ」
「こうするの」
 一歩前に出て真っ直ぐ包丁を持った右手を前に突き出す。
 慌てて後ろに避けようとしたが、木の根に引っかかって尻餅をついた。
「逃げるんだ。やっぱり私のことが嫌いなんだ」
「……この状況で逃げないやつなんていない」
 背中を打ってしまいすぐに立ち上がれない。
「逃げられないようにしてあげる」
 三雲が俺の太股の上に座り込んで、スカートのしわを伸ばす。
「やめろ」
「君のことを教えて……!」
 切っ先が制服を突き破って腹に刺さる。焼けるような痛みが走った。
「ああ、筋肉が……男子の腹筋ってやっぱり固いんだね……」
 恍惚とした表情で刺した包丁を出し入れする。……男が女にやるように。
「でも中は柔らかい……それは女子と同じみたい」
 包丁を抜かれるたびに赤い血が飛び散る。唇についた俺の血を三雲は舌を出して舐め取った。
「鉄の味がする……私のことも知りたいよね」
 針山にまち針を刺すように、また俺の腹に一刺しした包丁から彼女は手を離すと、血だらけの手で自分の左袖のボタンを外して肘までまくった。丁寧に隙間無く巻かれた包帯を外して露わになった手首には、高橋の言ったとおりいくつもの赤い線が描かれていた。
「私の血の色も、樋口くんと同じ赤い色をしているんだよ」
 俺の腹から抜いた包丁の血糊を、ほどいた包帯でゆっくり拭う。白い包帯がみるみる赤くなっていく。金属の銀色に赤い液体が無くなったことを、三雲は両面をじっくり見て確かめた。
「……ほら」
 そして無造作にその包丁で自分の手首を切った。慣れた物なのか、玉になった血液を包丁に乗せて見せてくれる。
「混ぜてみるね……見てみてこんなにおんなじ色をしてる。私たちの相性はぴったりだよ。……ねえ、私のことを好きになってくれた? お友達じゃ無くて、彼女にしてくれる気になった?」
 手首から流れ落ちてくる三雲の血が、俺の制服を染めていく。
「樋口いるか。体育館の裏だったよな」
 校舎の方から俺を呼ぶ高橋の声がする。
「……邪魔者が来たみたい」
 三雲は憎々しげに表情をゆがめると、素早く立ち上がるとバッグを持って体育館のより奥の方へと去っていく。
 唐突に眠気が襲ってきた。
「料理部の女子が包丁がないって騒いでたから戻ってきたんだ」
 大声が段々近づいてくる。
「まだいるなら早く逃げたほうがいいぞ」
 もう今更だよ。
 ざくざくと冬を越した枯れ葉を踏む音とともにやってきた高橋が、狭くなってきた俺の視界の外で足を止めたようだった。
「おい、大丈夫か!?」
 大丈夫なわけないだろう。
「救急車! 110だっけ……あれ」
 声がだいぶ慌ててうわずっている。
 119番だよ。
 声に出したはずなのに、音になっていなかった。
 睡魔に抗しきれずに目をつぶると、すぐに意識が落ちた。

 また、作業服が脱ぎ散らかした自室で目を覚ましてしまった。
 今回の死因は最悪だった。いっちゃった同級生に刺されるなんて。
 高橋が呼ぼうとしてくれていた救急車は間に合わなかったらしい。あれだけ何度も刺されれば必要な血液が流れ出るのはあっという間だっただろう。
 深いため息をついてからのろのろと着替えた。

 愚痴を聞いてもらおうと、高校に向かう。
 これが4回目だから、最短で8日間の滞在になる。
 登校すると、妙に慌ただしい雰囲気が漂っていた。
「細川さん。……おはようございます。何かあったんですか」
「おはよう、今それどころじゃ……樋口くん!? どうしているの?」
 どうしてって。
「……また死んだからですけど」
「そりゃそうでしょうけど。樋口くんなら分かるかしら、昨日から書き置きだけ残して水上くんがいないのよ」
 はい?
「何て書いてあるんですか」
「探さないでください、そのうち戻りますって。それだけなの」
 心ここにあらずという雰囲気で、水上が居ないことよりも、そのせいで出来ない何かを恐れている様子だった。
「なら、書いてあるとおりいつか帰ってくるんじゃ無いですか?」
「でも心配で……心当たりはない?」
 すがりつくようにお願いされたら、手伝わなければいけないような気になってくるじゃないか。
「ないですけど……探してきます」
 ないとは言ったが、実は俺だけは知っている場所が、1箇所だけあった。
 こちらの世界の約1週間前に、俺が連れて行かれてボコボコにされた、三人組の住処だった。だが、水上はそれがどこかを知らないはずだった。

 少し遠かったが、歩けない距離でもだった。
 あの日に水上と乗って出た、窓ガラスの割れた軽トラの隣に、こちらの高校の職員駐車場で見た覚えのあるトラックがもう一台停められていた。
 水上は軽トラを頼りにこの場所を見つけたのだろう。
 中に居るだろうと確信して、そのわりには世界が静かだから、少しの物音だって外で漏れ聞こえてもおかしくなさそうなのに、しんとしていた。
 警戒しながらそのマンションに侵入する。
 玄関ホールでエレベータの階数表示が最上階を示していることを確認し、横にあった階段からいくことにした。足音を殺しながら登っていくが、自分の吐息以外に聞こえる音はない。
 このマンションで最も高価だろう最上階は、1フロアの部屋数が最も少ない。だが、3つ並んだ玄関の扉のどこに連れ込まれたかまでは思い出せなかった。
 逡巡していると、ある扉の前に捨てられた吸い殻が目についた。……セブンスターの吸い殻は、まだそれほど古びていない。
 違っていたらすぐに他を試せば良いか。
 もう一度だけ耳を澄ませて何も聞こえないことを確かめてから、そのドアを勢いよく開けて身を滑り込ませた。
 合ってた。
 廊下の向こうのリビングで、数日前の俺と同じように顔を腫らして椅子に縛り付けられている三人組と、その前にどっかりあぐらをかいてこちらを振り向いている水上が見えた。
「……4人目が居たのかと思ったぜ」
「間違いなく三人組だと思うけど。なんでお前はこんな所にいるんだ」
「またいつかおいたをされる前に、出来ないように懲らしめてやろうと思ってな」
 長い廊下を進んでいくと、青色の髪のやつが1人だけ腹から血を流していた。今回の死因を思い出して眉をひそめる。
「1人だけ怪我してるのか」
「単なる見せしめだよ、一番元気の良い奴に一発、ズドンてな」
 椅子の下に血だまりが出来て、息はあるようだが顔が真っ白になっている。
「これくらいなら、1日位はほっといても死なないよ。2日になったら知らんけど」
「殺すわけじゃ無いんだな」
「ただ殺すだけじゃ、つまらないだろ。それよりなんでお前は戻ってきたんだ」
「クラスメイトに腹を刺された」
「なんだそれ。痴情のもつれか」
 面白い冗談を聞いたように水上が笑った。
「全くその通りで笑えねえ」
「モテモテでいいじゃねえか」
「ちっともよくない」
 憮然として答えると、大笑いになった。
「そんなことより、これからどうするつもりなの」
 顎で三人組を示しながらそう聞くと、ピタリと笑いが止まって表情が無くなる。
「日付が変わる前くらいまでこのままだな。……小さい頃、一緒にテレビで見たよな」
 水上が、取り出した煙草で部屋の隅に置かれた赤いポリタンクと消火器を指し示した。……灯油か。
 ライターをならして咥えた煙草に火を点ける。
 灯油、火、縛られた人間。連想して気分が悪くなる。
「俺がされたよりずいぶん酷いことを思いつくんだな」
「絶対助からないようにしてやる」
「……ごめんなさい、もうしないから」
 水上が憎しみのこもった暗い声で宣言すると、真ん中で縛られている赤い頭の奴が泣きべそをかきながら言葉を発した。
「樋口は良いところに来た。お前の時は、誰の発案だったんだ?」
 謝罪が全く聞こえなかったように、夕飯の献立を話すように水上が尋ねる。
「ごめんなさい」
「そんなこと知ってどうするんだ」
「助けてください」
「そいつを最後まで残して、見せつけてやるのさ」
「許してください」
「復讐なんて要らないって言っといたよな」
「殺さないでください」
「お前に要るかどうかじゃない、俺がしたいんだ」
「お願いします」
「……俺も助かったんだからさ、止めようよ」
「お願いします……」
 涙と鼻水で腫れた顔をなおぐしゃぐしゃにして、赤いのが懇願する。
「うるせえ!」
 立ち上がった水上がそいつを椅子ごと蹴倒す。
 ガターンと転んだ音がして、彼は倒れた衝撃で息をつまらせて咳き込んだ。
 ぐったりしている青色の髪がかすかに目を開け、もう1人の黄色い髪が大きな音に怯えたように震える。
「おねっ……がい」
「泣いたって聞くかボケ」
 その胸を踏んづけて水上が声を荒げる。
「戯言は何をしたかきっちり理解してから言え。身をもって体験しねえとお前らには分からねえだろうから手伝ってやろうって言ってんだ」
 ぎゅうぎゅうと体重を掛けて叫んだ。
「やめろよ」
 水上の肩に掛けた手を引っ張ると、怒って俺のことも突き飛ばした。
「邪魔するんじゃねえ」
 靴下にフローリングだったから、そのまま足を滑らせてポリタンクに肩をぶつけた。近づくと間違いなく灯油のにおいがする。俺と一緒に倒れたタンクの中身が、満タンに入っている液体が、チャプチャプと揺れる。
「なあ、このまま帰ろうよ」
 タンクを支えにして起き上がり、座り込む。
「つべこべ言うなら樋口も一緒に燃やすぞ」
 転ばされてカチンときた。昔からこいつは余計なところばかり頑固なんだ。
 何回も生き返っては同じ日のうちに死んで、しかも今回は同級生に殺されて、俺も機嫌が悪かったのだ。
「いいよ、そうしようぜ」
 横にあったタンクの蓋をひねって開けると、そのまま頭から被った。部屋中に灯油のにおいが充満する。
「な、てめえ……」
 蓋と空になったポリタンクを驚いて固まっている水上に投げつける。
「ほら早く、その短くなった吸い殻をこっちへ投げろよ」
 水上が咥えている煙草を慌ててこすりつけて火を消した。
「何やって……!」
 三人組は揃って怯えた目でこちらを見ている。
「お前を手伝ってやってるんだろ。お前がやらないなら自分で火を点けるぞ」
 灯油で濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。四人の視線を浴びながら、重たくなったズボンのポケットからオイルライターを取り出した。
 何かを叫びながら俺の手から水上がライターをもぎ取って向こうへ投げる。
「ふざけんな」
「そりゃこっちの台詞だ」
「お前はあっちに帰って生きるんじゃねえのかよ。なんで自分からこっちで死のうとしてるんだ」
 匂いで頭がぐらぐらしてきた。
「これで4回目だぜ。何時になったら明日が来る? もう疲れたよ」
 実際のところ、嫌になってきていたのも事実だった。
「くそ野郎。おい、風呂場はどこだ」
「……廊下を出て左側の一番手前っす」
 水上が唐突に発した質問に、倒れ込んだままの赤髪が答えた。
 俺の後ろ襟をひっつかむと、もの凄い力でずるずると風呂場へ引き摺っていく。
「痛い……痛い」
「知るか、自業自得だろ」
 広い風呂場へ俺を連れ込むと、服を着たままシャワーを浴びせかけてきた。
「ぶえ、ごぼっ、冷てえ」
「灯油が落ちるまで我慢してろ」
 頭から顔から胸から背中から、力尽くでひっくり返されたりバスタブに押しつけられたりしながら洗い流されていく。
「これでよし」
 一仕事を終えた水上が呟く頃には、すっかり濡れ鼠になって凍えていた。くしゃみが止まらない。
「……寒い……っくしょい」
 ガタガタと震えが止まらない。水上だって下半身がびしょ濡れになっているのに、顔は汗をかきながら荒い息をついていた。
「わがままだな……行くぞ」
 また襟をつかんで連れて行かれそうになるのを振り払って、自分で立ち上がる。
「い、行くってどこへ」
「いいところ」

 3人組も床にこぼれた灯油もそのままに、水上はさっさとマンションから出るとトラックのエンジンを掛けた。
「濡れ鼠は荷台だ、シートが汚れるだろ」
 言われて荷台によじ登る。腰を落ち着けた俺を確認して、乱暴にトラックを発進させた。とっさにトラックの鳥居をつかんだが、かじかんだ手では体を支えきれずに荷台を派手に転がった。
 猛スピードで飛ばすせいで、強い風を直に受ける濡れた全身からは急速に体温が奪われていく。
 右へ左へと荷台を転がっているうちに、時間の感覚もなくなってきた。山道に入ってカーブが多くなり、なお空気が冷たくなっていく。体のあちこちをぶつけているはずなのに、痛みをあまり感じない。
 自分から灯油を被ったとき以上に死を近く感じるようになって、やっとトラックが止まった。
「降りろ」
 そう言われても、意識が朦朧として体が動かない。のそのそとうごめくだけの俺を見て、水上は舌打ちをすると俺を背負った。
 どれくらいの距離を歩いたのか分からないが、おんぶされて連れてこられた先で、池の中に放り捨てられた。気管に水が入って、溺れかけて体を支えようとするが底に手が当たっても上手く体勢を整えられない。
 服を脱いだ水上が池に入ってきて支えてくれると、やっとまともに息が出来るようになって咳き込んだ。
 発作が落ち着いてくると、水が温かいことに気がついた。
 これは池じゃない。
 見慣れた地元の、小さい頃からよく来ていた公衆野天温泉だった。

 体が温まってきてから、まだ着ていた服を脱ぐ。完全に濡れて重くなっているから脱ぐのにも一苦労で、そのうえ荷台でぶつけた全身が鈍い痛みを主張するせいで抜いている間にまた寒くなってくる。
「寒気がする。風邪でも引いたかな」
「濡れた服を着て風に当たってりゃ体調を壊したっておかしくねえ」
「お前の運転のせいだ」
「樋口が灯油を被るなんて無茶なことするからだ」
「その灯油は誰が何のために用意した物だったっけ」
「そもそも探すなって書き置きをしたはずだったんだけどな」
 口々に言い合ってにらみ合う。
 険悪な雰囲気になったが、2人同時に吹き出して大笑いしてしまった。

「細川さんが青い顔をしてたぜ」
「うわ、帰るの嫌だなあ」
「何で?」
「ぜってえ怒られるじゃん」
「なら、後先考えずに行動するのを止めろよ」
 トラックに積んであった予備の服に着替えながら、さりげなく聞いた。
「あの3人組はどうするの」
「あー……何か拍子抜けしちまったなあ。肝心の本人がピンピンして帰ってきたし」
 怒ってはいるようだが、思ったより落ち着いているようだった。
「どうしよ。樋口ならどうする?」
「俺に聞くのかよ。……連れて帰るかなあ」
「3人も生活する人が増えるってなると、細川さんに相談しないとなあ。その前に怒られる……」
「俺も一緒に怒られてやるからさ。それに、何も言わずに連れて行けば怒られなくて済むんじゃね?」
 水上は俺の顔をまじまじと見た。
「本当にそれでいいのか?」
「いいのか、って?」
「あんなコトされて、お前は許せるのか、って言ってるんだ」
「……聞かれたって、分からないけど。でもそれでいいよ」
「お前がいいなら、いいけどさ。俺なら絶対に許せない」
 相変わらず優しい奴だなあ。
 水上は何かを諦めたように笑って、呟いた。

 トラックできた道を引き返し、マンションに戻ると、3人組は灯油のにおいがする部屋で変わらずに居た。
 拘束されているのだからどうしようも無かったのだろう。怯えた目で俺らを見る。
「逆らうんじゃねえぞ、今度こそ殺す」
 縄をほどきながら水上が機嫌悪そうに脅すと、慌てたようにこくこくと2人は頷いた。腹を打たれているもう1人は、もうその気力も無いようだった。
「思ったよりやべえかも」
 ぐったりとした様子を見た水上が小声で俺にささやいた。
 顔が腫れているだけで自分で立ち歩ける2人に肩を支えさせてトラックに戻り、3人組は荷台へ、俺たちは運転席と助手席に乗った。
 気のせいかもしれないが、水上が少しだけ丁寧な運転で暮れた人気の無い道を高校に向かう。
「鈴木さん! ただいま、急患だ!」
 水上が、門番をしていた今日もつなぎの男の人に叫んだ。
「今までどこに……、急患って何のことだ」
「いろいろあって。それより早く開けて!」
 トラックのエンジン音を聞きつけて、細川さんが鬼の形相で走ってくる。
「あんたたち! 心配したじゃないの!」
「ごめん、それに関しては後で聞くから。こいつらのことを診て!」
「あたしは医者じゃ無いのよ」
 そう言いながらも、荷台で横たわる青い髪のやつを一瞥すると、保健室へ運ぶように指示を出した。
 出血は殆ど止まっているようで、乾いて張り付いた服を剥がすと、銃創と呼吸を確かめて悲しそうに首を振った。
「ダメか」
「ここじゃちゃんと直すのは無理よ。ここは病院じゃないし、私は医者じゃないし」
 黄色と赤の髪をした仲間達が肩を落とす。
「じゃあ、しょうがねえか」
 邪魔にならないよう、外から様子を窺いながら煙草を吸っていた水上が平坦な声で言った。
「どうする気だよ」
「こうする」
 やけに即答する水上から不穏な雰囲気を感じて振り向くと、彼はくわえ煙草で歩み寄ってくると、拳銃を向けた。
「お前、殺すのは止めるって……!」
「それ、やめた」
「ちゃんと言うこと聞いて、おとなしくしてたじゃないか!」
 赤い髪が叫んでつかみかかろうとしたが、それより早く彼が発砲した。
 銃声とともに、辛うじて息をしていた青い髪が頭を打ち抜かれて死んだ。
「な……」
 絶句して黄色い髪が崩れ落ちる。赤い髪が泣きながら水上を殴ろうとして、あっけなく返り討ちにされる。
「どういうつもりだよ」
 俺は沸騰しかけた頭を必死に落ち着けようとしながら、歯の隙間から問うた。
「治らない怪我をしたまま日付を跨いだら、こいつはずっとこのままなんだぜ」
 顔色を変えずに拳銃を後ろ腰のベルトに挟みながら水上は当たり前のことを語るように答えた。
 そうかもしれない。すっかり忘れていたが、死後の世界であるこの世界では、水上の言うとおりだった。
 だとしても、もうちょっと他に方法があるってもんじゃないか。
「今晩のうちにまた、迎えに行ってくるよ」
 そう言って彼は保健室を出て行った。

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俺に明日は来ない Type1 第6章

2022.02/18 by こいちゃん

 だからその日も、俺の1日はたった数秒で終わるのだと思っていたのだ。
 暗くても分かる何か白い大きなものが、ある日は復活したとき真下に見えた。
 落ちるのまでは一緒だったが、落ちきってぶつかったのがいつもと同じ固い地面ではない。
「よし、ゆっくり降ろせ」
 聞き覚えのある懐かしい声がする。
「おい、まだ生きてるよな」
 今にも死にそうだけど。
 そう言いたかったのに、腫れた顔ではうめき声にしかならなかった。
「急いで帰るぞ」

 深夜なのに高校は明かりが点けられていて、年上組の総出で服を脱がされ、温かい濡れ布巾で全身がくまなく拭われる。
 ほとんど全身が湿布と包帯で覆われて、わざわざ布団乾燥機で温めてあったのだろう、暖かい布団に寝かされた。
「朝になって死んでたら許さないからな」

 殆ど気絶したように寝付いたはずなのに、目が覚めたときにはまだ外が暗かった。
 トイレに行きたい。
 全身が痛くてだるい。呻きながら身を起こすと、足が重たいと感じたのは怪我のせいだけでは無かった。
「……水上。ごめんちょっとどいて、トイレに行きたい」
 腰の痛くなりそうな姿勢で、俺の足の上で腕を組んだ水上が寝ていた。
 手を伸ばすと肩と脇腹が痛むのだが、彼の体重をどけないと足を引き抜けなさそうだった。
 しばらく揺すっているとピクンと震え、勢いよく水上が体を起こした。彼の体からバキバキと音が鳴るのが俺にも聞こえる。
「……腰が痛てえ」
「そりゃそうだよ、そんな姿勢で寝てるんだから」
「起き上がってて大丈夫なのか」
「……おしっこもらしそう」
 俺は一体いくつになったんだ。
 恥ずかしいが言葉にしないと動くのを許してもらえなさそうな表情が、暗がりの中でも分かった。
「車椅子を用意してやるから、もうちょっと辛抱してろ」
 車椅子だなんて大げさな。だけど有り難かった。
「悪いじゃん」
 俺が寝かされているのは保健室だったらしい。すぐに片隅から車椅子が出てきた。
「中学の時に保健の授業で習ったときには、こんな知識をすぐに使うとは思ってもみなかったぜ」
 言われて思い出す。
「そういやあのときは、俺がお前を押してやったよな」
「今回は逆の立場になっちゃったわけだ」
 二人で密かに笑い合う。
 笑ったら腹が痛い。笑いすぎというわけでは無く、怪我のせいだ。
 意味があったのか分からないが、彼が悶絶する俺の背中を慌てたようにさすると、すっと痛みが和らいだような気がする。
「トイレだっけ。これじゃ老老介護ならぬ、若若介護だな」
 だから笑わすなって。
「出すところまで見て……いや、介助してやるからな」
 笑うたびに全身に痛みが走るんだ、お願いだから止めてくれ。
 絶え絶えになった声でそう言ったのに、心配させた罰だと言って彼は取り合ってくれない。
「心配させさせたのは、悪かった。助けてくれてありがとう」
「まあ、どっちもお前のせいじゃないけどな」
 答えた水上の声は、つい数秒前まで面白がって俺を笑わせていた時とは別人のように冷たかった。
「……不注意だったのは俺だし」
「この世界は死後の世界だが天国でも地獄でもないってことを、まだ3回目で実体験できて良かったな」
「出来れば何回目だろうが知りたくは無かったけど」
「違えねえ」
 小声でしゃべりながら、小さな振動も与えないようにゆっくりと、水上が車椅子を押してくれる。俺は安心してトイレに着き、こちらの世界に居る限り一生話題にされるんだろうと、気が気じゃない思いをしながら水上の介助で用を足す。
 饒舌だった行きと引き換え、無言で保健室まで戻る。
 ベッドに寝かせるところまで手取り足取り助けてもらう。
「なあ、煙草一本ちょうだい」
 ずっと黙ったまま居る彼に不安を覚えて、あえて小さい子供みたいにおねだりしてみた。
「赤ちゃんみたいに求める物と違うだろ」
 確かに。
「ありがと」
 水上に選んでもらってからずっと吸っているハイライトでは無く、彼の胸ポケットから出てきたセブンスターをくわえさせてもらう。差し出されたライターで火を点けると、体感的には数時間かもしれないが、実際には何日も吸っていなかった煙を胸深くまで吸い込む。
「樋口もすっかりニコチン依存症だな」
 自分の分も煙草に火を点けた水上が言う。
「誰のせいだよ」
「俺ですが。……保健室で吸ったなんて知れたら、後で細川さんがうるせえぞ」
「だって俺は満足に動けねえんだもん、しようがなくないか」
「開き直りやがってこのヤニカスが。怪我人病人は健康に悪いヤニなんて吸ってないでずっと寝てろ」
 ごもっともだ。
 水上は静かに立ち上がると、換気のために窓を開けた。
「寒くねえ?」
「大丈夫、熱があるせいで感じる寒気以上に、殴られた全身が火照ってる」
「それは……良かったと言うべきなのか悩むな」
「助かったんだからいいんじゃね?」
「そうか」
 また彼の顔が暗くなる。
「復讐とか、考えなくて良いからな」
「考えとく」
 ……会話が噛み合っていない気がする。
「さて、寝ようぜ」
 それぞれの煙草が短くなり、灰皿代わりの空き缶が差し出された。
 俺が吸い殻を入れると、最後にひときわ赤々と火種が輝くまで煙を吸い込んだ水上もフィルターだけになった煙草を缶に捨てた。

 次に目が覚めたのは、細川さんの女性らしい高い声でだった。外はもう明るくなっていた。
「あんたねえ、親友が心配だからって一緒に寝たんじゃないの? なんで保健室が煙草臭くなってるのよ」
「だって心配で離れたくなかったんだもん」
 叱られた水上が子供のように少しいじけた口答えをする。
「なら煙草も我慢すれば良いでしょ」
「だって暇だったんだもん」
「寝ている病人の看病なんだから、暇なのは当たり前なの!」
「……あんまりうるさくすると樋口が起きるぜ」
「もう起きてます」
 やっと会話に割り込めた。
「あっ、その、ごめんなさい。寝ているのに枕元で大声を出しちゃった」
「大丈夫です、それよりその……女性に言うのもアレなんですけど」
「トイレね。別に、お母さんやってる女には気にしなくて良いのよ」
 俺が気にするんだ。まだ高校生で、つまりは思春期なんだぞ。野郎同士ならまだしも、そういう話題を女の人とはしたくないんだ。
「また手伝ってやろうか」
「お願いしたい」
 お説教から逃げる良いタイミングだと思ったのだろう、水上がそそくさと車椅子の用意をする。
「まだ歩けないだろ」
「すまん」
 痛みはだいぶ引いてきているのだが、体を起こすところから手を貸してもらう。
「お腹も空いたでしょう、なんか食べられそうなものを用意してくるわね」
 細川さんはそう言って保健室を出て行った。
「ありがとうございます」
 扉を開けたままにしていったけど、聞こえただろうか。
 足音が遠ざかっていくのを確かめてから、水上が言う。
「な、言ったとおりだっただろ」
「うん」

 それから3日間はずっと保健室で寝ているだけだった。入れ替わり立ち替わり、みんなが様子を見に来ては、少し話をしていってくれる。
 今晩寝れば生き返るという夕方に、細川さんが周りの目を盗むようにこっそり保健室にやってきた。
「今回は災難だったわね。それで一つ、お願いがあるんだけど」
「いえいえ、自分の不注意もありましたから。お願いですか」
「そう。多分、君が生き返る前に水上くんが、その……加害者のことを聞くと思うのよ」
 加害者のことを……?
「君がいなくなっている間の彼は、何というか。私たちも初めて見るような……小さい子どもたちがおびえちゃうような感じで」
「つまり、復讐を考えていそうだと言うことですか」
「察しが良いわね。私は、いえ私たちは、彼がいないと生きていけなくなっているの」
 水上がいないと、生きていけない?
 死んでから来るこの世界でも、生きていけない?
「だから彼を失うかもしれないようなことをできるだけ避けたいの。この際だからついでに謝らせてもらうけど、最初は君が見つかっても、君を助けに行くのを止めようとしていたくらいなの」
 話題が急に飛んだ。俺を助けたくなかった?
「今から考えれば随分自分勝手だったと反省しています。ごめんなさい」
「よく分からないけど。いいですよ」
 あまりに神妙そうな謝罪を、意味も分からず許す。
「ありがとう。だから、彼が復讐に向かうような、3対1の喧嘩を始めるような危険な真似を避けたいの」
 水上を失いたくないから、危険を事前に防ぎたいという。俺だって彼が危ない目に遭って欲しいわけではないから、謎は残るものの彼女の申し出を受け入れた。
 食事中に中座してきたらしい彼女は、俺の承諾を得るとそそくさと食堂代わりの教室へ戻っていった。
 1人残されて、どういうことなのか考えたが、彼女たちの真意は伺えなかった。

 夜になって、いつも通り水上がやってきた。
「毎晩のように子守歌を歌ってもらわないと寝られないガキじゃ無いんだからさ」
「生き返る樋口にとってはこの記憶もあっちでは忘れちゃうかもしれないけど、俺にとってはお前に会って話しをするのは最後かもしれないんだぜ?」
「俺だって、あっちじゃお前はもう死んでるんだから、水上と話は出来ないんだが」
「俺が死んだこともあっちのお前は知らないだろ」
 知らないけどさ。
 そういえば、狭い地元で、何で同級生が亡くなったことが話題になっていないのだろう。数年前に3軒向こうに住んでいたお爺さんが亡くなったときだって、地区全体にお悔やみが回った物だ。
「それはそうとさ。お前、河川敷から何処に連れて行かれたの?」
 来た。細川さんが口止めした話題だ。
「気絶してたから覚えてない」
 これは事実だ。
「俺もさ、お前が動かなくなったからてっきり先に死んだんだと思って、ならいいやリセットしようと思ったんだよな」
「なるほど」
「なのに起きたらお前がどこにも居なくて。そんで慌てて探したら、ビルから落ちて死んでるじゃん。それでやっと気絶してただけだったお前はあいつらに連れて行かれて、何かされたんだなって分かって」
「俺も、人間って意外としぶといんだなって思ったよ」
「でだ。今後も奴らに襲われないように、アジトが何処にあるか知っておきたいんだけど」
「でも、気絶していたときに運ばれて、散々殴られて目がよく見えないうちにあのビルに連れて行かれたからなあ。俺もよく分からないんだよ」
 後半は半分嘘だった。なんとなく、どのあたりに彼らの住処があったのかは想像がついている。
「そうか。まあ、写真に撮って後で笑いものにしたいくらいには、漫画みたいな酷いツラしてたしな」
「ひでえ」
 もううっかり笑っても、そこまで体に響かない。
 一緒に笑っても、水上の目が笑っていなかったのが少し気になった。
「……もう寝るわ」
「そっか。もう来るなよ」
「そうできるならそうするさ」
 そういうと、一瞬だけ彼は少し寂しそうな顔をしたような気がした。

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俺に明日は来ない Type1 第5章

2022.02/17 by こいちゃん

 今回は、もう死後の世界で目が覚めても、驚きすら無かった。生きている世界なら、自分の枕元に作業服が置いてあるはずがない。だから同じ高校へ行くのでも、制服では無く作業着を着て向かった。
 雨が降り出しそうな空だった。降り出す前にと早足で高校に向かうと、校門のバリケードで門番をしていたのは、水上と鈴木さんの2人だった。
「単なる夢だとは思ったんだけどさ、夢なのにやたらリアルで嫌な予感がしたから、学校帰りに電車で町に出るのは止めたんだ。なのに今度は階段を踏み外して、打ち所が悪かったみたいなんだよな」
 恐らくこの辺だろうと思う後頭部をさする。
「足元には十分注意しろよ」
 昨晩の0時には無かった怪我だから、もちろんコブにはなっていない。
「本当だよね。17にもなって、通学路の階段で転ぶとか、ださすぎる」
 現実世界の5月26日を迎えるまでに、何日分の遠回りをすれば良いのだろう。
「3回目だから、最低4日間は連続して生き残らないとな」
 今回も最短で生き返ってやる。
「またしばらく、みんなのやっかいになる」
「俺たちとしては、何日でもいたいだけ居てくれて良いんだけどな」
 気持ちだけで十分だ。
「そういや今朝は農作業じゃないんだな」
「雨が降りそうだろ。昔の人はよく言ったもんだよな、晴耕雨読ってやつさ」
 天気の悪い日は朝から勉強らしい。耕された校庭には誰も居ない。
「そうすると俺はずっと門番だから、暇なんだよなあ。図書室から本を持ってきても、雨が降り始めたら本が傷むって怒られるし、ケータイは使えないし」
「ゲーム機は? 携帯ゲームならインターネット接続が無くたって」
「だから雨なんだって。小さい子供が乱暴に扱っても壊れない強靱性はセールスポイントになっても、家の中で遊ぶ前提のゲーム機に防水性を謳っている機種なんざそうそう無いだろ。外で門番をやってるときに雨が降られたらゲームなんて出来ねえって」
 それもそうか。
「まだ朝だから、頭が回ってないんだなあ」
 笑って誤魔化そうとした。
「お前の天然は昔から変わってねえよ」
 水上は誤魔化されてくれなかった。
「こういうときに誤魔化されてくれないんだからケチっていうんだよ」
「ケチもくそもあるか、馬鹿」
 バリケードの中と外で漫才みたいな会話を繰り広げていれば、鈴木さんはおかしそうに笑い転げていた。
「この人、笑い上戸なんだよ」
「そうなんだよねえ。これじゃ僕が門番の役に立たないから、君らは遊びに行ってきなよ」
 鈴木さんは涙を拭いながら言ってくれた。
「お仕事の邪魔してすみません」
「いやいや、いいって。……君が来なかったら、段々不機嫌になっていく水上くんと二人っきりになるところだった」
 わざとらしく声を潜めてはいるが、いかんせん俺より水上の方が鈴木さんに近いわけで、彼にも充分聞こえただろう。
 当の本人はそっぽを向いて口笛を吹き、聞こえないふりをしている。
「遊びに行って良いってさ。行こうぜ」
 何処へ行こうというのか。

「そりゃ、遊ぶ場所なんてないよなあ」
 ゲーセンへ行ったって、アーケードゲームの電源なんてどうやって入れれば良いのか分からない。
「次に生き返ったときにはさ、ゲーセンでバイトしてくれよ。そうしたら今度来たときに好きなゲームを好きなだけ遊べるじゃん」
「4回目のことを3回目の初日から予定しないでくれるかな」
「冗談だよ」
 行く場所のない俺たちは、天気が悪いというのに軽トラで河川敷に来て、ひたすら水切りで時間を潰していた。
 小学校や中学校の放課後を思い出してみても、何もない山奥だったからだろう。山へ入るか川へ下るか、そうして見つけた場所で暗くなるまで、ただ昼寝をしたり、他愛もない話をしたり、学区に唯一の同い年で、ずっと一緒に居たはずなのに、この幼なじみとあえて何かをやったという記憶は無い。
 どちらかがゲーム機を買ってもらったら、しばらくはお互いの家に行って対戦したこともあった。でもすぐに飽きて、結局は家の外で何もしないことが多かった気がする。
 このときも、やがてどちらとも無く言葉数が少なくなり、交代でひたすら石を投げるだけだった。
「それが不愉快じゃない他人って、貴重だよな」
「は? なんの話?」
 脈絡無く考えていたことが口から飛び出す。
「なんでもない」
「樋口に友達が居ない話か。なんでもなくはないだろ」
 さらっと友達が居ないとか言うな。傷つくだろ。
「いやまあ……普段のお前は何をしてるの」
「えー……何にも。あっちへふらふら、こっちへぶらぶら、って感じ」
「それこそ、そんなことねえだろ」
 この間は水上もみんなと農作業をしていた。食べる物を自分たちで作らないと、物流のないこの世界では何も食べられなくなってしまう。
 そうか、普段はちゃんと仕事してるから、そうそう日中に暇を持て余すなんて事は無いのか。
「みんなに悪かったな、貴重な労働力が一人足りなくなっちゃうわけか」
「いや、本当に俺は何にもしてないぞ。一昨日はお前がいたからさ」
「……みんなはそれでいいって?」
「俺は俺にしか出来ない仕事をやってるからな」
 仕事の中身が気になったが、それは教えてくれなかった。
 やがてしとしと雨が降り始め、俺たちは橋の下で雨宿りをしながら、何もしない時間が過ぎていくのを待っていた。
 ふと、水の音しかしない静かな世界に、エンジンの音が聞こえた。
 水上も気付いたようで、真剣な顔で橋の下をにらみつけている。
「まずいかもな」
 彼がぽつりと呟くが、俺には何がまずいのか分からない。
「樋口はここで隠れてろ、軽トラを持ってくる」
「分かった」
 まだこの世界に不慣れな自覚が俺にはあったから、彼の言うとおり雨に濡れない橋の下で一人待つことにした。
 ついていけば良かったのに。
 何台か居るらしいことが分かるくらいにエンジン音が近づいてきて、向こう岸から橋を渡っているようだ。そのまま通り過ぎてくれれば良いものを、しかしどうやら土手から俺の居る橋の下に降りてきた。
 陰から盗み見ると、降りてきたのは髪色もバイクもド派手にした3人だった。寒いだの雨が鬱陶しいだの、口々に騒いでいるが、呂律が回っていない。
 眉をひそめて見ていると、一人がビニール袋を取り出して中の何かを吸っている。
「何だあれ。アンパン?」
 細川さんが言っていた、法律が無くなって犯罪に走る連中というのが彼らだろうか。
 仲間内で袋を回しながら何かしゃべっているようだが、余計に呂律が回らなくなった彼らの会話が、俺には単に奇声を上げあっているようにしか聞こえない。
 そこに水上が戻ってくる。
 軽トラに気付いた彼らは、屋根のある乗り物を見つけて強奪を目論んだようだった。
 3人組がバイクのエンジンを掛けると載せていた武器を手に取って跨がり、走っている水上に襲いかかる。
 考えてみれば、いくら3対1とはいえ自動車に乗っている水上が、しかもクスリでラリっている彼らに負けるはずはないのだが、水上が躱した一人が後ろの死角からバイクを乗り捨て荷台に飛び移ったのを見て、うっかり声を上げてしまう。
 直接攻撃されないように軽トラの窓を閉めて、しかもバイクのマフラーを改造しているのかやけにうるさいエンジン音が近くに居るのだから、俺の声なんて聞こえるはずがないのに。
 その声に気付いたのは当然だが、水上では無く3人組の片割れだった。タイヤを滑らせ、河川敷の悪い地面を気にすること無く俺に突進してくる。
 やっちまったと思いながら飛んで躱すが、橋桁に激突してくれれば良い物を、すぐ手前で転回して向かってくる。バイクは避け切れたと思ったのだが、そいつが持っていた鉄パイプの先端が翻った俺の上着に引っかかって、奴もバランスを崩したが俺も引っ張られて転んでしまう。
 慌てて起き上がろうとしたが、その前に別の1台が容赦なく俺を轢いた。
 このところ、乗り物に轢かれるのがマイブームらしい。
 感じた痛みに、反射で現実逃避をしてしまう。
 ふと見上げると、俺に気を取られてしまった水上も荷台から軽トラの窓を割られてやられていた。頭を切ったらしく血を流しながら、手に握った拳銃を俺を転ばせたついでに自分も転んだ敵に向けると、一発で殺した。
 響いた銃声と同時に跳ねて動かなくなる仲間をみて、やられたのを見た残り2人が激昂する。
 起き上がるのを忘れていた俺はもう一度、自分の体の上をバイクが走るのを感じて意識を失った。

 大量の水をぶっかけられて気がつくと、知らない部屋で椅子に縛り付けられていた。
「よくもやってくれたな、あ?」
 空になったプラバケツを放り捨てたそいつの顔を見て、混乱していた記憶が脳裏に走る。
 正面から見ると、どこか路地裏に屯しているにはひ弱な印象が残る男だった。おまけに、俺より年下そうに、それこそ木下くんくらいに見える。
 汚らしい青色の髪以上に、似合わないピアスを顔中にしてむしろ痛々しい。
 続けて唾を飛ばしながら何か喚いているが、俺には何て言っているのかさっぱり分からない。
 困って黙り込んでいると顔を殴られた。縛られた椅子ごと後ろに倒れ込む。殴られた顔も、身動きが取れないせいで受け身も取れずに床へぶつけた頭も痛い。目の奥で火花が散るというのはこういうことを言うらしい。
 後から思い返せば、このときは決して冷静なのでは無く、現実逃避に一生懸命だった。
 汚い言葉で罵っているのだろうと想像はついても何を叫んでいるのかも分からないまま、3人組から2人組になった彼らに殴る蹴るの暴行を何も出来ず受けて朦朧としていると、自分の頭もおかしくなってきたのか、段々何を言っているのかが分かるようになってきた。
 どうやら水上は、俺をどうにか助けようとしてあの場でしこたま殴られて、大怪我をした結果リセットして改めて俺を助けようとしたようだ。だから殺された1人の代わりに、自殺されたせいで殺し損ねた水上の代わりに、俺が殺されようとしているらしい。
 段々痛覚が無くなってくる。まあ、水上がやったとおり、こちらの世界では死ねばその日の0時に居た場所で、0時になったときの状態で、戻るらしい。最短の4日で生き返るのは諦めなければいけないが、このまま今日は死んでも良いかと思い始めてきた時だった。
 ふと嵐のような暴行が止んだ。
 晴れ上がって持ち上げるのに難儀するまぶたを持ち上げてみると、1人がいなくなっている。もう1人はと言えば、俺をにらみつけながら返り血を浴びたままで、カップラーメンにお湯を注いでいた。2つを作っているということは、片割れもすぐ戻ると言うことか。
 なんだこいつ。腹が減ったから俺で遊ぶのを止めたのか。
 俺も腹が減ったなあ。
「食い終わったら、一緒にお出かけしようなー」
 ちゃんと普通に通じる日本語を、こいつから初めて聞いた気がする。
 開き直って何か混ぜ返そうと思ったが、腫れ上がって端が切れている唇が上手く動かせない。口の中で気持ち悪い血を吐き捨てようにも頬を涎が垂れていくだけだった。
「俺はシーフード味だからな」
 悠長にトイレ休憩を兼ねていたらしい。社会の窓を閉めながら戻ってきたもう1人も、同じくらいの年頃に見えた。こいつは髪を赤くして、やっぱり同じくらい似合わないドクロのネックレスをじゃらじゃらいくつも首に提げている。
「俺は醤油でいいよ、あと2分で出来る」
「サンキュー」
 俺にも一つくれ。……もらったところで口が食えそうにないが。目を開け続けているのが辛い。まぶたを持ち上げ続けるというのはこんなに疲れることだったのか。
 やがて2人がずるずる音を立ててラーメンを食い始めると、俺の腹が鳴った。
 ラーメンを食いながら爆笑する。
「そんなにボコボコにされてても腹が鳴るのかよ」
「俺たちよりも図太えなあ」
 笑い声が止んでもラーメンをすする音が聞こえてこない。
 不安に駆られて彼らを見ると、二人して暗い目をして俺をにらみつけている。
「俺たちも、こいつくらい脳天気だったら」
「こんなところにいなかったのにな」
 普段なら屁でも無い年下の2人を見て、背筋が寒くなる。
「……こいつ、ただ殺すんじゃつまらなくね?」
「何か思いついたのかよ」
「ちょっと大変だけどな。食い終わったら話す」
 そう言った青い髪の方が、残ったラーメンを流し込むように食べ始めた。
 食べ終わると、まだ熱い汁を俺に掛けた。
 熱湯と言うほどではないが充分火傷できそうな液体を顔に浴びて呻く。
「へへっ。……日付が変わる瞬間にさ、ビルから落としてやろうぜ」
「お前、酷いこと思いつくな。面白そうじゃん」
「3人で見に行ったら胸がすっとしそうだろ」
 この世界では、死んだら死んだ日の0時に居た場所で復活する。
 復活した途端に、また死ぬじゃないか。
 藻掻くがボロボロの体では固く縛られた縄をほどけるわけが無かった。

 後ろ手を拘束され、逃げられないように縄を何処とも知れないビルの非常階段に縛り付けられた。五階建ての最上階の踊り場で、雨は止んだが濡れた床に転がされていると金属の冷たさが染みてくる。全身を殴打されて熱を持っているはずなのに、体の芯が冷えていくのが分かる。風邪も引き始めているのかも知れない。
 そんな俺を横目に見ながらチンピラ二人は肉体労働の後は旨いとばかりに缶ビールを飲んでは苦さに顔をしかめている。味が分からないなら飲まなければ良いのに。
「そろそろ0時になるそ」
「ぶらさげるか」
 酔ってふらふらした足で二人が立ち上がると、覚束ない手つきで俺を手すりの下に押してくる。日付が変わってしまえば彼らはまた24時間待たなければいけないから、時間稼ぎに抵抗するのだが、そもそも俺には今が何時何分で、後どれくらいの時間が残されているのか分からない。
 先の見えない中で、不自由な体に鞭打っているのも限界だった。
 ついに濡れて滑る手すりの向こうに落ちる。一瞬の自由落下は、手すりに結ばれている縄の長さで止まる。ぴんと張ったときの衝撃で息がつまる。
 こうなってしまえば、今度は結ばれている縄を日付が変わる前に切って落ちてしまえば、明日の0時に無事な状態で復活できる。体を揺すって結び目が緩くなるのを期待するが、そう上手く事は運ばなかった。
「どうでも良いと思うけど、俺は釣りが趣味だったんだ。結びには自信があるんだぜ」
 赤髪の興奮しきって嘲るような言葉は裏返っている。
「日付が変わるまであと1分」
 千鳥足で赤髪が1階分の階段を駆け下りて、俺がぶら下がっている4階で視線の高さが合った。
「ブランコみたいに揺すれ」
 一つ上の階で結び目に手を掛けている青髪の指示に従って、赤髪が乱暴に俺の体を向こう側に押し込んだ。振り子の要領で大きく空中と階段の上を俺の体が行き来する。
「分かった」
 頭が下を向いているせいで、血が上ってクラクラする。
「さーん、にー」
 どうにか最悪の事態は避けたい俺には、もうどちらのカウントダウンなのか興味も無い。
「いーち」
 俺にとっては運の悪いことに、その瞬間は空中に居た。何か透明なオーロラのようなものが世界を拭った。
「ゼロ」
 あんなに藻掻いてもほどけなかった結び目なのだから簡単には解けないだろうと最後の望みを掛けていたのだが、青髪は無造作にナイフで縄を絶ち切った。

 3回までは数えていた。
 1回目はあっという間に12メーターの高さを落ちて、その速さに覚悟を決める暇も無かった。
 2回目は、宣言されたとおり水上に殺されたはずのもう1人も揃って三人が大笑いしながら落ちていく俺を見ていた。
 3回目はすぐ横を抜けていく各階の踊り場を見ていた。
 どうにか踊り場に当たって、地面に激突するときの勢いを殺そうとしたのだが、どうやっても掠りすらしなかった。
 何回も何回も。
 ただ墜ちていく。

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俺に明日は来ない type1 第4章

2022.02/17 by こいちゃん

 ケータイに仕込んだ目覚ましのアラームが鳴った。
 手を伸ばして引き寄せて鳴り止ませようとしたら、充電用のクレードルをベッドの下に落とした。
 5月25日火曜日、午前7時30分。
 朝から妙にリアルで、しかも自分の死ぬ夢を見て少しばかり目覚めが悪かった。
 それはそれとして、二度寝しないうちに起き上がって頭をかく。避けられるなら遅刻は面倒くさいからしたくなかった。
 通学路のいつものコンビニでパンとおにぎりを買い、通学路を歩いていると後ろから、朝なのに陽気な声が追いかけてきた。
「おーっす樋口、相変わらず寝癖大爆発だな」
「うるせえ」
 声がでけえ、そして俺に掛けられた言葉も、お前は俺の母ちゃんか何かか。
「事実だろうがよ」
「ああその通り、だがモテだのカノジョだのに興味もない、ズボラな高2なんてこんなもんだろ」
 毎朝髪をとかすなんて、面倒すぎて俺には出来ない。
 朝は少しでも遅くまで寝ていたい。しかし慌ただしく登校の用意をするのも、遅刻して大人から何か言われるのももっと面倒くさい。
 ……この遣り取りをした記憶がある。
「どうした急に黙り込んで」
「ああいや、何か既視感があってさ」
「夢にでも出てきたか」
 遂に俺もお前の夢に登場するほどの有名人になったかー。
「ばっかじゃねえの」
 馬鹿なことをほざく高橋の発言を一言で切り捨てて、でもそう、こいつの言うとおりだった。既視感の正体は、夢で見たのだ。
「じゃあ俺は先に行くから。教室で待ってる」
 高橋はそう言い残すと、歩きの俺に合わせて緩めていた自転車を加速させるべく、ペダルを踏み込んた。
 後ろが見えないことを承知で、俺は気怠げに手を振った。
 このときは単なる偶然だと、不思議なことがあるもんだと、それくらいに思っていたのだ。

 放課後になり、文房具を買おうと繁華街まで行くことにした。シャープペンシルの芯がなくなってしまい、ルーズリーフの残り枚数も心許なかった。どうせ行くなら、まとめて用事を済ませたい。あれやってこれやって何を買おう。
 考え事をしながら駅で電車を待っていたときだった。
 ――間もなく電車が参ります。
 ――白線の内側までお下がりください。
 自動放送に呼ばれたように、向こうから電車が滑り込んでくる。
 その時だった。後ろから誰かに突き飛ばされた。朝の偶然が、いやそれ以外の何かもが、脳裏に走る。
 一瞬だが全身が硬直した。
 その一瞬が命取りだった。
 夢に見たとおり、俺は線路に落ち、そして電車にひかれた。

 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
 昨日の記憶が昨日と一昨昨日の分の二つに、昨日は忘れていた一昨日の記憶が一瞬ごちゃ混ぜになって叫びだしそうになる。
 時計を見ると6時を少し過ぎたところだった。
「やっぱりこうなるよな」
 俺しかいないはずの自分のアパートで、他人の声を聞いて今度こそ叫んだ。
 いや、叫びそうになって、寸前に首を絞められて声は出なかった。
「だから自分のねぐらは秘密にしとかないと危ないんだってば」
 耳の後ろから水上の声がする。
 口をふさぎなおされてから、首を絞める彼の腕が緩んだ。
 窒息した後で反射的に咳き込みたいのに手が邪魔だ。
「落ち着け? パニックになるのは俺にも心当たりがあるが。いいな、すぐにはしゃべるなよ」
 そしてそろそろと俺の口をふさぐ手もどいた。
「なんでここにお前がいるんだ」
 低めた声で尋ねた。大声を出さないようにとは言え、容赦なく首を絞めたことを非難すべきだったか。息が出来なくてむちゃくちゃ焦った。
「こうなるだろうと予想していたからさ。俺もそうだった」
 大抵の場合において、最初に生き返ったときはほぼ全く同じ行動を取り、全く同じように死ぬのだそうだ。そして1日ぶりにこちらの世界に来て、記憶がごちゃまぜになって混乱する。
「なんで先に言ってくれなかったんだよ!」
「大声を出すな! こっちの記憶をあっちには持って行けない。それに言ったところで、お前は信じたか?」
「……」
「信じねえだろ。だからだよ」
 百聞は一見にしかず、習うより慣れよ、だ。
 理由を言われて理解は出来たが、感情が納得できない。
「早く出かける支度をしろよ。学校へ行くぞ」

 早朝の通い慣れた道は、やはり人通りが無く、僅かな違いだけでまるで知らない道のようだった。
 イライラと煙草を吹かしながら歩く水上の2歩だけ後ろをついていく。
 そういえば、俺もまだ未成年なのに、躊躇無く煙草を吸ってしまっているなと思った。最初は心理的なハードルが高かったはずなのに、一度経験するとハードルが低くなる。
 ……死も同じなのだろうか。でも本当は、誰にでも死は一度しか訪れない物なのでは?
 歩きながらぐるぐる考える。黙ったままだからしゃべるのが気まずくて、手持ち無沙汰な俺も今朝2本目の煙草に火を点けた。
 ……やっぱり躊躇なんて無かった。
「灰皿、貸してくれよ」
 一口煙を吸い込んで、吐き出すと言った。
「気まずいなら無理に話しかけなくても、その辺にポイ捨てすりゃいいだろ」
 俺の気持ちを読んだかのように、こちらを見ないで水上は言ったが、それでも彼はポケットから出したコーヒーの空き缶をリレーのバトンのように差し出した。
 バトンだとしたら後ろから前へ受け渡しするから、向きが逆か。
「悪りいな」
 キャップを開けて1本目の吸い殻を入れて返す。
「なあ」
「なんだよ」
「水上も最初は、その……こうなったのか?」
 自分の失敗のようで具体的に口に出したくなかったから分かりづらい問いかけになってしまったが、生き返った初回で全く同じ生活を辿ったのか聞きたいという意図は伝わったらしい。
「もちろん、同じ時間に同じ事をやらかして、ここに来た」
「……そうか」
 しかし、究極的には「はい」か「いいえ」で答えられる質問だったせいか、はたまた彼も気まずかったのかもしれない。話題は弾まなかった。
 自分自身の死因なんて、もとより弾む話題でもないかと思い直したら、過去形で話題にしていること自体に、今更ながら強い違和感を持った。
「それで、どうして……まだここに居るんだ」
 今度は無理に、記述式の質問をした。
「昨日……いや一昨日か。こっちで他人に死因を、その理由も聞くなって言わなかったっけ」
「言ってた」
「なら何で不用意にそういうことを聞くんだ」
「いや……お前ならいいかなって。なんとなくだけど」
 彼の大きなため息が煙草のせいで可視化された。
「自分で事故を誘発させたって、答えを充分に受け止められるような覚悟を決めてからしてくれよ。話が続かないのを紛れさせるために載せられるような重さの話題じゃ無いんだぜ?」
 事故を誘発させた?
「それこそなんとなく、さ。色々鬱陶しくなっちゃって」
 茶化そうとしていることが確かな明るさの声だった。
「自分で誘発ってさ、それつまり」
「まあ自殺の一種だろ。高校やめてさ、とりあえずで工事現場で資材運びの見習いみたいなことをしていたんだ。だけどそこの元締めが嫌なやつでなー、それで安全帯をあえて着けずに高所作業してたの。死んでもいっかなって」
「なんだそれ」
 つい、歩みが止まる。
「自分で聞いといて怒るなよ。死にたくて死んだわけじゃないヤツはすぐにこっちの世界に来なくなる。生存バイアスって知ってるだろ」
 水上も俺より数歩だけ前で立ち止まって振り返った。
「生きている人は合致しない条件について、その条件自体を無視してしまう考え方のこと」
「その通り。俺を含めて、こっちの世界に自分から残っている連中だぜ? お前自身の価値観からすれば信じられないような、許せないような理由があるような人間ばっかりなんだよ。だから話題にするなって言ったんだ」
 煙を吐きながら水上は言い訳のように言葉を並べる。
「何があったか知らないけど、それだけで短絡的な……」
「人によって我慢できる『だけ』ってのがどれくらいかは違うんだよ。たったこれだけのことでって言うけど、その『たった』は人によって様々で、許容量が大きいから良いとか小さいとか悪いとか測れるものではない」
 言っていることは分かっても、納得したくなかった。
「あとな、お前はあっちへ帰る側だってことが、最初にあったときすぐに分かったんだ。こっちでお前が会った連中は、いちいち聞いて回ってなんかいないけど、全員が俺と同じように判断したと思うぞ」
 淡々としゃべる水上の目はどこも見ていないようだった。
「一昨日の夜に帰るとき、誰かに『またな』って言われたか」
「いや……さよならやおやすみだけだった」
 思い返してみると、別れの挨拶として『また』と言った人は居なかった。
「そうだろ。最初に生き返ったときは同じ生活をして、もう一度はこっちへ来るんだ。それをみんな知っているのに、再び会うことを願う挨拶をしなかっただろ。偶然だと思うか?」
 再び会うことを願う挨拶を交わした人が居なかった。
 願ってはいけない相手だと、分かっていたから……?
「頭の良いお前ならもう分かってそうだけどさ。多分、いま考えていることが正解だ」
 水上が言うほど俺は自分が頭の良い人間だとは思わないが、彼が明言しない行間は理解できた。
「えっ、じゃあ」
 自分以外は自殺者か、それに類する者か、元々は俺のように事故だったかもしれないが生き返ることを辞めた人たちなのか。
 中学の頃に仲良くしていて、久しぶりに再会して親切にしてくれた、今も目の前に居る水上も?
 肯定する発言をついさっき耳にした。
「話を戻すけど、だからこの手の話題は、特にお前みたいなあっちに帰りたいヤツは特に、タブーなんだ。お前が言うとおり、俺だったから良かったけどさ、下手に聞くなよ。お互いに良いことはない」
 数歩の距離がとても遠く感じた。
「樋口は怒らないんだな」
「……怒るなって言ったくせに」
 単に考えをまとめきれなくなった時の癖で、うっかり混ぜっ返した。
 いつもこうなのだ。肝心なところで言葉を間違えてしまう。このときも、本当は今ここで口にしたかったことは違う台詞だったはずなのに、反射でこぼれた冗談めかした一言が、話題を終わらせる。
 一瞬だけ、薄く水上は笑った。
「……行こうぜ」
「うん」
 ポケットから出した新しい煙草に火を点けて、水上が高校に向けて歩き始める。
「お前さ、吸い過ぎだよ」
「うるせえ、母ちゃんかよ」
 感情は俺の中でまだ荒い波を立てていた。
 もう終わった話題なんて気にしていないという演技で精一杯だったが、何故かそれ以上に自分の感情を隠すのに必死になっていた。
 今度は2日滞在か。

 この2日間は、記録に残しておこうと思うほど大したことは無かった。
 高校に暮らすみんなと畑作業をしたり(小さい頃から親の手伝いで土いじりをしていた俺にとってはむしろ慣れた作業で、農業は見よう見まねで本を読んだきりだった彼らには随分ありがたがられた)、あっちの世界ではまだ運転してはいけない大きさのトラックを運転してみたり(他に車がいないから、町中が教習コースだ)。
「俺、高校卒業したらトラックのドライバーになろうかな」
 2日目の夜、また俺のアパートに着いてきた水上に話したら、鼻で笑われた。
「でも向いてるかもな、俺より丁寧な運転だったし。樋口は昔から、社交性が高そうに見えて実は精神的引きこもりだもんな」
「精神的引きこもりって」
「そうだろ、人見知りはしないで誰とでも話すけど、あんまり他人と深く付き合おうとしない。運転中はずっと1人な仕事の方が楽なんじゃねえ?」
 表現は酷いが、確かに幼なじみだけあって俺のことをよく分かっている。
「その通りだけど、もうちょっと言い方ってものがあるだろ」
「今更かよ。高校でもどうせお前に彼女はいないんだろ。仲良くなって放課後や休みの日に、どこか遊びへ行く友達はいるのか?」
「……いないけど」
「ほら見ろ。高校生で一人暮らしなんてしていたら、彼女つくって連れ込み放題じゃねえか。普通ならとっかえひっかえしていちゃいちゃするのに都合が良くて、羨ましがられるんじゃねえ?」
「羨ましがられるけど。でも家事を全部自分でやらなきゃいけないんだぜ。面倒くせえ」
 良いなあと軽々しく言うクラスメイトたちを思い浮かべて、そんな良いものではないと何度も彼らに否定したことを思い浮かべる。
「……ろくに家事してなさそうだなあ」
 俺のアパートを見回し、洗ったまま積み上げられた冷凍食品のトレイや、洗濯したまま洗濯機の上に積み上げた服を見て、水上が笑う。
「じろじろ見るなよ、恥ずかしいだろ」
「何というか中途半端に几帳面だよな。汚い物は綺麗にするけどそれを片付けない。そういう所は昔から変わらねえ」
「言われてみれば、この部屋に家族以外で上げたの、お前が初めてなんだぜ」
「友達いねえんだ」
 誰か、知り合いと友達の違いを定義してくれ。貶されている気がするのに、肯定も否定もできないじゃないか。
「あっちで生きていくなら、俺以外ともちゃんと誰かと仲良くなれよ」
「頑張ります」
「実は偏屈で面倒くさい幼なじみを置いて逝くのは悪かったけど、俺は戻るつもりないから」
「……」
 自分が引き留められれば良かったのに。こいつみたいに仲良くなった誰かが急にいなくなるかもしれないと思うと、これまで以上に誰かと仲良くなるのが怖くなる。
「さて、寝ようぜ」
「うん」
 人の家だというのに、水上は我が物顔で予備の布団を引っ張り出して寝る準備をし出す。
 俺ものろのろと着替えて、床に就く。
「俺の代わりを見つけろってのは、割と本気で心配してるんだからな」
 心配するくらいならお前が戻ってこいよ。
 言いたかったが、声が泣いてしまいそうで、言えなかった。

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