「こんなにカレーばっかり買ってきて、何を考えてるのよ!」
学校に戻ると、こそこそ荷下ろしを始めた水上だったが、すぐにバレた。
静かな中でエンジン音を響かせて走る自動車で帰ってくれば、誰でも帰着したことが分かるだろう。
「カレーは正義だぜ」
さっきも聞いた一言で片付けようとする。
「そうだけどさ!」
そうなんだ。それは認めるのか。
「ならいいじゃねえか」
「ちっとも良くないわ!」
そう言いながらも、朝は見なかった俺たちよりは年上のようだがまだ若い女性は、荷下ろしを手伝う。
「ガキだってみんな喜ぶぜ」
確かに、カレーと聞きつけて何人かの子どもたちが教室のドアから顔を覗かせている。
「あんたがカレーを作ると、そのあと1週間くらいは調理実習室からカレー臭が抜けないのよ」
「何を、俺はお前より若いぞ。……俺、そんなに臭いかな」
荷物を抱えながら、自分の脇の下を嗅ぐ。
「気持ち悪いわね、脇の下をくんくんしちゃって。カレーの、スパイスの匂いが抜けないのよ」
「それは別に良いだろ、食いもんの香りだぜ?」
「だから、ちっとも良くないの! 作ってる料理を味見してても分からなくなるのよ」
どうやら水上はカレーしか作らないから気にならないようだ。
「でもほら、ココナツミルクとかさ、カレー以外の具材だって……」
「前回のは全部、グリーンカレーになったわよね」
「いやまああははは」
笑って誤魔化した。
「君も君よ、一緒について行って、何で止めないの?」
俺に話が回ってきた。
「ここではそういう物なのかと思って……」
「そんなわけないでしょ!」
やっぱりそうだったか。
「自己紹介もしないうちから叱り飛ばしちゃダメだろ」
「それすらさせてくれないような案件を持ち込んだ張本人が言うわけ、ふーん」
「はいごめんなさい俺が悪かったです」
「悪いと思うなら今度からこの半分くらいにしてほしいものね」
「前回の半分以下の量だと思うぜ?」
「2トントラックで行ってほぼ全部カレーかスパイスかその具材だった時のこと?」
軽トラの隣に駐まっている、黒猫の絵が描かれた宅配便の集配に使うこの車だよな。全部がカレーとはどういう状態だろう。
「まったく。……細野歩美、よろしく」
唐突に名乗られて面食らう。
「……樋口雅俊です」
「樋口くんね。元の世界のこいつを知ってるなら、こんど手綱の引き方を教えてね」
口止めもされていたし、明日にはもうここに居ません、もうここに来るつもりもありませんとは言えなかった。
「うす」
それだけ返事して、最後の荷物を手分けして抱え持つ。
「まあいいわ、持って来ちゃったんだもん。じゃあ水上は今夜の食事係って事で。樋口君はこの中を案内するわね」
階段を上がりながら、非難がましい目で水上は抗議した。
「俺だけで作れってのか」
踊り場から見下しながら仁王立ちの細野さんがバッサリ切る。
「だってあんた、あたし達が手を出そうとすると怒るじゃない」
「それはお前らが……!」
「ヨーローシークー!」
細野さんは最後のカレー缶の箱を川上に押しつけると、ぴしゃりと調理実習室の扉を閉める。
「まったくもう」
ため息を一つついて、気持ちを切り替えたようだ。
「ここの在校生だったんだって?」
「そうです。2年1組にいました」
「なら、君のロッカーや机はそのままかもね」
2人でホームルームに向かう。
机を撤去され、事務所で見るような四角いタイル状のカーペットが敷き詰められている。教室の隅には布団が畳んで積まれていた。
それでも、教室に貼られた2年1組の時間割や、放課後にいたずら書きされた黒板はそのままだった。誰が描いたのかすら分かるような気がする他愛ない相合い傘が、昨日のことのはずなのに懐かしい。
「これが俺のロッカーです」
進級して1ヶ月が経ち、扉のへこみや錆びで分かるようになった自分のロッカーを開けると、乱雑に、しかし表紙が折れない程度には教科書やノートが立てて並べてある。
端にあった英語のノートを手に取ってパラパラ捲れば、見慣れた流し字が5月25日という日付で終わっている。
「おっと学生さん、さては眠かったね?」
しんみりとした空気を振り払うように、後ろからのぞき込んだ細野さんは字がミミズになっている部分を指さした。
「昼飯を食い過ぎちゃって、しかも直後が体育で、昼下がりなんてみんな眠くなるでしょう」
俺もそれに合わせて茶化すような口調で応じる。
「分かるー。好きな子とかいたの?」
「いや、特には」
「えーつまんない。この高校は共学だよね。高校生でしょ、青春しなよ」
「気が向いたら?」
「そんなんじゃダメよ、卒業式なんてすぐなんだから」
そんな歳だったんですか、とか聞いてみたい。
「今、あたしの年がいくつかなって考えたでしょ」
これが噂に聞く、女の勘というヤツだろうか。
「滅相もない」
「ほんとにー? ならそういうことにしときましょ」
さ、次へ行こうか。促されてノートをロッカーに戻した。
とはいえ、勝手知ったる自分の学校だから、案内されるも何もない。
「ここには小学生や中学生から、私より少し上の大人までが住んでいるの。コミュニティの話は聞いた?」
「聞きました、よそには危ない人たちもいるって」
「そう、だから子どもたちを保護したり、おままごとレベルだけど、あたし達が教えるんだけど学校みたいなことをして小さい子に教育をしたりしながら生活しているわ」
「みんなで仲良くっていかなかったのは何故なんですか?」
「もちろん全部のコミュニティと敵対しているわけじゃ無いのよ。酪農を専門にしている人たちもいるわ。でもそう、無法地帯であることには変わりないじゃない?」
「はい」
「だからやっぱり、あっちじゃ犯罪だったことを楽しむだけの奴らもいるわけ。法律があるからやらないとか、そんな半端者たちばっかりだから余計ムカつく」
細川さんは心底忌々しいと吐き捨てた。
その表情に同族嫌悪が隠れているように見えたのは気のせいかもしれない。
「樋口くんは今回が初めてなんだよね」
「そうです」
「ああいう奴らみたいになっちゃダメだからね、お姉さんと約束だから」
お姉さんて。
「なんかちっちゃい子の相手ばかりしてるからかしら、今の保母さんみたいね」
まあおばさんじゃないか。
「おばさんとか思わなかった?」
「まさか。水上みたなのはいいんですか」
やっぱり女の勘に思考が読まれているようで怖い。慌てて話題を変えた。
「アイツもダメだけど、ああいうのはまだマシよ。開き直りかたっていうか……堂々としているっていうか?」
「確かに、変な度胸みたいなのはありますよね」
昔からドライというか、サバサバしているヤツだった。
「それそれ、肝心なときだけは頼れそうな感じがあるよね」
だからつい、いけないって分かっていることも頼っちゃうんだけど。
「え?」
小声のつぶやきはふとこぼれたという雰囲気だった。
「な、なんでもない。それより!」
細野さんはある教室の前に立つと扉をがらりと開けた。
「あたしの子供、かわいいでしょ」
高校の教室にベビーベッドが置いてあるだけですさまじい違和感を放つのに、さらにそこには乳児が寝ていた。
「赤ちゃんまで居るんだ……ここで産んだんですか?」
「……」
しまった、聞いてはいけないことだったか。
「かわいいですね」
「でしょー?」
取り繕うように言葉を重ねると、一瞬だけ固まった表情が動き出す。
お姉さんだった細野さんが急にお母さんとなった気がした。彼女が優しく抱き上げるとむずがゆそうに声を上げかけたその子は、ゆっくり揺すってやると再び寝つく。
「そろそろご飯だから、みんなの居るところへ戻ろうか」
「はい」
先ほどまでより少し抑えられた声で遣り取りをした後は、食堂になっている教室まで2人とも黙ったままだった。
なるほどこれは1週間くらいは匂いが残りそうだ。だが決して不愉快ではない、食欲をそそられる新鮮なカレーの香りが教室に充満している。
学校の机に置かれたカレーが盛り付けられた器からは、うっすら湯気が立っていた。
高校生用だから小中学生には少し高そうだったが、二つに分けて作られた机の島の片方には子どもたちが待ち遠しそうに座っている。
「遅えぞ」
作業着の上からエプロンをした水上が自分の机に着いて貧乏ゆすりをしている。
「ごめんごめん。みんな揃ってたんだ」
「もう、いただきますしていい?」
小学生くらいの男の子が涎を垂らさんばかりに聞いた。
「そうだね、じゃあみんな手を合わせてー」
「「いただきまーす」」
きゃいきゃいと温かい騒がしさに囲まれながら、子どもたちの島に空いていた机に細野さんが座ると、子どもたちとカレーを食べ始めた。
「おい樋口、俺たちはこっちだ」
朝、校門のバリケードで見かけた中学生くらいの男女と、30代中ごろくらいのおっさんが座っている島へ水上に引っ張られた。
「初めまして」
「水上くんから聞いたよ。ようこそ」
おっさんがにこやかに笑った。
「もう大丈夫ですか」
男子が聞いてくる。
「バカ思い出させちゃだめよ」
女子の方がたしなめる。
「ああうん、もう大丈夫。ありがとう」
「食わないのか、冷めるぞ」
挨拶の遣り取りをよそに、スプーンに山盛りすくったカレーを頬張る水上は、出来映えに納得したのかうんうんとうなずいている。
「そうだね、我々も食べるとしようか」
「いただきます」
「いただきまーす」
口に入れたときには様々なスパイスの香りが広がり、飲み込む頃には辛さを少し感じる。
「旨いな」
素直にそう言った。
「良いぜ良いぜ、もっと褒めろ。お代わりも沢山あるぜ」
少し褒めると調子に乗る奴だったことを思い出す。
「水上さんって、カレーを作る腕だけは良いですよね」
女子が呟く。「うん、美味しい」
「だけはってなんだよ、いつもだって色々やってるだろ」
「やりすぎて細野さんに怒られてますよね。こないだだって理科の授業だって言って、金属ナトリウムを水槽に投げ込んでたじゃないですか」
「あれは濾紙の残りがもう無かったからであってな……」
「ならやめればいいじゃないですか」
「うるせえやりたかったんだよ」
「やっぱりそうだったんですね……」
はあ、と中学生にそろってため息を疲れる同い年の姿に、相変わらずなんだなあと少し笑えた。
11時になった。
普段なら、教室に敷いた布団でみんなと川の字になって寝るらしい。
しかし今夜は、水上が俺のアパートまでついてきた。
「ついてきておいてアレなんだけど、あんまり自分のねぐらを他人に言うなよ」
歩き煙草で夜道を進みながら、彼は唐突に言った。
「何で?」
俺も吸い込んだ煙をゆっくり吐き出して聞いた。
「もし再びこっちに来ることになったら、お前はそこに現れるんだよ」
「……それが何か?」
「日付が変わる瞬間に何処で何をやっているかは、この世界ではお前が思っているより重要なんだ。互いに守りあえる安全な場所以外では、下手に日付を越えない方が良い。この場所を安全な場所にし続けたいなら、秘密にしておいた方がいいってことさ」
このときは、彼が何を言いたいのか分からなかった。
「なるほど」
でももう来ることはないだろうし、聞き流してしまった。
「さて、どの部屋だ」
「201号室、2階の角部屋に住んでる」
外階段を上がって玄関の前に立つ。
丸めて持ってきた制服のポケットに鍵が入ったままだった。
常夜灯にかざしながらごそごそして取り出し、錠に入れて回した。
「電気を点けるなよ」
俺は慌てて癖でスイッチに掛けていた手を離した。
荷物を置いて、風呂に入るのも面倒くさくてそのまま作業服を脱ぎ、スエットを履いた。電気を点けないままの暗さでは、どのみち入浴なんて出来ない。
遅くに自宅へ帰ってきたとき特有の眠気が襲ってくる。
「今日は色々あったから、疲れてるんだろ。俺は気にせず寝ちまえ」
あくびをしたのを察したらしい彼が言った。
「じゃあ遠慮無く」
布団に潜り込む。
「まああっちで生き返ったら覚えてないんだけどな。俺は楽しかったぜ」
「こちらこそ、久しぶりに会えて良かった。あっちにはいないんだな」
「そりゃそうさ。同窓会の時に訃報を知って驚け」
自分の死を笑えるなんて、俺の知らないこいつは何を経験したのだろう。
急に聞きたくなったが、睡魔に負けてしまった。
「大抵、2回目は来るんだけどな」
だから、彼のその一言は聞こえていたけど、意味を理解すること無く寝てしまった。
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