<無題> Type1 第8章原稿リスト
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第8章
1
私の日課はそれから、基地内の散策になった。あっちへふらふら、こっちへふらふらと歩き回る。もらったカードで入れない場所はわずかな例外を除いてないも同然だった。唯一の難点は、外へ出るためにある唯一のエレベーターが“わずかな例外”の一つだったこと。もうこの2ヶ月というもの、太陽も空も星も月も見ていない。
私には退屈を紛らわせる手段が散歩しかなかった。学校に通っていたころはあんなに待ち遠しかった暇のある休みが、いまとなっては苦痛でしかない。私はまだ10代だ、やることが無くて夜も早く寝ると、昼寝すら満足にできなくなる。学校に通っていたころはあんなに望んでいた暇な時間は、やること・出来ることが無ければまったく価値がないのだと痛感した。
しかし山本は今、山と積まれた仕事を一つずつこなしているのだろう。
なぜ、あんな悲惨な目に遭っておきながら今なおクラッキングを繰り返すのか、聞いたことがあった。その時彼はこともなげにこう言った。
僕にはもうこれしか残っていないからだ、と。
私はそれを否定したが、彼は笑って、もう何も言いかえさなかった。そんな彼のことだ、私のことなんて何も考えずキーボードと格闘しているのだ、きっと。
私がそれを寂しく思うという事を、今さら思い知った。
「彼に次、会えるのは何時だろう」
油断するとそんな独り言ばかり言っている気がする。
葉村はどうしているのだろうかと、毎日悶々としながら専用のベッドに縛り付けられたまま僕は課せられた仕事を手当たり次第に片付けていた。
奴らの監視をかいくぐってどうにか、葉村だけでも逃がしたい。そのための仕掛けを、自分が一人で立つ体力が残っているうちに実行できるようにしておかなければならない。
自分が帰れなかったときに必要な記録も用意しておいたほうがいいだろう。
そのためにはさらに仕事のペースを上げて、並行でやるべきことをこなすしかなかった。
2
そしてその日は何の前触れもなく訪れた。
停電だ。自前のバッテリーを持つノートPCのバックライトがまぶしい。
「きた、葉村、よし、やった」
システムに仕掛けておいたトロイの木馬が活動を開始したのだと信じて、僕は逃走の準備を始める。苦労してのっとっておいた拘束具の管理系に開放を命じると、はたして偽の主人のコマンドをあっさり受け付けた。この僕を縛るためのものが、コンピュータによって制御されている。敵は思ったよりマヌケなのかもしれない。ちなみに監視システムは今も、ダミーのデータをサーバーに送信し続けている。
1ヶ月あまりベッドに固定されていた足が急に全体重をかけられて悲鳴を上げた。一歩、進もうとして僕は派手に転んでしまった。
それでも僕は自分の着替えに手を伸ばす。
ストレッチしながら、立ちくらみをこらえながら作業着を着こむと、ベッドに引き返して愛用のノートPCを手に取った。
経過時間は約1分。停電から無線LANが回復しているのを確認し偽装アドレスで接続を試みる。
成功。
やはり、僕のトロイの木馬が動き出していた。マスターサーバーのメインシステムが攻撃を受けたことを認識し、自動的にサブシステムに切り替えようと停電を引き起こし、失敗したために回復までの時間を引き延ばした。
仕掛けは全て正常に、システムを正常でない状態にしていた。
これで基地全体を管理するシステムは僕の手の中にある。手始めに監視カメラ網に侵入した。
僕がいるこの狭い部屋の外に誰かいるのか、葉村は今どこにいるのか。
それを知るために。
3
今が夜の時間帯、一番動いている職員が少ない時間帯だったのはひとえに僕らの運がいいからだろう。葉村は食堂にいた。PCに表示される構内図と監視カメラの映像で人のいないルートを選び葉村との合流を図る。
「おい、葉村ななみ!」
「――山本っ!?」
暗闇のなか、僕が持つ懐中電灯に照らされた彼女は、まぶしそうに光を遮りながら振り返った。
「迎えに来た」
「確かカードキー、持たされていたよな。それ、貸してくれないか」
「パスのこと? うん、いいけど」
葉村からカードキーを受け取り、裏のバーコードに記載された数字をデータベースに侵入して照会、入室権限を最上位のマスターキーに設定する。
「よし、行くぞ」
厨房に入る。
「……狭いんだけど」
「文句言うな、連中の盲点を突いたほうがいいとは思わないか」
「というか、重すぎて壊れたりしない?」
「ちゃんと確認してある。余裕だ」
厨房の隅には荷物用のリフトが設置されていた。恐らく、この下にある各階層の詰所に直接料理を届けるため立ったのだろうが、実際には各階の詰所は使われていないので必要ないらしい。食べ物による汚れよりも埃による汚れのほうが目立っていた。
普通の店や学校なんかにおいてある機械より、一回りも二回りも大きいリフトに僕らは無理やり乗り込み、第8階層へ向かう。
「いいか、動かすぞ」
荷物用だから当然外にしかないスイッチを押し、素早く手を引っ込めると、扉が閉まるとがくんと揺れて下降を始めた。
「……真っ暗ね」
やがてまた揺れて停止し、ブザーの音と共に箱が開いた。
丸腰の僕らはやっとたどり着いた詰所に職員がすでにいたらゲームオーバーだったが、幸いにも運はまだ僕らの見方をしているらしい。部屋は真っ暗だった。赤外線監視カメラ映像でチェックした後、蛍光灯を点けて再度確認したが、詰所には誰もいなかった。
「これからどうするの?」
「まず、現在位置だが。今いるここは第8階層の職員詰所だ。見ての通り今では使われていない」
置かれていた事務机の天板に指を走らせると、埃の跡が残った。
「第8階層には何があったか覚えてるか?」
「……確か、倉庫じゃなかったっけ」
「正しくは武器庫と薬品庫、燃料プールだ。まず、敵に見つかった時に使える武器を手に入れる。時間があったら薬品庫と燃料プールの中身でこの階層を使えなくする」
敵も武器を持っていたらせっかくのアドバンテージが意味をなさなくなってしまう。
「戦う、の?」
「いざという時に備えるためだ、戦わないで済むに越したことはない」
「ノリノリに見えるけど」
「気のせいじゃないか? 僕の目的は葉村がここから逃げ出せるようにすることだ」
「わかった、じゃあさっそく動こ、時間ないんでしょ」
監視カメラの映像で、まだ誰も第8階層まで下りてきていないことを確認。
斜向かいにある武器庫をあらかじめ遠隔で開錠しておく。コンピュータシステムから遠隔ロックできるようになっているということは、もちろん逆もできるということでもある。
「行くよ」
足の遅い僕が詰所から第8階層に入ったことが分からないようにし、葉村には先に武器庫に入って待機してもらう。
「いいぞ」
廊下の横断、成功。無事武器庫に転がり込む。
「何を探すの?」
「とりあえず手軽に扱えそうな銃だ」
「私、銃なんて詳しくないよ」
「僕もだ。適当に、たくさんあるのを選べばいいんじゃないか?」
同じものばかりが何十丁もある様子を想像していたが、天井まで届く棚には無機質なラベルが貼られて、長いの細いの丸っこいの、様々な銃が並んでいた。
どれを選べばいいか見当もつかない。小さければきっと体力不足の僕や女子の葉村にでも扱えそうだと勝手に決めつける。
「こういうのって、素人が下手に使うと危ないんじゃないの?」
「持ってないよりはましだろ、きっと。……よし、次へ行くぞ」
「うん」
警戒しつつ向かったのは隣の薬品庫だ。
「なんか、思ってたより散らかってないね」
「ここは来たことなかったのか」
「面白くなさそうだったんだもん」
「……まあ、普通はそうだろうな」
「何を探してるの?」
「塩素系漂白剤とさらし粉だ」
「漂白剤? 分かった」
「いや、君は酸を探してくれ」
「さん? 薬品でさんっていうと塩酸とか硫酸とか?」
「そうだ」
やがて見つかった箱入りの漂白剤と、おそらく風呂の消毒に使うためだろう大量に保管されていた消毒薬。酸に、亜鉛や鉄など金属の粉末試薬を、葉村に頼んで入口の広いスペースに運んでもらう。
その間に僕は金属を集め、換気扇を止め、必要ない電灯を消しておく。
「何やるの?」
「化学の授業で習ったことだ。塩素と水素を混ぜると何が起きる?」
「え? ……塩酸だっけ」
「正確には塩化水素だが。その時に何が起きる?」
「……ゴメン、覚えてない」
「爆発する」
NaClO、つまり次亜塩素酸ナトリウムは“混ぜるな危険”と書かれた漂白剤に含まれる物質だが、強酸と混ぜると有毒な塩素ガスを発生させる。さらし粉とも呼ばれるプールの消毒などに使う消毒薬、Ca(ClO)2つまり次亜塩素酸カルシウムも同様に塩酸と反応して塩素を出す。
この塩素だけでも人が命を落とすには十分な毒性を持つ気体だが、更に金属まで持ってきてもらったのにはわけがある。強酸に金属を入れると発生する水素は、塩素と混ぜると光によって爆発的な反応を引き起こして塩化水素になる。この塩化水素を水に溶かしたものが塩酸、これも強力な酸だが、僕が意図したのはこの、光によって爆発的な反応を起こす、という点だ。
暗く密閉した部屋で塩素と水素を十分に発生させ、遠隔でその部屋の電灯を点ければ、簡単な遠隔制御の爆弾になるはずだ。はずだ、というのは、実際にやったことがないからだ。
「あっちに塩酸と消毒薬、そのあたりに硫酸と金属を撒いてくれ。僕は漂白剤と余った酸をやる。火傷するなよ」
「分かった」
最初こそ瓶のふたを開けてちまちま出していたが、途中から面倒になったらしい。葉村は豪快に瓶ごと投げ始めた。ガラスの砕ける音が心地いい。
「……火傷もだが、怪我もするなよ」
「へーきへーきっ」
ストレス発散ー、と叫びながらガラス瓶をたたきつけている。
そうこうしているうちに、あっという間に見つけてきた瓶をすべて壊して、もとい中身をすべてぶちまけてしまった。
「嫌な臭いだね」
薄い緑色の気体が発生しているのが分かる。
「早く出よう。反応しないうちに」
葉村を促し、薬品庫の扉を閉鎖する。
「次は?」
「燃料庫。ガソリンがあるはずだ」
「了解」
隣の燃料庫の前に立つ。
「時間がない、行くぞ」「うん」
発電機が使うギリギリの分を除いて、保管されていた石油が入っていそうな容器のことごとくを倒して回る。すぐに揮発した独特のにおいが充満してきた。
その時、ちらと見たパソコンの画面に、敵が階段を下りてくる様子が映った。
「まずい、そろそろ行くぞ。敵が下りてくる」
「これで最後、ねっ」
一抱えほどもある大きな缶を、手近な棒をてこに無理やり倒し、そしてやはり元の通り、隔壁を閉める。
「こっちだ」
来た方とは反対側にある非常階段室に潜るのと、敵が通路の反対に現れるのはほぼ同時だった。
「……見つかった!?」
ひそめた声で彼女が聞いてくる。
「いや、ぎりぎり見つかっていないようだ……と思いたい」
パソコンのディスプレイを見ながら答えた。あやふやな言い方をしたが、おそらく見つかっていないだろう。
ディスプレイのリアルタイム画像に映る敵は、注意深くわざと不自然な閉まり方をしている武器庫に注意を払っていた。
重い足に無理をさせながら、足音を立てないように、僕は階段を登り始めた。
4
第5階層。
階段室から出て通路のこちら側にある詰所で息をひそめていた。
「さっきの。どうやら見つかっていたらしい」
「……嘘」
「普段ならともかく、こんな時には吐かないさ。どうやら追いかけるまえに罠がないか調べようとしたらしい」
「罠って……頑張って硫酸まいたのに」
「いや、薬品庫は後回しになったみたいだな。やつら、武器庫の点検をしているようだ」
こわばっていた葉村の肩が少し、緩んだ。
「そっか……。何を盗まれていたかを調べれば、私たちがどんな武器を持ってるか分かる、ってことね」
「そうだ」
「それで、私たちはこれからどうするの?」
「逃げる」
当たり前だ。まだシステムは僕の手の中にある。
「薬品庫のトラップが成立するまで、あと僕の足が動けるようになったら、ここから出てエレベーターホールまで走る。そこから第1階層まで上がってエレベーターに乗り換えて、地上に出る」
「乗り換えるの?」
「地上に出るエレベーターは第1階層まで行くものしかない。どうしても乗り換えないと地上へは行けないんだ」
「そうなんだ」
初めて知った、という顔をする葉村。
「あちこち見て回ってたんじゃないのか?」
「入れないところに興味ないもん」
「……」
分からなくはないが。
「とりあえず行動方針はそれでいいか?」
「うん、いいよ。大丈夫、きっと2人で逃げられるよ」
にっこり笑った彼女はどこか、遠かった。
「それで、君は何をやってるの?」
パソコンにつないだ、カートリッジ式の光学ディスクを頻繁に入れ替えながら僕は答える。
「システムのバックアップ。うまく逃げられたって、土産の一つもないんじゃつまらないだろう」
「よかった、ちゃんと君も逃げるつもりなのね」
「……え?」
つい、まじまじと葉村を見返してしまう。
「だってね。君のこと見てると、山本は一人でここに残るつもりなんじゃないかな、ってそんな気がして、不安になるの」
黙り込む。肯定ととられるかもしれないが、それでも生半可な言葉が継げなかった。
「自分だけ一人残って、逃げる私を助けるために内側から組織を壊して」
微笑みながら、遠くを見るような目は笑っていなかった。
「私が一人で家族のいる、“本来私がいたはずの”場所に帰らされるんじゃないかってね」
いかにも僕が言いそうな、そしてするつもりだったことを言い当てられた。
「……こんなバカなことってないよね。ちゃんと二人で、帰れるよね……?」
時々鋭いことを言って困らせるのはいい加減やめてほしかった。
――もちろん知っている。それは単なる自分のわがままにすぎないということを。
彼女の言うとおりだ。自分はこの薄暗い研究所を、破壊しつくすつもりだった。
――彼女を無事に逃がすためと言い訳して、でもそんなものは個人的な復讐に過ぎない。
「私は、もう、とっくに、決めてるの」
「……何を?」
「一生、君の荷物になり続けることを、君に添い遂げることを」
――自分の価値はそんなに――
「だから君がここに残ると言ったら、私は無理やりにでもここに居座るわ」
――自分に誰かの何かを失わせる決断するほどの価値は――
「誰が何を言おうとも、君がどんな強引な手を使ってでも」
――やめてくれ、僕は、俺は、
「動けなくなっても君の隣にいる。だって私は君のことが」
――続きを言わないでくれ、お願いだから、引き返せなくなるから、その続きが向かう相手としての資格がないから……
「好きなの」
――俺は誰かに好かれていい理由がないのだから。
「やめてくれよ……っ」
柄にもなく、反射的に大声が出てしまった。落ち着けと頭の片隅にいる誰かが叫んでいる。
「俺には誰かの告白を受ける資格なんてないんだ、君なら分かってるんだろう!?」
だが俺は誰かの忠告を無視した。
人のことを考えず目的のためなら手段を選ばない。人を平気で撃ってなんとも思わない。人らしい感情を持ち合わせていない。そういうやつはすでに人じゃない。つまり、
「俺はすでに人じゃねぇんだよ!!」
がさつで、食べれられれば構わない程度の飯ばかり作って、1日中コンピュータとにらめっこしてさえいればそれで良くて、人のことなんて考えず目的のためなら手段を選ばなくて、
話すことはつまらなくて頭が良くてもそれを生かそうともしないで頑固で感情が無くて人の役に立たなくて会話が成立することがまれで花の名前もろくに知らなくて。
俺なんかに葉村みたいな“できた娘”が釣り合うわけがない。
何しろ彼女は料理が旨くて、自給自足ができて、掃除ができて、人を気遣えて、
可愛くてセンスが良くて話すと面白くてユーモアがあって笑うと左側にだけえくぼができて涙もろくて頭が良くて優しくてよく何もないところで転んでそんなドジなところも魅力的で猫舌でアイスを食べると頭が痛くなって醤油が好きで花粉症で朝顔が好きでちょっと気が強くて
愕然とした。
俺はどれだけ彼女の事を観察していたのか。
「……君、ねぇってば、山本くん!?」
思ったよりショックを受けていないのか。
「え、あ、う、その……どうした」
「怒鳴ったと思ったら今度は急に黙り込んで、なんなのよ!?」
「あれだ、うん……えっとすまん」
彼女は普段と違わないように見えるのに対して、俺は何故かどこか葉村を意識して普段通りの受け答えができない。
「……?」
訝しげに首をひねる彼女を見ていられなくて、気まずく顔をそむけた。
「で、どういう事よ。人じゃないって」
「それはその……、俺は。つまり他人のことなんて考えていなくてだな」
「知ってるわよ、そんなこと。考えてないように振舞ってるくせに、誰であっても巻き込まないようにずっと周りばっかり見てることくらい」
虚を突かれた。
「俺が? 周りを見ている?」
「そうじゃない。おばさまにも妹さんにも勝手をすること黙ってたのは、行き先を知っていると酷いことされるかもしれないからでしょ? 私がついていくって言った時だって必死に止めようとしたし」
「いや、それはただ単に、居場所が知れると面倒だったからであって」
というか周りの人間を信頼していないのだ。
だが彼女は違う意見だったらしい。一つ深いため息をついて、
「いい加減、自分をだますのやめたら?」
あきれたように言う。
もう絶句するしかない。
「前から思ってはいたのだが。人を疑ったことはあるか?」
「あたりまえじゃない。君を疑ってるから性にあわないこと言ってるんじゃない」
「……そういう意味ではないんだが」
彼女には勝てなさそうだ。思えば彼女に口で勝ったことが今まであっただろうか。
「でもそんなことどうでもいいわ。重要なのは」
どうでもいいらしい。確かに、今このシチュエーションにおいてこんな押し問答をしていても仕方がない。たった今、重要なのは、どうやってこの研究所から逃げ出すことだ。
「山本祐樹という名前の人間がたった今、前にしている女をどう思っているか、よ」
違ったらしい。
「そんなこと、ちっとも重要じゃないだろう。第一答えは簡単じゃないか、俺が葉村をどう思っているかだろ。つまり――」
……。
「つまりだな――」
…………俺は彼女をどう思っているのだろう。
「その――」
ふと葉村を見ると目が合った。あわてて顔を背けなおすと、視界の隅で彼女が真っ赤になってうつむいていた。
頭の中は大混乱に陥っていた。彼女をどう思っているか。それを表す言葉を僕は知らなかった。今の俺なら分かる気がするが、“答え”があっているか自信がなかった。
生半可な考えで“答え”ては失礼だろう。完全な“答え”が欲しい。彼女は命を懸けてついてくると言った。ふさわしい“答え”があるはずだし、間違いは許されない。
そんなとき、頭の片隅で逃げちゃえとささやかれた。
“答え”を待っているらしい彼女をまた盗み見て……続いて|思い出した《・・・・・》パソコンのディスプレイを見て、凍り付いた。のっとったままの監視カメラが送る映像に、すぐ下の階層を走る兵士の姿があったからだ。
「まずい……」
「え?」
「今、こんなことをやってる余裕がないことくらいわかるだろ!?」
自己嫌悪で八つ当たり、葉村を強く怒鳴りつけた自分がますます嫌いになった。
いらだったようにパソコンを操作する僕を見て、葉村はぽかんとした。すぐに羞恥と悔しさが混ざった表情が浮かんで、背を向けて膝を抱えてしまった。
馬鹿だ。
彼女はこんなどうしようもないやつに好意を向けてくれたというのに。どうしようもない奴はやはりどうしようもない最悪の“答え”しか返すことが出来なかった。
エンターキーを押し込んだ。1拍の後、階下から振動と爆発音が届く。
塩素と水素は、残っていたガソリンと未使用の弾薬を巻き込んで、想像以上の働きを見せてくれた。
自分よりはるかに役に立つ2つの気体に、俺は少しばかりの嫉妬を覚えた。
僕らは詰所を出て、エレベーターホールを目指し第3階層の廊下を縦断する。
5
足音を立てて走りながら、上がった息の合間に葉村へ話しかける。
「君が逃げるのに、僕はついていけそうもない。申し訳ないがあそこからは1人で逃げてくれ。いいかい、今後の計画を説明するから、よく聞いてほしい。あの突き当たりの……」
「――」
「……あ? 何か言った、よく聞き取れなかった」
「嘘つき」
前を向いて走りながらそう返すと、斜め後ろにいた葉村が僕のひじをつかんで立ち止まった。
「は?」
立ち止まらずをえなくなり葉村に向き直ると、彼女は僕を赤い眼で睨みつけていた。
「そんなの嘘だ。いろいろ考えて、ちゃんと実行できる計画を立てる山本祐樹は、そんなつまらないミスなんてしない。私一人で逃げるのは最初からそう決めてたんでしょ?」
その通りだ。
「ちょっと考えれば私にだってすぐ分かるの。私はここじゃ、天才だけど簡単には言う事を聞いてくれない面倒な|外注《君》を無理やり働かせる、そのためだけにいる無駄飯食いよ。当の本人にはこれっぽっちも、なんとも、思われてないのに。君が仕事を終えるまでって言われてるけど、どうせ次から次へと仕事が尽きることはないでしょう。するといつまでたってもうちに帰ることはできないし、君がここに居続けるという事は君を働かせつづけるために私だって何処へも行けずにこの研究所の中で年を取っていくんだわ。だから君は、はやいうちに私を外に逃がそうと考えてくれたんだ。そしてほとぼりが冷めるまではちゃんと言われたことをやって、そのあとはなるようになれとでも思ってる」
「分かってるなら言うことはない、さっさと逃げろ」
「嫌だ。理由はもうさっき言った」
「いい加減にしてくれよ。いつまでわがまま言ってるんだ」
俺がわがままなんだ。葉村は本当に、俺がお前の気持ちに気付いていないと思っているのか。
俺が何故こんなに“他人”の未来を気にしているのか、自分でその理由が分からずに行動している、わけがないだろうに。
「すまないが」
ある意味では、俺は喜ぶべきだった。こんなどうしようもない人間を好いてくれる相手に巡り合えた運。そして、それを相手に気付かせないでおこうと決め、その思惑が成功していたこと。
そして彼女は傷つき悲しむ。こんなどうしようのない人間を好いてしまったことを。相手も自分を好きだと気付けなかったことを。
俺は彼女が傷つくことを理解したうえでしらばっくれる。片思いだと思い込んでいたほうが、長い目で見れば彼女の傷が浅くすむはずだと思うから。
「君が何を言っているのか、僕にはさっぱり分からないよ」
だからこそ、僕は自分に嘘を吐く。彼女の指摘は間違っていない、僕は自分をだまし続け、だまされ続ける。
俺が“彼女”のことを好きだという事に。
決して、“彼女”に気付かれないように。
「……私は、君にとってさえ、価値がないの? 勝手に連れ出した責任感から本来いるべき安全な場所に帰す、それだけなの?」
「そうだ、それだけだ。お前に書ける労力にそれ以上の意味なんてない。だからさっさと、素直に言う事を聞いてここから去ってくれ」
葉村はしばらく僕をにらみつけたまま黙り込み、おもむろに
「分かった、なら自分の好きにするわ」
と言った。
「私はここからいなくなって、二度と戻ってこない。……その銃、貸してよ。女の子1人にするのに、武器がないなんて危ないじゃない?」
半秒ほど逡巡してもっともだと判断する。
「もう予備の弾、こっちのマガジンに入ってる分しかないからな。無駄遣いするなよ」
「大丈夫、私に必要なのは、たった1発だけだから」
葉村は笑いながら拳銃を受け取り、大きく3歩下がった。ごく自然に銃を上下さかさまに持つ。
「じゃあ、もう会うことはないでしょうけど。――またね」
そう言って彼女は自分のあごの下に銃口を構えた。
「……おい、待て」
こんな展開は流石に予想していなかった――。あわてて手を伸ばそうとしたが、鈍った体はついてこれずに足をもつれさせてその場に転んだ。
「やめろ」
呻き声しか出せない僕は今後の自然な成り行きを脳裏に思い描いて。
止められない自分を恨みながら、彼女を追い詰めた自分自身を憎みながら、せめて彼女の最後を見届けなければいけない――。
……火薬がはじける音がした。
想像より遠くで。
「っ」
凍り付いたような世界で、なくなったのは葉村の頭ではなく持っていた銃だった。
「……なんで」
手からもぎ取られた銃が少し先で地面に落ちた。
その反対側には、場違いなスーツで決めている男と、守るように立つ灰緑の作業着を着た4人の男がいた。
「中佐」
6
「お嬢さん。誰の許可を得てそんな勝手な真似をしようとしたんです? お渡ししたパスで入れる場所ならどこに行ってもいい、とは言いましたが、その隣で這いつくばっているモノと会談していいだなんて、ましてや死んでいいなんて、誰に言われたんですか?」
「誰かに許可をもらわなきゃいけないの?」
「当たり前じゃないですか、あなたは我々に養われているのです。給料を先に払っているのですから、あなたの仕事が終わるまできちんと働いてもらうのは当然のことでしょう?」
「……最初にそんなこと言わなかったじゃない」
葉村の言葉に答えず、中佐は話を逸らす。
「そもそもあなたたちは国の呼びかけに応えなかった犯罪者ですからねぇ。戦時中だという事を忘れてはいませんか」
逸らされたことに気付かないほど頭に血が上った彼女は、言う事がなくなて悔しそうに唇を噛んだ。
「我々が甘い顔をしているうちに、もといた場所に戻ることをお勧めします」
「それは我が家のことじゃなくて、私に割り当てられたあのせまっくるしい部屋のことよね」
「あなたの家は既にあの個室ですよ。相部屋にしなかっただけ親切だと思って欲しいものですが」
「お断りよ。私は彼と一緒に逃げるの」
「その彼はあなた一人だけを逃がすつもりのようですが」
「なら私は今すぐここから“逃げる”だけよ」
「わがままですねぇ。せっかくきれいな顔をしているのに、お嫁に行けませんよ」
「物理的に行けないじゃない」
「私の部下はだめですか。仲人を務めさせていただきますよ」
「断固拒否させていただくわ」
「そうですが、残念ですね。……失礼」
中佐は耳をおさえた。どうやらトランシーバのイヤホンを着けているらしい。
満足そうに数度うなずくと、一言二言何かマイクの向こうに言って僕らに向き直った。
「もしかして君、私がただ単に親切心からこんな無駄話をしていると思ってはいませんよね?」
「……どういう意味よ」
「この君との会話は単なる、時間稼ぎにすぎません。私の部下たちに脱走者2人を捕まえるための準備をしてもらっていたのです。それなのに上官が何も仕事をしていないのは申し訳ないじゃないですか」
「……」
「どうやら用意が出来たようです。猶予時間は過ぎました。命令違反を謝らないばかりか、私の大切な部下たちを殺したバカな子供たちに、慈悲を与えるほど優しくはないのでね。残念ですが、君たちの望み通り“逃げて”もらうことにします」
葉村が絶句した。
「君の相方のウイルスが壊してくれた我々のマスターサーバーをネットワークから切り離す準備が整ったそうです。あと5秒で切り替えます」
カウントダウン。
「3……2……1……、今」
通路の様子は何も変わらない。が、僕がまだ持っていた端末の画面に表示された、切り替えられた事を示すメッセージを覗き込んだ葉村が息をのんだ。
「そんな」
「事実ですみません。それにしても残念でしたね、|予備《スレイブ》サーバーへの切り替えにもう少し時間がかかると踏んでいたのでしょうけど。さすがに前科のあるものにシステムをいじらされるわけですから対応策はきちんととってあるのですよ。これで|主《マスター》システムはウイルスの解析用に保存され、ワクチンを適用しますから同じ手は使えません」
「随分優秀なオペレータたちだな。頭が下がるよ」
「そうでしょう? 君にはもう少しばかり働いてもらうつもりだったのですが、今回のことはさすがに許せません。不正プログラムを実行させないための対策は見事に破ったわけですから有能なことには違いありませんが、部下への示しも付きませんしね。せっかくのチャンスを不意にしたのはそちらですから悪くは思わないでください」
「誰が褒めたか。相変わらず詰めが甘いと言ってるんだ、ほら」
無造作にエンターキーを叩いた。
照明が一瞬、通路を白い光で焼いて消える。
「……なっ!?」
「葉村、行くぞ」
「えっ、うん」
直前まで、倒れ込んだ体の陰に隠れて目をつぶっていた僕はともかく、葉村も恐らく光で目をやられているだろう。バックライトで位置を特定されないように端末のディスプレイを閉じて、葉村の手を引いて前へ進む。
「こっちだ」
エレベーターホールの非常階段に飛び込んだ背後で、銃声が聞こえた。
閉じて内側から施錠した防火壁に、開くと破裂するようにクラッカーを仕掛ける。
小さく悲鳴を上げる葉村を前に押して階段を四つん這いで登らせた。
「まだ何も見えないか?」
「うん、……もうちょっと」
「分かった。そのまま2層分、この階段の一番上の第1階層まで登るんだ」
葉村の四つん這いと僕の立った全速力がほとんど等しい。
「着いた」
第1階層にたどり着いたところで階下から破裂音が聞こえた。
「そうだ、急げ」
階段室から転がり出てすかさず防火壁を施錠する。手近なコンセントから導線を引っ張って、触れたら感電するようにしたところでもう一度エンターキーを押した。
先ほど変圧器の設定を無理やり変えて落としたブレーカーが、自動修復処理をしてから通電を許可する。
「コンピュータ系インフラが他の施設の電気系統から独立してて助かった」
僕の仕掛けはごく簡単だ。メインサーバーに侵入するとき、電子戦をする時につかうダミーシステムをマスター・スレイブどちらも展開しておいた。それをここの職員は見事に本来修復すべきシステムと勘違いしたのだ。彼らはダミーのメインサーバーをネットワークから切り離し、ダミーのスレイブサーバーをメインとして再設定したのだ。本来侵入者に目的のシステムだと勘違いさせるためのダミーシステムは、その管理者さえもだましおおせた。
「だから実際にはまだ侵入されたままの、本物のメインサーバーが施設を管理してる。僕は思い通りに動かせるメインサーバーに一般電源系の変圧器の設定を変えさせて、3倍くらいの電圧を回路にかけたのさ。すると電灯は一斉に明るくなって故障する。ブレーカーは落ちて停電する。停電してるからむき出しの電線に触っても感電せずに済むけど、今ブレーカーを直したからね。切れた電灯は点かないで薄暗いままだけど、あの金属の防火扉は今頃触るとしびれるだろうね、エアコン用の200Vを流してるから」
葉村へ勝手に解説しながら、僕は端末を操作する。
「よし、地上行きエレベーターの凍結解除完了、これですぐに来る」
地上へつながる、今では唯一の生きているエレベーターに遠隔で電源を投入した。
「葉村、まだ動けるよな」
「うん、大丈夫。……やっと外に出られるってのに、実感わかないけど」
「研究所内はある程度、自由に動けたんだったか? ならここまでは来たことあるんだもんな。そりゃそうだよ」
「帰ったら何する?」
「気が早いな」
「そうかな」
「そうだ。まだ逃げ切れるか分からないのに」
「ずっと信じてたもん、助けに来てくれる、って」
「どっちかっていうと僕のほうが助けに来てもらいたい状況だったんだけどなぁ」
「だって自分で逃げれたじゃん」
「それもそうか」
不意に葉村が黙り込んだ。
「……どうした?」
「ね、本当に、君も一緒にここから出てくれるの?」
「ああ」
「じゃあ、さ。聞かせてよ、私への答え」
答えようとしたところで、ポーン、と軽い音を立ててエレベーターが僕らを迎え入れようとする。
不意にエレベーターホールが明るくなった。
「……乗ろうぜ」
「うん」
ちょっと不満そうだった。
「……あっち、暗くて何にも見えないじゃない?」
エレベーターに乗りながら、第1階層の通路の奥を指さして葉村がそう言った。
「でもここは非常灯が私たちを照らしてる。状況は全然違うのに、なんか映画のワンシーンにありそうだよね?」
「……写真でも撮るか」
「写真? どうやって?」
「あそこに監視カメラがついてるだろ、それで」
置き土産を仕込み終え一通りすべきことを終わらせた僕は、改めて施設の監視カメラ網に侵入した。
「ほら、もっと寄って」
「……こんな、かな」
照れたように、彼女は肩が触れるか触れないかくらいまでしか寄ってこない。
「……もっと、だ」
「え、きゃ」
じれったくなった僕は彼女を抱き寄せる。暖かかった。
「ほら、はいチーズ」
瞬時に真っ赤になった葉村を画面越しに見て、すかさずスクリーンショットを撮った。
カシャ
電子のシャッター音が、冷たい暗闇に反響する。
「――な、ゆ、え、……」
「ほら可愛い。もう一枚――」
恥ずかしくてぐにゃぐにゃになっている葉村の手を自分の方に回させて、もう一度。
より頬を染め、目を少しうるませた彼女が笑い方を忘れたようなぎこちない表情の男と写っていた。
「俺さ。感情、戻ったみたいなんだ」
「うん、知ってた」
「そうか。……“答え”があってるか分かんねぇんだけど、さ」
「うん」
「多分、俺もお前のことが、その……」
「うん」
恥ずかしい。続きが言えない。
「……」
「……」
くっそ、
「俺もお前がっ、好きになってたみたいなんだ」
「…………そっか」
彼女は呟くようにそう言った。
俺らはそのまましばらく動かずにいたが、やがて葉村は背伸びをして、俺の耳に息が届くほど近くまで顔を寄せた。
「ありがとう」
ゆっくりとエレベーターの扉が閉まる。地上へ動き始める。
上昇するエレベーターのケージの中で、俺らは――。
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