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序章
私の青春時代、それは。
気持ち悪かった。
苦しかった。
温かかった。
楽しかった。
忙しかった。
不安だった。
傷ついた。
悔しかった。
でも、ずっと一人じゃないと思ってたのに――。
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私の青春時代、それは。
気持ち悪かった。
苦しかった。
温かかった。
楽しかった。
忙しかった。
不安だった。
傷ついた。
悔しかった。
でも、ずっと一人じゃないと思ってたのに――。
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第4章
1
リハビリがてら、久々に本屋へ行こうと新宿まで足を延ばしたその帰り。乗った地下鉄副都心線は座席が半分ほど空いていた。やがて発車ベルが鳴り新宿三丁目を発車して、次の駅よりも手前のトンネルの中で、遠くでかすかに爆発音がした。読んでいた本から顔をあげると同時、電車が前触れなく停止し車内・トンネル内の灯りが一斉に消えた。
あたりが闇に包まれて、一瞬音もなくなった。
最初に聞こえた音は驚いた赤ん坊の泣き声で、暗い空間に反響し始める。
「……停電?」
それからそんな声がすぐ近くで聞こえた。
そのあとはもう、誰がなんて言っているのか分からない、ざわざわした声の集合がだんだん大きくなっていく。
僕はといえば、座席に座ったまま、目が暗闇になれるのを待っていた。しばらくそのまま動かずにいたが、蓄光塗料が塗られた消火器の位置を示すシール以外に携帯端末のバックライトという強力な光源が出てきたあたりで、足元に置いていたリュックサックのチャックを開ける。
自分の端末のバックライトで中身を確認しながら、山に行くときに入れて取り出すのを忘れていた応急装備のヘッドランプを取り出した。
旧式の超々高輝度LEDだったがトンネルを歩くのには十分役に立つだろう。
無造作に点灯しかけて、パニックになりかけたほかの乗客に奪われたくはないなと思い直した。僕は携帯端末のバックライトを頼りに電車の先頭車両へ歩き出す。非常用ドアコックを操作して車両の扉を開け、線路に飛び降りる。ここは単線シールド工法のトンネル、もし通電しても逆から電車がやってくることはない。
カーブで電車から見えなくなるまでバックライトの細い光を頼りにして、完全に見えなくなったところでヘッドランプを点けた。
暗いトンネルを半径5メートルしか照らせない灯りを頼りにてくてく歩いていった。電車内の動騒が届かなくなった静かな暗闇の中、どこからか重く低い衝撃が聞こえる。それはRPGのダンジョンの中のBGMみたいで、柄にもなく状況を楽しんでいる自分がいた。
不意にトンネルが広くなった。線路が分岐している。東新宿の駅にたどり着いたようだ。地上へ上がって何が起きたのか確認するか、それとも駅に設置されている非常用情報端末からインターネットにつないでから地上へ戻るか。ホームドアのせいで上に上がれないで線路を歩きながら考えていると、暗闇にも関わらずドタドタと階段を駆け下りてくる足音がした。嫌な予感がして、あわててヘッドランプを消す。
「暗闇なのに、光源なしで階段を駆け下りる……。駅に暗視装置なんて用意してあるか、普通?」
ホームの真下にある待避スペースの奥に隠れて気付かれないようにやり過ごすことにした。灯りをつけられないから手探りだ。何とかもぐりこんだところで、線路に何人かが飛び降りてくる気配を感じた。息を殺してよりまるまった。
首筋に水が垂れてくる。危うく叫ぶところだった。反射的に腰を上げ、頭を打って舌をかんでしまった。声が出ずに済んだからよしとするが、口の中まで痛すぎる。
「~~~~~~~~っ」
痛いのは刺された背中だけで足りているのに。
気配はあたりを探っていたようだったが、やがて僕が歩いてきた方向へ去っていった。
それでも120を数えてじっとしていたが、腰が痛くなってきたので線路へ戻ることにする。ホームの下にあった接続ボックスを探り当て、持っていたPCと接続した。
接続したことがばれないようにウイルスを流し込み、それからインターネットへつなぐ。内部ネットワークにしか入れないように設定されていたが、相互通信をするためのサーバーに侵入すると簡単に外部ネットワークへ回線が開いた。
自宅地下で稼働しているうちのサーバーから、システムを開発するためにもらった正規のアカウントを使って産業情報庁のサーバーにアクセス。一つ目のウィンドウがログを示す文字に埋め尽くされる。2つ目のウィンドウで軍事衛星が撮影した衛星画像を要求し、3つ目のウィンドウで警察・自衛隊・米軍の命令系統の記録をざっと検索する。
分かったのはとんでもないことが起こった、という事。東京が敵国に爆撃されたらしい。
深呼吸をしてからいつも通りの人間離れしているらしい速さでキーボードを叩いてリモートサーバーからログアウト。文字列がいつも通り律儀に|さよなら《Bye.》を伝える。
意識していつも通りを心掛けないと、葉村に話した、昔のような目に遭うような気がした。接続していたログを抹消し、何事もなかったかのように接続ボックスを閉じる。
端末と通信ケーブルをリュックにしまい込み、ヘッドランプを低輝度に切り替えて池袋方面のトンネルに駆け寄る。
地上は今も、爆撃の危険にさらされている。爆撃された時、安全性が高いのは防空壕として使えるように設計・補強された地下鉄のトンネルの中だ。僕はトンネルを行くことにした。
何時、さっきの気配たちが帰ってくるか分からない。後ろから狙われる可能性はできるだけ下げておきたい。だから、僕は暗いトンネルをしっかり確実に、走り出す。
僕の足音と共に、“日常”が何処かへ逃げ去っていくような気がした。
2
副都心線で要町駅まで、そこから有楽町線の線路に出て護国寺駅へ。
一時期はまっていたピッキングスキルを活用して、護国寺駅のポンプ室に侵入し、そこから雨水管に潜り込む。コケやらゴミやらネズミやらが支配する臭いトンネルを通って自宅の地下、簡易下水処理施設までたどり着いた。
ここも電気が来ていないようだ。壁の隅にある発電機を起動させる。軽い唸りが生まれ、これで地下施設は電気が使えるようになった。
天井の蛍光灯を点ける。
「かなり汚れたな……夏服だからうちでも洗えるか」
地上の惨状を見る限り、学校に通える状況なのかは疑問だが。
すっかり泥だらけのビショビショになってしまった制服を脱いで、処理室のロッカーに
置いてあるジャージに着替える。
10畳ほどの下水処理装置点検準備室。そこは僕の、もう一つの自室だった。
3台のワークステーション、1台のノートパソコン。20型のディスプレイが3枚、37型のテレビ。壁の2面を埋め、通販で買った可動式の本棚5つにぎっしり詰め込まれ、それでもおさまらずに床に積まれた本本本本……。
そして部屋の隅に地上へ上がる梯子。その終点、一番下に人がうずくまっている。僕は人影に駆け寄った。
「……母さん? ちょっと母さん、ねぇ」
「……うぅ、……あ、祐樹?」
「うん、そう。ただいま」
「ああ、お帰りなさい」
「梯子から落ちたのか、怪我はない?」
「大丈夫、平気平気、ちゃんと……っ」
立ち上がろうとして、足をかばってバランスを崩す。母さんは梯子の段にとっさにつかまったので転ぶことはなかったが、見ているこちらとしてはヒヤッとした。
「ちょっと足見せて」
「え、そんな、平気平気。30分も座ってればへっちゃらになるわ」
「……捻挫してちょっと腫れてる、全然大丈夫じゃない」
僕はパソコン机の引き出しから毛布を取り出して、本の間の狭い床に敷く。
「ほら、肩貸すから。床にいつまでも座ってると体に毒だよ」
「ありがとう」
母さんを毛布の上に連れて行って座らせ、応急セットを取り出した。
「ほら、湿布貼るから足出して」
「……すっかり頼もしくなったのねぇ、母さん、嬉しいわ」
「馬鹿なこと言ってないで。どれくらいの高さから落ちたの」
「そんな高くなかったんだけど。外でサイレン鳴り始めたから地下にいようと思って降りてきたんだけど。あと何段、ってところで停電しちゃって油断して、つるっと、ね」
「サイレン、って空襲警報?」
「多分ね。私も初めて聞いたもの。テレビでは聞いたことあったけど」
「そうか。……話を戻すけど。いつまでも若いわけないんだから、もうちょっと年相応の気はまわして欲しいな」
「まっ、失礼な」
「40台になったんだから、もうおばさんって言われても仕方ない年なんだよ」
「老けて見えても心は若いの、息子にそんなこと言われるなんて、心外だわ」
「心配してもらえているだけ良いと思って」
「あなたはまだ未成年です。親に心配をかけられる立場なんだから。せめてそういうのは成人してからになさい」
周りの空気が和やかなものに変わっていく、そんな気がした。
顔をあげると、母さんと目が合った。するっと気が抜けて、知らず知らずのうちに張っていた緊張が取れていく。
「ん、出来た。あんまり激しい動きしないように」
「言われなくても、湿布貼ってる間はしませんー」
せっかく息子に張ってもらったんですもの。
子供みたいに顔全体で笑いながらそんなことを言う。
「でも、ありがとう」
何故か、急に気恥ずかしくなった。
1リットルの電子ケトルに水――もちろん水道水のほうだ――を満タン入れてスイッチを入れる。
同時に全ディスプレイをスリープモードから復帰させ、全部マスター|WS《ワークステーション》につなぐ。いつも持ち歩いているほうのパソコンも起動し、無線LANに接続。
WS上で並行演算システムを起動。普通のパソコンよりも高性能なWSを3台並行動作させることで、5年位前の最高速スーパーコンピュータ並みの処理をすることができるようになる。
普段は使っているがこれからの処理に必要ない|デーモン《常駐プログラム》をまとめて停止させる。
ここで湯が沸けた。ポットにティーバッグを3つ入れて湯を注ぐ。とりあえずパソコンデスクにおいて、床の本を本棚の前により高く積みなおし、場所を作ってから折り畳みちゃぶ台を出した。マグカップ2つと砂糖を取り出し、ポットと一緒にちゃぶ台に置いた。
「これ飲んで温まったほうがいいよ、冷たい床に倒れてたんだし」
「あら、忙しそうなのに、ごめんね」
「別に、忙しいわけじゃないし……」
僕はスプーン1杯の砂糖を入れた自分のカップに紅茶を注いで、WSの前にもう一度向き合う。
クラッキング準備作業の仕上げに、最後片方が処理過多でダウンした時の予備用、クラッキング相手のシステムオペレーターから逆探知された時の攪乱用に、インターネット回線を地下室用のものと地上の山本家全体のものと2重に接続する。リンク確率確認のために回線速度と接続情報を取得、ついでにダミー拡散用の偽造データを作成。
深呼吸を一つ。
準備作業半自動化プログラムが進行度を表す棒グラフを100%にするのを待つ間、肩を回しておく。
今日のクラッキングの目的は、先の爆撃の情報を得ること。目標を今一度明確に設定する。
棒グラフが伸び切った。
Enterを押下、クラッキングツールを作業準備状態から侵入状態に切り替える。
3つのディスプレイに、効率的に作業を進める事に適した画面配置を行う。
メイン画面で補助AIを起動。自己診断ログが一瞬にして一つの小画面を埋め尽くし、|コマンド《命令》を待つカーソルが出て止まった。
侵入対象に敵国の防衛庁、味方国の国防軍、自国の首相官邸、民間の衛星管理企業を指定する。
AIはコマンドを受領し、指定された相手サーバープログラムのバージョンを検出、最適な方法で侵入を開始した。かなり強固なプロテクトも、3台のWSが全力稼働して暗号鍵をしらみつぶしに逆算。
不正侵入で汚れたログも管理者権限を奪い取ったことで不都合な箇所を全部削除。怪しまれないように関係ないログは消さないように教えたが、きちんと学習しているようだ。続いてAIはバックアッププログラムをまず殺し、敵オペレーターが対処を始める前に他の管理用アカウントをバイパス、本物らしき応答をするボットにシステム操作系を置き換えた。
AIの働きをサイドウィンドウでざっと確認しながら、僕は産業情報庁の|メインフレーム《中枢》に管理用ユーザーでログイン、最上位オペレータ権限を持つアカウントをバックドアとして作成し、再度入りなおす。
目的のデータがどこにあるか分からないため、それらしきファイルは中身をロクに確認せず、片っ端からダウンロードしていく。ファイル数が多く、結構時間がかかりそうだった。
AIによる侵入が終わったサーバーから同じようにデータをダウンロード。どれが目的に合ったファイルか、大量に保存されている文書から自動的に選び出してダウンロードできるほど、僕のAIはまだ賢くない。
毎回の僕の作業を見習いながら少しずつ経験を増やし、いろいろなことができるようになる自動学習ルーチンを入れてある。そう、あと50回ほど同じような経験を積めば、ファイルの選択・取得も任せることが出来るだろうと踏んでいる。
また捕まるのは御免だ。安心して任せられるところだけをAIに任せ、不正侵入時間を減らす。侵入時間が減ればそれだけ、逆探知される可能性が低くなるからだ。
ダウンロードが終わったサーバーから順に回線を切断する。AIによる後始末の確認を済ませる。
手に入れたファイルは膨大な数だ。WSで関連のありそうなキーワードの全文検索をかけ、その間に検索できない画像や動画を荒くチェックしていく。侵入・ファイル取得にかかった時間よりも、成果物の確認のほうが圧倒的に疲れるし、時間がかかる。
単純に腕試しなら確認なんてあっという間だが、今回の目的は情報収集。いわゆるスパイ組織ならそれだけで一つや二つ、専門の部署があるのに、僕の場合は全部一人でこなさなければならない。これは結構な労力を必要とする。
1時間ほど、母さんは散乱している文庫本を読み漁り、僕は得たデータを確認して現状確認をしていた。
どうやらここ数年ずっと争い続けている大陸の敵国からの爆撃によって、東京は副都心と言われる池袋~新宿~渋谷あたりと、交通の中心である上野~東京~日本橋、政府のある霞ヶ関が被害に遭ったらしい。うちの近くは奇跡的に被害が少なかったようだ。ついさっき撮影された衛星写真を見る限り、ぽつんと島のように建物が残っている。
真っ先に妹の学校をチェックした。幸い、建物自体は全部残っていた。学校にいてくれれば、きっと助かっているはずだ。半面、僕が通う学校は体育館に直撃を受けていた。この分だとほかの校舎もガラスが飛び散って授業にならない。きっと数日は休校になるだろう。
しかしそうすると、地下鉄のトンネルで遭遇したあの怪しげな気配は何だったのだろう。警察とか駅員とか、乗客の救助に来た人だったのだろうか。僕もあいつも、直感でその可能性は小さいと思っている。
そしてもうひとつ、若干不確実な重要な情報を見つけた。信ぴょう性を考えながら目頭を揉んでいると、梯子の上の方から物音がした。
ガコッ、とふたを開ける音がする。下りてきたのは妹だけではなかった。妹に連れられ、葉村も一緒だった。
3
普段は無人か、僕一人しかいない地下室。そこに4人の人間が集まっている。
かなり消耗している風だった葉村を母さんの隣に寝かせ、看病を任せる。その間、僕ら兄妹は更に床面積を広げるため、地上に戻って持ってきた段ボールに本を詰めていた。
「いつの間にこんな本が増えたの? いくら片付けても減らないんだけど」
「なんか気が付くと増えてるんだよね。上に仕舞いきれなくなったものから地下に持ってきて積み上げてそのまんまで」
「お金持ってるのは知ってるけど、しまう場所考えて買いなさいよね」
「ごめん」
僕と居るからか、ずっとイライラし通しの妹。後ろから母さんのため息が聞こえた。
そうして床の半分が見えるようになった時、地下に下りてきてすぐ気を失ってしまった葉村が目を覚ました。
「お、起きたか」
「……え? ここ、どこ……、あ、山本……君のお母さん!」
「おはよう。気分はいかが?」
「ごめんなさい、私、どのくらい……」
「30分くらいかな」
「ここは山本家の地下室。覚えてない? あたしとハシゴ降りたこと」
「……思い出した。ありがとう、私、あの時どうすればいいか分からなくなっちゃって、どこもいぐあでなぐっで」
葉村が泣き始め、よく聞き取れなくなってしまった。
「「「…………」」」
僕ら家族は黙って顔を見合わせた。視線で思い切り泣かせてやることにしよう、と結論が出た。
妹は地上に戻り、お茶うけになる菓子を取りに。僕は紅茶を淹れなおし。母さんは葉村の背中をさすってやっていた。
しばらくして、葉村が泣き止んだ。相変わらず感情の動きというものがよく分からないが、本人曰く「思いっきり泣いてすっきりした」そうだ。
詳しく話を聞いたところによると、葉村は今時珍しいことに、田舎から親元を離れ、東京に出てきて一人暮らしをしていたという。しかし、葉村のアパートは爆撃で焼失した地域にあった。帰る家がなくなって途方に暮れた彼女は、訪ねたことのある僕のうちにやってきて、しかしインターホンに誰も出ないので――地下室にインターホンの受話器はない――玄関口に座り込んで誰か帰ってくるのを待っていた。そこに妹が帰ってきて家に入れ、地下室に案内したのだ。
僕は、入院しているときに早くうちに帰って料理をしなければならない、と言っていたことを思い出した。どういう事か聞いてみると、葉村のアパートには週に1日2日、お母様がいらっしゃるそうだ。今日は来ない日で、それだけが唯一の救いだと言える。
そこまで聞いて、母さんが僕に、電話をさせてあげるように言った。
「ご両親が心配されているかもしれない。私はずっとここにいたから見たわけじゃないけど、たぶんテレビで速報をやったんじゃないかしら」
「そうだよ、兄さん。電話線が切れてても、兄さんなら電話くらい掛けられるんでしょ?」
例え電話線や通常の光ファイバーケーブルが切れても、地下室のインターネット回線は下水道管を通っているからそう簡単に使えなくなることはない。
「掛けられるけど。たかが電話、そんな大事なことか?」
「大事なことなの。だから兄さんは……」
妹の説教が始まる前に遮る。
「あー分かった分かった、電話ね。葉山、実家の番号教えて」
「……いいの?」
「別に減るもんじゃないし、構わない」
遠慮する葉村から電話番号を聞き出す。パソコンにインカムの端子を差し込み、IP電話ソフトを立ち上げる。
無線LANが地下室のネット経由でインターネットに接続されていることを確認してから、葉村にパソコンごと手渡す。
「電池は1時間くらいなら持つほど充電されてる。家族との電話だ、積もる話があるだろ。気兼ねなく長電話してこい。聞かれたくないのならそこの、鉄扉の向こうですればいい」
「多分冷えるだろうから、この毛布、持ってお行きなさい」
「ありがとうございます。では、ちょっと失礼します」
「ゆっくり電話してきなよ、今度いつ話せるか分からないんだから」
「うん、そうする」
葉村はパソコンとインカムを抱え、さっき僕が入ってきた鉄扉を開けて準備室を出ていった。
しかしすぐに戻ってくる。
「どうした」
「……ねぇ、どうすれば電話を掛けられるの?」
ソフトの使い方が分からなかったらしい。コンピューター音痴め。
就職できないぞ。
そうつぶやいたら、聞きつけた妹に後ろから頭を蹴飛ばされた。
4
葉村が電話している間。山本家の3人はこれからの方針を相談することになった。
「まず、これからも爆撃は続く、と思っていて間違いはないのね?」
「残念なことだが、その通りみたいだ。敵国の奴ら、人海戦術で来るつもりだ」
「どういうこと?」
「国民が養えないほど多いことを逆手に取って、爆撃機を100・1000機の規模で差し向けてきた。1発の能力の大きいミサイルを少数撃ってくるのならこちらの自動迎撃ミサイルで間に合うが、1発の規模が小さくてもそれが多数来るとこちらの迎撃が間に合わない」
「だからあんなにたくさん、爆弾が落ちてきたんだ」
「あれでも一応、迎撃はしたらしいんだがな。焼夷弾1発で焼き払える面積はそれほど大きくない。だからうちの周りみたいに、ぽっかりと被害をほとんど受けない地域ができる。そこはつまり、迎撃が成功した爆撃機の担当範囲だった場所だな」
「なるほど。じゃあ、今回無事だったからと言って次回も切り抜けられる保証はないのね?」
「むしろ次回は、無事な所を狙ってくるだろうね」
「私たちは、焼かれると困るものから、このシェルターになるだけの強度がある地下室に疎開させることが最優先になるのかしら」
「そうね、あたしもなくしたくないもの、いっぱいあるし」
「ではこうしよう。一人がそれぞれの避難させたいものを僕の部屋に持ってくる。一人が地下に、一人が梯子の出口である僕の部屋にいて、持ってきた荷物を地下室に運び込む。交代で役割を替われば効率が上がるだろう」
「うん、兄さんに賛成。お母さんもそれでいい?」
「いい案だと思うわ。誰から上に戻るの?」
「最後でいい」
「じゃあ、あたしがトップバッターになっていい?」
「分かったわ。じゃ、私も一緒に上へ行くわ。まず私が梯子の上で荷降ろしをしましょう」
「母さん、足はもう平気なのか?」
「え、どうしたの」
「さっき慌てちゃって、ハシゴから落ちちゃったの。その時にくじいたんだけど、うん、もう大丈夫」
「ならいい」
鉄扉が開き、葉村が帰ってきた。また目が少し赤くなっている。
「あ、山本のお母さん、私の母が少し話したいって」
「あら、そうなの。……はい、今代わりました。娘さんの同級生の山本祐樹の母でございます。いつもお世話になっております――」
母さんがパソコンを持って、喋りながら鉄扉の外へ出て行った。
「……じゃあ、兄さんにはまず、ここの本をどうにかしてもらおうかな。これじゃ、ものを持ってきても置けないから」
「棚も上から持ち込んでくれないか。あまりダンボールに本を詰めたくない」
「いいわ、分かった」
「なに、何の話?」
電話していた葉村にざっとかいつまんで説明する。
「そういう事。なら、私も下で整理の手伝いをさせてもらおうかしら」
「ダメよ、ななみさんはうちのお客様なんだから。働かせちゃ悪い」
「うぅん、これから短くない間、ここに住むことになると思うの。だから私はお客様じゃない。私もやることはやらなくちゃ」
「本当にいいの?」
「ええ、気にしないで。お姉ちゃんができたとでも思ってくれない? 実は私、可愛い妹ができた気分なの」
「分かった。よろしくね、ななみお姉ちゃん」
「こちらこそ、よろしく」
女の子同士で、何やら話がまとまったらしい。初めて会った時のあの険悪ぶりは何だったのだろうと思ったが、口に出さないでおいた。可愛いどころか凶暴な妹に、更に嫌われたうえ再び蹴られてはたまらない。
発電した電気を荷降ろし用の簡易エレベーター用の200Vに流し込む。急に負荷が大きくなり、地下室の蛍光灯が瞬いた。
鉄扉の向こうから葉村の叫び声が聞こえる。
「ちょっと、私、暗いの苦手なんだからけど!?」
既にいつもの元気を取り戻しているようだ。
「モーター、動いたわよー」
反響して聞きづらくなった母さんの声が梯子の上端から聞こえた。
「この梯子通路、四辺1.5メートルしかないから、あんまり大きなもの降ろして詰まらせるなよ」
そう上に怒鳴り返す。
降ろす荷物をまとめる間、下は暇だ。モーターが動き始める時にはまた蛍光灯がちらつくだろう。それまでの間、僕は先に本を移動させ始めている葉村を手伝うことにした。
僕の本は下水処理装置の操作室に詰め込まれることになった。既に地下室に置いてある本を片っ端から操作室に運び込む。
ここもここで、防水処理がきっちりかかっている場所だ。湿って本が台無しになることはなさそうだった。
葉村は余りの多さに辟易していたみたいだが、僕としては懐かしい本ばかりだ。つい手を伸ばしては葉村に呆れられる。
「にしても、本当に古い本ばっかりだね。それも小説ばっかり、マンガも専門書もない」
「もともとあまり、漫画というものを読まないからな。専門書はたまに使うかも知れないと思って全部上に置いてある。滅多に解説書が必要になることはないけどな」
「専門書って、もしかして。コンピュータ系の技術書と解説書しかないの?」
「その通りだが」
「……。頭痛くなりそう」
「薬がいるのか?」
「そうね、欲しくなってきたかも。あなたを働かせるためのヤツを」
「そうか」
「と言いながら別の本を読み始めない!」
「そうは言うけどな、これ、なかなかいい本なんだぞ。1990年代に書かれた本でな――」
「あーはいはい、それはあとで聞くから、次の運ぼ」
「次って、この本簡単に取り出せなくなるんだぞ……」
「ぶつぶつ言わない」
葉村が手厳しい。
「あ、小包届いてるじゃない。早くほどいてよ、本は私がやっとくから」
「傷つけるなよ、折るなよ、落とすなよ」
「言われなくたって人の本なんだから、雑に扱いませんー」
軽く頬を膨らませて葉村が出て行く。後姿を横目に見ながら地上からの小包からカラビナを外し、上から垂れるロープを軽く引っ張る。先端に結び付けられたカラビナが、梯子の横をするすると上がっていった。
地下に届いたのは鍋2つとおたま、しゃもじ、泡立て器といった調理道具だった。4セットは行ったフォークとスプーン、ナイフ、箸がジャラジャラと鍋底で音を立てた。とりあえず部屋の中央に置いておく。
いつの間にか妹の物は全部おろし終わったらしい。中央に置かれた枕やぬいぐるみ、目覚まし時計やその他こまごました雑貨やアクセサリー。意外と少なかった。
そんなことを思っていると次の小包が届いた。今度は結構重い、液体が入っているようだ。調味料を箱詰めか?
荷物を縛っていた細いひもをほどき、カラビナに括り付けてロープを引っ張る。するする上がっていく。
荷物はあとどれくらいあるのだろう。僕は上にある本だけだが。1000冊もなかったはずだ。ここに下ろしてある冊数と比べれば、たいしたことのない量だ。
5
それから2~3週間。たまに上から爆撃の振動が伝わってくる以外、地下は平和なものだった。
非日常に慣れ、それが日常になるためにはもう少し時間が必要な頃だった。
1日1回の郵便物確認。その日の確認当番は僕だったので、3日ぶりに地上へ戻って郵便受けを覗いていた。
新聞が来なくなって久しい郵便受けに、珍しく投函されていたのは1枚の薄赤色の葉書。
切手の部分が丸い、料金後納郵便の印になっていた。宛名面中央には僕の名前、右には住所。左下には何も書かれていない。裏返して通信面を見た。
想像した通りの内容だった。
憲法特別臨時改正のお知らせ。
戦時特別法の成立。
国民特別徴兵義務について。
ほかにも。醜いほど細かい活字が並ぶ、やたら“特別”の多い文面。簡素で質素に、それは僕が徴兵に応じる義務を説き、出頭するよう命じていた。
あくまで冷静に、僕はその葉書を曲げないように来ていたシャツの下に仕舞う。
地下の3人に怪しまれないような時間で帰らなければならない。短時間でこれからの行動を考える必要があった。
目をつぶり、僕はあいつと、僕ら自身の行動指針を決定する。決定した。
一人で、山の中に逃げる。
国の内部事情を現在進行形で知りすぎている僕の運命は2つに1つ。
すなわち、産業情報庁諜報部でシステム開発と敵国中枢への|情報戦担当《不正侵入者》になるか、もしくは全線の一番死にやすい部署に送られるか。
可能性としては前者のほうが高い。しかし、後者の可能性も少なからず、だ。だとしたら、生き残る可能性が高い案を新しく作るしかない。
山の中に、僕は隠れよう。そこで一人で生活し、終戦後に世界に、人の前に帰ってこよう。
うちの母屋は全壊してしまったが、屋根に取り付けられていた太陽光発電パネルは爆撃前に回収してある。軽トラをどこかで拾って、その荷台に載せて置けば山の中であっても電気は、パソコンは使える。
ただ、できればそんなことはしたくない。見つかった場合のリスクが大きすぎるからだ。逃走決行前に、産業情報庁のサーバーに侵入、情報戦担当者に立候補しておこう。
……さあ、もう戻らないと怪しまれる。言い訳になるような要素は、既に焼け野原の仲間入りをしたうちの近くにはない。詳しい“作戦”の立案は、地下室でも十分、間に合う。
家族や葉村が寝ている早朝なら、立案に気兼ねは要らない。
出頭命令は1週間後。それだけ時間があれば十分に脱出計画を練れるし、産業情報庁からの返信を待つ時間として適切だろう。
だとしたら今、気をつけなければいけないのは。
梯子から落ちて怪我をしないことだ。
<無題> Type1 第4章原稿リスト
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Tags: 小説, 無題, 無題Type1第4章
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第3章
1
そのあと、彼らは僕に“取り調べ”をした。……もちろん言葉通りじゃない。公式にはあの事件は、犯人は見つかっていない、いわゆる“迷宮入りした事件”だ。捕まってもいない犯人は、取り調べすることはできない。
それに、体の傷あとは彼らにつけられたものなんだけど、普通の取り調べじゃ説明できないもんね?
僕の罪状は2つ。リモートコンピュータへの不正アクセスと、データの改ざんだ。それだけ聞くと当時からよくある、ちょっとコンピュータに強い人がやるいたずら、日常茶飯なありふれた犯罪だけど、しかし、どちらも規模がそれまでの物とは桁外れに大きかった。社会の授業で“中学になってから”習った現代史があっただろ? たった数年で授業に取り扱われるような規模だ、といえば納得してもらえると思う。
リモートサーバーへ不法侵入され、データを奪われ、犯人の決定的な手がかりをつかむ前に一度取り逃がして、挙句に自分たちのサーバーだけでなくインターネット全体を約2週間にわたって使用不能にされた。そんな事態が起こらないように、未然に防ぐために設置された産業情報庁だったのにも関わらず、犯人への対処を間違えて被害を隠せない自分たちの|テリトリー《サーバー》の外にまで広げてしまった。
諸外国だけでなく隣の省庁に、自分たちの不手際だとばれたら、どんな因縁を付けられるか分かったもんじゃない。だから彼らは、公式には犯人は分からなかったことにして、犯人を示す証拠を片っ端から削除してまわった。
それでも、せっかく少しずつ気づきあげつつあった政府内部の立場や影響力といったものは軒並み急降下した。
普通だったら犯人に重い刑罰が下ることは必然だったはずだ。しかし、|犯人《僕》は当時まだ小学3年生、年齢は1桁だ。いくら「利用者ならば大人扱い」なインターネットでの事件だといっても、日本の法律では極刑を科すことはできない。だから彼ら自身が秘密裏に開発されていた様々な薬物や拷問道具を駆使して僕に|罰を与える《復讐する》事にした。
……そんな青い顔しないでよ。全ては僕の身に起こったことだ、君のことじゃない。
そして僕は憂さ晴らしに使われた薬物や蓄積されたストレスによって、人格が分裂した。その時に、最初から存在したものがそのまま2つ以上に分かれたせいで、例えば。
僕には感情がほとんどない。
俺には感覚、いわゆる五感のうち特に触角が、その中でも痛覚が存在しない。
どっちも日常生活をするうえで必要な部分はそれぞれに残ってるから、不意に屋上から飛び降りたり間違って缶ジュースを握りつぶしたりすることは、少なくても最近はない。
不安定になったアイデンティティを維持するために、俺らは、使う言葉で自分たちのどちらがどちらかを分かりやすくすることにした。そうしないと、どっちがどっちだか、すぐに分からなくなる。
最初はそんなことしてなくて。自分がどっちの自分か確かめるために、痛みを感じるかどうかを毎回試してたんだ。そしたら、母さんがヒステリーになりかけた。かといって毎回隠れてこそこそ自分を痛めつけて確認しても、俺が表に出てるときには力の加減が難しくて、どうしても痣ができちまう。それじゃ隠れて確認しても意味がない。
だから2人で相談して、基本的にあいつが表に出る、使う言葉を変えることを決めた。1人称も違うだろ?
産業情報庁のヤツらは、疑似的なものだが自分で判断することのできる、人工知能とは呼べないけどそれに近いプログラムだった、俺のクラックツールに目を付けた。こいつは使える、と思ったんだろうな。俺が使ってた|OS《オペレーティングシステム》もソースコードから解析して、奴らは俺を、新しいシステムの開発者に祭り上げた。
ただ命令を聞いて言われたことをやる“でぐの坊”にして、ソースコードと命令、薬物を与えれば自動的にシステムのセキュリティを強化する機械のように扱った。1日中、朝から晩まで、食事はなく栄養は全部点滴で採って、風呂に入れてくれるわけでもなく用を足しに行かせてくれるわけもなく。寝たきりで体が動かせない人が使うようなベッドにずっと、文字通り縛り付けられて。
人間として扱ってもらえたのは、俺が何とかシステムを完成させた後、うちに「返してもらう」時が初めてだったね。それまでの給料としてかなり大金を払ってくれたんだ。その頃はまだ地方に住んでいたから噂が広がるのも早くて、ご近所さんは俺が何をして誰に連れていかれたか知らない人なんていなかったし、母さんも働きになんて行けなかった。
だから俺がうちに帰ってきて、クスリが抜けきってまともな人間として生活できるようになるのを待ってから、今住んでるここに引っ越した。
ちょうど小5になる春休みだったから始業式はちゃんと行ったんだが、ヘンな転校生って注目浴びて、すげぇ居づらくて。1回でもう学校通う気、失せたから小学校はそれ以降行ってない。
ずっと家でぼけーっとしてて、見かねた母さんが俺の部屋来てドサドサいろいろ古い小説持ってきたんだよ。今まで本っつったらコンピュータの解説書ばっかりで物語なんて読んだことなかったんだけど、それが面白くてさ。あの時ははまった。
今度は食事も睡眠も忘れて無視して、部屋に鍵かけて閉じこもって1日中文庫本を読み漁った。2日位するとなんかフラフラしてさ、あれ、どうしたんだろーとか思ってたらばったり部屋で倒れて動けなくなって。ヤバいかも、って思ったんだけど声も出なくて、死ぬのかな、って思った。
あの時の精神状態は不思議だったぜ。死んでもいいや、ってのと、死ぬのが怖い、ってのが交互にやってくるんだ。そのあと母さんがベランダから入ってきて病院つれてかれて、見ての通り死ぬことはなかったんだけど。でもあの時はかなり絞られたなぁ。
2
「まあそんなこんなで、今に至るわけなんだけど」
「…………」
今、私の前で横になっている同級生は、想像もしない過去を持っていた。
「さっき君は“虐待はされてない”って言ってたけど、――それよりもっとひどい目に遭ってきたんじゃないの」
私はこれから、彼とどういう関係でいればいいのだろう。自分のことだから断言できる。もう、
――ただの友達として接することなんて出来ない。
「そうかなぁ? 割と面白い経験ができたと思ってるんだけど?」
飄々と話す彼を、まっすぐ見られない。
なんか、私、馬鹿みたい。何でこんな、常識外れな規格外の人を、私と同じような、過去なんてあってないような人間だ、って考えていたんだろう。そんなこと、したって意味ないじゃない。
……私、何を考えているの? 彼は、彼の過去によってこうなった、私と同じ年の男子じゃない。彼と私が違う人間なわけないよ。
だんだん頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
「別に、自分自身を嫌いになったわけじゃねぇし? 今の生活があればそれで十分だし?」
「君は、あんなことされて、自分を壊されて、復讐してやろうと思わないの?」
「思った。思ってる。でも今はその時期じゃない、ってあいつが言ってるから我慢してる」
感情に任せて勝算もなく行動を起こしたら、体の操縦権もらえなくなるんだよなー。
そんなことを言いながら悔しそうに唇を歪ませて、でもすぐにその歪みが笑いに代わる。
「……なんか、楽しそうだね」
今さら、やっぱり聞かなければよかった、なんて思っている私は、なんてひどい人間なんだろう。彼のほうがよっぽど、人ができてる。
「そりゃあ、人生楽しまないと損だろ」
「そっか」
「そう。だから、お前も俺のこと色々考えて、勝手に鬱になるなよ」
「……」
見透かされてる?
「お前、うわの空で受け答えしてるのがバレバレ。どうせ関係ない、過去のこと全然知らなかったのに余計な踏み込んだ真似したって、後悔していたんだろ。じゃなかったらアレか、聞かなきゃよかったと思ってるとか?」
「……」
「図星だな。何も言えない、って顔してるぜ」
「だって、」
「だってもくそもない。出会うまでの過去に、お前は関係ない。お前に関係があるのは出会ってから、同じクラスになってからの俺だけだ。分かったな」
「……分かった」
「よし」
にま、と効果音を付けたくなるような笑い顔。
そうして彼はパソコンのキーボードを、いつも通り尋常じゃない速さで叩き始めた。
画面を見て私を見ない横顔を見ていると、私は何故か気分が軽くなっていった。目を閉じるとさっきの笑い顔が浮かんだ。
「じゃあ私、一度うちに帰るね。親が心配してるだろうし。また明日来る」
「ん、そうか。悪ぃな、付き合わせちまって」
「いいの、さっきも言ったけど、来たいから来るんだもん」
彼は苦笑して、はいはい、といった。
「なぁ、頼まれもの、おつかい、してくれねぇかな」
「え、買い物ってこと?」
「そうそう。ダメ?」
「ものによるなぁ。重いもの?」
「文庫本買ってきて欲しいんだけど。……そんな嫌な顔するなよ」
表情に出てしまったらしい。
「分かった、買ってくる。何が読みたいの?」
「メールアドレス教えて、リスト送るから」
「ずいぶん突然なアドレス交換ね。……いいわ、これ」
彼に携帯端末を手渡すと、ありがとーといいながら赤外線送信モードにしておいた画面を戻して、電話帳に切り替え、表示された私のデータを手で直接、パソコンに打ち込み始めた。
「あい、どうも。俺のアドレス、送信しておいたから」
彼の言葉に応えるタイミングで、私の携帯端末が震えた。
「へぇ、流石クラス1の真面目ちゃん。病院ではちゃんとマナーモードなんだ」
「あ、当たり前じゃない!」
「うん、当たり前」
へへっ、と笑われた。
普通にしていれば結構、彼はカッコいいほうだと思うんだけどな。イジワルを言わなければ。
「おい、どーした、顔真っ赤になったぞ」
「ウソ!? な、え、うううるさいわね、本買ってきてあげないわよ!?」
「……俺、悪いこと言ったか?」
「最初から最後まで悪いことしか言ってないじゃないの!」
彼はちぇ、と舌打ちして。
「じゃ、頼んだ。レシートちゃんともらって来いよ、じゃないと金払えねぇからな」
「分かってるわよ、もう。……また、明日。おやすみ」
「おう、おやすみ」
彼に背を向け、病室を出る。無意識におやすみ、と言ってしまったけど、時計を見て驚いた。
「やば、もう6時まわっちゃってるじゃないの」
ママに電話しないと、夕飯抜きになっちゃう。
意識して早く帰ること、ママに連絡しなければいけないことを考える。そうでないと、私が私でなくなってしまうような気がした。
なんでだろう。どうしてだろう。
私はいつも冷静沈着な、クールでカッコイイなオンナノコ。
そのはずだったのに。彼に会って助けられたあの後から、彼のことが頭から離れない。
彼の前だと、私が私じゃないみたいだった。こんなにほかの人に甘えるなんて、私らしくない。
3
それから2週間ほどで僕は退院できた。
「結局2週間も、葉村にはお世話になり続けちゃったな」
「いいわよ、気にしないで。……退院、おめでとう」
「ありがとう。今日これから、予定ある?」
「え、何で? 予定なんてないけど」
「お昼まだだろ? もう13時過ぎちゃうし、どこかで奢るよ」
「いいの? あんなに本買った後で、お小遣い足りる?」
「大丈夫、お金は気にしなくていいよ。入院中もバイトしてたから、結構余裕あるんだ」
「入院中って」
「プログラミング。パソコンさえ持ち込めれば、ソフトは作れるから」
「そうなの?」
「そうなの。何か食べたいものある?」
病院の最寄り駅まで歩く間、彼女はぶつぶつ言いながら頬を赤く染めていた。内容までは聞こえなかったが、駅に着く直前、思い切ったように彼女はこう言った。
「山本んちに行きたいな。途中で材料買って、一緒にお昼ご飯、作ろう?」
「梯子、気を付けてね。先に登るよ」
彼女は普段着、スカートだったが、短めだったから多分つまずいて落ちることはないだろう。先に梯子を登り、窓の鍵を開けておく。
「本当にベランダから出入りしてるんだね」
「そんなことで嘘、吐いたって仕方ないじゃないか」
「それはそうなんだけどー」
「よそ見して踏み外さないようにね」
「分かってる。……君、どういう生活してるの」
「こういう生活さ」
窓の外にベランダが約6畳、家の中に自分の部屋が8畳。ベランダには鉄パイプで屋根の骨組みが作られていて、太陽光発電パネルが設置されている。部屋の中から見て右側に水道、左側に先ほど登ってきた梯子、奥に置いてあるプランターには苦瓜が育っている。
室内は和室。窓の内側、左側にはスチール机があり、上にミドルタワーのデスクトップパソコンが置いてある。押入れの戸は開け放され、上の段には布団と枕が見え、下の段には冷蔵庫と背の低い食器棚や、調味料の瓶が透けて見える引き出しがあった。床のど真ん中には、でん、とカセットコンロが放置されている。
残る右の壁には、壁を全面埋める大きな本棚。棚は文庫本でぎっしり詰まっている。
一通りの生活を営むために必要な設備はそろっている。
「なんでこういう部屋なの?」
「妹に嫌われてるからさ、この部屋から出ると嫌がられるんだ。ほら、事件の時は妹にも散々迷惑かけたわけだし。こっちに非があると思ってるから、引っ越してきた時にこの部屋だけで生活できるようにしてもらったんだ」
「だから出入りも窓からなの?」
「そう。慣れると便利だよ。うちの地下にある簡易下水処理施設の準備室を私物化してて、そこには直接行けるようにしてあるし、屋根裏も使えるし、ベランダに水道引いてあるから冷たくていいのならシャワーも浴びれるし。住めば都ってやつ?」
「……」
「風呂は銭湯に通ってるんだ。このあたり、まだ銭湯いくつかあるしさ、ついでに買い物も済ませて、そこのカセットコンロ使って料理して。それに僕はほかの大多数の人間と生活時間帯違うみたいだから、隔離されてると逆に楽なんだよね」
当たり前のように、自分自身が“隔離”されていると言い放ったからだろうか。彼女は複雑な表情をした。
「外で料理しようか」
「うん」
「道具、取ってくる」
窓を開けて部屋に入り、床から少し埃をかぶったカセットコンロを拾い上げる。
玉ねぎを切りながら、彼女は言う。
「もしかして、休みの日って、誰とも話さないでしょ」
僕はハムを1cm角に切りながら答える。
「そうだな。夏休みとか、普通に1週間くらい声出さないことあるね」
「寂しくないの?」
「いや、別に。慣れたのかもしれない」
「学校でも人と話してるの、あんまり見たことないし」
「そうなんだよねぇ。なんでだろうね?」
割と真面目に聞いたのだが、彼女はあきれたようにため息をついた。
「ずっと本読んでるからだよ」
「それがどうかした」
「本読んでる人には話しかけづらいんだ、って気づいてなかったの?」
「え、そうなの?」
「そうなの。まったくもう、そんな社会生活不適応者みたいな答え、返さないでよ」
「すんませんねー」
「……それにしても。意外と、器用なのね」
「そりゃ、毎日3食、きちんと作ってますから」
「てっきりコンビニ弁当ばっかりなんだと思ってた」
「そんなことしないよ。本が買えなくなるじゃないか」
「理由が予想と違ったけど、健康的でいいわね」
「やっぱ、女子ってそういうの気になるんだ?」
「そりゃそうよ。そんなものばっかり食べてたらお肌が荒れちゃうし、太っちゃうもの」
小さい声で彼女がごにょごにょつぶやく。
「ん? 何の人のことだから?」
「え、な、聞こえた!?」
「……いや、聞こえなかったからなんて言ったか聞いたんだけど」
「じゃあ、なんでもない! 私は何も言ってない!!」
「なんだよ、言ってることが矛盾してるぞ」
「うるさいうるさいうるさい」
「教えてくれたっていいじゃん、減るもんじゃないし」
「やだ、絶対やだ」
――突然いじけて、なんなんだまったく。
しばらく無言で食材を切る。
「なんか面白そうなものでも見つけたのかい?」
「どうして?」
「さっきからずっと、きょろきょろしてるから」
「……」
「葉村?」
「……ああ、うん。何?」
「それはこっちの台詞なんだけど……」
「……ふーん」
「……さっきから、よそ見して包丁使ってるけど、怪我しないでね?」
「……へ!? ああ、ごめんごめん」
ぎょっとしたように包丁を持つ手元を見た。
さっきからきょろきょろしてばかりで、見てるこっちがいつ怪我するかひやひやするんだけどな。
「「いただきます」」
「「ごちそうさま」」
「結構美味しかったわ。料理、上手いんだね」
「そりゃあ、な。もうかれこれ4~5年くらいは自炊してるから」
「……そっか」
まずい方向に話が飛んでしまった。そう彼女の顔に書いてあった。苦笑は心の中だけに留め置いて、話題を変えてやることにした。
「洗い物、俺がやっとくよ。お前は中でくつろいでな」
「あらありがとう。どっちの君も、意外と優しいのね」
「意外とってなんだ、意外とって。俺はいつもジェントルマンだ。客をむやみに働かせるような無礼はしないさ」
そう言ってやると、彼女は「ありがと」と言いながら、含み笑いを漏らして窓から部屋へ入っていった。
「んだよ、今の笑いは。まったく」
でも、たまには他人と過ごす休日も悪くねぇもんだな。
「お前、帰らなくていいのか? もう17時になるぞ」
「平気、友達んちに泊まるって言って出てきたから」
「お前な、年ごろのオンナノコがそんなんでいいのか」
「いいのいいの、もう手遅れなんだから」
「まったく、何が手遅れなんだか」
「え、泊まっちゃダメ?」
「別にいいけどよ。じゃ、銭湯行くぞ、着替えは持ってきてるんだろうな」
「当然じゃない」
押入れから銭湯セットを出して窓からベランダへ。
「ほら、鍵閉めるぞ」
「ちょっと待って、……お待たせ」
葉村が出てから後付けの鍵を閉める。
「梯子、気をつけろよ」
「うん」
そろそろ、おっかなびっくり降りていく彼女を見ていると、こっちのほうが心配になってくる。
「大丈夫か?」
「へ、平気よ。馬鹿にしないヒャっ」
「ほら言わんこっちゃない、ちゃんと足元見て降りろよ。怪我されても困るんだから」
「……お荷物だって言いたいの?」
「え、なんか言ったか?」
小さい声でぼそぼそ言われても、俺は感覚が遠いんだ。
「何でもないっ!」
そんな、機嫌悪くされても困るんだけどな。
銭湯までの道中は口を利いてもらえず、銭湯内は男女別。風呂から上がる時間だけ指定してすぐに女湯に引っこまれてしまった。
何がいけないのか、ちっとも分からない。感情のないあいつのことだ、聞いたってロクな答えは出てきはしないだろう。
うんうん唸りながら考えて、危うくのぼせるところだった。
風呂から上がって扇風機にあたりながら牛乳を飲んでいると、上機嫌な彼女が出てきた。
なんとなく、のぼせるまで理由を考えていた自分が馬鹿らしくなった。
また機嫌が悪くなったら居心地悪いことこの上ないから聞くに聞けないし、どうしたもんだろうか。そんなことを考えていると。
「ねぇ、私も、牛乳飲んじゃダメ?」
「ん、残りあげる」
「……違うわよ。私も買っていいか、って聞いたの」
「ほい、財布」
「雰囲気が足りないわね、まったく」
「……雰囲気? お前、何言ってるんだ?」
「うるっさいわね!」
またキレられた。ほんと、女って何なんだよ。
葉村は俺の財布から必要なだけぴったり小銭を取り出して、財布を押し付けるように返すと、プリプリしながら受付へ歩いていった。受付のおじさんから目当ての瓶をもらって帰ってくる。
「一度、飲んでみたかったの。風呂上がりのフルーツ牛乳、ってやつ」
「夢が叶ってよかったな」
くっはー、と実に女子高生に似合わない声を上げる葉村。学校にいるときとのギャップがすさまじい。笑いをこらえるのに骨を折る。
「そういえばさ。普段の山本はいつも、……丁寧な方……が表に出てるじゃない?」
「そうだな」
「普段は、うちでは、そんなことないの?」
「……どうだろう。うちでのことは意識したことなかったな」
「学校だといつも……」
「そりゃ、あんまり人に知られてうれしいことねぇしな」
「そっか」
「おう。だからいつも、今沈んでるほうが表に出てるようにしてる」
「君は、今表に出てる山本はそれでいいの?」
「最初から同意の上だ。俺が出てたら、喧嘩ばっかりしちまうしな。冷静なあいつのほうがいい」
「誰とも話さないで、寂しくないの?」
「うーん、表に出てねぇだけで、外の様子はあいつと共有してるから。こいつ馬っ鹿じゃねぇの、とか中で思ってる。それであいつに諭されることもあれば、納得されることもある。それで十分だ」
「私なら、耐えられないよ、そんなの」
「いいんじゃね? 俺らの事情が異常なんだし」
「……」
「ちなみに、今は傷がまだ痛むから俺が出てるだけ。この前も言ったけど、俺のほうがあいつより感覚鈍いからな。もうちょっと治るまで、俺のほうが表に出るようにするつもりなんだけど、学校あるとな」
「学校あると今の山本だとだめなの?」
「あいつとはできるだけ違う人間だと分かるようにしてきたからな。今さらあいつの真似なんてやりたくてもできねぇよ」
「そっか」
「おう。……そろそろ帰るか」
「そうだね」
そう言うと葉村は、半分くらい残っていたフルーツ牛乳を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「な、うるさいわね!」
ただ単に感想言っただけなのに、顔をほんのり赤くして噛みつかれた。
「じゃ、そろそろ寝るから。ノートパソコンの方なら自由に使っていいぞ」
「え? まだ夕飯食べたばっかりじゃない。お風呂……はそっかさっき銭湯行ったか」
「俺の生活時間は20時寝の2時起きだ。お前いつも何時くらいに寝てるんだ?」
「日付が変わったくらい」
「そうか……じゃあまた明日、だな。俺が起きた時にはもう寝てるだろ」
「そうだね……って、そうじゃなくて。私はどこで寝ればいいの」
「あー考えてなかったな。ちょっと待て」
そういって押入れの上段に登る山本。天井板を押し上げた。そしてそのまま天井に消えてしまう。
「勝手に上がっていいの、天井抜けない?」
「へーきへーき、500は軽く超える数の文庫本置いてあって抜けてないから」
「何それ、私が怖いんですけど!?」
「だいじょぶだいじょぶ、……あった」
「探し物?」
ぽっかり四角い天井の穴から、ラグビーボールを一回り大きくしたような布袋が落ちてきた。
「なにこれ」
いよっ、という声とともに降りてきた山本は天井板をはめなおすと、押入れから床に落ちたナゾの布袋から中身を取り出した。
「……寝袋……?」
「あたり。貸すよ」
ほれほれ、と差し出されたぺっちゃんこの寝袋。
「これで寝ろと?」
「冬山でも使える耐寒-10℃のだから、暑すぎるくらいだと思うが」
「そんなことを問題にしてるんじゃないわよ!」
「え、じゃあ何が不満なんだ?」
「女子に向かって、男の臭いがしみついててちょっと汚そうな寝袋を使って寝ろ、と。それも同級生のぴっちぴち女子高生に、普通言う!?」
合点がいったように手のひらをぽんとたたく山本。
「俺のだから嫌なんだな。でもなぁ他に就寝具持ってねぇし……」
「客用布団とか、ないの」
「下にはあるだろうけど、取りに行くと嫌がられそうだし」
山本が唸りながら考え始めた。そしてふと顔を上げ、
「俺と一緒に寝るか」
「馬鹿言ってんじゃないわよー!!」
思わず大声で怒鳴りつけ、グーをお見舞いしてしまった。
肩で息をする私、倒れた拍子に壁へぶつけた頭を押さえ仰向けで痙攣している彼。
そこに控えめなノックの音が聞こえた。
「はい」
つぶれたかえるのようなうめき声で答える山本。
がちゃり。この部屋の扉が開くのを初めて見た。
「……ゆうくん? さっきの、……………………」
細く開けた扉の隙間から顔を覗き込ませたのは、40台、もしかしたら50に手が届いているかもしれない、そんなくらいの年齢の女性――山本のお母さんだろうか――だった。
その女性は部屋の中を見て、しばし口をつぐんだ。
寝る準備万端の押入れ上段。床では頭を押さえて大の字に倒れている息子。その正面で仁王立ちをして肩で息をする息子の同級生らしき女子。二人の間に横たわる薄汚れたくしゃくしゃぺちゃんこの寝袋。
「「「…………」」」
部屋の中の様子を改めて確認した私も、痛みをこらえるのに必死な彼も。黙り込んでしまう。
だんだん私の顔が熱を持ってくる。
そんな居づらい空間、私が取り乱しそうになる直前。沈黙を切り払ったのは。
「……あんた、誰」
山本のお母さんの後ろから私を睨みつけている、一つ二つ年下に見える女の子だった。
「……私?」
「他に誰がいるっていうの」
まさに“切り払う”ような冷たい声。
「山本の……祐樹くんの妹さんですか?」
「あたしがあんたに聞いてるの。あんた、誰?」
「……葉村ななみ」
「で、兄さんに何を――」
「ちょっと。失礼でしょう、初対面の方に向かって、なんですかその態度は。……ごめんなさいね、この子、普段は優しいいい子なんだけれども」
「……いえ」
山本のお母さんは険悪になりかけた雰囲気を柔らかく戻した。
「……ふん。お母さん、あたしもう寝る。おやすみ」
ペースを乱された山本の妹は鼻を鳴らしてそれだけ言い捨てると、バタンと乱暴に隣の部屋の扉を閉めた。
「……な、言ったろ。あいつ、俺のこと大っ嫌いなんだよ」
「あ、ごめん、大丈夫だった?」
「ちっ、何が大丈夫だった、だ。傷口開いたらどうするつもりだったんだ」
のそのそ起き上がる。「うー痛てぇ」
そんな彼を見て、お母さんが何かに落胆したようにため息をついた。それも一瞬のことで。
「ほらほらケンカしない。もうお母さん、うれしくなっちゃって。ゆうくんがお友達を、それも女の子を連れてくるなんて思ってもみなかったから」
すぐにニコニコした笑い顔を取り戻して話しかけてくれた。
「私なんて、きっと彼には女の子だと思ってもらえてませんから」
「あらそうなの、全くうちのバカ息子にはもったいない別嬪さんなのに」
「べ、べっぴん……」
「こんな若々しくって。うらやましい限りだわ」
「そんな……」
「いけない、立ち話をしに来たんじゃなかったんだわ。あなた、お布団がないんでしょう」
「そうなんです」
「下に使ってないのがあるから、それを使ってくれても構わないんだけど、……その寝袋のほうがいいかしら」
「いえ、布団を貸してもらえますか」
「えぇ、ぜひどうぞ。たまには使ってあげないと、布団もいじけちゃうものね。ついていらっしゃい」
「はい」
慣れた手つきで寝袋を丸めて布袋にしまっている山本に声をかけて、私はお母さんの後についていった。
4
階段を下りて1階へ。明かりが点っている部屋に入る。物置らしいそこではお母さんが布団の入った圧縮パックを取り出していた。
「あ、私やります」
「あらそう、ありがとう」
ちょっと高いところにあったが、なんとが手が届いて。敷布団と掛布団、シーツを受け取った。
「ねぇ、ななみさん、って言ってたわよね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょう」
「あの子のこと、どう思う?」
「え、あ、そんな、その……」
ズバッと訊かれた。私が、あいつのことをどう思っているか……?
また顔が熱くなる。最近赤くなってばかりだ。
「ん? ああ違うわ。ごめんなさいね、そうじゃないの。あの子の過去、どのくらい知ってるの?」
一転。さっ、と顔から熱が引いた。
「……それなら、全部教えてもらった、はずです。そう彼が言っていました」
「あの子、あんなことをやらかしたあとね。うちに帰ってきても1ヶ月くらいかしら、何にもしないでぼーっとしてるだけだったから、私があなたたちくらいの年の頃読んだ本をあげてね、何にもせずに1日を無駄にするなんてことは今日から許さない、って叱りつけたの。当時はあの子が何されたかなんて知らなかったからしょうがないとはいってもね、今も後悔してるの。何もしなかったんじゃなく、何もできなかったのに叱りつけてしまって」
「……」
「私のこと、なんか言ってなかった?」
「……特に、何も」
特に、どころか、不自然なくらい全く。正確にはそう言いたかったけど、でもそれは残酷すぎる言葉だ。
「……そっか。あともう一つ、聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「あの子、自分の妹についてはどう思ってるか、知ってる?」
「単に、ものすごく嫌われている、自業自得だから仕方ない、と」
「やっぱり。あなたはどう思う? うちの子、娘のほうは、兄を嫌ってると思う?」
私を睨みつけてきたあの子の目を思い出す。
「いえ、思いません」
「……なんでそう思うの?」
「私をにらんだあの視線と言葉が、なんとなく。兄とその友達を嫌っているものというより、兄を心配しているものだったような気がしました」
そう、あれは、兄が誰かに奪われないように、敵を威嚇するような目だったと思う。
「私と同じ意見ね。でも、肝心の兄は」
「妹の心配に気付いてすらいない」
はぁ、と2人で溜息をつき、タイミングがそろったことに苦笑した。
「あなたとはいい嫁姑な関係になれそうだわ」
「え、嫁だなんて、そんな」
「ふふ、いい慌てぶり。私も昔はこうだったのかしら。懐かしいような気もするし、でもいつの間にか忘れちゃったな。……じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。お布団、お借りします」
私は布団を抱えなおして、物置から出た。
「よう、遅かったな。何、話しこんでたんだ」
「なんでもない」
彼の部屋に戻ると、彼は押入れ上段の布団にもぐりこんでいた。
「ちぇ、教えてくれたって罰は当たらねぇのに」
「教えてなんてあげないもん」
私も袋から出したふとんを床の真ん中にひいた。
「お前も、もう寝るのか」
「うん。たまには早寝もいいかな、って」
「そうか。じゃ、電気消してくれ。豆球も消していいぞ。おやすみ」
立ち上がって豆球にして、
「着替えるからこっち向かないで」
そう言うと、彼は無言でふすまを閉めた。
きちんと隙間なく閉まっていることを確認してから、私は寝巻に着替えて。それから紐を引っ張って灯りを完全に消した。
布団に入ってじっとしているとコンピュータや周辺機器のパイロットランプが明るく排気音が気になったが、いつのまにか寝てしまった。
5
いつも通り、2時くらいに起きて、痛む背中の傷に触らないように気を遣いながら、寝転んだ態勢のまま4時間くらい過ごしていた。
押入れの外で他人が寝ているという経験は初めてで、枕元に蛍光灯を用意しておいてよかったとしみじみ思いながら、光と音が漏れないように、ふすまを閉めたままパソコンをいじっていた。流石に、背中、今度は背骨や腰まで辛くなってきている。
けたたましい目覚ましのベルが鳴り始めた。どうやら昨夜のうちに葉村がセットして寝たらしい。時計を見たらもう6時半だった。
そろそろふすまを開けると、目をつぶったまま音の発生源に向かって、バンバンと手で床を叩きながら目覚まし時計を探している葉村の姿が目に入る。
しばらくそうしていたが、なかなか目覚まし時計見つからない彼女はついにむくりと起き上って目覚まし時計を黙らせた。
そしてきょろきょろ周りを見回し始めたところを見ると、どうやら彼女はまだ寝ぼけているらしい。
「おはよう」
押入れの上段から声をかけた。ふっと振り向き、きょとんとしている。
「あーおはよう~」
それから彼女は、もそもそ布団から抜け出し伸びをしたところで、ぎしっ、と効果音が付きそうなくらい突然固まった。
フランケンシュタインのようにギギギと、赤く染まった顔を僕のほうに回して、
「…………見た?」
「申し訳ない、何の話か全然見えないんだが」
「うるさいうるさい、うるさいっ」
なんなんだ、まったく。理不尽すぎる仕打ちだと思うんだが。
「着替えるからあっち向いてて!」
「分かった」
ふすまを閉める。
何であんな、泣く寸前の表情を向けられなければいけないのだろう。僕がなにか悪いことをしただろうか。
「さっきはごめん」
通学途中、葉村に謝られた。
あのあと、彼女は朝食の時もずっと黙り通しだった。
「いや、別に気にしてないが」
「……そっか」
「……」
「……」
再び2人で気まずい空気に沈み込んでしまう。黙々と学校までの道のりを歩いていく。
そのまま学校に到着し、下足室で久しぶりに会った同級生たちは、僕らに話しかけようとしても、纏っている重い空気に気圧されたようで早足で逃げていく。
どうやら一緒に来た僕らを囃したてたいようだったのである意味助かったともいえるのだが、それにしてもこの雰囲気はまずいと思う。思うのだが、どうやって解消すればいいのかわからない。
僕らは教室の、隣同士の席について。気まずいまま授業が始まった。
――なあ、なんでこんな気まずくなったのか、君は分かっているのかい?
――当然だろ。むしろ、なんで分からねぇんだよ。
――僕に聞かれても困るから君に聞いたんだが。
――あーはいはいそうでしょうねー、と。……多分な、葉村は俺らに寝ぼけた姿を見られたくなかったんだろうよ。
――だから寝ぼけた姿を「見た」か、を聞いたのか。
――だろうな。恋する乙女としては、そんなところを見られたくなかったんだろ。
――恋する……葉村が? 誰に恋するんだ?
――……もう俺は知らん、寝る。
――そうか、おやすみ。
――ちっ、うらやましいぜこの野郎……
怪我をして以来、約1ヶ月ぶりの学校は1学期末試験直前で、授業は夏休み前の峠だった。
葉村にノートは見せてもらっていたので特に困るようなこともなく。同級生数人に体の調子を聞かれたくらいで変わったことも無いようだった。
今日1日の、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
鐘が鳴ると同時に、まだ話している教師にはお構いなしで帰り始める同級生たち。試験1週間前になって、どの部も活動が休止状態になっているのだろう。いつもなら重そうな部活道具を抱えているやつらも、さっさと帰り支度をしていた。
僕も教科書を鞄にしまい込み、一応教師が教壇から降りるのを待ってから席を立った。
葉村に話しかけられたのはそんな時。
「あの、昨日はありがとう」
「いや、あのくらい別に何でもないさ。結構な頻度で見舞いに来てくれていたしね」
「じゃ、また明日」
「気をつけて帰りなよ」
ニコっと笑って彼女は教室から出ていった。
無事退院できたし、学校はちっとも変り映えのしない1日を繰り返しているようだ。葉村に世話をかけられるのも昨日まで。今日これからは今までの、いつも通りの日常が帰ってくる。
そのはずだった。
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第2章
1
ある春の日。今月から自宅でできる仕事に転職して間もないころ。
「ねーねーおかあさん、それ、おれもやりたいー」
「だぁめ。これはおかあさんのおしごとにひつようなきかいなの」
「やだー、おれもカタカタやりたいー」
まったく、この子はなんでこんなに私《母親》のパソコンに興味を持っているのだろう。触らせたこともなければ、教えたこともないのに。
「このきかいでおかあさんがおしごとしないと、おかねがもらえなくなってたべるものもかえなくなっちゃうよ?」
「それもやだー」
どうしよう、頼まれている原稿は今夜が期限なのに。この子にかまっていたらいつ終わるか分からなくなる。
「ゆうくんせんようのパソコンをおかあさんがよういしてあげるから、きょうはもうねよう? ゆざめしちゃうから」
「まだねたくない、おきてられるー」
「だめ。ねないとパソコンあげないよ?」
あぁ、言っちゃった。確かにこの前買い換えたから古い、まだ使えるノートパソコンが1台あるのだけれど。でもパソコンは、親が構っていられないからと言って、まだ幼稚園の年長でしかない子供に与えても構わない道具なのだろうか。
でもこうでも言わないとこの子は寝てくれないし。しょうがない、口が滑ったのは私なのだから、用意してあげよう。
まだぐずぐずしていたが、私が立ち上がって寝室まで手を引いてやったら、ようやくおとなしく寝る気になったらしい。
わが子ながら単純なやつだ。欲しいものが手に入ると分かった途端に言う事を聞くようになるなんて。布団に入った途端、目がとろんとしてきた。
「おやすみなさい、また明日、Good night」
「おやすみなさい、また明日、グーンナイ」
まだ幼い息子には英語の発音ができない。これが可愛くてつい毎夜言っていたら、寝る時のおまじないのように定着してしまった。
隣の布団ですでに眠っている3歳の娘を起こさないようにそっと寝室を出る。
ああ、眠い。
眠気を振り払うために、息子を起こさない程度に大きな声で勇ましく宣言をする。
「さあ、早く原稿を片付けて、パソコンの初期設定をするぞ」
これも毎夜の習慣。パソコンの前に座った。
やはり小学生にもならない子供にパソコンを与えるのは気が引けたので、簡単に使えないように、難しい道具だと理解させるために、|補助記憶装置《ハードディスク》を初期化してシステムを完全に消したまっさらなパソコンを用意した。CUIを使うOSの解説書だけでは難し過ぎるから、紙の国語辞典を明日幼稚園に預けている間に買ってこよう。そうすれば飽きっぽいあの子のことだ、すぐに飽きてくれるだろう。
そう目論んで、電気を消し布団に潜り込む。2人の子供の体温でおなかのあたりは暖かくなっていたが、足は冷たいままだった。
2
幼稚園から帰ってくるなり、息子に飛びつかれる。
「ね、ね、はやくおれのパソコンちょうだい」
「まだだぁめ、そとからかえってきたらまずなにをするんだっけ?」
「てあらいうがいー!!」
「よくできましたー」
活発な兄は物静かな妹の手を引いて洗面所へ飛び込む。
ほほえましい光景を見る私の頬が緩んだ。
帰りがけ、スーパーで買ってきた野菜と肉を冷蔵庫にしまう。今日の晩御飯は何にしようか。
悩んでいるとパタパタ軽い足音。冷蔵庫の扉を閉めて振り向くと息子が満面の笑みを浮かべて立っていた。
リビングまで歩いていき、昨晩用意したノートパソコンと取扱説明書、ACアダプターなどを机の上に持ってきて見せる。
目が輝いている息子に向き直り、考えておいた約束事を言う。
「ゆうくん、さいしょにおかあさんとやくそくがあるの。これがまもれないなら、これはあげられないな」
「え、なになに?」
「いい、まず、パソコンはこのへや、|テレビのへや《リビング》から出しちゃダメ。それとこのほんとじしょもあげるから、パソコンのことはひとりでおべんきょうするのよ」
「うん、わかった」
「ちゃんとまもれるわね?」
「うん!」
嬉々とした表情で2~3年前のパソコンを重そうに抱える様子を見て、とりあえず好きにさせてみよう、と覚悟を決めた。
一度、上手く動かない(それはそうだ、何もOSがインストールされていないのだから)と文句を言ってきたのだが、その時すげなく突っ放したらそれ以降なにも聞いてこなくなった。本当に一人で、大人向けの分厚い国語辞典とOSの解説書を交互に見て勉強している。そして1ヶ月後、ついに本に書いてある通りにOSをインストールしていた。
どうやらそれでパソコンがどういうものなのかだいたい分かってしまったようで、そこからの成長ぶりはそれはもう大人顔向けの速度だった。いろいろとやらなければならない事の多い大人と違い、幼稚園から帰ってきたら後のほぼすべての時間、約半日ををパソコン学習に振り向けることができたからだろう。
私があげた本は、娘が生まれてまもなく亡くなった旦那――コンピュータ系の技術者であった――が書いたLinuxでサーバーを作るための解説書。私が勉強するために購入した、セキュリティやインターネットそのものの解説にもかなりの分量がさかれているタイプで、私でも読み切って理解するのはなかなか大変だった。
そしてその本も、幼稚園が夏休みに入った数日後、ついに読み切ってしまったらしい。本当に理解しているのか疑問に思った私は、試しに仕事を息子に持ちかけてみた。
「ねえゆうくん、apache の設定がうまくいかないんだけど、どうすればいいかな」
「apache、ってことはウェブサーバーだよね。どこのぶぶん?」
「えーと、SSH でいくつものドメインをつかうあたりかな」
「HTTP なのに SSH なの? SSL じゃないの?」
かなり専門的な話をしているはずなのに、余裕でついてこれる幼稚園の息子。
あれこれ続けて質問してみるも、幼稚園生だからか、日本語で上手く表現できないだけでかなりコンピュータの知識がついているようだ。
すぐ挫折すると思っていたのに、こんなのめりこむとは思わなかった。やっぱり|旦那《無類のコンピュータオタク》の子なのかしら? 少しうれしくなってしまう。
あなた、息子は元気にやってますよ?
しばらく解説書なしでインターネットの海から情報を探していた息子だったが、1週間くらい経って、「次の本がほしい」と言い出した。
「インターネットじゃだめなの?」
「やだ。けんさくしてもでてこないんだもん」
話を聞いてみると、調べる手掛かりになる知識がないと辛い、という事らしい。基礎は本で学び、インターネットで実際に使う知識を補完する。そのための本がほしいとのこと。
「じゃあ、今日はちょっとおかあさんにおじかんがないから、あしたでいい?」
「うん」
「ゆうくんは、どんなごほんがほしいか、かんがえておいてね」
「わかった!」
「もしいらなくなったら、おかあさんがもらうからね」
「そんなことにはならないよ、おれ、パソコンすきだし、とくいだし」
本当に理解できているのか、正直信じられないのだが。読まなくなったら私が読めばいいか。そう思って少し高かったが、Webプログラミングの本とインターネットセキュリティの本を買い与えた。
うちに帰るなり重さが身に余っている本を抱えてパソコンにかじりつく息子だったが、予想通り、1ヶ月ほどでもう、リビングの机に放っておかれたままになっていた。
そしてまた4月。息子はいよいよ小学生になる。
ちゃんと一人で通えるのかしら。
お友達はできるのかしら。
わが子が学校に通うという事は、親をなんてドキドキさせる出来事なのだろう。
ランドセルを自慢げに背負ってはいるものの背負わされているような、まだ小さい息子を見て、親馬鹿丸出しになって心配してしまう。
「ねぇ、はやくいこうよー」
急かす息子。娘を連れて、もう一度忘れ物がないかハンドバックの中を覗き込んで確認する。
「わすれものはないわね?」
心配になって尋ねてしまう。
「きょう5かいめだよ、おれにそういうの」
「あら、そんなにいったかしら」
「うん、いった。ねぇ、はやくいこう? ちこくしちゃうよ」
「え、こんなじかん。ごめんね、おかあさんゆっくりしすぎちゃったみたい」
靴を履き、慌てて玄関の鍵を閉める。
両手に二人の子供と手をつなぎ、入学予定の小学校まで子供がついてこられるギリギリの速さで歩いた。
一番緊張しているのは、母親である私のようだ。
3
小学2年生、夏休み前の家庭訪問にそなえて1年も前に書いた日記を読み返してみて、私はこんなに「息子の小学校入学」という一区切りに浮ついていたのだと改めて感じた。
学校での息子の様子を家庭訪問の時に担任の先生に聞いて、私は少しぐらついている。毎日さっさと学校から帰ってくる息子を見て、「友達がいないんじゃないか」と心配していたのだが。
そしてやはり、息子は学校で一人らしい。まだクラスメイトにいじめられている、とかそういう仲間に入れてもらえない、というタイプの孤独なら、まだマシだった。
息子は休み時間になると、書き込みだらけのコンピュータの解説書とにらめっこして、クラスメイトに話しかけられてもほぼ無反応、という手の打ちようがない、どうしようもない引きこもり気質だそうだ。
うちに帰るとまずパソコンの電源を入れて、それから外に遊びに行くこともなくおやつを要求し、それをわきに置いて食べつつ夕食までずっと画面に張り付いている。
そんな息子を視界の隅に見て、先生が帰った後の洗い物をしながらため息をついた。
どうしよう、あの子を少し、パソコンから引き離そうかしら。でも昼間、娘を保育園に預けた後に私は仕事に出てしまう。うちにいなければあの子がこっそりパソコンをいじっていても、叱ってやることも注意することもできない。
……何もしないよりはいいか、注意する意味がないのなら才能を伸ばすために放っておくほうがいいか。
思考が堂々巡り。うわの空になっていたら、手が滑ってコップが落ちて、割れてしまった。
「だいじょうぶ?」
「……うん、ごめんね、なんでもないから」
しまいには息子に心配される母親。自分で自分が嫌になる。
4
いつもみたいにきょうしつで本をよんでいたら、クラスメイトのふじもりくんがおれのそばにきていった。
「おい、やまもと。なんでおまえはいつもそんなあついものばっかりよんでるんだよ」
「……おもしろいから」
「へっ、おもしろいわけねーじゃん、ならってないかんじがいっぱいかいてあるんだぜ。おれらとおなじとしのやつがそんなのよめるわけあるかよ」
「……おれはよめるし、わかるぜ」
「うそつけ、じゃあよんでみろよ」
めんどくさい、おれはいま、本をよんでるのに。
「|ひょうじするきじすうをげっとでしていされているばあいはそれをとりこみ、りようします《表示する記事数をGETで指定されている場合はそれを取り込み、利用します》」
「…………よめるからっておまえがほんとにぱそこんつかえるとはかぎらねぇし」
「は? おまえらとちがって、ばっちりわかってるよ、おれは。いっしょにするなよ」
「あんだって?」
ちっ、このガキだいしょうめ、すぐキレやがって。
「……もう、本にもどってもいいかな」
こたえをきかないでもじをよみはじめた。すぐにおれのまわりからひとがいなくなった。
ちょっとのあいだふじもりくんがぎゃあぎゃあ言っていたが、すぐにあきてあしおとをたててきょうしつから出ていった。
ほうかごになった。きのうはできなかったけど、きょうこそはおかあさんのファイルを見てやるんだ、そしておどろかせてやるんだ。
いえのかぎをじぶんであけて、くつをぬぎすてる。ランドセルをじぶんのへやになげこんでパソコンのでんげんを入れた。BIOSのがめんがいっぱいにひろがり、それはすぐきえて、いろとりどりのもじが、下から上へとながれていく。
あ、おれ、わくわくしてる。
やっとでてきたログインプロンプトにユーザー名とパスワードをうちこむゆびがいつもより、はねていた。
「できたー!!」
よる8じ。
「どうしたの?」
「あ、ねぇおかあさん」
「なぁに?」
「ホームディレクトリになんかテキストファイルおいといてよ」
「なににするの……?」
「いいから、いいから」
くびをひねりながらもPCをさわって。
「いいわよ、ほぞんした」
もらったおれのPCに飛びついて、おかあさんのPCにしんにゅうしてみる。さっきみたいにやればきっと……。
「見れたよ!! ね、おかあさん! ほら見て、これでしょ、さっきつくってくれたテキストファイル!」
うれしくなってがめんに出したテキストファイルのなかをおかあさんに見せる。
「すごいでしょ!?」
でも、おかあさんはかおをすこし白くしてなにも言ってくれない。
「……おかあさん?」
「ゆうき。これ、どうやったの」
「おしえてほしいの?」
「いいからいいなさい」
こわいかおをしてまっすぐおれの目を見る。これは、おこるちょくぜんのかおだ。
「……あのね、おかあさんもさいしんばんのAOSORAつかってるでしょ? カーネルにセキュリティーホールがあるんだ。そのPCのNICドライバとのあいしょうがわるくて」
「それで?」
「そこをたたくプログラムつくってudevから管理者権限とってホームディレクトリをよんだ」
「そのプログラムのソース見せなさい」
「うん」
なんでおこられるのかわからないけど、たたかれるのはいやだったからソースコードをひらいた。
なにもいわないでソースコードを見るおかあさん。目が“しごとモード”だった。
これがこーであれがあーで、とつぶやきながら上に下にいそがしくがめんをスクロールさせる。
「……なにこれ、すごい……。この子、将来が怖いわね……」
「どうしたの?」
「……ん、うぅん、なんでもない。ねぇゆうくん、これつくるの、むずかしかった?」
「ちょっとむずかしかったけど。つくるの、すっごくたのしかったよ」
そういうと、おかあさんはためいきをついて、それからおれにPCをかえした。
「いい、ほかの人のPCにはぜったい、しんにゅうしちゃだめよ。これはおかあさんとのやくそく、まもれる?」
「うん、わかった。もうしない」
なんでしんにゅうしちゃいけないの。
ききたかったけど、せっかくおこられずにすみそうなときに、そんなこと言ったらおこられちゃうから言わない。
「ぜったいだめだからね。まもれなかったらパソコン、ぼっしゅうしますからね」
「うん」
「じゃあもうきょうは、おふろ入ってねなさい」
「わかった」
でも。
おかあさんのPCにしんにゅうするのはパズルみたいでおもしろかったな。
おかあさんにはこのたのしみがわからないのかな。
5
やっぱり、ほかのコンピュータにしんにゅうするって楽しい。
おかあさんはダメ、って言ったけど、けっきょくおれは、冬休みまでがまんできず、ネット上のサーバーにいろいろしんにゅうしてはデータをもらってきていた。固いコピーガードがかかったビデオ、高いソフトの|ライセンス《利用権》、|端末で読む本《電子書籍》、ほかにもいろいろ。
てきのサーバー管理者との化かし合い、パズルみたいな抜け穴探し。
クラスメイトがやってるケータイゲーム、やったことはないけどたぶん、こっちのほうが楽しい。
なかなか難しいサーバーもあったけど、でもおれがちょっとくふうすればどんなところでも入っていけた。
最近は前ためした時にはぜんぜん歯が立たなかったサーバーのなかみも見たくなって、おれのパートナーになるような話し相手にもなってくれるツールを作ってみた。ほかにもいざというときおとりになって、おれがにげるのを助けてくれるウイルスとか。そんなものも作ってみた。
今日はどこを見に行こう、せっかく作ったツールのおひろめなんだから、ちょっとむずかしめの、たっせいかんのあるサーバーがいいな。
どうせおとせるなら、ぶゆーでんになるような、すごいサーバーにちょうせんしたい。
……そういえばこの前ネットで、むずかしいサーバーのリストがあったな。あれの一番上にあったやつにしてみようか。
でも先に、ツールのコンパイルもきのうからぶっ続けでやっててやっと終わったところだから、ねんのためシステムを再起動してからはじめよう。
[yuuki@yu-pc]# reboot
Broadcast message from root (pts/2):
The system is going down for reboot NOW!
コンパイルのログが下から少しずつせりあがってきたデーモンの終了通知におきかえられていく。
よし、今のうちにトイレ行って、おやつとなんかのむもの、もってこよう。
さいごに起動ログがながれていた画面はいちど初期化され、まっくろな画面のいちばんうえにいつものログインプロンプトがおれの入力をまっている。ドキドキするきもちをがんばっておちつかせながら、カタカタ、ユーザー名とパスワードをうちこんでいく。
ログインがおわって、おれはデスクトップとクラックツールを立ち上げた。
相手のアドレスを入力。まずは攻撃するために必要なIPアドレスをDNSサーバーもらってきて、もういちどIPアドレスに関連付けられているホスト名を逆引き検索。前後の数字のIPアドレスも検索して、一番やりやすそうなサーバーを選ぶ。
役割にあわせて名前を付けられたサーバーに向けて、使っているサーバーソフトウェアとそのバージョンを取得。インターネットの情報提供サイトで、もうに分かっている弱いところを探すけど。とくに弱いところが見つかっていない、“ほどよく枯れた”バージョンだった。
さすがに、かんたんに終わりそうな相手じゃなさそうだ。
さいわい、つかっているソフトはソースコードが公開されているものだったから、ソースコードをちょくせつ読んでじゃくてんを見つけられそうだった。
1時間くらいかけていくつかのサーバーソフトのソースコードをななめ読みして、4つ目でやっと弱いところを見つけた。ふつうの人間じゃ、絶対にこのじゃくてんは見つけられないだろうな。
へへっ、と笑い声が出ちゃって、あわててゆるんでいた口をひきしめる。今回はウェブサーバーから行こう。
保存されているファイルにアクセスするためのユーザーの権限をよこどりして、今度は走ってるシステムのカーネルとバージョンを取得。またソースコードをさがして読む。
あった。ってことはここをこうすれば、きっとエラーが出るはず……うん? なんで出ないんだろう。つまり……これがこうだから……ああして……。あそっか、こうすればいいじゃん……おし、できた。つぎはそっちからいじってやって、うまくタイミングを合わせれば……3、2、1、Enter。――やった! これで一般ユーザーの権限が使える。
書いてあったほど、むずかしくない。ただ、セキュリティホールが報告されてないバージョンを使ってるだけで。いがいと世の中、おもしろくない。
2時間後。
さっきのウェブサーバーや、相手のLAN越しにつなっぎっぱなしの|VPN《中継サーバー》を経由して、いくつかのネットワークの接続点を踏み台にしながら、内部用のメールサーバーに侵入することができた。
メールサーバーに登録されている一人が受信したメールの、ちょっと大きめの添付ファイルを開いて。おれは画面に出てきた、赤く「極秘」とすかしが入った見てはいけないらしいデータにびっくりしていた。
来年の春に開戦 軍事機密 総理大臣の許可 米国との交渉成立 一時的にアメリカの属国化
むずかしくてよく分からない言葉が書かれたファイルだった。あのページのトップに書いてあったからと、てきとーに選んだこのサーバー、これはどこのサーバーだったんだろう。
普通の検索エンジンにもどってドメインを検索する。
検索結果: 10,000件 (0.02sec) 第1候補: 日本産業情報庁ホームページ
日本産業情報庁? なにそれ。
もっとさがしてみて、日本を動かすために必要な情報を集める人たちの秘密なんだと分かった。
おれがどうしようもなくおどろいて動けないでいたら、侵入中のクラックツールがビープ音を出して、てきとのたたかいがはじまったことを知らせてきた。
「やばっ!」
つい口に出してしまう。よかった、自分で考えて自動的に応戦してくれるようなプログラムにしておいて。
あわててツールとスイッチして、てきとのだましあいをはじめる。でもなかなか相手もうまくて、しっぽをつかまれそうになる。
ひさしぶりにやばいかも。このままだと、サーバーからは出れても、逆探知されてばれる……って、もう逆探知始まってるし!
コンピューターにつけられた世界に一つだけのMACアドレスや、おれのパソコンのアドレスとかの重要な情報が漏れないように、フェイクパケットをすこしずつまきながら。
最後の手、非常用ウイルスの出来にちょっとわくわくしながらインターネットにばらまいて。DNSサーバーを集中攻撃、IPアドレスからの逆探知ができないようにする。IPアドレスが知られてもこれでたぶん大丈夫、だけどいちおう世界中の|ISP《インターネット提供会社》のデータも全部壊して。
ウイルスのはたらきぶりはあとでログをじっくりみることにして、おれはむこうとのばかしあいをつづけながらサーバーからの脱出準備。
インターネットが使えなくなる前にクラックツールを向こうのサーバーから抜け出させようとして。いつものあとかたづけ、ふみだいにしたコンピュータのデータを偽装する前に……ウイルスが強すぎたようで、
Error: Connect failed.
インターネット接続が切れてしまった。
……だいじょうぶかな、ふみだいにした端末、データけし切れたかな。ざんがいからばれないかな。
あとかたづけをやりのこすなんて、そんなポカをしたのははじめてで、ちょっとしんぱいになった。
「ただいまー」
あ、おかあさんだ。
「おかえり、早かったね」
まだ午後5時、いつもは7時くらい、たまに8時をすぎることだってあるのに。
「うん、ゆうくんは知らないの? インターネットが動かなくなっちゃったの」
どうしよう、おれがやったってばれてるのかな。
「……しってるよ?」
「だから会社のたんまつがみんな使えなくなっちゃって」
「なんでインターネットが動かないとたんまつが止まるの?」
「ゆうくんはパソコン使ってるから分からないのか。あのね、たんまつは全部、インターネット上にプログラムとデータを保存してるの。だからネットが落ちると何もできなくなっちゃうのよ」
「……そうなんだ」
どうしよう、おれのせいで大変なことになっちゃったみたいだ。
「テレビとか地震速報とか、病院もちゃんと動かなくなっちゃうの。患者さんが何人か危ない状態になったところもあるって、唯一まともに動いてるラジオが言ってたわ」
「……」
「あらどうしたの、気分でも悪いの。顔が真っ青よ?」
「……うぅん、何でもない。ちょっとトイレ行ってくる」
「そう……」
トイレにかけこんで便座にすわりこみ、頭をかかえた。
どうしようどうしようどうしよう。おれのせいで、おれのせいで。
――何人か危ない状態に
おかあさんの言葉がぐるぐるしている。ただのあそびだったのに。たしかウイルスは世界中にばらまいたような気がする。これからどうしよう、おれ、つかまっちゃうのかな。
じっと便座にすわっていたら、そとからおかあさんが、
「どうしたの、おなかいたいの?」
「え、うぅん、そんな長かった?」
「ちょっとね、もう15分も入りっぱなしなんだもの」
「ふいたら出るよ」
そう言ってうわの空でトイレットペーパーを引き出して。
「……ねぇおかあさん」
「なぁに、どうしたの」
「産業情報庁、って何?」
「突然ね。新聞にでも載ってたの? ……あんまりいいウワサ聞かないんだけど、なんか、スパイみたいな人たちらしいわよ」
「そうなんだ」
「……ゆうくん? やっぱり、顔色良くないわね。だいじょうぶ?」
「なんとなく気持ち悪いから、今日ごはんいらない、もう寝る」
「……お熱はかっとく?」
「べつにいいや」
「あらそう、じゃ、寝る前に何か飲んでおきなさい」
「……分かった」
とびらの外で足音が遠ざかっていく。
10を数えてからトイレを出て、れいぞうこのむぎちゃをのんでへやにもどった。
おかあさんがいもうとに、きょうはおれとおなじ部屋においてあるベッドでなく、おかあさんとねるように、って言ってるのが聞こえた。
おれはふとんを頭までかぶって、体を丸くした。
どうしようどうしよう、となかなか寝れずにいたのに、ふと目が覚めたらまわりが明るくなっていた。一応ねられたようだった。
6
学校はりんじきゅーこーになったらしい。
おかあさんにはおれがインターネットをつかえなくしたことはばれていないようだったけど、でもクラックツールの脱出が間に合ってなさそうだったのがこわかった。
1日ひまになったから、おかあさんからかくすために、今まで使っていたHDDをとりかえることにした。うちにはおとうさんのものだったというパーツがたくさん押し入れにしまってある。
同じ規格の使えそうなHDDを探し出し、PCにつなげてからOSをインストール。初期設定をしていつも使ってるソフトをどんどん入れていく。
どうせHDDをかえるなら、もっといっぱい保存できるやつにすればよかったな。
そう思ったけどもう一度ねじをはずしてOSをインストールするのもめんどうだったからそのまま設定をつづける。
と。
ぴんぽーん
「は~い」
インターホンが鳴り、おかあさんがげんかんへ行く足音が聞こえる。
戸を開ける音がする。
「どちらさまでしょう」
「……は……。ですから……」
「……あの、その時間、私はうちに居りませんでしたが……」
「ですが、……」
おかあさんの声は聞こえるのだが、その相手の声はぼそぼそしていて分からない。
「あ、ちょっ、待ってください」
「……」
「私には子供がいるんです、育児を放棄しろというんですか?」
「…………から」
「子供の世話をしてくれる人が来て下さるまで、私はここを動けません。既に息子は帰ってきていますし、娘を保育園へ迎えに行く時間も迫っていますから、先にベビーシッターを用意していただけませんか? ……そんな、逃げるようなことはしません。私が犯人だと疑ってほしいと思われるだけではないですか」
おかあさん、どこかに行っちゃうのかな。
そうおもっていると、おれのへやの戸からおかあさんがかおだけ出して。
「あ、ゆうくん、おかあさんね、ちょっとようじできちゃって、しばらくかえってこれそうにないの。代わりの人も来てくれるみたいだから、2人でおとなしくおるすばん、できるわよね」
「……だいじょうぶ。ねぇ、おかあさんどこ行くの?」
「うんとね、インターネットがこわれちゃったげんいんを調べるところよ」
「わかった、きをつけてね」
「そうする。じゃ、いいこにしてるのよ」
「…………いってらっしゃい」
そういうと、おかあさんはいちど引っ込み、また顔を出す。
「そういえば、この前、日本産業情報庁がなんとか、って言ってなかったっけ」
「言った気がする。それがどうかしたの?」
「いや、ね。今来た人たちがそう名乗ってたから。ぐうぜんだなぁ、と思ってね」
「……」
そこに侵入したんだ、なんて、いえないよ。
しばらくして妹といっしょにだれか知らない人が来たみたいだ。とりあえずひきこもる。
いれちがいにおかあさんが知らない、たぶんさっききていたおじさんとどこかへ行った。
18時。ノックといっしょに、しらない声が聞こえた。
「ゆうきくん、ごはんできたわよ」
そうか、おかあさんの代わりにだれか来たんだっけ。
戸をひらいてへやの外に出る。しらない声のひと、やっぱりしらないおばさんがまえに立っていた。いっしゅん、戸が開いた細いすきまからじっとおれのへやを見ていたように見えたけど、たぶん気のせいで。テレビのへやにあるいていくおれにすぐついてきた。
「おばさん、ハンバーグ作ったの。ほかのもののほうがよかった?」
「うぅん、おれ、ハンバーグすきだよ」
「あら、それはよかったわ。さ、さめないうちに食べちゃいましょうか」
そういっておれとおばさんといもうとは、3人でテーブルについた。
おかあさんのとはちょっとあじがちがったけど、おいしかった。
7
インターネットはなかなか使えるようにならなかったけど、おかあさんはなかなかかえってこなかったけど、それでも学校ははじまった。
ハウスキーパーというしごとらしい、おかあさんの代わりのおばさんにきづかれないように、こっそり今まで使っていたハードディスクをランドセルの中に入れた。
「いってきまーす」
「はい、きをつけてね」
「うん」
学校へ行く。
下足室でうわばきにはきかえて、じょうほうきょうしつへ行く。このはをかくすならもりのなか、だったか、そんなことわざをこの前教えてもらった。ハードディスクをかくしておくなら、やっぱりコンピュータの中が一番見つからないと思う。
おれたちが使えるコンピュータは端末しかないけど、いちおう内蔵ハードディスクを入れるところはちゃんとある。ハードディスクとコンビニでかってきたドライバーセットをランドセルからとりだして、つくえにさわって静電気を手からなくしてから端末のうらのふたのねじをゆるめて中のマザーボードが見えるようにする。
「えーっと、ハードディスクは……」
あった、ここの端子にいれればいいんだ。
同じきかくの端末でよかった、とあんしんした。
「先生がくるまえにおわらせないと……」
見つかったらめんどくさいだろうな。いそいでもとのとおりにふたをねじどめして、ドライバーセットをランドセルにしまうと、ちょうど1じげんめ5ふんまえのチャイムがなった。
じゅぎょうにおくれないですんでよかった。
きょうしつに入ったおれを見て、どうきゅうせいもたんにんの先生も、さっと口をとじた。
「……」
「……」
なんだろうこのしずかなきょうしつ。いつもがやがやうるさくて、たまに本すらよめないほどなのに。
おれ、なにかわるいこと――もしかしてばれちゃったのかな……?
せなかがひえた、ぞっとした。
「……さて、じゅぎょうはじめようか」
せんせいのごうれいで、日直がぎこちなく「きりーつ!」とさけんだ。
その日はことわざの“はれものあつかい”というのをじっさいにたいけんした日になった。
じゅぎょうちゅう、プリントをまわしてもらうときも。ひるやすみ、きゅうしょくをもらうときも。ほうかご、かえるときも。
ぶきみな、こわいもの見たさな目で1日中見られていた。
こんな日がなんにちかつづいて、なれてしまえば本をよむのにちょうどよかったけど。でもまわりが“おかしいもの”を見るのにあきたらしい。
「なあ、おまえんち、母ちゃんがレンコーされたんだって?」
「レンコー、って何?」
「ケーサツにつれてかれることだよ」
「ケーサツじゃなかったと思うけど」
「なんでわかるんだよ」
「ケーサツはみんなおんなじふくきてるだろ」
「そんなことないぜ、おまえ、そんなことも知らねーのかよ」
「そーだそーだ、おれ、テレビで、ケージドラマでやってるの見たぜ」
クラスで一番うるさいやつらが何人かで口々にはやし立てはじめた。
「お前の母ちゃんハンザイシャー」
「その子供もあぶないヤツー」
「なぁなぁ何やってつかまったんだよ」
「ころし、ユーカイ、ゴートー?」
「ちげーよ、インターネットつかえなくしたんだぜ?」
「うわ、すげーめいわく。おれのとうちゃん、おまえのかあちゃんのせいでしごとなくなっちゃったのか?」
「やーいやーい、ハンザイシャの息子ー」
ほかのヤツも知らないふりをして、ひとこともききのがさないようにしているのがまるわかりだった。
「おかあさんは何もやってないもん!」
ほんとうだ。だって、インターネットを使えなくしたヤツ、とはおれのことなのだから。
その日から、先生がいなくなるといつも、こんな感じではやされつづけていた。
そして夏休みになった。やっとあいつらとばかばかしいオシモンドウをしないですむようになる。
先生の話がおわると同時にきょうしつから飛び出して、まだこんでいない下足室でうわばきをはきかえてくつぶくろにつっこむ。
あとは早くおかあさんが帰ってくればいいのにな。
8
かんぜんにはもとにもどってないけど、なんとかHTTPやSMTP、IMAPとかのむかしからあった機能はぜんぶ1から作り直してつかえるようになったインターネット。
紙の資料で残っていたものほど昔からある基本的なインターネットの機能である。インターネットが完全に使えなくなったことは一般に公開されてから今までなかったため、開発当時の古い仕様のままの使いづらい機能はこれを機に再設計してリニューアルすることになったらしい。
再設計がはじまっていなかったのでほとんど一人で作り直したといっていい、リモートデスクトップサーバーのかんせいどにうれしくなった。
早くこれをおかあさんに見せたいな。
そんなことを思いながらいつものようにニュースサイトをのぞいたら、トップに「旧インターネット破壊のウイルス、オリジナル発見」というページができていた。
どうせかんちがいでさわいでいるんだろう、とリンクをクリックした。
だけど。
にせものでも、ウソでも、かんちがいでもなかった。
おれがかくしたハードディスクが見つかってしまったのだった。
—————————————
「旧インターネット破壊のウイルス、オリジナル発見」ニュース掲示板(仮)
昨日未明、東京都内の区立小学校の情報教室に設置された生徒用簡易端末から、ハードディスクが発見された。
リース契約が満了したため業者が小学校から回収した古い端末を分解中に、契約書に記載のないハードディスクを1台の端末から見つかった。担当者が不審に思い小学校に問い合わせたが、小学校側も関知していなかったため、遺失物として警察に届け出た。
警察が中身を確認しようとしたところ、ハードディスクに書き込まれたデータのなかにウイルスと思われる複数のプログラムのソースコードと思われるものが見られたという。
警察関係者によると、ウイルスのソースコードのほかに、そのウイルスが出力したと思われるログや、旧インターネット崩壊前に不法侵入を受けた企業のサーバーから取得されたらしき大量のファイル群、崩壊直前に侵入された米軍サーバーに保存されていたファイルのコピーが見つかった。
旧インターネット大規模破壊事件の終幕に大きく近づいた。
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1 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:03 ID:qsernk1PeYjjazzwIyu6
おっしゃーこれで俺たちの憩いの場を破壊した奴を袋叩きにできるぜ
2 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:05 ID:evoyeddme23foefTHxd&
このウイルスのソース、見てみたいな。
どんなことをやればあんな短時間であれだけでかいネットワークを破壊しつくせるのか
3 名無し@大破壊 20XX.08.01-09:05 ID:vzxryzq&N7qduu9wgmbV
げ、やべ、どっかににげねぇと、おれが犯人DAZE☆
—————————————
ここまでよんで、これ以上、文字を追いかけることにたえられなくなった。
どうしよう、たぶん、これはおれのハードディスクだ。
おれが出した学校の宿題とか、すぐにかいしゅうするつもりだったから消していない。
あのとき、ウイルスがもったいないから、とか言って消さずにそのままかくすんじゃなかった。物理的に壊して、二度と誰にも見れないようにしておけばよかったんだ。
いつのまにか、体中にとりはだが立っていた。
こんこん
「……!?」
なにもおかしいところのない、ききなれたノックの音。こんなにびくついているのは、きっとそとにたっているハウスキーパーのおばさんがこわいからだ。
「ゆうきくん、おきゃくさまがいらっしゃってるわよ、ちょっときてあいさつしなさい」
「……おばさん、ちょっとねつがあるみたいなんだ。かぜかもしれないから、うつさないようにねてるよ」
ねているように見せるため、あしおとを立てないように歩いてそっとふとんにもぐりこんだ。
「いいからいらっしゃい。仮病だってことはとっくにわかってるのよ」
「……おばさん?」
「入るわよ」
「……!? だめ……!!」
戸があかないようにおさえに行こうとおもったけど、それよりはやくおばさんが入ってきた。
「貴方はあの子を抑えていてちょうだい」
「はっ、中尉」
そういうと、おばさんは続いて入ってきた、黒くてごつい服を着ている人に通り道をあけ、自分はおれのパソコンへまっさきにむかう。
「ダメ……それは」
ふとんをはねのけておばさんに飛びつこうとしたが、それより早く黒服に押さえつけられてしまう。
「ん……っ、|ああえおおおあおう《はなせよこのやろう》……っ」
「じたばたするなよ、真犯人」
「…………!!」
「中尉、やっぱりこいつが犯人らしいですぜ。一瞬動作が止まりました。これであの方はさらに名を上げます」
「そうね。でも、こいつに自分が犯人だと認めさせることが先よ」
「はっ」
「逃げられないようにしっかり拘束しておきなさい」
「了解致しました」
おばさんは不気味にニヤニヤしながらおれのパソコンをいじる。
「いいわ、連れて行きなさい、私はあとから行くわ。このコンピュータから抜ける情報は抜いておかなければ」
「容疑者を基地に護送・監禁。了解致しました」
「あ、そうそう。その子にはまだ手を付けちゃダメよ、それは私のとあの方の楽しみなんだから」
「よく分かっております、では後ほど、失礼いたします」
「むー、んんー」
からだをひねって逃げようとしたが、黒服はびくともしなかった。無理やり後ろ手にテジョーをかけられ、頭から黒い袋をかぶせられてしまう。
しゅっとスプレーの音がして、なぜかすぐにねむくなる。
こんらんしながら、でもねむさに勝てはしなかった。
ふと気が付くと知らない、せまくてあかるいまっしろなへやだった。
いすにすわらされたうえでがんじょうにしばられていて、手足の先がしびれていた。
だれかにほどいてもらおうにも、いなければどうしようもない。
「誰かいますかー!!」
さけんでみた。何のはんのうもかえってこなかった。
こわくなって、なきそうになって。
ぼやけているきおく、直前に何があったのか分かればきっとこわくなくなる。思い出そうとあたまをしぼって、思い出した。
ネットで犯人が見つかったってページを見つけて。
おかあさんの代わりにきたハウスキーパーのおばさんが黒服の知らない人を連れてきて。
テジョーをかけられてふくろをかぶせられて。
スプレーの音がしてなぜか眠たくなって。
なぜか、ぞっとした。ここは……もしかしておかあさんが連れてこられたところ……?
つまり、……おれはつかまってしまったのか……?
これから、とりしらべをうけるのか……?
こわかった。ちょくぜんのきおくなんて、おもいだすんじゃなかった。そう思っている、と。
ガチャ
びくっ、からだとめせんがむいしきにはね、へやに入ってきた人を見つめた。
「おばさん……」
「ふっ、ここでは“中尉”とお呼び」
「おれになにをするんだ?」
「立場をわきまえなさいな?」
足音を立てて近づいてくるおばさん。気を取られている、と
バチッ
背後で|はじけた《・・・・》音がして。そこで、ふっと記憶が途切れる。
9
上を向いたまま、病院の白い、清潔な天井を眺めていた。埋め込まれたLED電球の光が窓から差し込む太陽光に負けている。
何で私はここにいるんだろう……?
ここ数日の記憶が混乱している。
最後に子供たちを見たのは、家を出たのは何時のことだっただろう。最後に空を見たのはどこだっただろう。最後にあった人は誰だっただろう。最後に食べたまともな食事は何だっただろう。最後に…………。
5W1Hの質問を考えて確認する前に、病室の扉が開いた。
「やあ、こんにちは。気分はいかがかな?」
どうしてか、私は入ってきた彼を目にした途端、憎しみと怒りを覚えた。自分自身の感情の動きが理解できない。
「――」
こんなに感情が動いているのに、彼の名前が分からない。分かるのは、呼ばれ方だけ。
「少佐……」
ニヤリ、と彼は笑う。
「君への“事情聴取”は終わった。君は容疑者じゃなくなった」
「……事情聴取?」
「ほう、今回の新薬はきちんと効いているようだな。君は記憶を持っていない」
「私に何かしたの?」
「ふふ、今さら鳥肌を立ててもしようがないではないか」
この男に、私は何を聞けばいいのだろうか。
この男は、私の知らない何を知っているのだろうか。
「君はしばらく入院することになる。少々栄養状態がよくないそうだからな。治療費については気にすることはない」
まぁ当然の話だがな、と可笑しそうに顔をゆがめる。
「何時退院できるの。早く帰らないと、子供が」
「そうだな、明日か明後日には退院できるだろう」
「そう……ですか」
私は質問を続けるために、ため息を一つ吐いて冷静になれるよう努めた。上手くいかなかったが。
「先ほど、あなたは事情聴取、とおっしゃいましたが、私はどのような事件の容疑者だったのですか」
薬が効きすぎているようだな、開発部に伝えておかなければ。そう呟いて、私の疑問に答えはじめる。
「君は、旧インターネット大規模破壊事件を知っているかね? それの容疑者だったのだ」
「……」
「だが、証拠が見つかった。その証拠が君の犯行ではないことを証明したのだよ。ウイルスと思われるプログラムの本体と侵入ログが保存されたハードディスクが見つかってね。それに指紋がべっとりと付着していたのさ」
「そうなんですか。子供たちはどうしていますか?」
「娘さんは元気にしている、との報告を受けている」
「……息子は……?」
ふふっ、と不気味に笑う。ニヤニヤ笑いの感じが悪くなる。
「……息子はどうしているんですか!?」
「息子さんかい? 知らないほうが身のためだと思うが?」
「……どういうことですか。息子に何をしたんですか!?」
「まだ何もしていないさ。まだ、ね」
「……まだ、って」
「これから、取り調べなのだ。本当はあまり長居出来ないのだがな」
「……何故、何で? そもそもあなたたちは警察ではないでしょう!?」
「いかにも。私はれっきとした、産業情報庁の構成員だ」
「もう一つの質問にも答えて。息子に何をするつもりなの」
「事件の容疑者として、取り調べるのさ。君と違って確実な証拠が存在する。早く自白しないと、大変な目に合うだろうな」
「容疑者……なんて事件の……? 警察でもないあなたたちが取り調べる事件なんて、そうそう……」
ないでしょう?
そう続けようとして、大規模な事件、日本にできた諜報機関が自ら取り調べる可能性のある事件を思いついた。
「そんな、まさか。あはは、そうよ小学生が、まだ小学3年生の子供が起こせるような事件じゃないわよありえないわよ私ですら出来もしない――」
ついにベッドの横に立っていた少佐が腹を抱えて笑い出した。
血の気が去っていく自覚を得る。
「そう、ご想像の通りだよ。君の息子が、旧インターネット大規模破壊事件を起こした張本人さ」
「……」
「早く会えることを神に祈るがいい」
くはははははっ
こらえきれないように声を上げて笑い出した。腹を両腕で抱えて笑いながら、目は“取り調べ”を楽しみにしている事を物語っている。
取り調べ。きっと、言葉通りのものではないだろう。おそらく、拷問に近い代物のはずだ。それを受けた私から記憶を奪う必要があったのだから。
私は目の前に立つこの男が、心底怖くなった。30cm手を伸ばせば届く、そんな距離に狂人がいる。
「出て行って、今すぐ、早く!!」
声が無意識に掠れ、ひきつっていた。
彼の笑い声がぴたりとやみ、表情がなくなる。
「おやおや嫌われたものだな。私の機嫌を害すと、君の息子が痛い目にあうのにね?」
「ひっ!?」
「ふっ、まあいい。では、ご希望通り、私は出て行こう。……もう私と会うことはないだろう。お互いのために、二度と会うことがないといいな」
「な、ちょ、そんな、待っ」
私を一瞥して、大股で出て行く。その背中を、動かない体を恨めしく思いながら私は睨んでいた。
<無題> Type1 第2章原稿リスト
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第1章
1
ざわついている教室の中、窓際の席にて。
高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》はのんびりと伸びをしていた時。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
席の隣の葉村ななみに話しかけられた。
入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手だった。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子、いや同級生だ。これまでにも何回か、一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「さすがに試験終了日には勉強もしないでしょ?」
先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減、適当な言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認した。
まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
そう返すと、割と大きい声が、まだそれなりに生徒が残っている教室に響いた。
「いよっし。やっと落とせたー!」
どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞。教室中の注目を集めるほど大きな声を出してしまうほど、はしゃぐことなのだろうか。僕には分からない。
一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!? はやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。
2
その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だっ た。最近の音楽は全然分からなかったためほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
そして今は19時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間店舗営業縮小令が発令され、18時から翌朝6時まではあら ゆる店が閉店することになっていた。既に21時までの深夜営業を許可されたコンビニや、終日稼働の自販機以外、通りに並ぶ店店から漏れる光はない。今日は これ以上街にいても、もう面白くない。
百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商 業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る 光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。
3
面倒なチンピラにからまれた。
「おいそこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目 をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財 布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこと もできない。
もう、逃げられない。
体力が続かない。
諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁った。
一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だけどかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向 くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した 携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
もう嫌、誰でもいい。
誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて……!!
勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
こけた。
捕まる……!
覚悟した、のだが。
追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。やっと手が届いた獲物をゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
彼は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜いた。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
私はパニックになりかけて、道のド真ん中に両手をついて息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえてなんかいなかった。
あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
喧嘩勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちた。
「カノジョのほうはテメェが恋人、だって言ってんだよ」
地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとしたが、すぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄がふっ飛び、コンビニのガラスにぶち当たって地面に落ちる。
夜に吸い込まれる、鈍い衝突音で私は我に返り携帯端末を取り出す。……取り出せない。
映画やドラマでしか見たことのなかった街中でのケンカ騒ぎを前にしているせいか、それも知り合いが巻き込まれているせいか、手が震えてどうしようもなく止 まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。ついに携帯端末を落としてしまった。
地面に携帯端末を置いたままやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たず、焦りだけが積もっていく。
無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心して見ていた。
関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
もしかしたら、彼がさっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
という事は。私は私の囮になってくれた彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの……?
何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの……?
こんなことを考えていたら、いたら、いたら……。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。
――――
やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ……」
振り払おうとするが、山本は。
私たちの想像を超える行動を起こした。
抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
反撃。
上がる野太い悲鳴。
あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ……っ」
一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
そして。3人目のチンピラに、いつの間にか背後に回られていた。コンビニのごみ箱に立てかけられた不法投棄の蛍光灯で背を殴られる。直撃は避けたものの、 破片は避け損ねた彼の背中に刺さる。滑らないように強く握りしめていたチンピラは握力で蛍光灯を握りつぶし、切り口は手を切り裂いて血だらけにした。
もう、私には限界だった。だが、今、目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。
4
背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で地面に両手をついた葉村が、下を向かず懸命に俺らの喧嘩を見続けようと努力しているのが見えた。
責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだけだったら既に錯乱していたかもしれない。
敵の足に噛みつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に叩きつけ、刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっている、形状からしておそらく蛍光灯の欠片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと 180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股 間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
最後の1人はとどめを刺すタイミングをうかがっていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺には追い掛ける力が残されていなかった。
肩で大きく息をつき、コンビニに向けて投げた鞄を取りに行こうとして、バランスを崩して倒れこむ。
うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずって鞄を取りに行こうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
よかった、これで。
「……なあ」
「!? え、な、なに、どうしたの?」
もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの入口に……投げ込んだ……俺のかば……げほっ……鞄、持ってきてくれないか」
出来心が働いて少し演技を入れてみる。
泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すと破片がばらまかれた地面を踏みつけてコンビニの入口へ近づいていった。
心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。
5
ここはどこだろう。
私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
そうだ、私は――。
自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。
彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。
「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「……どういうことですか」
「ご存知ないようですね。……まあいいでしょう。説明します」
先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
まるで、何らかの虐待を受けたような……。
寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
教室で、一人で本を読んでいる。
体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
引き受けないのに、……なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
……それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
6
感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
二度寝せずにさっさと起きやがれ。
人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。僕自身の足もしびれていたし、なにより重さが傷口に響く。
ここは病院のようだ。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ……」
案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、ここって携帯端末使える場所?」
「うん、マナーモードでいいって、先生言ってたよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「……うん」
壁のコンセントにプラグをさし、PC側の端子を渡してもらう。
案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て葉村はやることを思い出したように、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
そう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事のくせにさ……」
ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きと親密なコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを半秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。画面いっぱいに16進数の数列が流れては消えていく。
想定より単純な暗号化。
「割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
総当たりで計算をしても、あと5分と暗号キーが持たないと表示された棒グラフが無情に告げる。
と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。医師は僕とPCを一瞥してから言葉を発した。
「……おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。私が、担当医の高橋というものです」
「初めまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「よろしくお願いします。……あ、お座りになってください。君もな?」
そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。命令者の予想より早く仕事を終わらせたと、そう自慢するようにカーソルが同じ場所で点滅している。
「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、……言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目に遭いますので」
まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
この数分で、医師は一気に疲れたようだった。
「そうですか。何かありましたら、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
それだけ言い残すと一礼して病室を出ていく。
包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返した。
葉村はといえば、呆けたように座っていた。医師が出て行き、扉が完全にしまってから。
「……ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「さっきの、が何を指しているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
一拍。
何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。……いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「……何を言ってるの? 意味が分からない。日常、ってどういうこと?」
「言葉通りだ。君の――」
途中で遮り、葉村は言葉を継いだ。
「いいよ、私はなんとしてでも聞き出す、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「……はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、 おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとする の? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思い やりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、あんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。……好 きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかし い。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
一気に畳みかけられた。
歪んでいる? まあそうかもしれないな。
感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。……ちょっと頭冷やしてくる」
そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
溜息を一つ。
PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「……お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」
しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
そして最終確認。
「でも、」
一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
少しづつ、葉村の表情が変化する。
何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
ああ、これは泣くな。
そう思った直後。涙を流す直前。
「……そんなに私に信用がないの……?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない……」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら……」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は……どこやったっけ」
制服のズボンに入れたままだったか。
一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
……お前はサザエさんか。
6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに……」
私が居たかったんだもん。
「最後、なんて言った?」
最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「……いいの、気にしないで。何も言ってないから」
引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「……そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。
第1章
1
ざわついている教室の中、窓際の席にて。
高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》はのんびりと伸びをしていた時。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
席の隣の葉村ななみに話しかけられた。
入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手だった。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子、いや同級生だ。これまでにも何回か、一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「さすがに試験終了日には勉強もしないでしょ?」
先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減、適当な言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認した。
まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
そう返すと、割と大きい声が、まだそれなりに生徒が残っている教室に響いた。
「いよっし。やっと落とせたー!」
どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞。教室中の注目を集めるほど大きな声を出してしまうほど、はしゃぐことなのだろうか。僕には分からない。
一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!? はやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。
2
その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だった。最近の音楽は全然分からなかったためほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
そして今は19時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間店舗営業縮小令が発令され、18時から翌朝6時まではあらゆる店が閉店することになっていた。既に21時までの深夜営業を許可されたコンビニや、終日稼働の自販機以外、通りに並ぶ店店から漏れる光はない。今日はこれ以上街にいても、もう面白くない。
百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。
3
面倒なチンピラにからまれた。
「おいそこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこともできない。
もう、逃げられない。
体力が続かない。
諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁った。
一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だけどかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
もう嫌、誰でもいい。
誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて……!!
勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
こけた。
捕まる……!
覚悟した、のだが。
追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。やっと手が届いた獲物をゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
彼は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜いた。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
私はパニックになりかけて、道のド真ん中に両手をついて息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえてなんかいなかった。
あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
喧嘩勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちた。
「カノジョのほうはテメェが恋人、だって言ってんだよ」
地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとしたが、すぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄がふっ飛び、コンビニのガラスにぶち当たって地面に落ちる。
夜に吸い込まれる、鈍い衝突音で私は我に返り携帯端末を取り出す。……取り出せない。
映画やドラマでしか見たことのなかった街中でのケンカ騒ぎを前にしているせいか、それも知り合いが巻き込まれているせいか、手が震えてどうしようもなく止まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。ついに携帯端末を落としてしまった。
地面に携帯端末を置いたままやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たず、焦りだけが積もっていく。
無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心して見ていた。
関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
もしかしたら、彼がさっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
という事は。私は私の囮になってくれた彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの……?
何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの……?
こんなことを考えていたら、いたら、いたら……。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。
――――
やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ……」
振り払おうとするが、山本は。
私たちの想像を超える行動を起こした。
抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
反撃。
上がる野太い悲鳴。
あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ……っ」
一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
そして。3人目のチンピラに、いつの間にか背後に回られていた。コンビニのごみ箱に立てかけられた不法投棄の蛍光灯で背を殴られる。直撃は避けたものの、破片は避け損ねた彼の背中に刺さる。滑らないように強く握りしめていたチンピラは握力で蛍光灯を握りつぶし、切り口は手を切り裂いて血だらけにした。
もう、私には限界だった。だが、今、目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。
4
背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で地面に両手をついた葉村が、下を向かず懸命に俺らの喧嘩を見続けようと努力しているのが見えた。
責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだけだったら既に錯乱していたかもしれない。
敵の足に噛みつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に叩きつけ、刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっている、形状からしておそらく蛍光灯の欠片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
最後の1人はとどめを刺すタイミングをうかがっていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺には追い掛ける力が残されていなかった。
肩で大きく息をつき、コンビニに向けて投げた鞄を取りに行こうとして、バランスを崩して倒れこむ。
うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずって鞄を取りに行こうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
よかった、これで。
「……なあ」
「!? え、な、なに、どうしたの?」
もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの入口に……投げ込んだ……俺のかば……げほっ……鞄、持ってきてくれないか」
出来心が働いて少し演技を入れてみる。
泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すと破片がばらまかれた地面を踏みつけてコンビニの入口へ近づいていった。
心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。
5
ここはどこだろう。
私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
そうだ、私は――。
自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。
彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。
「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「……どういうことですか」
「ご存知ないようですね。……まあいいでしょう。説明します」
先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
まるで、何らかの虐待を受けたような……。
寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
教室で、一人で本を読んでいる。
体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
引き受けないのに、……なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
……それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
6
感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
二度寝せずにさっさと起きやがれ。
人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。僕自身の足もしびれていたし、なにより重さが傷口に響く。
ここは病院のようだ。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ……」
案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、ここって携帯端末使える場所?」
「うん、マナーモードでいいって、先生言ってたよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「……うん」
壁のコンセントにプラグをさし、PC側の端子を渡してもらう。
案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て葉村はやることを思い出したように、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
そう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事のくせにさ……」
ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きと親密なコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを半秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。画面いっぱいに16進数の数列が流れては消えていく。
想定より単純な暗号化。
「割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
総当たりで計算をしても、あと5分と暗号キーが持たないと表示された棒グラフが無情に告げる。
と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。医師は僕とPCを一瞥してから言葉を発した。
「……おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。私が、担当医の高橋というものです」
「初めまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「よろしくお願いします。……あ、お座りになってください。君もな?」
そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。命令者の予想より早く仕事を終わらせたと、そう自慢するようにカーソルが同じ場所で点滅している。
「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、……言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目に遭いますので」
まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
この数分で、医師は一気に疲れたようだった。
「そうですか。何かありましたら、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
それだけ言い残すと一礼して病室を出ていく。
包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返した。
葉村はといえば、呆けたように座っていた。医師が出て行き、扉が完全にしまってから。
「……ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「さっきの、が何を指しているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
一拍。
何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。……いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「……何を言ってるの? 意味が分からない。日常、ってどういうこと?」
「言葉通りだ。君の――」
途中で遮り、葉村は言葉を継いだ。
「いいよ、私はなんとしてでも聞き出す、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「……はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとするの? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思いやりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、あんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。……好きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかしい。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
一気に畳みかけられた。
歪んでいる? まあそうかもしれないな。
感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。……ちょっと頭冷やしてくる」
そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
溜息を一つ。
PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「……お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」
しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
そして最終確認。
「でも、」
一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
少しづつ、葉村の表情が変化する。
何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
ああ、これは泣くな。
そう思った直後。涙を流す直前。
「……そんなに私に信用がないの……?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない……」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら……」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は……どこやったっけ」
制服のズボンに入れたままだったか。
一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
……お前はサザエさんか。
6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに……」
私が居たかったんだもん。
「最後、なんて言った?」
最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「……いいの、気にしないで。何も言ってないから」
引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「……そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。
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第1章
1
ざわついている教室の中、窓際の席にて。
高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》はのんびりと伸びをしていた時。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
席の隣の葉村ななみに話しかけられた。
入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手だった。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子、いや同級生だ。これまでにも何回か、一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「さすがに試験終了日には勉強もしないでしょ?」
先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減、適当な言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認した。
まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
そう返すと、割と大きい声が、まだそれなりに生徒が残っている教室に響いた。
「いよっし。やっと落とせたー!」
どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞。教室中の注目を集めるほど大きな声を出してしまうほど、はしゃぐことなのだろうか。僕には分からない。
一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!? はやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。
2
その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だった。最近の音楽は全然分からなかったためほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
そして今は19時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間店舗営業縮小令が発令され、18時から翌朝6時まではあらゆる店が閉店することになっていた。既に21時までの深夜営業を許可されたコンビニや、終日稼働の自販機以外、通りに並ぶ店店から漏れる光はない。今日はこれ以上街にいても、もう面白くない。
百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。
3
面倒なチンピラにからまれた。
「おいそこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこともできない。
もう、逃げられない。
体力が続かない。
諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁った。
一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だけどかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
もう嫌、誰でもいい。
誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて……!!
勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
こけた。
捕まる……!
覚悟した、のだが。
追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。やっと手が届いた獲物をゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
彼は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜いた。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
私はパニックになりかけて、道のド真ん中に両手をついて息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえてなんかいなかった。
あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
喧嘩勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちた。
「カノジョのほうはテメェが恋人、だって言ってんだよ」
地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとしたが、すぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄がふっ飛び、コンビニのガラスにぶち当たって地面に落ちる。
夜に吸い込まれる、鈍い衝突音で私は我に返り携帯端末を取り出す。……取り出せない。
映画やドラマでしか見たことのなかった街中でのケンカ騒ぎを前にしているせいか、それも知り合いが巻き込まれているせいか、手が震えてどうしようもなく止まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。ついに携帯端末を落としてしまった。
地面に携帯端末を置いたままやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たず、焦りだけが積もっていく。
無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心して見ていた。
関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
もしかしたら、彼がさっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
という事は。私は私の囮になってくれた彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの……?
何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの……?
こんなことを考えていたら、いたら、いたら……。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。
――――
やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ……」
振り払おうとするが、山本は。
私たちの想像を超える行動を起こした。
抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
反撃。
上がる野太い悲鳴。
あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ……っ」
一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
そして。3人目のチンピラに、いつの間にか背後に回られていた。コンビニのごみ箱に立てかけられた不法投棄の蛍光灯で背を殴られる。直撃は避けたものの、破片は避け損ねた彼の背中に刺さる。滑らないように強く握りしめていたチンピラは握力で蛍光灯を握りつぶし、切り口は手を切り裂いて血だらけにした。
もう、私には限界だった。だが、今、目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。
4
背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で地面に両手をついた葉村が、下を向かず懸命に俺らの喧嘩を見続けようと努力しているのが見えた。
責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだけだったら既に錯乱していたかもしれない。
敵の足に噛みつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に叩きつけ、刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっている、形状からしておそらく蛍光灯の欠片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
最後の1人はとどめを刺すタイミングをうかがっていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺には追い掛ける力が残されていなかった。
肩で大きく息をつき、コンビニに向けて投げた鞄を取りに行こうとして、バランスを崩して倒れこむ。
うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずって鞄を取りに行こうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
よかった、これで。
「……なあ」
「!? え、な、なに、どうしたの?」
もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの入口に……投げ込んだ……俺のかば……げほっ……鞄、持ってきてくれないか」
出来心が働いて少し演技を入れてみる。
泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すと破片がばらまかれた地面を踏みつけてコンビニの入口へ近づいていった。
心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。
5
ここはどこだろう。
私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
そうだ、私は――。
自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。
彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。
「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「……どういうことですか」
「ご存知ないようですね。……まあいいでしょう。説明します」
先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
まるで、何らかの虐待を受けたような……。
寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
教室で、一人で本を読んでいる。
体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
引き受けないのに、……なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
……それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
6
感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
二度寝せずにさっさと起きやがれ。
人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。僕自身の足もしびれていたし、なにより重さが傷口に響く。
ここは病院のようだ。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ……」
案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、ここって携帯端末使える場所?」
「うん、マナーモードでいいって、先生言ってたよ」
「そうか。じゃあ悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「……うん」
壁のコンセントにプラグをさし、PC側の端子を渡してもらう。
案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て葉村はやることを思い出したように、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
そう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事のくせにさ……」
ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きと親密なコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを半秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。画面いっぱいに16進数の数列が流れては消えていく。
想定より単純な暗号化。
「割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
総当たりで計算をしても、あと5分と暗号キーが持たないと表示された棒グラフが無情に告げる。
と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。医師は僕とPCを一瞥してから言葉を発した。
「……おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。私が、担当医の高橋というものです」
「初めまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「よろしくお願いします。……あ、お座りになってください。君もな?」
そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。命令者の予想より早く仕事を終わらせたと、そう自慢するようにカーソルが同じ場所で点滅している。
「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、……言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目に遭いますので」
まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
この数分で、医師は一気に疲れたようだった。
「そうですか。何かありましたら、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
それだけ言い残すと一礼して病室を出ていく。
包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返した。
葉村はといえば、呆けたように座っていた。医師が出て行き、扉が完全にしまってから。
「……ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「さっきの、が何を指しているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
一拍。
何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。……いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「……何を言ってるの? 意味が分からない。日常、ってどういうこと?」
「言葉通りだ。君の――」
途中で遮り、葉村は言葉を継いだ。
「いいよ、私はなんとしてでも聞き出す、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「……はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとするの? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思いやりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、あんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。……好きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかしい。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
一気に畳みかけられた。
歪んでいる? まあそうかもしれないな。
感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。……ちょっと頭冷やしてくる」
そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
溜息を一つ。
PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「……お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」
しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
そして最終確認。
「でも、」
一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
少しづつ、葉村の表情が変化する。
何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
ああ、これは泣くな。
そう思った直後。涙を流す直前。
「……そんなに私に信用がないの……?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない……」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら……」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は……どこやったっけ」
制服のズボンに入れたままだったか。
一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
……お前はサザエさんか。
6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに……」
私が居たかったんだもん。
「最後、なんて言った?」
最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「……いいの、気にしないで。何も言ってないから」
引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「……そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。
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第4章
1
リハビリがてら、久々に本屋へ行こうと新宿まで足を延ばしたその帰り。乗った地下鉄副都心線は座席が半分ほど空いていた。やがて発車ベルが鳴り新宿三丁目を発車して、次の駅よりも手前のトンネルの中で、遠くでかすかに爆発音がした。読んでいた本から顔をあげると同時、電車が前触れなく停止し車内・トンネル内の灯りが一斉に消えた。
あたりが闇に包まれて、一瞬音もなくなった。
最初に聞こえた音は驚いた赤ん坊の泣き声で、暗い空間に反響し始める。
「…停電?」
それからそんな声がすぐ近くで聞こえた。
そのあとはもう、誰がなんて言っているのか分からない、ざわざわした声の集合がだんだん大きくなっていく。
僕はといえば、座席に座ったまま、目が暗闇になれるのを待っていた。しばらくそのまま動かずにいたが、蓄光塗料が塗られた消火器の位置を示すシール以外に携帯端末のバックライトという強力な光源が出てきたあたりで、足元に置いていたリュックサックのチャックを開ける。
自分の端末のバックライトで中身を確認しながら、山に行くときに入れて取り出すのを忘れていた応急装備のヘッドランプを取り出した。
旧式の超々高輝度LEDだったがトンネルを歩くのには十分役に立つだろう。
無造作に点灯しかけて、パニックになりかけたほかの乗客に奪われたくはないなと思い直した。僕は携帯端末のバックライトを頼りに電車の先頭車両へ歩き出す。非常用ドアコックを操作して車両の扉を開け、線路に飛び降りる。ここは単線シールド工法のトンネル、もし通電しても逆から電車がやってくることはない。
カーブで電車から見えなくなるまでバックライトの細い光を頼りにして、完全に見えなくなったところでヘッドランプを点けた。
暗いトンネルを半径5メートルしか照らせない灯りを頼りにてくてく歩いていった。電車内の動騒が届かなくなった静かな暗闇の中、どこからか重く低い衝撃が聞こえる。それはRPGのダンジョンの中のBGMみたいで、柄にもなく状況を楽しんでいる自分がいた。
不意にトンネルが広くなった。線路が分岐している。東新宿の駅にたどり着いたようだ。地上へ上がって何が起きたのか確認するか、それとも駅に設置されている非常用情報端末からインターネットにつないでから地上へ戻るか。ホームドアのせいで上に上がれないで線路を歩きながら考えていると、暗闇にも関わらずドタドタと階段を駆け下りてくる足音がした。あわててヘッドランプを消す。
「暗闇なのに、光源なしで階段を駆け下りる…。駅に暗視装置なんて用意してあるか、普通?」
嫌な予感がする。ホームの真下にある待避スペースの奥に隠れてやり過ごすことにした。灯りをつけられないから手探りだ。何とかもぐりこんだところで、線路に何人かが飛び降りてくる気配を感じた。息を殺してよりまるまった。
首筋に水が垂れてくる。危うく叫ぶところだった。反射的に腰を上げ、頭を打って舌をかんでしまった。声が出ずに済んだからよしとするが、口の中まで痛すぎる。
「~~~~~~~~っ」
痛いのは刺された背中だけで足りているのに。
気配はあたりを探っていたようだったが、やがて僕が歩いてきた方向へ去っていった。
それでも120を数えてじっとしていたが、腰が痛くなってきたので線路へ戻ることにする。ホームの下にあった接続ボックスを探り当て、持っていたPCと接続した。
接続したことがばれないようにウイルスを流し込み、それからインターネットへつなぐ。内部ネットワークにしか入れないように設定されていたが、相互通信をするためのサーバーに侵入すると簡単に外部ネットワークへ回線が開いた。
自宅地下で稼働しているうちのサーバーから、システムを開発するためにもらった正規のアカウントを使って産業情報庁のサーバーにアクセス。一つ目のウィンドウがログを示す文字に埋め尽くされる。2つ目のウィンドウで軍事衛星が撮影した衛星画像を要求し、3つ目のウィンドウで警察・自衛隊・米軍の命令系統の記録をざっと検索する。
分かったのはとんでもないことが起こった、という事。東京が敵国に爆撃されたらしい。
深呼吸をしてからいつも通りの人間離れしているらしい速さでキーボードを叩いてリモートサーバーからログアウト。文字列がいつも通り律儀に|さよなら《Bye.》を伝える。
意識していつも通りを心掛けないと、葉村に話した、昔のような目に遭うような気がした。接続していたログを抹消し、何事もなかったかのように接続ボックスを閉じる。
端末と通信ケーブルをリュックにしまい込み、ヘッドランプを低輝度に切り替えて池袋方面のトンネルに駆け寄る。
地上は今も、爆撃の危険にさらされている。爆撃された時、安全性が高いのは防空壕として使えるように設計・補強された地下鉄のトンネルの中だ。僕はトンネルを行くことにした。
何時、さっきの気配たちが帰ってくるか分からない。後ろから狙われる可能性はできるだけ下げておきたい。だから、僕は暗いトンネルをしっかり確実に、走り出す。
僕の足音と共に、“日常”が何処かへ逃げ去っていくような気がした。
2
副都心線で要町駅まで、そこから有楽町線の線路に出て護国寺駅へ。
一時期はまっていたピッキングスキルを活用して、護国寺駅のポンプ室に侵入し、そこから雨水管に潜り込む。コケやらゴミやらネズミやらが支配する臭いトンネルを通って自宅の地下、簡易下水処理施設までたどり着いた。
ここも電気が来ていないようだ。壁の隅にある発電機を起動させる。軽い唸りが生まれ、これで地下施設は電気が使えるようになった。
天井の蛍光灯を点ける。
「かなり汚れたな…夏服だからうちでも洗えるか」
地上の惨状を見る限り、学校に通える状況なのかは疑問だが。
すっかり泥だらけのビショビショになってしまった制服を脱いで、処理室のロッカーに
置いてあるジャージに着替える。
10畳ほどの下水処理装置点検準備室。そこは僕の、もう一つの自室だった。
3台のワークステーション、1台のノートパソコン。20型のディスプレイが3枚、37型のテレビ。壁の2面を埋め、通販で買った可動式の本棚5つにぎっしり詰め込まれ、それでもおさまらずに床に積まれた本本本本…。
そして部屋の隅に地上へ上がる梯子。その終点、一番下に人がうずくまっている。僕は人影に駆け寄った。
「…母さん? ちょっと母さん、ねぇ」
「…うぅ、…あ、祐樹?」
「うん、そう。ただいま」
「ああ、お帰りなさい」
「梯子から落ちたのか、怪我はない?」
「大丈夫、平気平気、ちゃんと…っ」
立ち上がろうとして、足をかばってバランスを崩す。母さんは梯子の段にとっさにつかまったので転ぶことはなかったが、見ているこちらとしてはヒヤッとした。
「ちょっと足見せて」
「え、そんな、平気平気。30分も座ってればへっちゃらになるわ」
「…捻挫してちょっと腫れてる、全然大丈夫じゃない」
僕はパソコン机の引き出しから毛布を取り出して、本の間の狭い床に敷く。
「ほら、肩貸すから。床にいつまでも座ってると体に毒だよ」
「ありがとう」
母さんを毛布の上に連れて行って座らせ、応急セットを取り出した。
「ほら、湿布貼るから足出して」
「…すっかり頼もしくなったのねぇ、母さん、嬉しいわ」
「馬鹿なこと言ってないで。どれくらいの高さから落ちたの」
「そんな高くなかったんだけど。外でサイレン鳴り始めたから地下にいようと思って降りてきたんだけど。あと何段、ってところで停電しちゃって油断して、つるっと、ね」
「サイレン、って空襲警報?」
「多分ね。私も初めて聞いたもの。テレビでは聞いたことあったけど」
「そうか。…話を戻すけど。いつまでも若いわけないんだから、もうちょっと年相応の気はまわして欲しいな」
「まっ、失礼な」
「40台になったんだから、もうおばさんって言われても仕方ない年なんだよ」
「老けて見えても心は若いの、息子にそんなこと言われるなんて、心外だわ」
「心配してもらえているだけ良いと思って」
「あなたはまだ未成年です。親に心配をかけられる立場なんだから。せめてそういうのは成人してからになさい」
周りの空気が和やかなものに変わっていく、そんな気がした。
顔をあげると、母さんと目が合った。するっと気が抜けて、知らず知らずのうちに張っていた緊張が取れていく。
「ん、出来た。あんまり激しい動きしないように」
「言われなくても、湿布貼ってる間はしませんー」
せっかく息子に張ってもらったんですもの。
子供みたいに顔全体で笑いながらそんなことを言う。
「でも、ありがとう」
何故か、気恥ずかしくなった。
1リットルの電子ケトルに水――もちろん水道水のほうだ――を満タン入れてスイッチを入れる。
同時に全ディスプレイをスリープモードから復帰させ、全部マスター|WS《ワークステーション》につなぐ。いつも持ち歩いているほうのパソコンも起動し、無線LANに接続。
WS上で並行演算システムを起動。普通のパソコンよりも高性能なWSを3台並行動作させることで、5年位前の最高速スーパーコンピュータ並みの処理をすることができるようになる。
普段は使っているがこれからの処理に必要ない|デーモン《常駐プログラム》をまとめて停止させる。
ここで湯が沸けた。ポットにティーバッグを3つ入れて湯を注ぐ。とりあえずパソコンデスクにおいて、床の本を本棚の前により高く積みなおし、場所を作ってから折り畳みちゃぶ台を出した。マグカップ2つと砂糖を取り出し、ポットと一緒にちゃぶ台に置いた。
「これ飲んで温まったほうがいいよ、冷たい床に倒れてたんだし」
「あら、忙しそうなのに、ごめんね」
「別に、忙しいわけじゃないし…」
僕はスプーン1杯の砂糖を入れた自分のカップに紅茶を注いで、WSの前にもう一度向き合う。
クラッキング準備作業の仕上げに、最後片方が処理過多でダウンした時の予備用、クラッキング相手のシステムオペレーターから逆探知された時の攪乱用に、インターネット回線を地下室用のものと地上の山本家全体のものと2重に接続する。リンク確率確認のために回線速度と接続情報を取得、ついでにダミー拡散用の偽造データを作成。
深呼吸を一つ。
準備作業半自動化プログラムが進行度を表す棒グラフを100%にするのを待つ間、肩を回しておく。
今日のクラッキングの目的は、先の爆撃の情報を得ること。目標を今一度明確に設定する。
棒グラフが伸び切った。
Enterを押下、クラッキングツールを作業準備状態から侵入状態に切り替える。
3つのディスプレイに、効率的に作業を進める事に適した画面配置を行う。
メイン画面で補助AIを起動。自己診断ログが一瞬にして一つの小画面を埋め尽くし、|コマンド《命令》を待つカーソルが出て止まった。
侵入対象に敵国の防衛庁、味方国の国防軍、自国の首相官邸、民間の衛星管理企業を指定する。
AIはコマンドを受領し、指定された相手サーバープログラムのバージョンを検出、最適な方法で侵入を開始した。かなり強固なプロテクトも、3台のWSが全力稼働して暗号鍵をしらみつぶしに逆算。
不正侵入で汚れたログも管理者権限を奪い取ったことで不都合な箇所を全部削除。怪しまれないように関係ないログは消さないように教えたが、きちんと学習しているようだ。続いてAIはバックアッププログラムをまず殺し、敵オペレーターが対処を始める前に他の管理用アカウントをバイパス、本物らしき応答をするボットにシステム操作系を置き換えた。
AIの働きをサイドウィンドウでざっと確認しながら、僕は産業情報庁の|メインフレーム《中枢》に管理用ユーザーでログイン、最上位オペレータ権限を持つアカウントをバックドアとして作成し、再度入りなおす。
目的のデータがどこにあるか分からないため、それらしきファイルは中身をロクに確認せず、片っ端からダウンロードしていく。ファイル数が多く、結構時間がかかりそうだった。
AIによる侵入が終わったサーバーから同じようにデータをダウンロード。どれが目的に合ったファイルか、大量に保存されている文書から自動的に選び出してダウンロードできるほど、僕のAIはまだ賢くない。
毎回の僕の作業を見習いながら少しずつ経験を増やし、いろいろなことができるようになる自動学習ルーチンを入れてある。そう、あと50回ほど同じような経験を積めば、ファイルの選択・取得も任せることが出来るだろうと踏んでいる。
また捕まるのは御免だ。安心して任せられるところだけをAIに任せ、不正侵入時間を減らす。侵入時間が減ればそれだけ、逆探知される可能性が低くなるからだ。
ダウンロードが終わったサーバーから順に回線を切断する。AIによる後始末の確認を済ませる。
手に入れたファイルは膨大な数だ。WSで関連のありそうなキーワードの全文検索をかけ、その間に検索できない画像や動画を荒くチェックしていく。侵入・ファイル取得にかかった時間よりも、成果物の確認のほうが圧倒的に疲れるし、時間がかかる。
単純に腕試しなら確認なんてあっという間だが、今回の目的は情報収集。いわゆるスパイ組織ならそれだけで一つや二つ、専門の部署があるのに、僕の場合は全部一人でこなさなければならない。これは結構な労力を必要とする。
1時間ほど、母さんは散乱している文庫本を読み漁り、僕は得たデータを確認して現状確認をしていた。
どうやらここ数年ずっと争い続けている大陸の敵国からの爆撃によって、東京は副都心と言われる池袋~新宿~渋谷あたりと、交通の中心である上野~東京~日本橋、政府のある霞ヶ関が被害に遭ったらしい。うちの近くは奇跡的に被害が少なかったようだ。ついさっき撮影された衛星写真を見る限り、ぽつんと島のように建物が残っている。
真っ先に妹の学校をチェックした。幸い、建物自体は全部残っていた。学校にいてくれれば、きっと助かっているはずだ。半面、僕が通う学校は体育館に直撃を受けていた。この分だとほかの校舎もガラスが飛び散って授業にならない。きっと数日は休校になるだろう。
しかしそうすると、地下鉄のトンネルで遭遇したあの怪しげな気配は何だったのだろう。警察とか駅員とか、乗客の救助に来た人だったのだろうか。僕もあいつも、直感でその可能性は小さいと思っている。
そしてもうひとつ、若干不確実な重要な情報を見つけた。信ぴょう性を考えながら目頭を揉んでいると、梯子の上の方から物音がした。
ガコッ、とふたを開ける音がする。下りてきたのは妹だけではなかった。妹に連れられ、葉村も一緒だった。
3
普段は無人か、僕一人しかいない地下室。そこに4人の人間が集まっている。
かなり消耗している風だった葉村を母さんの隣に寝かせ、看病を任せる。その間、僕ら兄妹は更に床面積を広げるため、地上に戻って持ってきた段ボールに本を詰めていた。
「いつの間にこんな本が増えたの? いくら片付けても減らないんだけど」
「なんか気が付くと増えてるんだよね。上に仕舞いきれなくなったものから地下に持ってきて積み上げてそのまんまで」
「お金持ってるのは知ってるけど、しまう場所考えて買いなさいよね」
「ごめん」
僕と居るからか、ずっとイライラし通しの妹。後ろから母さんのため息が聞こえた。
そうして床の半分が見えるようになった時、地下に下りてきてすぐ気を失ってしまった葉村が目を覚ました。
「お、起きたか」
「…え? ここ、どこ…、あ、山本…君のお母さん!」
「おはよう。気分はいかが?」
「ごめんなさい、私、どのくらい…」
「30分くらいかな」
「ここは山本家の地下室。覚えてない? あたしとハシゴ降りたこと」
「…思い出した。ありがとう、私、あの時どうすればいいか分からなくなっちゃって、どこもいぐあでなぐっで」
葉村が泣き始め、よく聞き取れなくなってしまった。
「「「……」」」
僕ら家族は黙って顔を見合わせた。視線で思い切り泣かせてやることにしよう、と結論が出た。
妹は地上に戻り、お茶うけになる菓子を取りに。僕は紅茶を淹れなおし。母さんは葉村の背中をさすってやっていた。
しばらくして、葉村が泣き止んだ。相変わらず感情の動きというものがよく分からないが、本人曰く「思いっきり泣いてすっきりした」そうだ。
詳しく話を聞いたところによると、葉村は今時珍しいことに、田舎から親元を離れ、東京に出てきて一人暮らしをしていたという。しかし、葉村のアパートは爆撃で焼失した地域にあった。帰る家がなくなって途方に暮れた彼女は、訪ねたことのある僕のうちにやってきて、しかしインターホンに誰も出ないので――地下室にインターホンの受話器はない――玄関口に座り込んで誰か帰ってくるのを待っていた。そこに妹が帰ってきて家に入れ、地下室に案内したのだ。
僕は、入院しているときに早くうちに帰って料理をしなければならない、と言っていたことを思い出した。どういう事か聞いてみると、葉村のアパートには週に1日2日、お母様がいらっしゃるそうだ。今日は来ない日で、それだけが唯一の救いだと言える。
そこまで聞いて、母さんが僕に、電話をさせてあげるように言った。
「ご両親が心配されているかもしれない。私はずっとここにいたから見たわけじゃないけど、たぶんテレビで速報をやったんじゃないかしら」
「そうだよ、兄さん。電話線が切れてても、兄さんなら電話くらい掛けられるんでしょ?」
例え電話線や通常の光ファイバーケーブルが切れても、地下室のインターネット回線は下水道管を通っているからそう簡単に使えなくなることはない。
「掛けられるけど。たかが電話、そんな大事なことか?」
「大事なことなの。だから兄さんは…」
妹の説教が始まる前に遮る。
「あー分かった分かった、電話ね。葉山、実家の番号教えて」
「…いいの?」
「別に減るもんじゃないし、構わない」
遠慮する葉村から電話番号を聞き出す。パソコンにインカムの端子を差し込み、IP電話ソフトを立ち上げる。
無線LANが地下室のネット経由でインターネットに接続されていることを確認してから、葉村にパソコンごと手渡す。
「電池は1時間くらいなら持つほど充電されてる。家族との電話だ、積もる話があるだろ。気兼ねなく長電話してこい。聞かれたくないのならそこの、鉄扉の向こうですればいい」
「多分冷えるだろうから、この毛布、持ってお行きなさい」
「ありがとうございます。では、ちょっと失礼します」
「ゆっくり電話してきなよ、今度いつ話せるか分からないんだから」
「うん、そうする」
葉村はパソコンとインカムを抱え、さっき僕が入ってきた鉄扉を開けて準備室を出ていった。
しかしすぐに戻ってくる。
「どうした」
「…ねぇ、どうすれば電話を掛けられるの?」
ソフトの使い方が分からなかったらしい。コンピューター音痴め。
就職できないぞ。
そうつぶやいたら、聞きつけた妹に後ろから頭を蹴飛ばされた。
4
葉村が電話している間。山本家の3人はこれからの方針を相談することになった。
「まず、これからも爆撃は続く、と思っていて間違いはないのね?」
「残念なことだが、その通りみたいだ。敵国の奴ら、人海戦術で来るつもりだ」
「どういうこと?」
「国民が養えないほど多いことを逆手に取って、爆撃機を100・1000機の規模で差し向けてきた。1発の能力の大きいミサイルを少数撃ってくるのならこちらの自動迎撃ミサイルで間に合うが、1発の規模が小さくてもそれが多数来るとこちらの迎撃が間に合わない」
「だからあんなにたくさん、爆弾が落ちてきたんだ」
「あれでも一応、迎撃はしたらしいんだがな。焼夷弾1発で焼き払える面積はそれほど大きくない。だからうちの周りみたいに、ぽっかりと被害をほとんど受けない地域ができる。そこはつまり、迎撃が成功した爆撃機の担当範囲だった場所だな」
「なるほど。じゃあ、今回無事だったからと言って次回も切り抜けられる保証はないのね?」
「むしろ次回は、無事な所を狙ってくるだろうね」
「私たちは、焼かれると困るものから、このシェルターになるだけの強度がある地下室に疎開させることが最優先になるのかしら」
「そうね、あたしもなくしたくないもの、いっぱいあるし」
「ではこうしよう。一人がそれぞれの避難させたいものを僕の部屋に持ってくる。一人が地下に、一人が梯子の出口である僕の部屋にいて、持ってきた荷物を地下室に運び込む。交代で役割を替われば効率が上がるだろう」
「うん、兄さんに賛成。お母さんもそれでいい?」
「いい案だと思うわ。誰から上に戻るの?」
「最後でいい」
「じゃあ、あたしがトップバッターになっていい?」
「分かったわ。じゃ、私も一緒に上へ行くわ。まず私が梯子の上で荷降ろしをしましょう」
「母さん、足はもう平気なのか?」
「え、どうしたの」
「さっき慌てちゃって、ハシゴから落ちちゃったの。その時にくじいたんだけど、うん、もう大丈夫」
「ならいい」
鉄扉が開き、葉村が帰ってきた。また目が少し赤くなっている。
「あ、山本のお母さん、私の母が少し話したいって」
「あら、そうなの。…はい、今代わりました。娘さんの同級生の山本祐樹の母でございます。いつもお世話になっております――」
母さんがパソコンを持って、喋りながら鉄扉の外へ出て行った。
「…じゃあ、兄さんにはまず、ここの本をどうにかしてもらおうかな。これじゃ、ものを持ってきても置けないから」
「棚も上から持ち込んでくれないか。あまりダンボールに本を詰めたくない」
「いいわ、分かった」
「なに、何の話?」
電話していた葉村にざっとかいつまんで説明する。
「そういう事。なら、私も下で整理の手伝いをさせてもらおうかしら」
「ダメよ、ななみさんはうちのお客様なんだから。働かせちゃ悪い」
「うぅん、これから短くない間、ここに住むことになると思うの。だから私はお客様じゃない。私もやることはやらなくちゃ」
「本当にいいの?」
「ええ、気にしないで。お姉ちゃんができたとでも思ってくれない? 実は私、可愛い妹ができた気分なの」
「分かった。よろしくね、ななみお姉ちゃん」
「こちらこそ、よろしく」
女の子同士で、何やら話がまとまったらしい。初めて会った時のあの険悪ぶりは何だったのだろうと思ったが、口に出さないでおいた。可愛いどころか凶暴な妹に、更に嫌われたうえ再び蹴られてはたまらない。
発電した電気を荷降ろし用の簡易エレベーター用の200Vに流し込む。急に負荷が大きくなり、地下室の蛍光灯が瞬いた。
鉄扉の向こうから葉村の叫び声が聞こえる。
「ちょっと、私、暗いの苦手なんだからけど!?」
既にいつもの元気を取り戻しているようだ。
「モーター、動いたわよー」
反響して聞きづらくなった母さんの声が梯子の上端から聞こえた。
「この梯子通路、四辺1.5メートルしかないから、あんまり大きなもの降ろして詰まらせるなよ」
そう上に怒鳴り返す。
降ろす荷物をまとめる間、下は暇だ。モーターが動き始める時にはまた蛍光灯がちらつくだろう。それまでの間、僕は先に本を移動させ始めている葉村を手伝うことにした。
僕の本は下水処理装置の操作室に詰め込まれることになった。既に地下室に置いてある本を片っ端から操作室に運び込む。
ここもここで、防水処理がきっちりかかっている場所だ。湿って本が台無しになることはなさそうだった。
葉村は余りの多さに辟易していたみたいだが、僕としては懐かしい本ばかりだ。つい手を伸ばしては葉村に呆れられる。
「にしても、本当に古い本ばっかりだね。それも小説ばっかり、マンガも専門書もない」
「もともとあまり、漫画というものを読まないからな。専門書はたまに使うかも知れないと思って全部上に置いてある。滅多に解説書が必要になることはないけどな」
「専門書って、もしかして。コンピュータ系の技術書と解説書しかないの?」
「その通りだが」
「……。頭痛くなりそう」
「頭痛薬がいるのか?」
「そうだな」
「と言いながら別の本を読み始めない!」
「これ、なかなかいい本なんだぞ、1990年代に書かれた本でな――」
「あーはいはい、それはあとで聞くから、次の運ぼ」
「次って、この本簡単に取り出せなくなるんだぞ…」
「ぶつぶつ言わない」
葉村が手厳しい。
「あ、小包届いてるじゃない。早くほどいてよ、本は私がやっとくから」
「傷つけるなよ、折るなよ、落とすなよ」
「言われなくたって人の本なんだから、雑に扱いませんー」
軽く頬を膨らませて葉村が出て行く。後姿を横目に見ながら地上からの小包からカラビナを外し、上から垂れるロープを軽く引っ張る。先端に結び付けられたカラビナが、梯子の横をするすると上がっていった。
地下に届いたのは鍋2つとおたま、しゃもじ、泡立て器といった調理道具だった。4セットは行ったフォークとスプーン、ナイフ、箸がジャラジャラと鍋底で音を立てた。とりあえず部屋の中央に置いておく。
いつの間にか妹の物は全部おろし終わったらしい。中央に置かれた枕やぬいぐるみ、目覚まし時計やその他こまごました雑貨やアクセサリー。意外と少なかった。
そんなことを思っていると次の小包が届いた。今度は結構重い、液体が入っているようだ。調味料を箱詰めか?
荷物を縛っていた細いひもをほどき、カラビナに括り付けてロープを引っ張る。するする上がっていく。
荷物はあとどれくらいあるのだろう。僕は上にある本だけだが。1000冊もなかったはずだ。ここに下ろしてある冊数と比べれば、たいしたことのない量だ。
5
それから2~3週間。たまに上から爆撃の振動が伝わってくる以外、地下は平和なものだった。
非日常に慣れ、それが日常になるためにはもう少し時間が必要な頃だった。
1日1回の郵便物確認。その日の確認当番は僕だったので、4日ぶりに地上へ戻って郵便受けを覗いていた。
新聞が来なくなって久しい郵便受けに、珍しく投函されていたのは1枚の薄赤色の葉書。
切手の部分が丸い、料金後納郵便の印になっていた。宛名面中央には僕の名前、右には住所。左下には何も書かれていない。裏返して通信面を見た。
想像した通りの内容だった。
憲法特別臨時改正のお知らせ。
戦時特別法の成立。
国民特別徴兵義務について。
ほかにも。醜いほど細かい活字が並ぶ、やたら“特別”の多い文面。簡素で質素に、それは僕が徴兵に応じる義務を説き、出頭するよう命じていた。
あくまで冷静に、僕はその葉書を曲げないように来ていたシャツの下に仕舞う。
地下の3人に怪しまれないような時間で帰らなければならない。短時間でこれからの行動を考える必要があった。
目をつぶり、僕はあいつと、僕ら自身の行動指針を決定する。決定した。
一人で、山の中に逃げる。
国の内部事情を現在進行形で知りすぎている僕の運命は2つに1つ。
すなわち、産業情報庁諜報部でシステム開発と敵国中枢への|情報戦担当《不正侵入者》になるか、もしくは全線の一番死にやすい部署に送られるか。
可能性としては前者のほうが高い。しかし、後者の可能性も少なからず、だ。だとしたら、生き残る可能性が高い案を新しく作るしかない。
山の中に、僕は隠れよう。そこで一人で生活し、終戦後に世界に、人の前に帰ってこよう。
うちの母屋は全壊してしまったが、屋根に取り付けられていた太陽光発電パネルは爆撃前に回収してある。軽トラをどこかで拾って、その荷台に載せて置けば山の中であっても電気は、パソコンは使える。
ただ、できればそんなことはしたくない。見つかった場合のリスクが大きすぎるからだ。逃走決行前に、産業情報庁のサーバーに侵入、情報戦担当者に立候補しておこう。
…さあ、もう戻らないと怪しまれる。言い訳になるような要素は、既に焼け野原の仲間入りをしたうちの近くにはない。詳しい“作戦”の立案は、地下室でも十分、間に合う。
家族や葉村が寝ている早朝なら、立案に気兼ねは要らない。
出頭命令は1週間後。それだけ時間があれば十分に脱出計画を練れるし、産業情報庁からの返信を待つ時間として適切だろう。
だとしたら今、気をつけなければいけないのは。
梯子から落ちて怪我をしないことだ。
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第4章
1
リハビリがてら、たまには本屋へ行こう、と新宿まで足を延ばしたその帰り。乗った副都心線は座席が半分ほど空いていた。やがて発車ベルが鳴り新宿三丁目を発車して、次の駅に着く前。遠くでかすかに爆発音がしたと思ったら、電車が前触れなく停止し車内・トンネル内の灯りがいっせいに消える。
あたりが闇に包まれて、一瞬音もなくなった。
「…停電?」
それからそんな声が聞こえて、驚いた赤ん坊の泣き声が暗い空間に反響し始める。
そのあとはもう、誰がなんて言っているのか分からない、ざわざわした声の集合がだんだん大きくなっていった。
僕はといえば、座席に座ったまま、目が暗闇になれるのを待っていた。しばらくそのまま動かずにいたが、蓄光塗料が塗られた消火器の位置を示すシール以外に携帯端末のバックライトという強力な光源が出てきたあたりで前にかかえていたリュックサックのチャックを開けた。
自分の端末のバックライトで中身を確認しながら、山に行くときに入れて取り出すのを忘れていた応急装備のヘッドランプを取り出した。
旧式の超々高輝度LEDだったがトンネルを歩くのには十分役に立つだろう。
無造作に点灯しようとして。パニックになりかけたほかの乗客に奪われたくはないなと思い直し、僕は携帯端末のバックライトを頼りに電車の先頭車両へ歩き出した。非常用ドアコックを操作して車両の扉を開け、線路に飛び降りる。ここは単線シールド、通電しても逆から電車がやってくることはない。
カーブで電車から見えなくなるまでバックライトの細い光を頼りにして、完全に見えなくなったところでヘッドランプを点けた。
暗いトンネルを半径5メートルしか照らせない灯りを頼りにてくてく歩いていった。RPGのダンジョンの中みたいで、柄にもなく状況を楽しんでいる自分がいた。
不意にトンネルが広くなった。線路が分岐している。東新宿の駅にたどり着いたようだ。地上へ上がって何が起きたのか確認するか、それとも駅に設置されている非常用情報端末からインターネットにつないでから地上へ戻るか。ホームドアのせいで上に上がれないで線路を歩きながら考えていると、暗闇にも関わらずドタドタと階段を駆け下りてくる足音がした。あわててヘッドランプを消す。
「暗闇なのに、光源なしで階段を駆け下りる…。駅に暗視装置なんて用意してあるか、普通?」
嫌な予感がする。ホームの真下にある待避スペースの奥に隠れてやり過ごすことにした。灯りをつけられないから手探りだ。何とかもぐりこんだところで、線路に何人かが飛び降りてくる気配を感じた。息を殺してよりまるまった。
首筋に水が垂れてくる。危うく叫ぶところだった。反射的に腰を上げ、頭を打って舌をかんでしまった。声が出ずに済んだからよしとするが、口の中まで痛すぎる。
「~~~~~~~~っ」
痛いのは刺された背中だけで足りているのに。
気配はあたりを探っていたようだったが、やがて僕が歩いてきた方向へ去っていった。
それでも120を数えてじっとしていたが、腰が痛くなってきたので線路へ戻ることにする。ホームの下にあった接続ボックスを探り当て、持っていたPCと接続した。
接続したことがばれないようにウイルスを流し込み、それからインターネットへつなぐ。内部ネットワークにしか入れないように設定されていたが、相互通信をするためのサーバーに侵入すると簡単に外部ネットワークへ回線が開いた。
自宅地下で稼働しているうちのサーバーから、システムを開発するためにもらった正規のアカウントを使って産業情報庁のサーバーにアクセス。一つ目のウィンドウがログを示す文字に埋め尽くされる。2つ目のウィンドウで軍事衛星が撮影した衛星画像を要求し、3つ目のウィンドウで警察・自衛隊・米軍の命令系統の記録をざっと検索する。
分かったのはとんでもないことが起こった、という事。東京が敵国に爆撃されたらしい。
深呼吸をしてからいつも通りの人間離れしているらしい速さでキーボードを叩いてリモートサーバーからログアウト。文字列がいつも通り律儀にさよならを告げる。
意識していつも通りを心掛けないと、葉村に話した、昔のような目に遭うような気がした。接続していたログを抹消し、何事もなかったかのように接続ボックスを閉じる。
端末と通信ケーブルをリュックにしまい込み、ヘッドランプを低輝度に切り替えて池袋方面のトンネルに駆け寄る。
地上は今も、爆撃の危険にさらされている。爆撃された時、安全性が高いのは防空壕として使えるように設計・補強された地下鉄のトンネルの中だ。僕はトンネルを行くことにした。
何時、さっきの気配たちが帰ってくるか分からない。後ろから狙われる可能性はできるだけ下げておきたい。だから、僕は暗いトンネルをしっかり確実に、走り出す。
僕の足音共に、“日常”が何処かへ逃げ去っていくような気がした。
2
副都心線で要町駅まで、そこから有楽町線の線路に出て護国寺駅へ。
護国寺駅のポンプ室から雨水管に潜り込み、コケやらゴミやらネズミやらが支配するくさいトンネルを通って自宅の地下、簡易下水処理施設までたどり着いた。
壁の隅にある発電機を起動させる。これで地下施設は電気が使えるようになった。
天井の蛍光灯を点ける。
「うえぇ、汚くなったな」
すっかり泥だらけのビショビショになってしまった制服を脱いで、準備室においてあるジャージに着替える。
10畳ほどの下水処理装置点検準備室。そこは僕の、もう一つの自室だった。
3台のワークステーション、1台のノートパソコン。20型のディスプレイが3枚、37型のテレビ。壁の2面を埋め、通販で買った可動式の本棚5つにぎっしり詰め込まれ、それでもおさまらずに床に積まれた本本本本…。
そして部屋の隅に地上へ上がる梯子。その終点、一番下に人が倒れていた。
「…母さん? ちょっと母さん、ねぇ」
「…うぅ、…あ、祐樹?」
「うん、そう。ただいま」
「ああ、お帰りなさい」
「梯子から落ちたのか、怪我はない?」
「大丈夫、平気平気、ちゃんと…っ」
立ち上がろうとして、足をかばってバランスを崩す。
「…捻挫してるじゃない、全然大丈夫じゃない」
僕はパソコン机の引き出しから毛布を取り出して、本の間の狭い床に敷く。
「ほら、肩貸すから。床にいつまでも座ってると体に毒だよ」
「ありがとう」
母さんを毛布の上に連れて行って座らせ、応急セットを取り出した。
「ほら、湿布貼るから足出して」
「…すっかり頼もしくなったのねぇ、母さん、嬉しいわ」
「馬鹿なこと言ってないで、うわ、かなり腫れてるじゃん。どれくらいの高さから落ちたの」
「そんな高くなかったんだけど。外でサイレン鳴り始めたから地下にいようと思って降りてきたんだけど。あと何段、ってところで停電しちゃって油断して、つるっと、ね」
「いつまでも若いわけないんだから」
「まっ、失礼な」
「40台になったんだから、もうおばさんって言われても仕方ない年なんだよ」
「老けて見えても心は若いの、息子にそんなこと言われるなんて、心外だわ」
「心配してもらえているだけ良いと思って」
「あなたはまだ未成年です。親に心配をかけられる立場なんだから。せめてそういうのは成人してからになさい」
周りの空気が和やかなものに変わっていく、そんな気がした。
母さんと目が合う。するっと気が抜けて、知らず知らずのうちに張っていた緊張が取れた。
「ん、出来た。あんまり激しい動きしないように」
「言われなくても、湿布貼ってる間はしませんー」
子供みたいに唇を尖らせてそんなことを言う。
「でも、ありがとう」
母さんがふっと笑った。
1リットルの電子ケトルに水――もちろん水道水のほうだ――を満タン入れてスイッチを入れる。
同時に全ディスプレイをスリープモードから復帰させ、全部マスター|WS《ワークステーション》につなぐ。いつも持ち歩いているほうのパソコンも起動し、無線LANに接続。
WS上で並行演算システムを起動。普通のパソコンよりも高性能なWSを3台並行動作させることで、5年位前の最高速スーパーコンピュータ並みの処理をすることができるようになる。
普段は使っているがこれからの処理に必要ない|デーモン《常駐プログラム》をまとめて停止させる。
ここで湯が沸けた。ポットにティーバッグを3つ入れて湯を注ぐ。とりあえずパソコンデスクにおいて、床の本を本棚の前により高く積みなおし、場所を作ってから折り畳みちゃぶ台を出した。マグカップ2つと砂糖を取り出し、ポットと一緒にちゃぶ台に置いた。
「これ飲んで温まったほうがいいよ、冷たい床に倒れてたんだし」
「あら、忙しそうなのに、ごめんね」
「別に、忙しいわけじゃないし…」
僕はスプーン1杯の砂糖を入れた自分のカップに紅茶を注いで、WSの前にもう一度向き合う。
クラッキング準備作業の仕上げに、最後片方が処理過多でダウンした時の予備用、クラッキング相手のシステムオペレーターから逆探知された時の攪乱用に、インターネット回線を地下室用のものと地上の山本家全体のものと2重に接続する。リンク確率確認のために回線速度と接続情報を取得、ついでにダミー拡散用の偽造データを作成。
深呼吸を一つ。
準備作業半自動化プログラムが進行度を表す棒グラフを100%にするのを待つ間、肩を回しておく。
今日のクラッキングの目的は、先の爆撃の情報を得ること。目標を今一度明確に設定する。
棒グラフが伸び切った。
Enterを押下、クラッキングツールを作業準備状態から侵入状態に切り替える。
3つのディスプレイに、効率的に作業を進める事に適した画面配置を行う。
メイン画面で補助AIを起動。自己診断ログが一瞬にして一つの小画面を埋め尽くし、|コマンド《命令》を待つカーソルが出て止まった。
侵入対象に敵国の防衛庁、味方国の国防軍、自国の首相官邸、民間の衛星管理企業を指定する。
AIはコマンドを受領し、指定された相手サーバープログラムのバージョンを検出、最適な方法で侵入を開始した。かなり強固なプロテクトも、3台のWSが全力稼働して暗号鍵をしらみつぶしに逆算。
不正侵入で汚れたログも管理者権限を奪い取ったことで不都合な箇所を全部削除。怪しまれないように関係ないログは消さないように教えたが、きちんと学習しているようだ。続いてAIはバックアッププログラムをまず殺し、敵オペレーターが対処を始める前に他の管理用アカウントをバイパス、本物らしき応答をするボットにシステム操作系を置き換えた。
AIの働きをサイドウィンドウでざっと確認しながら、僕は産業情報庁の|メインフレーム《中枢》に管理用ユーザーでログイン、最上位オペレータ権限を持つアカウントをバックドアとして作成し、再度入りなおす。
目的のデータがどこにあるか分からないため、それらしきファイルは中身をロクに確認せず、片っ端からダウンロードしていく。ファイル数が多く、結構時間がかかりそうだった。
AIによる侵入が終わったサーバーから同じようにデータをダウンロード。どれが目的に合ったファイルか、大量に保存されている文書から自動的に選び出してダウンロードできるほど、僕のAIはまだ賢くない。
毎回の僕の作業を見習いながら少しずつ経験を増やし、いろいろなことができるようになる自動学習ルーチンを入れてある。そう、あと50回ほど同じような経験を積めば、ファイルの選択・取得も任せることが出来るだろうと踏んでいる。
また捕まるのは御免だ。安心して任せられるところだけをAIに任せ、不正侵入時間を減らす。侵入時間が減ればそれだけ、逆探知される可能性が低くなるからだ。
ダウンロードが終わったサーバーから順に回線を切断する。AIによる後始末の確認を済ませる。
手に入れたファイルは膨大な数だ。WSで関連のありそうなキーワードの全文検索をかけ、その間に検索できない画像や動画を荒くチェックしていく。侵入・ファイル取得にかかった時間よりも、成果物の確認のほうが圧倒的に疲れるし、時間がかかる。
単純に腕試しなら確認なんてあっという間だが、今回の目的は情報収集。いわゆるスパイ組織ならそれだけで一つや二つ、専門の部署があるのに、僕の場合は全部一人でこなさなければならない。これは結構な労力を必要とする。
1時間ほど、母さんは散乱している文庫本を読み漁り、僕は得たデータを確認して現状確認をしていた。
どうやらここ数年ずっと争い続けている大陸の敵国からの爆撃によって、東京は副都心と言われる池袋~新宿~渋谷あたりと、交通の中心である上野~東京~日本橋、政府のある霞ヶ関が被害に遭ったらしい。うちの近くは奇跡的に被害が少なかったようだ。ついさっき撮影された衛星写真を見る限り、ぽつんと島のように建物が残っている。
真っ先に妹の学校をチェックした。幸い、建物自体は全部残っていた。学校にいてくれれば、きっと助かっているはずだ。半面、僕が通う学校は体育館に直撃を受けていた。この分だとほかの校舎もガラスが飛び散って授業にならない。きっと数日は休校になるだろう。
しかしそうすると、地下鉄のトンネルで遭遇したあの怪しげな気配は何だったのだろう。警察とか駅員とか、乗客の救助に来た人だったのだろうか。僕もあいつも、直感でその可能性は小さいと思っている。
そしてもうひとつ、若干不確実な重要な情報を見つけた。信ぴょう性を考えながら目頭を揉んでいると、梯子の上の方から物音がした。
ガコッ、とふたを開ける音がする。下りてきたのは妹だけではなかった。妹に連れられ、葉村も一緒だった。
3
普段は無人か、僕一人しかいない地下室。そこに4人の人間が集まっている。
かなり消耗している風だった葉村を母さんの隣に寝かせ、看病を任せる。その間、僕ら兄妹は更に床面積を広げるため、地上に戻って持ってきた段ボールに本を詰めていた。
「いつの間にこんな本が増えたの? いくら片付けても減らないんだけど」
「なんか気が付くと増えてるんだよね。上に仕舞いきれなくなったものから地下に持ってきて積み上げてそのまんまで」
「お金持ってるのは知ってるから、しまう場所考えて買いなさいよね」
「ごめん」
僕と居るからか、ずっとイライラし通しの妹。後ろから母さんのため息が聞こえた。
そうして床の半分が見えるようになった時、地下に下りてきてすぐ気を失ってしまった葉村が目を覚ました。
「お、起きたか」
「…え? ここ、どこ…、あ、山本…君のお母さん!」
「おはよう。気分はいかが?」
「ごめんなさい、私、どのくらい…」
「30分くらいかな」
「ここは山本家の地下室。覚えてない? あたしとハシゴ降りたこと」
「…思い出した。ありがとう、私、あの時どうすればいいか分からなくなっちゃって、どこもいぐあでなぐっで」
葉村が泣き始め、よく聞き取れなくなってしまった。
「「「……」」」
僕ら家族は黙って顔を見合わせた。視線で思い切り泣かせてやることにしよう、と結論が出た。
妹は地上に戻り、お茶うけになる菓子を取りに。僕は紅茶を淹れなおし。母さんは葉村の背中をさすってやっていた。
しばらくして、葉村が泣き止んだ。相変わらず感情の動きというものがよく分からないが、本人曰く「思いっきり泣いてすっきりした」そうだ。
詳しく話を聞いたところによると、葉村は今時珍しいことに、田舎から親元を離れ、東京に出てきて一人暮らしをしていたという。しかし、葉村のアパートは爆撃で焼失した地域にあった。帰る家がなくなって途方に暮れた彼女は、訪ねたことのある僕のうちにやってきて、しかしインターホンに誰も出ないので――地下室にインターホンの受話器はない――玄関口に座り込んで誰か帰ってくるのを待っていた。そこに妹が帰ってきて家に入れ、地下室に案内したのだ。
僕は、入院しているときに早くうちに帰って料理をしなければならない、と言っていたことを思い出した。どういう事か聞いてみると、葉村のアパートには週に1日2日、お母様がいらっしゃるそうだ。今日は来ない日で、それだけが唯一の救いだと言える。
そこまで聞いて、母さんが僕に、電話をさせてあげるように言った。
「ご両親が心配されているかもしれない。私はずっとここにいたから見たわけじゃないけど、たぶんテレビで速報をやったんじゃないかしら」
「そうだよ、兄さん。電話線が切れてても、兄さんなら電話くらい掛けられるんでしょ?」
例え電話線や通常の光ファイバーケーブルが切れても、地下室のインターネット回線は下水道管を通っているからそう簡単に使えなくなることはない。
「掛けられるけど。たかが電話、そんな大事なことか?」
「大事なことなの。だから兄さんは…」
妹の説教が始まる前に遮る。
「あー分かった分かった、電話ね。葉山、実家の番号教えて」
「…いいの?」
「別に減るもんじゃないし、構わない」
遠慮する葉村から電話番号を聞き出す。パソコンにインカムの端子を差し込み、IP電話ソフトを立ち上げる。
無線LANが地下室のネット経由でインターネットに接続されていることを確認してから、葉村にパソコンごと手渡す。
「電池は1時間くらいなら持つほど充電されてる。家族との電話だ、積もる話があるだろ。気兼ねなく長電話してこい。聞かれたくないのならそこの、鉄扉の向こうですればいい」
「多分冷えるだろうから、この毛布、持っておいき」
「ありがとうございます。では、ちょっと失礼します」
「ゆっくり電話してきなよ、今度いつ話せるかわからないんだから」
「うん、そうする」
葉村はパソコンとインカムを抱え、さっき僕が入ってきた鉄扉を開けて準備室を出ていった。
しかしすぐに戻ってくる。
「どうした」
「…ねぇ、どうすれば電話を掛けられるの?」
ソフトの使い方が分からなかったらしい。コンピューター音痴め。
就職できないぞ。
そうつぶやいたら、聞きつけた妹に後ろから頭を蹴飛ばされた。
4
葉村が電話している間。山本家の3人はこれからの方針を相談することになった。
「まず、これからも爆撃は続く、と思っていて間違いはないのね?」
「残念なことだが、その通りみたいだ。敵国の奴ら、人海戦術で来るつもりだ」
「どういうこと?」
「国民が養えないほど多いことを逆手に取って、爆撃機を100・1000機の規模で差し向けてきた。1発の能力の大きいミサイルを少数撃ってくるのならこちらの自動迎撃ミサイルで間に合うが、1発の規模が小さくてもそれが多数来るとこちらの迎撃が間に合わない」
「だからあんなにたくさん、爆弾が落ちてきたんだ」
「あれでも一応、迎撃はしたらしいんだがな。焼夷弾1発で焼き払える面積はそれほど大きくない。だからうちの周りみたいに、ぽっかりと被害をほとんど受けない地域ができる。そこはつまり、迎撃が成功した爆撃機の担当範囲だった場所だな」
「なるほど。じゃあ、今回無事だったからと言って次回も切り抜けられる保証はないのね?」
「むしろ次回は、無事な所を狙ってくるだろうね」
「私たちは、焼かれると困るものから、このシェルターになるだけの強度がある地下室に疎開させることが最優先になるのかしら」
「そうね、あたしもなくしたくないもの、いっぱいあるし」
「ではこうしよう。一人がそれぞれの避難させたいものを僕の部屋に持ってくる。一人が地下に、一人が梯子の出口である僕の部屋にいて、持ってきた荷物を地下室に運び込む。交代で役割を替われば効率が上がるだろう」
「うん、兄さんに賛成。お母さんもそれでいい?」
「いい案だと思うわ。誰から上に戻るの?」
「最後でいい」
「じゃあ、あたしがトップバッターになっていい?」
「分かったわ。じゃ、私も一緒に上へ行くわ。まず私が梯子の上で荷降ろしをしましょう」
「母さん、足はもう平気なのか?」
「え、どうしたの」
「さっき慌てちゃって、ハシゴから落ちちゃったの。その時にくじいたんだけど、うん、もう大丈夫」
「ならいい」
鉄扉が開き、葉村が帰ってきた。また目が少し赤くなっている。
「あ、山本のお母さん、私の母が少し話したいって」
「あら、そうなの。…はい、今代わりました。娘さんの同級生の山本祐樹の母でございます。いつもお世話になっております――」
母さんがパソコンを持って、喋りながら鉄扉の外へ出て行った。
「…じゃあ、兄さんにはまず、ここの本をどうにかしてもらおうかな。これじゃ、ものを持ってきても置けないから」
「棚も上から持ち込んでくれないか。あまりダンボールに本を詰めたくない」
「いいわ、分かった」
「なに、何の話?」
電話していた葉村にざっとかいつまんで説明する。
「なるほど。私も下で整理の手伝いをしていいかしら」
「ダメよ、ななみさんはうちのお客様なんだから。働かせちゃ悪い」
「うぅん、これから短くない間、ここに住むことになると思うの。だから私はお客様じゃない。私もやることはやらなくちゃ」
「本当にいいの?」
「ええ、気にしないで。お姉ちゃんができたとでも思ってくれない? 実は私、可愛い妹ができた気分なの」
「分かった。よろしくね、ななみお姉ちゃん」
「こちらこそ、よろしく」
女の子同士で、何やら話がまとまったらしい。初めて会った時のあの険悪ぶりは何だったのだろうと思ったが、口に出さないでおいた。可愛いどころか凶暴な妹に、更に嫌われたうえ再び蹴られてはたまらない。
僕の本は下水処理装置の操作室に詰め込まれることになった。既に地下室に置いてある本を片っ端から操作室に運び込む。
ここもここで、防水処理がきっちりかかっている場所だ。湿って本が台無しになることはなさそうだった。
葉村は余りの多さに辟易していたみたいだが、僕としては懐かしい本ばかりだ。つい手を伸ばしては葉村に呆れられる。
「にしても、本当に古い本ばっかりだね。それも小説ばっかり、マンガも専門書もない」
「もともとあまり、漫画というものを読まないからな。専門書はたまに使うかも知れないと思って全部上に置いてある。滅多に解説書が必要になることはないけどな」
「専門書って、もしかして。コンピュータ系の技術書と解説書しかないの?」
「その通りだが」
「……。頭痛くなりそう」
「頭痛薬がいるのか?」
「そういう意味じゃない! もう、何でもいいや。早く終わらせよう」
「そうだな」
「と言いながら別の本を読み始めない!」
「これ、なかなかいい本なんだぞ、1990年代に書かれた本でな――」
「あーはいはい、それはあとで聞くから、次の運ぼ」
「次って、この本簡単に取り出せなくなるんだぞ…」
「ぶつぶつ言わない」
葉村が手厳しい。
「あ、小包届いてるじゃない。早くほどいてよ、本は私がやっとくから」
「傷つけるなよ、折るなよ、落とすなよ」
「言われなくたって人の本なんだから、雑に扱いませんー」
軽く頬を膨らませて葉村が出て行く。後姿を横目に見ながら地上からの小包からカラビナを外し、上から垂れるロープを軽く引っ張る。先端に結び付けられたカラビナが、梯子の横をするすると上がっていった。
地下に届いたのは鍋2つとおたま、しゃもじ、泡立て器といった調理道具だった。4セットは行ったフォークとスプーン、ナイフ、箸がジャラジャラと鍋底で音を立てた。とりあえず部屋の中央に置いておく。
いつの間にか妹の物は全部おろし終わったらしい。中央に置かれた枕やぬいぐるみ、目覚まし時計やその他こまごました雑貨やアクセサリー。意外と少なかった。
そんなことを思っていると次の小包が届いた。今度は結構重い、液体が入っているようだ。調味料を箱詰めか?
荷物を縛っていた細いひもをほどき、カラビナに括り付けてロープを引っ張る。するする上がっていく。
荷物はあとどれくらいあるのだろう。僕は上にある本だけだが。1000冊もなかったはずだ。ここに下ろしてある冊数と比べれば、たいしたことのない量だ。
5
それから2~3週間。たまに上から爆撃の振動が伝わってくる以外、地下は平和なものだった。
非日常に慣れ、それが日常になるためにはもう少し時間が必要な頃だった。
1日1回の郵便物確認。その日の確認当番は僕だったので、地上へ戻って郵便受けを覗いていた。
新聞が来なくなって久しい郵便受けに、珍しく投函されていたのは1枚の薄赤色の葉書。
切手の部分が丸い、料金後納郵便の印になっていた。宛名面中央には僕の名前、右には住所。左下には何も書かれていない。裏返して通信面を見た。
想像した通りの内容だった。
憲法特別臨時改正のお知らせ。
戦時特別法の成立。
国民特別徴兵義務について。
ほかにも。醜いほど細かい活字が並ぶ、やたら“特別”の多い文面。簡素で質素に、それは僕が徴兵に応じる義務を説き、出頭するよう命じていた。
あくまで冷静に、冷静に、冷静に。僕はその葉書を曲げないように来ていたシャツの下に仕舞う。
地下の3人に怪しまれないような時間で帰らなければならない。短時間でこれからの行動を考える必要があった。
目をつぶり、僕はあいつと僕らの行動を決定する。決定した。
一人で、山の中に逃げる。
国の内部事情を現在進行形で知りすぎている僕の運命は2つに1つ。
すなわち、産業情報庁諜報部でシステム開発と敵国中枢への|情報戦担当《不正侵入者》になるか、もしくは全線の一番死にやすい部署に送られるか。
可能性としては前者のほうが高い。しかし、後者の可能性も少なからず、だ。だとしたら、生き残る可能性が高い案を新しく作るしかない。
山の中に、僕は隠れよう。そこで一人で生活し、終戦後に世界に、人の前に帰ってこよう。
うちの母屋は全壊してしまったが、屋根に取り付けられていた太陽光発電パネルは爆撃前に回収してある。軽トラをどこかで拾って、その荷台に載せて置けば山の中であっても電気は、パソコンは使える。
…もう戻らないと、怪しまれる。言い訳になるような要素は、既に焼け野原の仲間入りをしたうちの近くにはない。詳しい“作戦”の立案は、地下室でも十分、間に合う。
家族や葉村が寝ている早朝なら、立案に気兼ねは要らない。
出頭命令は1週間後。それだけ時間があれば、十分脱出計画を練れる。
だとしたら今気をつけなければいけないのは。
梯子から落ちて怪我をしないことだ。
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第3章
1
そのあと、彼らは僕に“取り調べ”をした。…もちろん言葉通りじゃない。
僕の罪状は2つ。リモートコンピュータへの不正アクセスと、データの改ざんだ。それだけ聞くと最近よくある、日常茶飯なありふれた犯罪だけど、しかし、どちらも規模が今までの物とは桁外れに大きかった。
社会の授業でやるくらいだ、といえば納得してもらえるかな。
リモートサーバーへ不法侵入され、データを奪われ、犯人の決定的な手がかりをつかむ前に一度取り逃がして、挙句に自分たちのサーバーだけでなくインターネット全体を約2週間にわたって使用不能にされた。そんな事態が起こらないように、未然に防ぐために設置された機関だったのにも関わらず、犯人への対処を間違えて被害を隠せない自分たちの|テリトリー《サーバー》の外にまで広げてしまった。
諸外国だけでなく隣の省庁に、自分たちの不手際だとばれたら、どんな因縁を付けられるか分かったもんじゃない。だから彼らは、公式には犯人は分からなかったことにして、犯人を示す証拠を片っ端から削除してまわった。
普通だったら犯人に重い刑罰が下ることは必然だったはずだ。しかし、|犯人《僕》は当時まだ小学3年生、年齢は1桁だ。いくら「利用者ならば大人扱い」なインターネットでの事件だといっても、日本の法律では極刑を科すことはできない。だから彼ら自身が秘密裏に開発されていた様々な薬物や拷問道具を駆使して僕に|罰を与える《復讐する》事にした。
…そんな青い顔しないでよ。全ては僕の身に起こったことだ、君のことじゃない。
そして僕は憂さ晴らしに使われた薬物や蓄積されたストレスによって、人格が分裂した。その時に、最初から存在したものがそのまま2つ以上に分かれたせいで、例えば。
僕には感情がほとんどない。
俺には感覚、いわゆる五感のうち特に触角が、その中でも痛覚が存在しない。
どっちも日常生活をするうえで必要な部分はそれぞれに残ってるから、不意に屋上から飛び降りたり間違って缶ジュースを握りつぶしたりすることは、少なくても最近はない。
不安定になったアイデンティティを維持するために、俺らは、使う言葉で自分たちのどちらがどちらかを分かりやすくすることにした。そうしないと、どっちがどっちだか、すぐに分からなくなる。
最初はそんなことしてなくて。自分がどっちの自分か確かめるために、痛みを感じるかどうかを毎回試してたんだ。そしたら、母さんがヒステリーになりかけた。かといって毎回隠れてこそこそ自分を痛めつけて確認しても、俺が表に出てるときには力の加減が難しくて、どうしても痣ができちまう。それじゃ隠れて確認しても意味がない。
だから2人で相談して、基本的にあいつが表に出る、使う言葉を変えることを決めた。1人称も違うだろ?
産業情報庁のヤツらは、疑似的なものだが自分で判断することのできる、人工知能とは呼べないけどそれに近いプログラムだった、俺のクラックツールに目を付けた。こいつは使える、と思ったんだろうな。俺が使ってた|OS《オペレーティングシステム》もソースコードから解析して、奴らは俺を、新しいシステムの開発者に祭り上げた。
ただ命令を聞いて言われたことをやる“でぐの坊”にして、ソースコードと命令、薬物を与えれば自動的にシステムのセキュリティを強化する機械のように扱った。1日中、朝から晩まで、食事はなく栄養は全部点滴で採って、風呂に入れてくれるわけでもなく用を足しに行かせてくれるわけもなく。寝たきりで体が動かせない人が使うようなベッドにずっと、文字通り縛り付けられて。
人間として扱ってもらえたのは、俺が何とかシステムを完成させた後、うちに返してもらう時が初めてだったね。それまでの給料としてかなり大金を払ってくれたんだ。その頃はまだ地方に住んでいたから噂が広がるのも早くて、ご近所さんは俺が何をして誰に連れていかれたか知らない人なんていなかったし、母さんも働きになんて行けなかった。
だから俺がうちに帰ってきて、クスリが抜けきってまともな人間として生活できるようになるのを待ってから、今住んでるここに引っ越した。
ちょうど小5になる春休みだったから始業式はちゃんと行ったんだが、ヘンな転校生って注目浴びて、すげぇ居づらくて。1回でもう学校通う気、失せたから小学校はそれ以降行ってない。
ずっと家でぼけーっとしてて、見かねた母さんが俺の部屋来てドサドサいろいろ古い小説持ってきたんだよ。今まで本っつったらコンピュータの解説書ばっかりで物語なんて読んだことなかったんだけど、それが面白くてさ。あの時ははまった。
今度は食事も睡眠も忘れて無視して、部屋に鍵かけて閉じこもって1日中文庫本を読み漁った。2日位するとなんかフラフラしてさ、あれ、どうしたんだろーとか思ってたらばったり部屋で倒れて動けなくなって。ヤバいかも、って思ったんだけど声も出なくて、死ぬのかな、って思った。
あの時の精神状態は不思議だったぜ。死んでもいいや、ってのと、死ぬのが怖い、ってのが交互にやってくるんだ。そのあと母さんがベランダから入ってきて病院つれてかれて、見ての通り死ぬことはなかったんだけど。でもあの時はかなり絞られたなぁ。
2
「まあそんなこんなで、今に至るわけなんだけど」
「……」
今、私の前で横になっている同級生は、想像もしない過去を持っていた。
「さっき君は“虐待はされてない”って言ってたけど、――それよりもっとひどい目に遭ってきたんじゃないの」
私はこれから、彼とどういう関係でいればいいのだろう。自分のことだから断言できる。もう、
――ただの友達として接することなんて出来ない。
「そうかなぁ? 割と面白い経験ができたと思ってるんだけど?」
飄々と話す彼を、まっすぐ見られない。
なんか、私、馬鹿みたい。何でこんな、常識外れな規格外の人を、私と同じような、過去なんてあってないような人間だ、って考えていたんだろう。そんなこと、したって意味ないじゃない。
…私、何を考えているの? 彼は、彼の過去によってこうなった、私と同じ年の男子じゃない。彼と私が違う人間なわけないよ。
だんだん頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
「別に、自分自身を嫌いになったわけじゃねぇし? 今の生活があればそれで十分だし?」
「君は、あんなことされて、自分を壊されて、復讐してやろうと思わないの?」
「思った。思ってる。でも今はその時期じゃない、ってあいつが言ってるから我慢してる」
感情に任せて勝算もなく行動を起こしたら、体の操縦権もらえなくなるんだよなー。
そんなことを言いながら悔しそうに唇を歪ませて、でもすぐにその歪みが笑いに代わる。
「…なんか、楽しそうだね」
今さら、やっぱり聞かなければよかった、なんて思っている私は、なんてひどい人間なんだろう。彼のほうがよっぽど、人ができてる。
「そりゃあ、人生楽しまないと損だろ」
「そっか」
「そう。だから、お前も俺のこと色々考えて、勝手に鬱になるなよ」
「……」
見透かされてる?
「お前、うわの空で受け答えしてるのがバレバレ。どうせ関係ない、過去のこと全然知らなかったのに余計な踏み込んだ真似したって、後悔していたんだろ。じゃなかったらアレか、聞かなきゃよかったと思ってるとか?」
「……」
「図星だな。何も言えない、って顔してるぜ」
「だって、」
「だってもくそもない。出会うまでの過去に、お前は関係ない。お前に関係があるのは出会ってから、同じクラスになってからの俺だけだ。分かったな」
「…分かった」
「よし」
にま、と効果音を付けたくなるような笑い顔。
そうして彼はパソコンのキーボードを、いつも通り尋常じゃない速さで叩き始めた。
画面を見て私を見ない横顔を見ていると、私は何故か気分が軽くなっていった。目を閉じるとさっきの笑い顔が浮かんだ。
「じゃあ私、一度うちに帰るね。両親が心配してるだろうし。また明日来る」
「ん、そうか。悪ぃな、付き合わせちまって」
「いいの、さっきも言ったけど、来たいから来るんだもん」
彼は苦笑して、はいはい、といった。
「なぁ、頼まれもの、おつかい、してくれねぇかな」
「え、買い物ってこと?」
「そうそう。ダメ?」
「ものによるなぁ。重いもの?」
「文庫本買ってきて欲しいんだけど。…そんな嫌な顔するなよ」
表情に出てしまったらしい。
「分かった、買ってくる。何が読みたいの?」
「メールアドレス教えて、リスト送るから」
「ずいぶん突然なアドレス交換ね。…いいわ、これ」
彼に携帯端末を手渡すと、ありがとーといいながら赤外線送信モードにしておいた画面を戻して、電話帳に切り替え、表示された私のデータを手で直接、パソコンに打ち込み始めた。
「あい、どうも。俺のアドレス、送信しておいたから」
彼の言葉に応えるタイミングで、私の携帯端末が震えた。
「へぇ、流石クラス1の真面目ちゃん。病院ではちゃんとマナーモードなんだ」
「あ、当たり前じゃない!」
「うん、当たり前」
へへっ、と笑われた。
普通にしていれば結構、彼はカッコいいほうだと思うんだけどな。イジワルを言わなければ。
「おい、どーした、顔真っ赤になったぞ」
「ウソ!? な、え、うううるさいわね、本買ってきてあげないわよ!?」
「…俺、悪いこと言ったか?」
「最初から最後まで悪いことしか言ってないじゃないの!」
彼はちぇ、と舌打ちして。
「じゃ、頼んだ。レシートちゃんともらって来いよ、じゃないと金払えねぇからな」
「分かってるわよ、もう。…また、明日。おやすみ」
「おう、おやすみ」
彼に背を向け、病室を出る。無意識におやすみ、と言ってしまったけど、時計を見て驚いた。
「やば、もう6時まわっちゃってるじゃないの」
ママに電話しないと、夕飯抜きになっちゃう。
意識して早く帰ること、ママに連絡しなければいけないことを考える。そうでないと、私が私でなくなってしまうような気がした。
なんでだろう。どうしてだろう。
私はいつも冷静沈着な、クールでカッコイイなオンナノコ。
そのはずだったのに。彼に会って助けられたあの後から、彼のことが頭から離れない。
彼の前だと、私が私じゃないみたいだった。こんなにほかの人に甘えるなんて、私らしくない。
3
それから2週間ほどで僕は退院できた。
「結局2週間も、葉村にはお世話になり続けちゃったな」
「いいわよ、気にしないで。…退院、おめでとう」
「ありがとう。今日これから、予定ある?」
「え、何で? 予定なんてないけど」
「お昼まだだろ? もう13時過ぎちゃうし、どこかで奢るよ」
「いいの? あんなに本買った後で、お小遣い足りる?」
「大丈夫、お金は気にしなくていいよ。入院中もバイトしてたから、結構余裕あるんだ」
「入院中って」
「プログラミング。パソコンさえ持ち込めれば、ソフトは作れるから」
「そうなの?」
「そうなの。何か食べたいものある?」
病院の最寄り駅まで歩く間、彼女はずっと考えて、こう言った。
「山本んちに行きたいな。途中で材料買って、一緒にお昼ご飯、作ろう?」
「梯子、気を付けてね。先に登るよ」
彼女は普段着、スカートだったが、短めだったから多分つまずいて落ちることはないだろう。先に梯子を登り、窓の鍵を開けておく。
「本当にベランダから出入りしてるんだね」
「そんなことで嘘、吐いたって仕方ないじゃないか」
「それはそうなんだけどー」
「よそ見して踏み外さないようにね」
「分かってる。…君、どういう生活してるの」
「こういう生活さ」
窓の外にベランダが約6畳、家の中に自分の部屋が8畳。ベランダには鉄パイプで屋根の骨組みが作られていて、太陽光発電パネルが設置されている。部屋の中から見て右側に水道、左側に先ほど登ってきた梯子、奥に置いてあるプランターには苦瓜らしき植物が育っている。
室内は和室。窓の内側、左側にはスチール机があり、上にカセットコンロとデスクトップパソコンが置いてある。押入れの戸は開け放され、上の段には布団と枕が見え、下の段には冷蔵庫があった。右の壁には埋める大きな本棚。
一通りの生活を営むために必要な設備はそろっている。
「なんでこういう部屋なの?」
「妹に嫌われてるからさ、この部屋から出ると嫌がられるんだ。ほら、事件の時は妹にも散々迷惑かけたわけだし。こっちに非があると思ってるから、引っ越してきた時にこの部屋だけで生活できるようにしてもらったんだ」
「だから出入りも窓からなの?」
「そう。慣れると便利だよ。後で見せるけど地下室もあるし、屋根裏も使えるし、ベランダに水道引いてあるから冷たくていいのならシャワーも浴びれるし。住めば都ってやつ?」
「……」
「風呂は銭湯に通ってるんだ。このあたり、まだ銭湯いくつかあるしさ、ついでに買い物も済ませて、そこのカセットコンロ使って料理して。それに僕はほかの大多数の人間と生活時間帯違うみたいだから、隔離されてると逆に楽なんだよね」
当たり前のように、自分自身が“隔離”されていると言い放ったからだろうか。彼女は複雑な表情をした。
「外で料理しようか」
「うん」
「道具、取ってくる」
窓を開け、身を乗り出してカセットコンロを取る。
玉ねぎを切りながら、彼女は言う。
「もしかして、休みの日って、誰とも話さないでしょ」
ハムを1cm角に切りながら答える。
「そうだな。夏休みとか、普通に1週間くらい声出さないことあるね」
「寂しくないの?」
「いや、別に。慣れたのかもしれない」
「学校でも人と話してるの、あんまり見たことないし」
「そうなんだよねぇ。なんでだろうね?」
割と真面目に聞いたのだが、彼女はあきれたようにため息をついた。
「ずっと本読んでるからだよ」
「それがどうかした」
「本読んでる人には話しかけづらいんだ、って気づいてなかったの?」
「え、そうなの?」
「そうなの。まったくもう、そんな社会生活不適応者みたいな答え、返さないでよ」
「すんませんねー」
「…それにしても。意外と、器用なのね」
「そりゃ、毎日3食、きちんと作ってますから」
「てっきりコンビニ弁当ばっかりなんだと思ってた」
「そんなことしないよ。本が買えなくなるじゃないか」
「理由が予想と違ったけど、健康的でいいわね」
「やっぱ、女子ってそういうの気になるんだ?」
「そりゃそうよ。そんなものばっかり食べてたらお肌が荒れちゃうし、太っちゃうもの」
小さい声で彼女がごにょごにょつぶやく。
「ん? 何の人のことだから?」
「え、な、聞こえた!?」
「…いや、聞こえなかったからなんて言ったか聞いたんだけど」
「じゃあ、なんでもない! 私は何も言ってない!!」
「なんだよ、言ってることが矛盾してるぞ」
「うるさいうるさいうるさい」
「教えてくれたっていいじゃん、減るもんじゃないし」
「やだ、絶対やだ」
――突然いじけて、なんなんだまったく。
「「いただきます」」
「「ごちそうさま」」
「結構美味しかったわ。料理、上手いんだね」
「そりゃあ、な。もうかれこれ4~5年くらいは自炊してるから」
「…そっか」
まずい方向に話が飛んでしまった。そう彼女の顔に書いてあった。苦笑は心の中だけに留め置いて、話題を変えてやることにした。
「洗い物、俺がやっとくよ。お前は中でくつろいでな」
「あらありがとう。どっちの君も、意外と優しいのね」
「意外とってなんだ、意外とって。俺はいつもジェントルマンだ。客をむやみに働かせるような無礼はしないさ」
そう言ってやると、彼女は「ありがと」と言いながら、含み笑いを漏らして窓から部屋へ入っていった。
「んだよ、今の笑いは。まったく」
でも、たまには他人と過ごす休日も悪くねぇもんだな。
「お前、帰らなくていいのか? もう17時になるぞ」
「平気、友達んちに泊まるって言って出てきたから」
「お前な、年ごろのオンナノコがそんなんでいいのか」
「いいのいいの、もう手遅れなんだから」
「まったく、何が手遅れなんだか」
「え、泊まっちゃダメ?」
「別にいいけどよ。じゃ、銭湯行くぞ、着替えは持ってきてるんだろうな」
「当然じゃない」
押入れから銭湯セットを出して窓からベランダへ。
「ほら、鍵閉めるぞ」
「ちょっと待って、…お待たせ」
葉村が出てから後付けの鍵を閉める。
「梯子、気をつけろよ」
「うん」
そろそろ、おっかなびっくり降りていく彼女を見ていると、こっちのほうが心配になってくる。
「大丈夫か?」
「へ、平気よ。馬鹿にしないヒャっ」
「ほら言わんこっちゃない、ちゃんと足元見て降りろよ。怪我されても困るんだから」
「…お荷物だって言いたいの?」
「え、なんか言ったか?」
小さい声でぼそぼそ言われても、俺は感覚が遠いんだ。
「何でもないっ!」
そんな、機嫌悪くされても困るんだけどな。
銭湯までの道中は口を利いてもらえず、銭湯内は男女別。風呂から上がる時間だけ指定してすぐに女湯に引っこまれてしまった。
何がいけないのか、ちっとも分からない。感情のないあいつのことだ、聞いたってロクな答えは出てきはしないだろう。
うんうん唸りながら考えて、危うくのぼせるところだった。
風呂から上がって扇風機にあたりながら牛乳を飲んでいると、上機嫌な彼女が出てきた。
なんとなく、のぼせるまで理由を考えていた自分が馬鹿らしくなった。
また機嫌が悪くなったら居心地悪いことこの上ないから聞くに聞けないし、どうしたもんだろうか。そんなことを考えていると。
「ねぇ、私も、牛乳飲んじゃダメ?」
「ん、残りあげる」
「…違うわよ。私も買っていいか、って聞いたの」
「ほい、財布」
「色気がないわね、まったく」
「…色気? お前、何言ってるんだ?」
「うるっさいわね!」
またキレられた。ほんと、女って何なんだよ。
葉村は俺の財布から必要なだけぴったり小銭を取り出して、財布を押し付けるように返すと、プリプリしながら受付へ歩いていった。受付のおじさんから目当ての瓶をもらって帰ってくる。
「一度、飲んでみたかったの。風呂上がりのフルーツ牛乳、ってやつ」
「夢が叶ってよかったな」
くっはー、と実に女子高生に似合わない声を上げる葉村。学校にいるときとのギャップがすさまじい。笑いをこらえるのに骨を折る。
「そういえばさ。普段の山本はいつも、…丁寧な方…が表に出てるじゃない?」
「そうだな」
「普段は、うちでは、そんなことないの?」
「…どうだろう。うちでのことは意識したことなかったな」
「学校だといつも…」
「そりゃ、あんまり人に知られてうれしいことねぇしな」
「そっか」
「おう。だからいつも、今沈んでるほうが表に出てるようにしてる」
「君は、今表に出てる山本はそれでいいの?」
「最初から同意の上だ。俺が出てたら、喧嘩ばっかりしちまうしな。冷静なあいつのほうがいい」
「誰とも話さないで、寂しくないの?」
「うーん、表に出てねぇだけで、外の様子はあいつと共有してるから。こいつ馬っ鹿じゃねぇの、とか中で思ってる。それであいつに諭されることもあれば、納得されることもある。それで十分だ」
「私なら、耐えられないよ、そんなの」
「いいんじゃね? 俺らの事情が異常なんだし」
「……」
「ちなみに、今は傷がまだ痛むから俺が出てるだけ。この前も言ったけど、俺のほうがあいつより感覚鈍いからな。もうちょっと治るまで、俺のほうが表に出るようにするつもりなんだけど、学校あるとな」
「学校あると今の山本だとだめなの?」
「あいつとはできるだけ違う人間だと分かるようにしてきたからな。今さらあいつの真似なんてやりたくてもできねぇよ」
「そっか」
「おう。…そろそろ帰るか」
「そうだね」
そう言うと葉村は、半分くらい残っていたフルーツ牛乳を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「な、うるさいわね!」
ただ単に感想言っただけなのに、顔をほんのり赤くして噛みつかれた。
「じゃ、そろそろ寝るから。ノートパソコンの方なら自由に使っていいぞ」
「え? まだ夕飯食べたばっかりじゃない。お風呂…はそっかさっき銭湯行ったか」
「俺の生活時間は20時寝の2時起きだ。お前いつも何時くらいに寝てるんだ?」
「日付が変わったくらい」
「そうか…じゃあまた明日、だな。俺が起きた時にはもう寝てるだろ」
「そうだね…って、そうじゃなくて。私はどこで寝ればいいの」
「あー考えてなかったな。ちょっと待て」
そういって押入れの上段に登る山本。天井板を押し上げた。そしてそのまま天井に消えてしまう。
「勝手に上がっていいの、天井抜けない?」
「へーきへーき、500は軽く超える数の文庫本置いてあって抜けてないから」
「何それ、私が怖いんですけど!?」
「だいじょぶだいじょぶ、…あった」
「探し物?」
ぽっかり四角い天井の穴から、ラグビーボールを一回り大きくしたような布袋が落ちてきた。
「なにこれ」
いよっ、という声とともに降りてきた山本は天井板をはめなおすと、押入れから床に落ちたナゾの布袋から中身を取り出した。
「…寝袋…?」
「あたり。貸すよ」
ほれほれ、と差し出されたぺっちゃんこの寝袋。
「これで寝ろと?」
「冬山でも使える耐寒-10℃のだから、暑すぎるくらいだと思うが」
「そんなことを問題にしてるんじゃないわよ!」
「え、じゃあ何が不満なんだ?」
「女子に向かって、男の臭いがしみついててちょっと汚そうな寝袋を使って寝ろ、と。それも同級生のぴっちぴちの女子高生に、普通言う!?」
合点がいったように手のひらをぽんとたたく山本。
「俺のだから嫌なんだな。でもなぁ他に就寝具持ってねぇし…」
「客用布団とか、ないの」
「下にはあるだろうけど、取りに行くと嫌がられそうだし」
山本が唸りながら考え始めた。そしてふと顔を上げ、
「俺と一緒に寝るか」
「馬鹿言ってんじゃないわよー!!」
思わず大声で怒鳴りつけ、グーをお見舞いしてしまった。
肩で息をする私、倒れた拍子に壁へぶつけた頭を押さえ仰向けで痙攣している彼。
そこに控えめなノックの音が聞こえた。
「はい」
つぶれたかえるのようなうめき声で答える山本。
がちゃり。この部屋の扉が開くのを初めて見た。
「…ゆうくん? さっきの、…………」
細く開けた扉の隙間から顔を覗き込ませたのは、40台、もしかしたら50に手が届いているかもしれない、そんなくらいの年齢の女性――山本のお母さんだろうか――だった。
その女性は部屋の中を見て、しばし口をつぐんだ。
寝る準備万端の押入れ上段。床では頭を押さえて大の字に倒れている息子。その正面で仁王立ちをして肩で息をする息子の同級生らしき女子。二人の間に横たわる薄汚れたくしゃくしゃぺちゃんこの寝袋。
「「「……」」」
部屋の中の様子を改めて確認した私も、痛みをこらえるのに必死な彼も。黙り込んでしまう。
だんだん私の顔が熱を持ってくる。
そんな居づらい空間、私が取り乱しそうになる直前。沈黙を切り払ったのは。
「…あんた、誰」
山本のお母さんの後ろから私を睨みつけている、一つ二つ年下に見える女の子だった。
「…私?」
「他に誰がいるっていうの」
まさに“切り払う”ような冷たい声。
「山本の…祐樹くんの妹さんですか?」
「あたしがあんたに聞いてるの。あんた、誰?」
「…葉村ななみ」
「で、お兄ちゃんに何を――」
「ちょっと。失礼でしょう、初対面の方に向かって、なんですかその態度は。…ごめんなさいね、この子、普段は優しいいい子なんだけれども」
「…いえ」
山本のお母さんは険悪になりかけた雰囲気を柔らかく戻した。
「…ふん。お母さん、あたしもう寝る。おやすみ」
ペースを乱された山本の妹は鼻を鳴らしてそれだけ言い捨てると、バタンと乱暴に隣の部屋の扉を閉めた。
「…な、言ったろ。あいつ、俺のこと大っ嫌いなんだよ」
「あ、ごめん、大丈夫だった?」
「ちっ、何が大丈夫だった、だ。傷口開いたらどうするつもりだったんだ」
のそのそ起き上がる。「うー痛てぇ」
そんな彼を見て、お母さんが何かに落胆したようにため息をついた。それも一瞬のことで。
「ほらほらケンカしない。もうお母さん、うれしくなっちゃって。ゆうくんがお友達を、それも女の子を連れてくるなんて思ってもみなかったから」
すぐにニコニコした笑い顔を取り戻して話しかけてくれた。
「私なんて、きっと彼には女の子だと思ってもらえてませんから」
「あらそうなの、全くうちのバカ息子にはもったいない別嬪さんなのに」
「べ、べっぴん…」
「こんな若々しくって。うらやましい限りだわ」
「そんな…」
「いけない、立ち話をしに来たんじゃなかったんだわ。あなた、お布団がないんでしょう」
「そうなんです」
「下に使ってないのがあるから、それを使ってくれても構わないんだけど、…その寝袋のほうがいいかしら」
「いえ、布団を貸してもらえますか」
「えぇ、ぜひどうぞ。たまには使ってあげないと、布団もいじけちゃうものね。ついていらっしゃい」
「はい」
慣れた手つきで寝袋を丸めて布袋にしまっている山本に声をかけて、私はお母さんの後についていった。
4
階段を下りて1階へ。明かりが点っている部屋に入る。物置らしいそこではお母さんが布団の入った圧縮パックを取り出していた。
「あ、私やります」
「あらそう、ありがとう」
ちょっと高いところにあったが、なんとが手が届いて。敷布団と掛布団、シーツを受け取った。
「ねぇ、ななみさん、って言ってたわよね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょう」
「あの子のこと、どう思う?」
「え、あ、そんな、その…」
ズバッと訊かれた。私が、あいつのことをどう思っているか…?
また顔が熱くなる。最近赤くなってばかりだ。
「ん? ああ違うわ。ごめんなさいね、そうじゃないの。あの子の過去、どのくらい知ってるの?」
さっ、と顔から熱が引いた。
「…それなら、全部教えてもらった、はずです。そう彼が言っていました」
「あの子、あんなことをやらかしたあとね。うちに帰ってきても1ヶ月くらいかしら、何にもしないでぼーっとしてるだけだったから、私があなたたちくらいの年の頃読んだ本をあげてね、何にもせずに1日を無駄にするなんてことは今日から許さない、って叱りつけたの。当時はあの子が何されたかなんて知らなかったからしょうがないとはいってもね、今も後悔してるの。何もしなかったんじゃなく、何もできなかったのに叱りつけてしまって」
「……」
「私のこと、なんか言ってなかった?」
「…特に、何も」
特に、どころか、全く。正確にはそう言いたかったけど、でもそれは残酷すぎる言葉だ。
「…そっか。あともう一つ、聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「あの子、自分の妹についてはどう思ってるか、知ってる?」
「単に、ものすごく嫌われている、自業自得だから仕方ない、と」
「やっぱり。あなたはどう思う? うちの子、娘のほうは、兄を嫌ってると思う?」
私を睨みつけてきたあの子の目を思い出す。
「いえ、思いません」
「…なんでそう思うの?」
「私をにらんだあの視線と言葉が、なんとなく。兄とその友達を嫌っているものというより、兄を心配しているものだったような気がしました」
そう、あれは、兄が誰かに奪われないように、敵を威嚇するような目だったと思う。
「私と同じ意見ね。でも、肝心の兄は」
「妹の心配に気付いてすらいない」
はぁ、と2人で溜息をつき、タイミングがそろったことに苦笑した。
「あなたとはいい嫁姑な関係になれそうだわ」
「え、嫁だなんて、そんな」
「ふふ、いい慌てぶり。私も昔はこうだったのかしら。懐かしいような気もするし、でもいつの間にか忘れちゃったな。…じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。お布団、お借りします」
私は布団を抱えなおして、物置から出た。
「よう、遅かったな。何、話しこんでたんだ」
「なんでもない」
彼の部屋に戻ると、彼は押入れ上段の布団にもぐりこんでいた。
「ちぇ、教えてくれたって罰は当たらねぇのに」
「教えてなんてあげないもん」
私も袋から出したふとんを床の真ん中にひいた。
「お前も、もう寝るのか」
「うん。たまには早寝もいいかな、って」
「そうか。じゃ、電気消してくれ。豆球も消していいぞ。おやすみ」
立ち上がって豆球にして、
「着替えるからこっち向かないで」
そう言うと、彼は無言でふすまを閉めた。
きちんと隙間なく閉まっていることを確認してから、私は寝巻に着替えて。それから紐を引っ張って灯りを完全に消した。
布団に入ってじっとしているとコンピュータや周辺機器のパイロットランプが明るく排気音が気になったが、いつのまにか寝てしまった。
5
いつも通りの時間に起きて、痛む背中の傷に触らないように気を遣いながら、寝転んだ態勢で4時間くらい過ごしていた。
押入れの外で他人が寝ているという経験は初めてで、枕元に蛍光灯を用意しておいてよかったとしみじみ思いながら、光と音が漏れないように、ふすまを閉めたままパソコンをいじっていた。流石に、背中、今度は背骨や腰まで辛くなってきている。
けたたましい目覚ましのベルが鳴り始めた。どうやら昨夜のうちに葉村がセットして寝たらしい。時計を見たらもう6時半だった。
そろそろふすまを開けると、目をつぶったまま音の発生源に向かって、バンバンと手で床を叩きながら目覚まし時計を探している葉村の姿が目に入る。
しばらくそうしていたが、なかなか目覚まし時計見つからない彼女はついにむくりと起き上って目覚まし時計を黙らせた。
そしてきょろきょろ周りを見回し始めたところを見ると、どうやら彼女はまだ寝ぼけているらしい。
「おはよう」
押入れの上段から声をかけた。ふっと振り向き、きょとんとしている。
「あーおはよう~」
それから彼女は、もそもそ布団から抜け出し伸びをしたところで、ぎしっ、と効果音が付きそうなくらい突然固まった。
フランケンシュタインのようにギギギと、赤く染まった顔を僕のほうに回して、
「……見た?」
「申し訳ない、何の話か全然見えないんだが」
「うるさいうるさい、うるさいっ」
なんなんだ、まったく。理不尽すぎる仕打ちだと思うんだが。
「着替えるからあっち向いてて!」
「分かった」
ふすまを閉める。
何であんな、泣く寸前の表情を向けられなければいけないのだろう。僕がなにか悪いことをしただろうか。
「さっきはごめん」
通学途中、葉村に謝られた。
あのあと、彼女は朝食の時もずっと黙り通しだった。
「いや、別に気にしてないが」
「…そっか」
「……」
「……」
再び2人で気まずい空気に沈み込んでしまう。黙々と学校までの道のりを歩いていく。
そのまま学校に到着し、下足室で久しぶりに会った同級生たちは、僕らに話しかけようとしても、纏っている重い空気に気圧されたようで早足で逃げていく。
どうやら一緒に来た僕らを囃したてたいようだったのである意味助かったともいえるのだが、それにしてもこの雰囲気はまずいと思う。思うのだが、どうやって解消すればいいのかわからない。
僕らは教室の、隣同士の席について。気まずいまま授業が始まった。
――なあ、なんでこんな気まずくなったのか、君は分かっているのかい?
――当然だろ。むしろ、なんで分からねぇんだよ。
――僕に聞かれても困るから君に聞いたんだが。
――あーはいはいそうでしょうねー、と。…多分な、葉村は俺らに寝ぼけた姿を見られたくなかったんだろうよ。
――だから寝ぼけた姿を「見た」か、を聞いたのか。
――だろうな。恋する乙女としては、そんなところを見られたくなかったんだろ。
――恋する…葉村が? 誰に恋するんだ?
――…もう俺は知らん、寝る。
――そうか、おやすみ。
――ちっ、うらやましいぜこの野郎…
怪我をして以来、約1ヶ月ぶりの学校は1学期末試験直前で、授業は夏休み前の峠だった。
葉村にノートは見せてもらっていたので特に困るようなこともなく。同級生数人に体の調子を聞かれたくらいで変わったことも無いようだった。
今日1日の、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
鐘が鳴ると同時に、まだ話している教師にはお構いなしで帰り始める同級生たち。試験1週間前になって、どの部も活動が休止状態になっているのだろう。いつもなら重そうな部活道具を抱えているやつらも、さっさと帰り支度をしていた。
僕も教科書を鞄にしまい込み、一応教師が教壇から降りるのを待ってから席を立った。
葉村に話しかけられたのはそんな時。
「あの、昨日はありがとう」
「いや、あのくらい別に何でもないさ。結構な頻度で見舞いに来てくれていたしね」
「じゃ、また明日」
「気をつけて帰りなよ」
ニコっと笑って彼女は教室から出ていった。
無事退院できたし、学校はちっとも変り映えのしない1日を繰り返しているようだ。葉村に世話をかけられるのも昨日まで。今日これからは今までの、いつも通りの日常が帰ってくる。
そのはずだった。
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第3章
1
そのあと、彼らは僕に“取り調べ”をした。…言葉通りに受け取らないでね?
既存のプログラムはほぼ全て、この事件によって脆弱性を持つことが証明され、安全だとは言えなくなることが判明した。侵入に使われたツールが公開されなくても、侵入手口が分からなくても、一度ウイルスに侵入されたシステムを喜んで使い続けようとする人間が多いとは思えないだろう?
経済損失は計り知れない規模だし、なにより。当時日本最高のセキュリティを謳っていたサーバーから機密を奪われたんだ。データを盗む側の諜報機関としては、プライドを完璧につぶされた形になったわけだ。やっとのことで認めてもらいつつあった諜報機関にとっては、苦労して収集した最高機密が一般市民に勝手に読まれてプライドはズタズタ。
リモートサーバーへの不法侵入だけでも重罪なのに、そのデータを奪われたうえ、犯人を一度取り逃がした挙句サーバーのデータだけでなくインターネット全体を約2週間にわたって使用不能にしたんだ。普通だったら犯人に重い刑罰が下ることは必然だっただろうね。
でも、犯人はまだ小学3年生、年齢は1桁だ。いくら「利用者ならば大人扱い」なインターネットでの事件だといっても、日本の法律では極刑を科すことはできない。
当然、産業情報庁構成員なら雪辱を晴らしたいだろう。頑張って犯人につながる断片を見つけて、血眼になって世界中を調べ上げて。でも最初に捕まえた容疑者は人違いで真犯人はその息子。そんなことになれば、構成員なら誰であっても頭にくる。
幸いネットは完全復旧してなかったから子供相手に何をしてもニュースになって広まることはないし、広まったって生活の綱であるインターネットを破壊した張本人の味方をする人が多いわけないし。第一、日本最高のセキュリティを誇るサーバーが侵入されたんだ、ウイルスの残骸によって記録が抹消されてしまいました、と言えば証拠がないことを誰も責めることはできない。
そもそも諸外国に、自国民の仕業です、とばれたら、どんな言いぐさを付けられるか分かったもんじゃない。だから公式には犯人は分からなかったことにして、むしろ犯人を示す証拠を片っ端から削除して。
そうして彼らは秘密裏に、開発されていた様々な薬物や拷問道具を駆使して僕に復讐をしたよ。
当たり前だよね。
体よく人体実験の被験者にしても何の問題もなかった。犯人を逮捕した、なんて事実は公式には存在しない。それを公表しても、日本国内の世論はいたぶってやれ、苦しめてやれって方向に流れていただろうな。当時の記録がないから外の様子、事実は知らないけどね。
そんな青い顔するなよ。全ては僕の身に起こったことだ、君のことじゃない。
そして僕は憂さ晴らしに使われた薬物や蓄積されたストレスによって、人格が分裂した。その時に、最初から存在したものがそのまま2つ以上に分かれたせいで、例えば。
僕には感情がほとんどない。
俺には感覚、いわゆる五感のうち特に触角が、その中でも痛覚が存在しない。
どっちも日常生活をするうえで必要な部分はそれぞれに残ってるから、不意に屋上から飛び降りたり間違って缶ジュースを握りつぶしたりすることは、少なくても最近はない。
そこら辺はお前が気にすることないぜ。同情する必要もないしな。
で、不安定になったアイデンティティを維持するために、俺らは自分たちに、役割言葉を厳格に使うことを科した。そうしないと、どっちがどっちだか、すぐに分からなくなる。
最初はそんなことしてなくて。自分がどっちの自分か確かめるために、痛みを感じるかどうかを毎回試してたんだ。そしたら、母さんがヒステリーになりかけてさ。かといって毎回隠れてこそこそ自分を痛めつけて確認しても、俺が表に出てるときには力の加減が難しくて、どうしても痣ができちまうんだ。
だから2人で相談して、基本的にあいつが表に出る、役割言葉をつかう、って決めた。
1人称も違うだろ?
話を戻すぜ。
そしてあいつらは、疑似的なものだが自分で判断することのできる、人工知能とは呼べないけどそれに近いプログラムだった、俺のクラックツールに目を付けた。こいつは使える、と思ったんだろうな。俺が使ってたシステムもソースコードから解析して、奴らは俺を、新しいシステムの開発者に祭り上げた。
あらゆる手段を使って強制的に命令を聞く奴隷化して、ソースコードと要求、薬物を与えれば自動的にシステムのセキュリティを強化する機械のように扱いやがった。1日中、朝から晩まで、食事はなく栄養は全部点滴で採って、風呂に入れてくれるわけでもなく用を足しに行かせてくれるわけもなく。寝たきりで体が動かせない人が使うようなベッドにずっと、文字通り縛り付けられて。
人間として扱ってもらえたのは、俺が何とかシステムを完成させた後、うちに返してもらう時が初めてだったね。それまでの給料としてかなり大金を払ってくれたんだ。その頃はまだ地方にいたから噂が広がるのも早くて、ご近所さんは俺が何をして誰に連れていかれたか知らない人なんていねぇし。母さんも働きになんて行けなかった。
だから俺がうちに帰ってきて、まともな人間として生活できるようになるのを待ってから、今住んでるここに引っ越した。
お前、俺んち来たことなかったよな、今度連れてってやるよ。きっと驚くぜ、俺の部屋に。
俺の部屋、2階にあってちょっと大きめのベランダがあるんだけどさ、6畳くらいの部屋とベランダだけでばっちり生活できるようにしてあるんだ。地下室へ直接行けるようにしてあるしな。家のほかの部分に入らなくても済む。ちっと、妹に嫌われててな、気まずいし。
まぁそれはどうでもいいか。
引っ越したのが小5になる春休み。始業式は学校へちゃんと行ったんだが、転校生ってことで注目浴びて、すげぇ居づらくて。1回でもう学校通う気失せたね。だから小学校はそれ以降行ってない。
ずっと家でぼけーっとしてて、見かねた母さんが俺の部屋来てドサドサいろいろ古い小説持ってきたんだよ。今まで本っつったらコンピュータの解説書ばっかりで物語なんて読んだことなかったんだけど、それが面白くてさ。あの時ははまったはまった。
今度は食事も睡眠も忘れて無視して、部屋の鍵もかけて1日中文庫本を読み漁った。2日位するとなんかフラフラしてさ、あれ、どうしたんだろーとか思ってたらばったり部屋で倒れて動けなくなって。ヤバいかも、って思ったんだけど声も出なくて、死ぬのかな、って思ってて。
あの時の精神状態は不思議だったぜ。死んでもいいや、ってのと、死ぬのが怖い、ってのが交互にやってくるんだ。そのあと母さんがベランダから入ってきて病院つれてかれて、見ての通り死ぬことはなかったんだけど。でもあんときはかなり絞られたなぁ。
2
「まあそんなこんなで、今に至るわけなんだけど」
「……」
今、私の前で横になっている同級生は、想像もしない過去を持っていた。
「さっき君は“虐待はされてない”って言ってたけど、――それよりもっとひどい目に遭ってきたんじゃないの」
私はこれから、彼とどういう関係でいればいいのだろう。自分のことだから断言できる。もう、
――ただの友達として接することなんて出来ない。
「そうかなぁ? 割と面白い経験ができたと思ってるんだけど?」
飄々と話す彼を、まっすぐ見られない。
なんか、私、馬鹿みたい。何でこんな、常識外れな規格外の人を、私と同じような、過去なんてあってないような人間だ、って考えていたんだろう。そんなこと、したって意味ないじゃない。
…私、何を考えているの? 彼は、彼の過去によってこうなった、私と同じ年の男子じゃない。彼と私が違う人間なわけないよ。
だんだん頭の中がぐちゃぐちゃになってきた。
「別に、自分自身を嫌いになったわけじゃねぇし? 今の生活があればそれで十分だし?」
「君は、あんなことされて、自分を壊されて、復讐してやろうと思わないの?」
「思った。思ってる。でも今はその時期じゃない、ってあいつが言ってるから我慢してる」
感情に任せて勝算もなく行動を起こしたら、体の操縦権もらえなくなるんだよなー。
悔しそうに唇を歪ませ、すぐにその歪みが笑いに代わる。
「…なんか、楽しそうだね」
今さら、やっぱり聞かなければよかった、なんて思っている私は、なんてひどい人間なんだろう。彼のほうがよっぽど、人ができてる。
「そりゃあ、人生楽しまないと損だろ」
「そっか」
「そう。だから、お前も俺のこと色々考えて、勝手に鬱になるなよ」
「……」
見透かされてる?
「お前、うわの空で受け答えしてるのがバレバレ。どうせ関係ない、過去のことまでしょい込んで、これからを悩むつもりだったんだろ。じゃなかったらアレか、聞かなきゃよかったと思ってるとか?」
「……」
「図星だな。何も言えない、って顔してるぜ」
「だって、」
「だってもくそもない。出会うまでの過去に、お前は関係ない。お前に関係があるのは出会ってから、同じクラスになってからの俺だけだ。分かったな」
「…分かった」
「よし」
にま、と効果音を付けたくなるような笑い顔。
そうして彼はパソコンのキーボードを、いつも通り尋常じゃない速さで叩き始めた。
画面を見て私を見ない横顔を見ていると、私は何故か気分が軽くなっていった。目を閉じるとさっきの笑い顔が浮かんだ。
「じゃあ私、一度うちに帰るね。両親が心配してるだろうし。また明日来る」
「ん、そうか。悪ぃな、付き合わせちまって」
「いいの、さっきも言ったけど、来たいから来るんだもん」
彼は苦笑して、はいはい、といった。
「なぁ、頼まれもの、おつかい、してくれねぇかな」
「え、買い物ってこと?」
「そうそう。ダメ?」
「ものによるなぁ。重いもの?」
「文庫本買ってきて欲しいんだけど。…そんな嫌な顔するなよ」
表情に出てしまったらしい。
「分かった、買ってくる。何が読みたいの?」
「メールアドレス教えて、リスト送るから」
「ずいぶん突然なアドレス交換ね。…いいわ、これ」
彼に携帯端末を手渡すと、ありがとーといいながら赤外線送信モードにしておいた画面を戻して、電話帳に切り替え、表示された私のデータを手で直接、パソコンに打ち込み始めた。
「あい、どうも。俺のアドレス、送信しておいたから」
彼の言葉に応えるタイミングで、私の携帯端末が震えた。
「へぇ、流石クラス1の真面目ちゃん。病院ではちゃんとマナーモードなんだ」
「あ、当たり前じゃない!」
「うん、当たり前」
へへっ、と笑われた。
普通にしていれば結構、彼はカッコいいほうだと思うんだけどな。イジワルを言わなければ。
「おい、どーした、顔真っ赤になったぞ」
「ウソ!? な、え、うううるさいわね、本買ってきてあげないわよ!?」
「…俺、悪いこと言ったか?」
「最初から最後まで悪いことしか言ってないじゃないの!」
彼はちぇ、と舌打ちして。
「じゃ、頼んだ。レシートちゃんともらって来いよ、じゃないと金払えねぇからな」
「分かってるわよ、もう。…また、明日。おやすみ」
「おう、おやすみ」
彼に背を向け、病室を出る。無意識におやすみ、と言ってしまったけど、時計を見て驚いた。
「やば、もう6時まわっちゃってるじゃないの」
ママに電話しないと、夕飯抜きになっちゃう。
意識して早く帰ること、ママに連絡しなければいけないことを考える。そうでないと、私が私でなくなってしまうような気がした。
なんでだろう。どうしてだろう。
私はいつも冷静沈着な、クールでカッコイイなオンナノコ。
そのはずだったのに。彼に会って助けられたあの後から、彼のことが頭から離れない。
彼の前だと、私が私じゃないみたいだった。こんなにほかの人に甘えるなんて、私らしくない。
3
それから2週間ほどで僕は退院できた。
「結局2週間も、葉村にはお世話になり続けちゃったな」
「いいわよ、気にしないで。…退院、おめでとう」
「ありがとう。今日これから、予定ある?」
「え、何で? 予定なんてないけど」
「お昼まだだろ? もう13時過ぎちゃうし、どこかで奢るよ」
「いいの? あんなに本買った後で、お小遣い足りる?」
「大丈夫、お金は気にしなくていいよ。入院中もバイトしてたから、結構余裕あるんだ」
「入院中って」
「プログラミング。パソコンさえ持ち込めれば、ソフトは作れるから」
「そうなの?」
「そうなの。何か食べたいものある?」
病院の最寄り駅まで歩く間、彼女はずっと考えて、こう言った。
「山本んちに行きたいな。途中で材料買って、一緒にお昼ご飯、作ろう?」
「梯子、気を付けてね。先に登るよ」
彼女は普段着、スカートだったが、短めだったから多分つまずいて落ちることはないだろう。先に梯子を登り、窓の鍵を開けておく。
「本当にベランダから出入りしてるんだね」
「そんなことで嘘、吐いたって仕方ないじゃないか」
「それはそうなんだけどー」
「よそ見して踏み外さないようにね」
「分かってる。…君、どういう生活してるの」
「こういう生活さ」
窓の外にベランダが約6畳、家の中に自分の部屋が8畳。ベランダには鉄パイプで屋根の骨組みが作られていて、太陽光発電パネルが設置されている。部屋の中から見て右側に水道、左側に先ほど登ってきた梯子、奥に置いてあるプランターには苦瓜らしき植物が育っている。
室内は和室。窓の内側、左側にはスチール机があり、上にカセットコンロとデスクトップパソコンが置いてある。押入れの戸は開け放され、上の段には布団と枕が見え、下の段には冷蔵庫があった。右の壁には埋める大きな本棚。
一通りの生活を営むために必要な設備はそろっている。
「なんでこういう部屋なの?」
「や、ちょっと妹に嫌われてるらしくてさ、この部屋から出ると嫌がられるんだよね。ほら、あんな過去がある、ってことは妹にも散々迷惑かけたわけだし。こっちに非があるかな、って思ってるからさ、引っ越してきた時にこの部屋だけで生活できるようにしてもらったんだ」
「だから出入りも窓からなの?」
「そう。慣れると便利だよ。後で見せるけど地下室もあるし、屋根裏も使えるし、ベランダに水道引いてあるから冷たくていいのならシャワーも浴びれるし。住めば都ってやつ?」
「……」
「風呂は銭湯に通ってるんだ。このあたり、まだ銭湯いくつかあるしさ、ついでに買い物も済ませて、そこのカセットコンロ使って料理して。それに僕はほかの大多数の人間と生活時間帯違うみたいだから、隔離されてると逆に楽なんだよね」
当たり前のように、自分自身が“隔離”されていると言い放ったからだろうか。彼女は複雑な表情をした。
「外で料理しようか」
「うん」
「道具、取ってくる」
窓を開け、身を乗り出してカセットコンロを取る。
玉ねぎを切りながら、彼女は言う。
「ねぇ、もしかして、休みの日なんて、誰とも話さないでしょ」
ハムを1cm角に切りながら答える。
「そうだな。夏休みとか、普通に1週間くらい声出さないことあるね」
「寂しくないの?」
「いや、別に。慣れたのかもしれない」
「学校でも人と話してるの、あんまり見たことないし」
「そうなんだよねぇ。なんでだろうね?」
割と真面目に聞いたのだが、彼女はあきれたようにため息をついた。
「ずっと本読んでるからだよ。話しかけづらいんだ、って気づいてなかったの?」
「え、そうなの?」
「そうなの。まったくもう、そんな社会生活不適応者みたいな答え、返さないでよ」
「すんませんねー」
「…それにしても。意外と、器用なのね」
「そりゃ、毎日3食、きちんと作ってますから」
「てっきりコンビニ弁当ばっかりなんだと思ってた」
「そんなことしないよ。本が買えなくなるじゃないか」
「理由が予想と違ったけど、健康的でいいわね」
「やっぱ、女子ってそういうの気になるんだ?」
「そりゃそうよ。そんなものばっかり食べてたらお肌が荒れちゃうし、太っちゃうもの」
小さい声で彼女がごにょごにょつぶやく。
「ん? 何の人のことだから?」
「え、な、なんでもない!!」
「なんだよ、教えてくれたっていいじゃん」
「やだ」
――突然いじけやがって。なんなんだまったく。
「「いただきます」」
「「ごちそうさま」」
「結構美味しかったわ。料理、上手いんだね」
「そりゃあ、な。もうかれこれ4~5年くらいは自炊してるから」
「…そっか」
まずい方向に話が飛んでしまった。そう彼女の顔に書いてあった。苦笑は心の中だけに留め置いて、話題を変えてやることにした。
「洗い物、俺がやっとくよ。お前は中でくつろいでな」
「あらありがとう。どっちの君も、意外と優しいのね」
「意外とってなんだ、意外とって。俺はいつもジェントルマンだ。客をむやみに働かせるような無礼はしないさ」
そう言ってやると、彼女は「ありがと」と言いながら、含み笑いを漏らして窓から部屋へ入っていった。
「んだよ、今の笑いは。まったく」
でも、たまには他人と過ごす休日も悪くねぇもんだな。
「お前、帰らなくていいのか? もう17時になるぞ」
「平気、友達んちに泊まるって言って出てきたから」
「お前な、年ごろのオンナノコがそんなんでいいのか」
「いいのいいの、もう手遅れなんだから」
「まったく、何が手遅れなんだか」
「え、泊まっちゃダメ?」
「別にいいけどよ。じゃ、銭湯行くぞ、着替えは持ってきてるんだろうな」
「当然じゃない」
押入れから銭湯セットを出して窓からベランダへ。
「ほら、鍵閉めるぞ」
「ちょっと待って、…お待たせ」
葉村が出てから後付けの鍵を閉める。
「梯子、気をつけろよ」
「うん」
そろそろ、おっかなびっくり降りていく彼女を見ていると、こっちのほうが心配になってくる。
「大丈夫か?」
「へ、平気よ。馬鹿にしないヒャっ」
「ほら言わんこっちゃない、ちゃんと足元見て降りろよ。怪我されても困るんだから」
「…お荷物だって言いたいの?」
「え、なんか言ったか?」
小さい声でぼそぼそ言われても、俺は感覚が遠いんだ。
「何でもないっ!」
そんな、機嫌悪くされても困るんだけどな。
銭湯までの道中は口を利いてもらえず、銭湯内は男女別。風呂から上がる時間だけ指定してすぐに女湯に引っこまれてしまった。
何がいけないのか、ちっとも分からない。感情のないあいつのことだ、聞いたってロクな答えは出てきはしないだろう。
うんうん唸りながら考えて、危うくのぼせるところだった。
風呂から上がって扇風機にあたりながら牛乳を飲んでいると、上機嫌な彼女が出てきた。
なんとなく、のぼせるまで理由を考えていた自分が馬鹿らしくなった。
また機嫌が悪くなったら居心地悪いことこの上ないから聞くに聞けないし、どうしたもんだろうか。そんなことを考えていると。
「ねぇ、私も、牛乳飲んじゃダメ?」
「ん、残りあげる」
「…違うわよ。私も買っていいか、って聞いたの」
「ほい、財布」
「まったく、なんて想像してるのよ」
「…? なんでお前、顔赤くなってるんだ?」
「うるっさいわね!」
またキレられた。ほんと、女って何なんだよ。
葉村は俺の財布から必要なだけぴったり小銭を取り出して、プリプリしながら受付へ歩いていった。そして目当ての瓶を持って帰ってくる。
「一度、飲んでみたかったの。風呂上がりのフルーツ牛乳、ってやつ」
「よかったな」
くっはー、と実に女子高生に似合わない声を上げる葉村。学校にいるときとのギャップがすさまじい。笑いをこらえるのに骨を折る。
「そういえばさ。学校だと山本はいつも、…丁寧な方…が表に出てるじゃない?」
「そうだな」
「普段は、うちでは、そんなことないの?」
「…どうだろう。うちでのことは意識したことなかったな」
「学校だといつも…」
「そりゃ、あんまり人に知られてうれしいことねぇしな」
「そっか」
「おう。だからいつも、今沈んでるほうが表に出てるようにしてる」
「君は、今表に出てる山本はそれでいいの?」
「同意の上だ。俺が出てたら、喧嘩ばっかりしちまうしな。冷静なあいつのほうがいい」
「誰とも話さないで、寂しくないの?」
「うーん、表に出てねぇだけで、外の様子はあいつと共有してるから。こいつ馬っ鹿じゃねぇの、とか中で思ってる。中であいつに諭されることもあれば、納得されることもある。それで十分だぜ」
「私なら、耐えられないよ、そんなの」
「いいんじゃね? 俺らの事情が異常なんだし」
「……」
「ちなみに、今は傷がまだ痛むから俺が出てるだけ。この前も言ったけど、俺のほうがあいつより感覚鈍いからな。もうちょっと治るまで、俺のほうが表に出るようにするつもりなんだけど、学校あるとな」
「学校あると今の山本だとだめなの?」
「あいつとはできるだけ違う人間だと分かるようにしてきたからな。今さらあいつの真似なんてやりたくてもできねぇよ」
「そっか」
「おう。…そろそろ帰るか」
「そうだね」
そう言うと葉村は、半分くらい残っていたフルーツ牛乳を一息に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「な、うるさいわね!」
ただ単に感想言っただけなのに、顔をほんのり赤くして噛みつかれた。
「じゃ、そろそろ寝るから。ノートパソコンの方なら自由に使っていいぞ」
「え? まだ夕飯食べたばっかりじゃない。お風呂…はそっかさっき銭湯行ったか」
「俺の生活時間は20時寝の2時起きだ。お前いつも何時くらいに寝てるんだ?」
「日付が変わったくらい」
「そうか…じゃあまた明日、だな。俺が起きた時にはもう寝てるだろ」
「そうだね…って、そうじゃなくて。私はどこで寝ればいいの」
「あー考えてなかったな。ちょっと待て」
そういって押入れの上段に登る山本。天井板を押し上げた。そしてそのまま天井に消えてしまう。
「勝手に上がっていいの、天井抜けない?」
「へーきへーき、500は軽く超える数の文庫本置いてあって抜けてないから」
「何それ、私が怖いんですけど!?」
「だいじょぶだいじょぶ、…あった」
「探し物?」
ぽっかり四角い天井の穴から、ラグビーボールを一回り大きくしたような布袋が落ちてきた。
「なにこれ」
いよっ、という声とともに降りてきた山本は天井板をはめなおすと、押入れから床に落ちたナゾの布袋から中身を取り出した。
「…寝袋…?」
「あたり。貸すよ」
ほれほれ、と差し出されたぺっちゃんこの寝袋。
「これで寝ろと?」
「冬山でも使える耐寒-10℃のだから、暑すぎるくらいだと思うが」
「そんなことを問題にしてるんじゃないわよ!」
「え、じゃあ何が不満なんだ?」
「女子に向かって、男の臭いがしみついててちょっと汚そうな寝袋を使って寝ろ、と。それも同級生のぴっちぴちの女子高生に、普通言う!?」
合点がいったように手のひらをぽんとたたく山本。
「俺のだから嫌なんだな。でもなぁ他に就寝具持ってねぇし…」
「客用布団とか、ないの」
「下にはあるだろうけど、取りに行くと嫌がられそうだし」
山本が唸りながら考え始めた。そしてふと顔を上げ、
「俺と一緒に寝るか」
「馬鹿言ってんじゃないわよー!!」
思わず大声で怒鳴りつけ、グーをお見舞いしてしまった。
肩で息をする私、倒れた拍子に壁へぶつけた頭を押さえ仰向けで痙攣している彼。
そこに控えめなノックの音が聞こえた。
「はい」
つぶれたかえるのようなうめき声で答える山本。
がちゃり。この部屋の扉が開くのを初めて見た。
「…ゆうくん? さっきの、…………」
細く開けた扉の隙間から顔を覗き込ませたのは、40台、もしかしたら50に手が届いているかもしれない、そんなくらいの年齢の女性――山本のお母さんだろうか――だった。
その女性は部屋の中を見て、しばし口をつぐんだ。
寝る準備万端の押入れ上段。頭を押さえて大の字に倒れている息子。その正面で仁王立ちをして肩で息をする息子の同級生らしき女子。二人の間に横たわる薄汚れたくしゃくしゃぺちゃんこの寝袋。
「「「……」」」
部屋の中の様子を改めて確認した私も、痛みをこらえるのに必死な彼も。黙り込んでしまう。
だんだん私の顔が熱を持ってくる。
そんな居づらい空間、私が取り乱しそうになる直前。沈黙を切り払ったのは。
「…あんた、誰」
山本のお母さんの後ろから私を睨みつけている、一つ二つ年下に見える女の子だった。
「…私?」
「他に誰がいるっていうの」
まさに“切り払う”ような冷たい声。
「山本の…祐樹くんの妹さんですか?」
「あたしがあんたに聞いてるの。あんた、誰?」
「…葉村ななみ」
「で、お兄ちゃんに何を――」
「ちょっと。失礼でしょう、初対面の方に向かって、なんですかその態度は。…ごめんなさいね、この子、普段は優しいいい子なんだけれども」
「…いえ」
山本のお母さんは険悪になりかけた雰囲気を柔らかく戻した。
「…ふん。お母さん、あたしもう寝る。おやすみ」
ペースを乱された山本の妹は鼻を鳴らしてそれだけ言い捨てると、バタンと乱暴に隣の部屋の扉を閉めた。
「…な、言ったろ。あいつ、俺のこと大嫌いなんだよ」
「あ、ごめん、大丈夫だった?」
「ちっ、何が大丈夫だった、だ。傷口開いたらどうするつもりだったんだ」
のそのそ起き上がる。「うー痛てぇ」
そんな彼を見て、お母さんが何かに落胆したようにため息をついた。それも一瞬のことで。
「ほらほらケンカしない。もうお母さん、うれしくなっちゃって。ゆうくんがお友達を、それも女の子を連れてくるなんて思ってもみなかったから」
すぐにニコニコした笑い顔を取り戻して話しかけてくれた。
「私なんて、きっと彼には女の子だと思ってもらえてませんから」
「あらそうなの、全くうちのバカ息子にはもったいない別嬪さんなのに」
「べ、べっぴん…」
「こんな若々しくって。うらやましい限りだわ」
「そんな…」
「いけない、立ち話をしに来たんじゃなかったんだわ。あなた、お布団がないんでしょう」
「そうなんです」
「下に使ってないのがあるから、それを使ってくれても構わないんだけど、…その寝袋のほうがいいかしら」
「いえ、布団を貸してもらえますか」
「えぇ、ぜひどうぞ。たまには使ってあげないと、布団もいじけちゃうものね。ついていらっしゃい」
「はい」
慣れた手つきで寝袋を丸めて布袋にしまっている山本に声をかけて、私はお母さんの後についていった。
4
階段を下りて1階へ。明かりが点っている部屋に入る。物置らしいそこではお母さんが布団の入った圧縮パックを取り出していた。
「あ、私やります」
「あらそう、ありがとう」
ちょっと高いところにあったが、なんとが手が届いて。敷布団と掛布団、シーツを受け取った。
「ねぇ、ななみさん、って言ってたわよね。ちょっといいかしら」
「はい、なんでしょう」
「あの子のこと、どう思う?」
「え、あ、そんな、その…」
ズバッと訊かれた。私が、あいつのことをどう思っているか…?
また顔が熱くなる。最近赤くなってばかりだ。
「ん? ああ違うわ。ごめんなさいね、そうじゃないの。あの子の過去、どのくらい知ってるの?」
「…それなら、全部教えてもらった、はずです。そう彼が言っていました」
「あの子、あんなことをやらかしたあとね。うちに帰ってきても1ヶ月くらいかしら、何にもしないでぼーっとしてるだけだったから、私があなたたちくらいの年の頃読んだ本をあげてね、何にもせずに1日を無駄にするなんてことは今日から許さない、って叱りつけたの。当時はあの子が何されたかなんて知らなかったからしょうがないとはいってもね、今も後悔してるの。何もしなかったんじゃなく、何もできなかったのに叱りつけてしまって」
「……」
「私のこと、なんか言ってなかった?」
「…特に、何も」
特に、どころか、全く。正確にはそう言いたかったけど、でもそれは残酷すぎる言葉だ。
「…そっか。あともう一つ、聞きたいことがあるの」
「どうぞ」
「あの子、自分の妹についてはどう思ってるか、知ってる?」
「単に、ものすごく嫌われている、自業自得だから仕方ない、と」
「やっぱり。あなたはどう思う? うちの子、娘のほうは、兄を嫌ってると思う?」
私を睨みつけてきたあの目を思い出す。
「いえ、思いません」
「…なんでそう思うの?」
「私をにらんだあの視線と言葉が、なんとなく。兄とその友達を嫌っているものというより、兄を心配しているものだったような気がしました」
言ってみれば、兄が誰かに奪われないように、敵を威嚇するような目だった。
「私と同じ意見ね。でも、肝心の兄は」
「妹の心配に気付いてすらいない」
はぁ、と2人で溜息をつき、タイミングがそろったことに苦笑した。
「あなたとはいい嫁姑な関係になれそうだわ」
「え、嫁だなんて、そんな」
「ふふ、いい慌てぶり。私も昔はこうだったのかしら。懐かしいような気もするし、でもいつの間にか忘れちゃったな。…じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。お布団、お借りします」
私は布団を抱えなおして、物置から出た。
「よう、遅かったな。何、話しこんでたんだ」
「なんでもない」
彼の部屋に戻ると、彼は押入れ上段の布団にもぐりこんでいた。
「ちぇ、教えてくれたって罰は当たらねぇのに」
「教えてなんてあげないもん」
私も袋から出したふとんを床の真ん中にひいた。
「お前も、もう寝るのか」
「うん。たまには早寝もいいかな、って」
「そうか。じゃ、電気消してくれ。豆球も消していいぞ。おやすみ」
立ち上がって豆球にして、
「着替えるからこっち向かないで」
そう言うと、彼は無言でふすまを閉めた。
きちんと隙間なく閉まっていることを確認してから、私は寝巻に着替えて。それから紐を引っ張って灯りを完全に消した。
布団に入ってじっとしているとコンピュータや周辺機器のパイロットランプが明るく排気音が気になったが、いつのまにか寝てしまった。
5
いつも通りの時間に起きて、痛む背中の傷に触らないように気を遣いながら、寝転んだ態勢で4時間くらい過ごしていた。
押入れの外で他人が寝ているという経験は初めてで、枕元に蛍光灯を用意しておいてよかったとしみじみ思いながら、光と音が漏れないように、ふすまを閉めたままパソコンをいじっていた。流石に、背中、今度は背骨や腰まで辛くなってきている。
けたたましい目覚ましのベルが鳴り始めた。どうやら昨夜のうちに葉村がセットして寝たらしい。時計を見たらもう6時半だった。
そろそろふすまを開けると、目をつぶったまま音の発生源に向かって、バンバンと手で床を叩きながら目覚まし時計を探している葉村の姿が目に入る。
しばらくそうしていたが、なかなか目覚まし時計見つからない彼女はついにむくりと起き上って目覚まし時計を黙らせた。
そしてきょろきょろ周りを見回し始めたところを見ると、どうやら彼女はまだ寝ぼけているらしい。
「おはよう」
押入れの上段から声をかけた。ふっと振り向き、きょとんとしている。
「あーおはよう~」
それから彼女は、もそもそ布団から抜け出し伸びをしたところで、ぎしっ、と効果音が付きそうなくらい突然固まった。
フランケンシュタインのようにギギギと、赤く染まった顔を僕のほうに回して、
「……見た?」
「申し訳ない、何の話か全然見えないんだが」
「うるさいっ」
なんなんだ、まったく。理不尽すぎる仕打ちだと思うんだが。
「着替えるからあっち向いてて!」
「分かった」
ふすまを閉める。
何であんな、泣く寸前の表情を向けられなければいけないのだろう。僕がなにか悪いことをしただろうか。
「さっきはごめん」
通学途中、葉村に謝られた。
あのあと、彼女は朝食の時もずっと黙り通しだった。
「いや、別に気にしてないが」
「…そっか」
「……」
「……」
再び2人で気まずい空気に沈み込んでしまう。黙々と学校までの道のりを歩いていく。
そのまま学校に到着し、下足室で久しぶりに会った同級生たちは、僕らに話しかけようとしても、纏っている重い空気に気圧されたようで早足で逃げていく。
どうやら一緒に来た僕らを囃したてたいようだったのである意味助かったともいえるのだが、それにしてもこの雰囲気はまずいと思う。思うのだが、どうやって解消すればいいのかわからない。
僕らは教室の、隣同士の席について。気まずいまま授業が始まった。
――なあ、なんでこんな気まずくなったのか、君は分かっているのかい?
――当然だろ。むしろ、なんで分からねぇんだよ。
――僕に聞かれても困るから君に聞いたんだが。
――あーはいはいそうでしょうねー、と。…多分な、葉村は俺らに寝ぼけた姿を見られたくなかったんだろうよ。
――だから寝ぼけた姿を「見た」か、を聞いたのか。
――だろうな。恋する乙女としては、そんなところを見られたくなかったんだろ。
――恋する…葉村が? 誰に恋するんだ?
――…もう俺は知らん、寝る。
――そうか、おやすみ。
――ちっ、うらやましいぜこの野郎…
怪我をして以来、約1ヶ月ぶりの学校は1学期末試験直前で、授業は夏休み前の峠だった。
葉村にノートは見せてもらっていたので特に困るようなこともなく。同級生数人に体の調子を聞かれたくらいで変わったことも無いようだった。
今日1日の、最後の授業の終わりを知らせる鐘が鳴った。
鐘が鳴ると同時に、まだ話している教師にはお構いなしで帰り始める同級生たち。試験1週間前になって、どの部も活動が休止状態になっているのだろう。いつもなら重そうな部活道具を抱えているやつらも、さっさと帰り支度をしていた。
僕も教科書を鞄にしまい込み、一応教師が教壇から降りるのを待ってから席を立った。
葉村に話しかけられたのはそんな時。
「あの、昨日はありがとう」
「いや、あのくらい別に何でもないさ。結構な頻度で見舞いに来てくれていたしね」
「じゃ、また明日」
「気をつけて帰りなよ」
ニコっと笑って彼女は教室から出ていった。
無事退院できたし、学校はちっとも変り映えのしない1日を繰り返しているようだ。葉村に世話をかけられるのも昨日まで。今日これからは今までの、いつも通りの日常が帰ってくる。
そのはずだった。
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第1章
1
高校に入って初めての中間試験が終わり、僕こと山本祐樹《やまもとゆうき》がのんびりと伸びをしていると。
「ねぇ、今日こそは付き合ってくれるんでしょうね?」
席の隣の葉村ななみに話しかけられる。
入学から約1ヶ月ちょっと。たまたま隣の席で少しずつ話をするようになった相手。友達を作るのが苦手な僕にとって、このクラスで誰よりも話しやすい女子だ。一緒に遊びに行かないか、と誘われていたのだがずっと断っていた。
「流石に試験終了日には勉強もしないでしょ?」
先に逃げ道をつぶされてしまう。いい加減言い訳を探すのも億劫になっていたので、たまにはいいか、という気分になる。
脳内で家計簿を読み込み、確かそんなに使っていなかったと思いながら今月の遊興費の残額を確認する。
まぁ、いいかな。今日遊びに行っても今月の新刊はちゃんと買えそうだ。
「あまり遅くまではだめだけど、それでいいなら」
「いよっし。やっと落とせたー!」
どこぞのシミュレーションゲームをやっているような台詞が、まだそれなりに生徒のいる教室の中、割と大きい声で響いた。
一呼吸、教室がしんとなり、視線が集まった。うげ、ヤバい、とつぶやいた葉村が逃げ出そうと動き出す前。
デートだ、カップル成立だ、よりにもよってあいつが!?、とはやし立て驚く同級生に僕らはもみくちゃにされた。
2
その後僕らは池袋のカラオケやゲーセンへ行った。こういうところへ一緒に出掛ける知り合いの少ない僕はめったに来ないし、一人では絶対行かない場所だった。最近の音楽は全然分からなかったうえ、ほとんど聞き役に徹していたが、それでもほかの人と騒ぐのは楽しかったし、葉村も楽しんでいたようだった。
そして今は20時前。僕らは池袋駅東口にいる。2046年、数年前に始まった東アジア戦争で夜間営業縮小令が発令され、21時から翌朝5時まではあらゆる店が閉店することになっていた。これ以上街にいても、もう面白くない。
百科事典に載っている“大都市の夜景”なんて言うものは今では見ることができないし、それを見るための商業施設も軒並み閉店してしまう。どうしても見たいのなら丹沢や奥武蔵といった首都圏近郊の山に登るか、飛行機などに乗る必要がある。たとえ乗ったって見る光の規模は海辺のコンビナートと高い建物の赤い指示灯だけ、事典の写真とは比べ物にならないくらいつまらないのだが。
夜は軍事施設と治安維持組織が電気を消費する時間帯。彼らは夜、自分たちの敷地に引きこもり、何をしているのか知らないが何かやっているらしい。都市伝説ではいろいろささやかれているが、僕はそれらに興味はない。
夜の治安が悪化した都市。面倒事に巻き込まれたくないのなら、そろそろ帰る時間だ。
「送っていくよ」
一応僕も男だ、そういうと。彼女は丁重に、しっかりと断った。
「いいわ、一人で帰れる。家、反対方向でしょう?」
買い物もしたいし、これ以上付き合わせるのは悪い気がするもの。
彼女の家の最寄り駅はJR山手線の高田馬場。僕は地下鉄有楽町線の護国寺だ。
相手がそう言っているんだし、家を知られたくないのかな。そう思って、僕らは駅前で別れた。
3
「おいこの女、いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!」
面倒なチンピラにからまれた。
自分の運の悪さにうんざりしていたのは最初の1分だけ。私《葉村》は暗くなった池袋の繁華街を走り抜ける。
もともとそれなりに土地勘のあるところでよかった。こう思っていたのはそのあとの30秒。
私の逃げ足は遅くはないが早くもない、徒競走ではそれなりの順位である。だから逃げ切れるはず、という思いが消えたのはその後の15秒。その後はもう時間の感覚なんてほとんどない。
しかし特に運動部に入っているわけでもないただの女子高生が、制服で街を逃げ回るのはかなりきついものがある。おそらくもう10分は走り続けているだろう。撒いたと思ったら見つかり、ということを繰り返すのもそろそろ限界だった。
周りの他人たちは、制服で全力疾走している女子高生に目を向けても、それを追いかけているチンピラを見たとたん、たとえ目が合ったとしても気まずそうに目をそらし道をあける。ぶつかりそうになってあからさまに舌打ちをする人すらいる。誰にも助けを求められない。まずいことに電車・バス共通のIC乗車券は財布の中で鞄に入れてあるためすぐには出せないし、携帯端末のクレジット機能はセットアップをしていないため使えない。何か乗り物に駆け込んで一息つくこともできない。
もう、逃げられない。
体力が続かない。
諦めかけた時。十字路先、前方のコンビニから出てきた、さっき別れたばかりの、同じ制服姿の男が視界に入った。間違えていてもいい、誰か助けて。
「山本ー!」
走りながら出しうる限りの大声を出す。この時の私に、見た目や印象を気にする余裕はない。
「私の彼氏でし、ゲホッゴホゴボッ!?」
走り続けた上に叫んだものだから咳で語尾が濁る。
一度学校帰りに――それも今日――カラオケへ行ったくらいの相手、根も葉もない嘘だからかまわない。周囲にいた通行人の一部が今さら、驚いたように振り向くが、しかし肝心のあいつは気が付いていないようで、コンビニ前の縁石にしゃがみ込み、手に持っていた肉まんにかぶりつき、呑気にポケットから取り出した携帯端末をいじりだす。私の今の声が聞こえないはずはない、と思う。
もう嫌、誰でもいい。
誰もかれも、何で私に気づいて、助けてくれないの!?
近づいて、気づいてもらえなかった理由が分かった。彼は両耳にイヤホンをつっこんでいた。
私がこんなつらい目に合ってる、っていうのに、暢気に音楽聴きながら肉まんなんて美味しそうに食べて…!!
勝手にキレ始める私。それを自覚して、落ち着くために息を吸ったところで足がもつれた。
こける。
捕まる…!
覚悟した、のだが。
追いかけていた4人のチンピラは。私を追い抜き、走るのをやめて山本へと近寄っていく。ゆっくり追い詰めるように。
「おい、てめえ。あの女の彼氏なんだってなぁ?」
「お前も、あんな馬鹿な彼女持つと苦労すんなぁ、え?」
感じの悪い笑い声をあげて山本を取り囲むように立ち止まる。
うつむいて相変わらず携帯端末をいじっている山本。その様子にチンピラの一人がキレた。
胸ぐらをつかんで無理やり立たせ、威嚇するように至近距離から大声を放つ。
「なんとか言えよこの野郎。彼女が馬鹿なら彼氏は間抜けってか?!」
山本は驚いたように口を半開きにし、数秒たってから自分の身に何が起こったのか認識すると無造作に手を挙げ、両耳からイヤホンを抜く。携帯端末にコードを巻きつけてそのままポケットにしまいこむ。
ちっともおびえた様子がないばかりか、何でもない普通の行動で逆に気圧されかけているチンピラがイラついたように殴りかかる直前、彼はやっと口を開いた。
「どちら様でしょうか。僕のご用ですか? それにしてはいささか乱暴に過ぎると思うのですが」
私はパニックになりかけて、道のド真ん中で四つ這いになって息を整えている、っていうのに。山本はちっともおびえていなかった。
あっけにとられたのは私だけではなかったらしい。チンピラは振り上げた手を静止させ、言葉を失ったように数度口を数回開け閉めする。チンピラが何か言う前に、主導権を確かにするように山本が言葉を継いだ。
「あと、彼女ってどちら様のことでしょうか。誰とも話していないので、そんな三人称代名詞を使って呼ぶ人はいませんし、僕には恋人もいませんよ」
丁寧だが相手を完全に馬鹿にした口調。
勃発寸前の殺伐とした雰囲気に足を止めた数人の野次馬たちがくすくすと笑う。
馬鹿にされたと分かったのだろう、今度こそチンピラに殴られる山本。派手な音がしてその場に崩れ落ちる。
地面に倒れたまま、彼は足元に置いてあった荷物を抱え逃げ出そうとするが。でもすぐにチンピラに襟首をつかんで起こされる。反動で鞄はふっ飛び、ガラスを突き破ってコンビニ店内へ。
夜に吸い込まれる、ガラスの涼しい破砕音で私は我に返り携帯端末を取り出す。取り出せない。
まだ手が震えている。どうしようもなく止まらない。力尽くで抑え込もうとすると今度は手汗で滑ってしまう。落ち着きかけていた意識がパニックへ戻ろうとする。
地面に携帯端末を置いてやっとのことで画面を点けても、震える手ではロックを解除できない。
私がもたもたしている間にさらに数回殴られてしまった山本を見て、しかしどうしようもなく抜けた腰は立たない。
無抵抗に、しかしできるだけ衝撃を吸収しようと努力して殴られ続ける山本を見て、何処かへ電話をかけた後の野次馬たちは感心してみていた。
関係者ではない|他人《野次馬》たちはせっかくの見世物、少なくなりつつある娯楽を止めようともしない、そればかりか、端末のカメラで撮影しているヤツもいる。
もしかしたら、さっき私を無視したのはチンピラどもを引き付けるためだったのかしら。
私の動かない頭はどうでもいいことを考える。
という事は。私は私の囮になっている彼に、暢気だと勝手にキレて、そして今は巻き込まれないように離れた所からただ傍観しているってこと? 声をかけて止めようともしなければ、満足に自分の体を動かすことも出来ないで道に座り込んでいるの…?
何も出来ない私は、見ているだけの私は、彼に何をしてあげればいいの…?
こんなことを考えていたら、いたら、いたら…。何かに置かされたように思考がぶつ切りになる。現実から思考が飛ぶ。感情が麻痺して、見ているだけの機械になるってこういう感じなのかな。そんな思考が流れて。
―――
やがてサイレンの音が遠くから聞こえてくる。それはチンピラにも聞こえたようで、一人が防戦一方で地べたに転がっている山本の体を漁り、財布を探り出すともう3人に合図し、逃走しようとした、が。
気を失って動かないように見えた山本が跳ね起き、一番近くにいた奴の足に抱きついた。
せめて逃がさないようにしたのだろう、私も周りの人もそう思った。
「クソ、このっ…」
振り払おうとするが、山本は。
私たちの想像を超える行動を起こした。
抱え込んだチンピラの足に噛みついたのだ。
反撃。
上がる野太い悲鳴。
あまりのグロテスクな絵に後ずさり、息をのむ|傍観者《ギャラリー》。
道の真ん中で乱闘騒ぎを起こしていて通れず、落ち着くのを待つように喧嘩を見ていた知らない人たちは突然のR-18な光景にぎょっとして。一方的でつまらないとイライラ隣同士でこぼしていた不平が、人の声が消える。
強調されて聞こえるのはチンピラの絶叫と、近づいてくるサイレンと自動車の音。
噛みついた山本を引き離そうと、もがくたびに噛みつかれた痕から血が飛び散る。
「てめえ…っ」
一人が戻ってきて山本の髪をつかんで足から引きはがし、後ろから首を絞めた。
彼は口から赤い唾液を吐きだし、締めているチンピラの太い腕の上を垂れる。続いて左手を自分のポケットに入れ、すぐ細長いものを取り出して、後ろ手で加害者のわき腹に刺した。
一瞬力が弱まったのだろう。腕を下へすり抜けて拘束から逃れると、刺した細いもの――文房具屋で1本100円で売っているようなシャープペン――をぐりぐりと回しだした。
私は不意に込みあがってきた吐き気を必死にこらえた。
垂れる血液、上がる悲鳴、そして顔色ひとつ変わらない山本。
ついに目をそらし損ねた一人の女性が路肩にしゃがみこんで嘔吐し始めると、あとは連鎖的に、直接見ていない人も。すぐに空気が酸っぱくなる。
「あkqoepebcvhoei;!?」
そして。ついに3人目のチンピラが正気を失ったらしい。狂声を上げて割れたコンビニの窓ガラスのかけらを持って山本に突っ込む。破片は避け損ねた彼の背中に刺さり、滑らないように強く握りしめているチンピラの手を切り裂いて血だらけになる。
もう、私には限界だった。だが、今目の前で起こっている事件は私が呼び込んだようなものだ。
気持ち悪い、頭が痛い、もう何も見たくない。目に赤い色が焼き付いていた。
私は失神しかけていると自覚しながらも、体が震えてうまく動かせなくなっていても、全てを見なくてはいけない。
我慢できずに下を見ると、嘔吐物と血液でどろどろに汚れた側溝があった。この汚れは、私のせいで出たものだ。
4
背中が感じ続ける重さと痛さ。それを紛らわそうと視線を外に向けると、視界の隅で葉村が倒れそうになって地面に両手をつくのが見えた。
責任感の強いやつなのか? そう思うと|意識《メモリ》の隙間に少し余裕ができた気がした。
かかり続けていたストレスで壊れそうだったもう一人と交代した後に刺されたのが唯一の救いだった。五感に敏感なあいつだったら既に錯乱していたかもしれない。
敵の足にかみつくなら、これくらいの報復くらい、あらかじめ考えておけよな。
最後にそう思考を回し、そして余裕が消える前に現状に意識を戻す。
前には胴体にペンが刺さり、口から泡を吹いて白目を見せているチンピラが、後ろには気が狂って何かをぐいぐいと俺に刺しているチンピラが。左右に逃げたら背中の傷口が開いてしまうだろう。
一瞬考えて、俺は仕方なく、後方からこの状態から脱出することにした。
今さらだ、と思いながら、多少増える鈍い痛覚を覚悟して後ろに体重をかける。見えないが、背中に刺さっている何か――おそらく地面に散らばっているガラス片だろう――がより深く自分自身に入っていく感覚を得る。
まさか自分から痛い思いをするとは思わなかったのだろう、背後にいた敵は何かから手を放して驚いたように跳ね避けた。後ろの障害物が消えた俺はくるりと180度方向転換。両手に付着したまだ生暖かい赤い液体を凝視して呆然と立ちすくんでいる敵にゆっくり、できる限りの速さで歩み寄り、残った力を使って股間を蹴飛ばした。
「ぐふ――」
3人目の敵は避けもせず、うめき声をあげて仰向けに倒れる。
最後の1人は攻撃をかけるか迷っていたようだったが、残ったのが自分だけになったところで逃げだした。
逃がしたくはなかったが、もうとっくに限界を超えている俺にはそんな力は残されていなかった。
肩で大きく息をつき、コンビニに投げ込んだ鞄を取りに行こうとしてバランスを崩して倒れこむ。
うつ伏せになれてよかった、とヒヤッとした。仰向けだったら刺さったままのガラス片がさらに突き刺さって飛び出ている部分が割れるところだった。
立ち上がろうとして、無理そうだったので這いずってコンビニ店内に入ろうとして。でも時間切れのようだった。救急車が5mくらい先に止まるのが見えた。
緊張が解けたのだろう、少しずつかすんでくる聴覚にパタパタと足音が届いて、すぐ近くで止まる。視線を向けると葉村だった。
よかった、これで。
「…なあ」
「?! え、な、なに、どうしたの?」
もう気絶していると思っていたらしい、少し慌てた返答。
「お願いがあるんだが」
「どんなこと?」
切羽詰まった葉村の声。死に際の遺言だとでも思っているのだろうか。少しおかしい。俺たちはまだまだ死ぬつもりなんてないのに。
「コンビニの中に…投げ込んだ…俺のかば…げほっ…鞄、持ってきてくれないか」
出来心が働いて少し演技を入れてみる。
泣きそうな顔で“願い”を聞き届けた彼女は、何度もうなづきながら、担架を用意していた救急隊員に引き渡すとガラスの割れた入り口を踏み越えてコンビニの店内に入っていった。
心底おかしくて、ふふ、と笑いながら、俺は重症患者らしく意識を手放した。
おい、次に気が付いた時には、お前が表面にいろよ。俺は医者から説明を聞くなんて面倒なことはごめんだからな。
5
ここはどこだろう。
私は薄暗い廊下に置いてある長椅子で寝ていたようだった。用意した覚えのない毛布が体にかかっていた。
きょろきょろと周囲を見回し、ふ、と上を見上げたとき、赤い“手術中”のランプを見つけて昨夜の記憶がよみがえる。
そうだ、私は――。
自己嫌悪に陥る寸前。赤いランプが消える。体を起こし、手術室の扉を見つめた。出てきた医師は私を見つけると一直線に歩み寄ってきた。
「あなたが、山本さんの付き添いの方ですか?」
そういえば彼の家族らしき人はおらず、この場には私一人だけがいた。
多少の罪悪感を感じたが、とりあえずうなずいた。
「そうですか。では、少々お話があります。私の部屋でしましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
長椅子の下から2つの鞄を取り出し、医師の後について病院内を進み始めた。
彼の病室で枕元に持ってきたパイプ椅子に座って、山本の担当になったという高橋医師から今の状態について詳しく説明してもらったのだが。私はインパクトの強かった一部分しかよく覚えていない。
「先ほども言いましたが、命に別条はありません。ただ、彼の体には不自然なほど傷が多かったのですが、何かご存知ですか?」
「…どういうことですか」
「ご存知ないようですね。…まあいいでしょう。説明します」
先ほども言いましたが、彼の体には、傷が多い。火傷、切り傷、ほかにもいろいろ。
まるで、何らかの虐待を受けたような…。
寝ている山本の顔を眺めている私の頭のなかをぐるぐると、“虐待”という言葉がまわっていく。
教室で、一人で本を読んでいる。
体育、暑い日でも下着を脱がずに体操着を着ている。
にぎやかな昼休み、一人ふらっと教室を出ていく。
人気のない校舎裏でいつまでもぼぅっとしている。
情報の授業中、キーボードを尋常でない速度でたたき続ける。
いつものあいつを思い出しても、私の中の彼はいつも、一人だった。誰かと関わろうとせず、むしろ自らを遠ざけていた。
何をやっても退屈そうで、誰といてもかったるそうで。
無視されているわけでもない、勉強やコンピュータについて質問されれば先生より丁寧にわかりやすく答えているし、嫌われているわけでもなさそうなのにいなくてもわからない希薄な存在感、頼まれたって面倒なことは引き受けない。
引き受けないのに、…なら昨日の彼はどうして私を助けたのだろう。
彼は目を覚まさず、一人でいくら考えても結論は出ない。
…それに、あんなひどい姿を見られてしまった。私は、彼が起きたとして。どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
6
感覚が戻りつつある。冬の朝、暖かい布団のなかで起きたくないのに目が覚めていくあの感覚。触覚が意識に接続され、巻かれている包帯類と麻酔で鈍くなった痛覚を認識した。そして、腰のあたりに重さを感じる。
二度寝せずにさっさと起きやがれ。
人ごとだと思って声をかけてくるあいつを無視して目を開ける。ベッドで寝ている僕の体の上で、葉村が突っ伏して寝ていた。起こすのも忍びないが、その体勢だと後で体が痛むだろう。自分自身の足もしびれていたし、なにより重さで背中の傷口が痛む。
ここは病院だろう。治療が終わっているだろうと予想した。出そうになった悲鳴をかみ殺しながらゆっくり、しっかり足を動かす。
上に載っていた彼女はうめきつつ、目を覚ました。
「ほら、そこの簡易ベッド使いなよ」
「むー。おはよう」
いまひとつ寝ぼけているようだ。一発で目が覚めるような言葉をしばし考え、
「学校遅刻するぞ、もう8時15分だ」
始業時刻は8時半である。今が何時か知らないが。
「えっ、や、やばっ、なんで起こしてくれ…」
案の定、真面目な彼女に効いた。ばっ、と起き上がる。きょろきょろ周囲を見回して。
ばっちり目が合う。どういう状況だったか、思い出したようだ。彼女は想像していたよりあわてているようで、何も声を出さず、ただ口を開閉している。
しばらくはまともな会話はできなさそうだな、と赤くなっていく葉村の顔を眺めて考える。だったら会話をすることではなく、思考を遮るようなことを、何か行動をしてもらった方が思考の冷却にはいいかもしれない。
「なぁ、悪いんだけどさ、僕の PC と携帯端末、それと汎用ケーブルを取ってもらえないかな」
「あ、え、うん、ちょっと待ってね」
ぴょん、という効果音がつけられそうなほど椅子から器用に跳ね上がるとごそごそと足元に置いてあるらしい鞄をあさりだした。
あんな状態だったのに、ちゃんと言いつけ通り、鞄を持ってきてくれていたようだ。
「はい、これ」
「どうも。 AC アダプター、どっかにつないでくれないかな」
「…うん」
壁のコンセントにプラグをさし、端末側の端子を渡してもらう。
案の定、携帯端末の電池は空っぽになっていた。 PC を立ち上げ、汎用ケーブルで携帯端末をつないで充電開始。
てきぱきと PC を使う準備をする僕を見て、
「あ、じゃあ私、先生呼んでくるね」
葉村はやることを思い出したようにそう宣言し、席を立つ。
「よろしく、いってらしゃい」
「まったく、自分の事なんだからさ…」
ぶつぶつ言いながらも僕なんかのために動いてくれる。ありがたい、とは思うものの、こういう世話好きとコミュニケーションをとった経験があまりない。少し戸惑う。
いつの間にか、 PC がログインプロンプトを出して待機している。ユーザー名とパスワードを1秒かけずに入力し、続いて携帯端末の電源を入れる。
PCが起動する時間、約1分の間充電すれば、大抵起動できるようになる。
携帯端末がオンラインになるまでの間、やることがなくなってしまう。手持無沙汰に、無線 LAN 接続認証突破ツールを走らせる。
「へっ、割とちゃんとしてそうな総合病院のくせに」
想定より単純な暗号化。総当たりで計算かけても、あと5分と暗号キーが持たないという表示が出る。
と、そこで医師を連れた葉村が帰ってきた。
「…おはようございます。思ったより元気そうで安心しました。申し遅れました、担当します高橋というものです」
「はじめまして、山本です。この度はありがとうございました」
「こちらこそ、無事に意識が戻ったようでよかったです。それで、その、説明したい事とお聞きしなければならないことがありまして」
「どうぞ? …あ、お座りになってください。君もな?」
そういうと、彼女が隅に立てかけられていたパイプ椅子をもう一つ用意した。
2つの椅子にそれぞれ座って、高橋医師は咳ばらいをした。
「まずは怪我の状態についてですが――」
退屈な10分が始まった。無線 LAN の暗号キーはとっくに解読できていた。
「最後に、お聞きしなければいけないことがあります」
「はい、なんでしょうか」
「その、…言いづらいことなんですが――」
「体の傷についてならお話しすることはありません。調べれば出てくるでしょうから」
口ごもる様子と僕の腹あたりに向いている視線から話題を推測する。
どんぴしゃりだったようで、医師は目を白黒しながらもごもごとつぶやく。
あと一押し。少し冗談めかして言葉を継ぐ。
「虐待を疑っていらっしゃるのなら、そんな事実はありませんのでご安心ください。説明しましたら、それこそ先生がこのような目にあいますので」
まだ何か言いたそうにしていたが。目に拒否の色を浮かべて口を閉じていたら根負けしたらしい、溜息を一つついて医師が立ち上がる。
「では、何かありましたらどうぞ、枕元のボタンを押してください。ではこれで失礼します」
疲れたようにそういうと一礼して病室を出ていく。
包帯や固定具で固められた首を動かせるだけ使って会釈を返す。
葉村はといえば、呆けたように座っていた。
「…ねぇ。さっきの、本当のこと?」
「どれのことを言っているのか今一つよく分からないんだが」
「虐待されたことはない、って」
「ないよ。断言できる」
一拍。
何かが切れたように、葉村は椅子を蹴倒して立ち上がる。
椅子と床が発するけたたましい音にかぶせて怒鳴る。
「じゃあ、何で傷だらけなのよ!?」
耳をふさぐジェスチャーをしようとして腕が動かない。仕方がないから苦笑しながら答えてやる。
「落ち着け。…いいか、先に聞くが。君は、日常が、壊れてもいいのか?」
「いいよ、私は聞く、って決めたもん。そんなに話したくない事なの?」
「そりゃ、人に隠すならそれなりの理由があるだろ」
「でも教えて」
「嫌だ」
「なんで!? 心配するな、っていうの?」
落ち着いたと思ったら再び怒鳴りだす。
「おい、ここどこか分かってるのか、病院だぞ?」
「分かってる、分かってない。どうしてはぐらかすのよ」
「落ち着けって。支離滅裂だぞ」
「嫌。絶対、教えてくれるまで騒ぎ続ける」
「そんな駄々こねるなって」
「じゃあ教えて」
「ダメだ」
話が堂々巡りしているうえ、微妙にかみ合ってない。
「なんでそんなに他人が気になるんだ? 理解できない」
「…はぁ? 私は他人なの? そうなの、ねぇ!」
彼女が爆発した。
「他人だろ。そうでなきゃ単なる同級生――」
「そんなわけないじゃない、馬鹿!! なんで? 私には何も出来なかったって、あてこすっているつもりなの!? そんなこともわからないの?」
どの単語だったのか知らないが、どうやら地雷を踏んでしまったらしい。更に過剰に感情をぶちまけ騒ぎ出す。何か拙いことを言っただろうか。
「君、おかしいよ。どうかしてる。私のせいでこんな目にあった、ってストレートに言ってくれたほうがまだマシだよ。なんでそんな皮肉を言って片付けようとするの? 言いたいことがあるなら言えば、見ているだけでなぜ何もしてくれなかったんだって、糾弾したいならすればいいじゃない、本当に君は人間なの? 思いやりって知ってるの? 私を助けてくれたのはうれしかった、でも。こんな仕打ちをするくらいなら、惹かれていて、そのうえあんな私だけのヒーローみたいなことしておいて。…好きになっちゃった相手にこんなに無神経にひどいこと言われるほうが、傷つけられるほうが何倍も辛いんだって、ねぇ教えて、君は感情を持ってるの? おかしい。変。異常。教えて、どうしてそんなに歪んでるの?」
一気に畳みかけられた。
歪んでいる? まあそうかもしれないな。
感情がない? そうさ、僕の感情は後付で作られたものだ。
異常だって? 今さら何を言っているんだ、そんなこと自明じゃないか。
黙り込んでしまった僕を見て、怯んだように押し黙る葉村。
「ごめん、言い過ぎた。…ちょっと頭冷やしてくる」
そう言い捨てて葉村が出て行く。引き止める隙を逃す。
はぁ、仕方ない。押し問答を続けるのにこんなに体力を使うなんて知らなかった。
それに病院にずっと、一晩も付き添ってくれる献身的な女の子を傷つけた、とか看護師さんたちに思われるのも面倒だ。しょうがない、荷物はここに置きっぱなしだし、帰ってきたら少し話してやろうか。
溜息を一つ。
いつの間にか停止し、PC の画面内で無感動に点滅しつづけるカーソルを眺める。
「…お前はいいな、何も気にせず、ずっと止まっていられて」
しばらくして傷心したような彼女が帰ってきた。
目を合わせないように無言で自分の荷物をまとめ、鞄を肩にかける。
そして何も言わず、視線を逸らせたままおざなりにただ一礼してあいつは病室を出ていこうとした。
「なぁおい、身の上話を聞きたいんじゃなかったのか?」
足を止め、振り返らずに小さくつぶやく。
「言いたくないんでしょう、私には話してもらえるほどの信用ないんでしょう?」
「そう僻むなよ。悪かった。教えてやるよ、過去を。もしかしたら、僕らも誰かに、自分たちがやったことを自慢したいのかもしれないから」
彼女がさっと体の向きを変え、僕と視線を合わせる。
そして最終確認。
「でも、」
一言一言、語調と表情の調整に細心の注意を払って。
「本当に、君は。周囲が、環境が、日常が、生活が。壊れてもいいのか? 引き返すことも、やり直すことも。なかったことにすることもできなければ、きっと忘れることもできないぞ」
おそらくは。このことは、他人に教えたことがばれたら、関係者の生活と価値観が激変する。
それはもう、残酷なまでに。
「それでもいいんだな」
少しづつ、葉村の表情が変化する。
何か、痛みをこらえたような顔が、悔しくてたまらない顔に。
ああ、これは泣くな。
そう思った直後。涙を流す直前。
「…そんなに私に信用がないの…?」
「いや、たぶん耐えられないだろうな、と危惧している」
「それでも聞きたい、ってさっきから何度も言ってるじゃない…」
「そうか、分かった。準備してきなよ」
「心の準備なら…」
「違う。僕の喉が渇くだろうからなんか飲み物買ってきて欲しいんだ。ついでに君の分も買ってきなよ。財布は…どこやったっけ」
制服のズボンに入れたままだったか。
一瞬呆けたような顔をして、勘違いに気付いた葉村の顔がみるみる赤くなっていく。
「い、いい、私が買ってくるから」
帰るために持っていた鞄を投げ落として逃げるように病室を出て行き、財布を忘れた彼女が更に顔を赤くして慌てて駆け戻ってくる。
…お前はサザエさんか。
6
「話すのはいいけど、学校はいいのか? 飲み物買いに行ってもらってる間に時間確認しておいたんだけど、今、13時過ぎじゃないか」
「今日はいいの、病院へ行くって電話してきたし。私、ウソは吐いてないよ? 昨日はあんなことなっちゃって寝れなかったからきっと授業中寝ちゃうし、それに…私が居たかったからだもん」
「最後、なんて言った?」
最後の言葉が小さくて聞こえなかった。
「…いいの、気にしないで。何も言ってないから。
引いてきた血がまた上ってくる葉村。
「…そうか。あんまりサボるなよ?」
「山本には言われたくないわ」
「心外だなあ、僕はちゃんと授業に参加してるよ」
「いつもノート書いてないじゃない」
「だって要らないし。あんなの、手が疲れて汚れるだけだ」
「ふん、この成績優秀者め」
「そう、先に、もう一つ。君が僕の怪我を心配する必要はない。これは僕が勝手に巻き込まれに行ったもので、その判断に君はまったく関係ない。いいね?」
不服そうな、申し訳なさそうな表情を見せる葉村。でも言葉は挟まなかった。
さて、始めようか、つまらない話を。僕の過去と、僕の由来と、僕の犯罪と。教えられる部分だけでもたぶん彼女の許容を超える話を。
残酷で救いのない、本来なら僕ら2人だけで背負っていくべき話を。
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